2010-01-03

トリビューン紙パート1(下)

今日は、福島県いわき市豊間の「二見ガ浦」で、友人の藤島賢三さんが写した「初日の出」をお借りしました。寒かったと思いますが、それだけに、いい作品に仕上がっています。
ありがとうございました。この初日の出に、平和・健康・不況の脱却・無明の打破を託したいです。
世界では、枯れ葉剤被害に苦しむ人が、この日の出の向こうにたくさんいることを忘れられません。パート1の(下)では、さらに事実を掘り下げています。北村の拙訳ですが、ご一読ください。

が( ̄□ ̄)ん( ̄ー ̄)ば( ̄△ ̄)れ(。 ̄O ̄)♪

'We're a mess' 『我々はめちゃくちゃだ』

ほぼ40年後、インディアナ州ブラウンズバーグの閑静な通りで、キャリー・プライス-ニックスとアマンダ・プライス-パーマーは、退職し、長びく疲労の身で終身の障害者生活に入った。彼女ら2人の間で、過去20年間に、脳手術5回、脊髄手術2回、子宮摘出手術を含めて41回の手術を行った。

父親のスティーブン・プライスは、1967年にダナンのアメリカ空軍基地で兵役を務めた空軍整備士だった。(戦争終結から35年たった)今日でさえ、その場所は世界保健機構の定めた安全基準の365倍も高いTCDD濃度で汚染されている。

プライスは、白血病、糖尿病と塩素ざ瘡との闘病後、2008年4月に死亡した。そして、その全ての病気が、ヴェトナムで使われた除草剤と関係している。補償申請から2年たって承認された後、2005年に軍人復員省から全障害補償を受け取り始めた。

彼の娘は2人ともスピナ・ビフィダと関連する脳底の構造欠陥であるキアリ奇形にかかっている。それは、復員軍人省が男性退役兵の子の枯れ葉剤関連の先天性欠損症と認めている疾病である。

プライスは、2002年7月にプライス-ニックスのために復員軍人援護局に認定の申請をした。3年半後に、彼女は部分補償として承認された。その頃には、彼女の膀胱が閉じた。そして、彼女の父親は死にかけていた。

同様の健康問題を持っていたパーマーは、復員軍人省から補償を求めるのに6年を費やした。「彼らは、あなたが死ぬのを待っているんだよ」と、姉が言った。先週、復員軍人省は、その病気は脊椎披裂(スピナ・ビフィダ)と関係ないと判定して、パーマーの請求を認めなかった。

パーマーの腹筋の劣化により、彼女は手で自分の排便を除去しなくてはならなくなった。プライス-ニックスは自分の腸を管理するためにペースメーカーのような装置を持っていて、毎日彼女自身をカテーテルを入れなくはならない。

「私たちの体は、もう、めちゃくちゃです」と、パーマーが冗談混じりに言った。やがて、2人が今の状況からの回復は望めないのが現実を考えたのか、姉妹は泣き始めた。

【写真説明】2008年に病院で、ベトナム戦争中に撒布された除草剤に関連したガンで死に向かっていた父スティーブン・プライスさんと、母親ブレンダ・プライスさん(上右)と家族写真に一緒におさまるアマンダ・プライス・パーマーさん(下):インディアナ州ブランズバーグで

ブラウンズバーグから遠く離れた中部ヴェトナムのクアンビン省では、ドー・ティ・ハンさん(19)が、この姉妹に類似した症状で苦しんでいた。彼女は、彼女の脳に溜まる液体が原因で規則的な発作を起こす。彼女は歩くことができず、また腸を管理する障害をもっている。

彼女の両親は、ヴェトナムの健康管理制度が遅れているために、これまで特定の診断を受けたことはなかった。しかし、ハンさんの病気は、スピナ・ビフィダで苦しんでいる人々の症状をを映している。

抗米戦争の兵士として、ハンさんの父親、ドー・ドゥック・ジエウさん(58)は、アー・ソーと呼ばれるアメリカ軍が放棄した空軍基地に4年の間配属された。そこは、ホーチミン・ルートがラオス国境に沿って曲がりくねった谷の中にあった。アメリカ軍と南ベトナム軍は、旧名アーシャウと呼ばれたアールオイ渓谷で40万ガロン以上の枯れ葉剤を撒布した。

新しい調査では、アメリカ軍がアー・ソー空軍基地内の化学物質を保存した地域では、危険なまでの高濃度のTCDDに依然として汚染されている事が示されている。

戦争終結以来、ジウと妻(ファム・ティ・ニック)には、15人の子供たちがいた。12人とも、3才前に死んだ。そして、全員がハンさんに似た病気だったと、ジウは言った。子どもたちの小さな墓は、ジウの自宅の裏手の砂丘の上にあった。ジウは線香を手向けるために、ほとんど毎日墓に行くのである。

