皆様、あけましておめでとうございます。
昨年は、多くのご支援をありがとうございました。
今年も、また、ベトナムの方々の助っ人なりたいと考えます。気高き独立峰富士を仰ぎながら、決意を新たにしている次第です。皆様のご協力をお願い申し上げます。
これは、元日の三島から見た富士の勇姿です。すばらしいですね。少し雪が少ないように思いますが、気のせいでしょうか。これは、三島市在住の櫻井直人さんの撮影によるものです。使用許可、ありがとうございました。
さて、年明け早々、来年の話も妙ではありますが、来年は、枯れ葉剤がベトナムに撒布されてから50年の節目を迎えます。ダイオキシンの半減期は17年とかされておりますが、いまなおベトナム中部や旧米軍基地周辺では強力なダイオキシンが猛威を振るっております。
そこで、最新情報を、シカゴ・トリビューン紙がほうどうしております。最近では、一番しっかりした報道と確信します。
不定期になりますが、できれば、10回にわたって、翻訳を掲載したいと考えます。
ご笑覧いただければ、幸いです。
ぁけぉめ☆m(_ _)mことょろ\(^0^)/
パート1(上) エージェント・オレンジの致死的遺産:
それはアメリカにとって無視の記録
アメリカ、ヴェトナムで、有毒枯れ葉剤は未だに死者を出しつづけている・・・
C-123型機による枯れ葉剤撒布飛行 【写真の説明】米空軍提供の写真。1965年9月撮影。旧南ベトナムのベトコン陣地がある思われる地域の上空で、液体枯れ葉剤を撒布する「ランチハンド」作戦参加の4機のC-123航空機。密林の上空を、特別装備の4機で、1,000フィートの幅で撒布飛行を行った。
シカゴ・トリビューン紙調査のパート1では、米政府当局はちょうど健康障害が拡大しているときですら、長期的に続く問題を無視してきたことをお伝えする。
アメリカ中部インディアナ州では、2人の姉妹が、来る日も来る日も苦しんでいる。姉妹は脊髄疾患で、脳が脊髄にくさびでとめられるような痛みを伴う状態だ。2人はいま、30年代。しかし、姉妹の体の機能はゆっくりと弱体化している。
アメリカから数千マイル離れたヴェトナム。水田に囲まれた家で、一人の娘の脳脊髄液がもたらす発作からの痛みでのたうつ時に、父親は、その19才の娘を押さえつける。彼女の脳髄液は、この4年で4回も抜き取った。
「医者は、『気の毒だが、自分達では娘さんを治療することができない。娘さんを自宅に連れて行ったほうがいい、この先それほど長くはないですから』、と私に言った」と、父親は話す。
これらの女性は、8,300マイル以上も離れた国の、異なる文化から生まれた。彼らの父親はベトナム戦争を、それぞれ反対側で戦った。しかし、(第2世代の)彼女らは、数十年前アメリカ軍が撒布したエージェント・オレンジと他の枯れ葉剤の頑固なまでの戦争遺産によって結ばれている。
人工物では、現在、最も有毒であるとされる化学物質のダイオキシンに汚染された枯れ葉剤は、複数のガン、先天性欠損症と他の疾病の高率の発症と関係している。これらの疾病が、アメリカのの復員軍人とその家族の金銭補償の劇的な増大に貢献しているのだ。
ベトナム退役軍人への兵役関連の障害支払いは、2003年以降60%の急増をみせ、昨年にはついに137億ドルに達した。そして、今では、その額はアメリカ復員軍人省がすべての戦争の復員軍人に支払っている金額の半分以上を占めるに至っている。ヴェトナム戦争復員軍人への平均的補償支払いは、第二次世界大戦時の復員軍人に対するものより41%多く、朝鮮戦争に従軍した復員兵士より35%多い。それらの障害への支払いには、ベトナム退役軍人の健康管理に費やされた数10億ドルを含まれていない。
退役兵士が晩年を迎えていることと、その2世の病気も発見されて、科学者がダイオキシンの影響についてより学べば学ぶほど、その支払いは段階的に増えていくだけと見られる。この9月には、さらに3つの疾病が復員軍人省が補償する病気のリストに加えられた。その疾病の追加により、およそ20万人の退役兵士が対象となり、年間およそ数十億ドルの追加支出となると、同省は推定している。
一方、ベトナムでは、戦争中には生まれてさえいなかった人々を含む、莫大な数のベトナム人が、また、枯れ葉剤関連の疾病を患っている。さらに数万人が、今日も、数多の旧アメリカ軍基地の環境に残留したままのダイオキシンから、危険にさらされている。
それでも、エージェント・オレンジが公式に健康の潜在的脅威と認められて30年も経過しているが、アメリカ連邦政府は軽視の連続記録を伸ばしてきた。
【写真説明】ドー・ティ・ハンさん(19)の発作が起きると、父ドー・ドゥック・ジウさん(58)は怪我をしないようにと床に寝かせつける。ハンさんは、脳に溜まる脳髄液が起因して発作を起こす。その発作は、父親ジウさんのエージェント・オレンジの曝露と関係がある。
病気の補償を求めているアメリカの退役軍人は、遅れと腹立たしい官僚機構と向き合っている。枯れ葉剤がどのように退役兵士の健康に影響を及ぼしたかという大規模な研究の要請にも応じなかったことも含めて、連邦政府はエージェント・オレンジの全面的な影響について、決してとことん真相を究明してこなかったことが、彼らの欲求不満をいや増している。
ヴェトナムでは、子供たちが、エージェント・オレンジが起こした悲劇の歌を歌う。そして、米越両国が貿易と軍事関係の強化を促進するときですら、ベトナム政府役人は、化学物質がもたらす健康と環境の荒廃について、アメリカが避けて通ることができるのだろうかと思っている。
ベトナム当局は、ヴェトナムにおける枯れ葉剤剤関連の問題に対処するには数千万ドルかかるとはいっているが、1995年に両国が国交正常化して以来、アメリカ議会は、ちょうど600万ドルを割り当てた。これに対して、慈善組織であるフォード財団は、エージェント・オレンジに焦点を当て、1170万ドルを提供している。
調査取材のために、同財団からの援助で、トリビューン紙は、1