「私なんかには将来も幸せもないんです」と、ジウが言った。

【写真説明】枯れ葉剤前と後の違いを示す俯瞰写真は、戦争中にヴェトナムで撒布された時の除草剤が持つ影響を如実に示している。上左は撒布される前のマングローブ林で、撮影日は不明。上右の写真のマングローブ林が消えているのは、同じ場所の1970年の撮影。ここは、1965年に撒布された。(AP写真)

見えない傷

アメリカの退役軍人が現在除草剤関連の病気で受けている補償は、長くて、過酷な戦いの末にやっと得られたものだ。その闘争の中では、科学と政治の境界線がしばしばぼやけたのである。

問題の一部は、退役兵士が目に見えない傷を負って帰還していたということだった。心的外傷後ストレス障害を含む戦争関連の病気としての認知と補償を受けるための闘争は、すべての戦争の復員軍人のために、ドアを開けることになった。

「現在の兵士が現在受けているより良い手当ては、ヴェトナムで戦った先輩兵士のおかげだ」と、ステルマン氏は言った。

新しい科学的研究、政府出資の研究において、不撓不屈な各種調査、政治的干渉のあった調査、化学会社に対する退役兵士の集団訴訟での1億8000万ドルの和解などが、1991年のエージェント・オレンジ法へと道を開いた。

その法案の成立によって、ベトナム退役軍人が補償されうる「推定的疾病」のリストを作成した。それは、全米科学アカデミーに対して、除草剤の中に見つかった化学製品の研究を見直し、2年毎に、追加をリストに推薦するように義務付けたのである。枯れ葉剤への曝露がどちらかと言えば人の危険を増すことになっているならば、疾病または先天性欠損症はリストに勧告される。

それ以来、アメリカ復員軍人省は、女性復員兵士の子供たちで、17の先天性欠損症だけでなく、15の疾病も加えた。

しかし、退役兵士のグループは、男性復員兵の子どもに多数の先天性欠損症が関連している可能性があるので、さらに12以上もの疾病が枯れ葉剤と関係していることがありうると主張する。

疾病の追加が遅々として進まない一つの理由は、復員軍人省が復員兵士のより幅広い疫学的研究をしないで、職場での曝露や労働災害など外部の研究に頼ってきたからだ。アメリカ議会が疫学的研究を最初に求めたのが、1979年だった。長い間、復員軍人省は、曝露の度合いを測定する方法がなかったので、復員軍人に関する枯れ葉剤の影響の研究ができなかったと主張している。

しかし、コロンビア大学公衆衛生学部のステルマン名誉教授によると、その弁解は、もはや通用しない。

彼女の夫であるスティーブン・ステルマン疫学教授とともに、彼女は(アメリカ軍による)撒布飛行の包括的なデータベースを編集して、それを駆使して、医学研究所(健康政策に関する勧告が復員軍人省の意思決定を影響を与える医学専門家独立委員会)から二回も神聖視された曝露モデルを開発した。

復員軍人省は、2003年に、諮問を受けながらそのモデルを採用すると言った。だが、復員軍人省は、いまだに評価中なのである。

「私は、それを精力的に追求してこなかったことに驚きを禁じえない」と、デイビッド・サヴィツ博士(同省の再検討委員会の議長を勤めたニューヨーク市のマウント・サイナイ医科大学医師)は言った。

9月(2009年)には、復員軍人省は、ベトナム退役軍人の健康に関する広範な3年間の研究結果を発表した。だが、エージェント・オレンジのような、枯れ葉剤に焦点を当てたものではなかった。ベトナム戦争が終結して30年以上経過して、その計画は、政府が単に彼らの死を待っているにすぎないと思う多くの復員兵士がいるようになった。

ベトナム退役軍人で、”アメリカ・ヴェトナム復員軍人会”のポール・サットン前議長は、「復員軍人省の呪文は、遅延、遅延、彼らが皆死ぬまで遅延だ」と、非難している。

エリック・シンセキ退役将軍(現在復員軍人省長官)は、復員軍人省と元兵士の対立関係を認めた。シンセキ長官は、戦闘中に負傷した経験があるが、国に貢献した人々のために擁護者以上のことをしたいと誓っている。

国会議員は、エージェント・オレンジ調査が遅れれば遅れるほど、損失経費につながると言っている。

「私は、復員軍人省が本当の答えを知りたがっていると思わない。財政的経費は、高くつくので、誰もが怖がっているんだ」と、共和党のボブ・フィルナー(カリフォルニア州選出)、下院復員軍人問題委員会委員長は言う。

ジェイソン・グロット記者(ベトナム取材); ティム・ジョーンズ(インディアナ州取材)〔パート1終わり〕Posted by Picasa

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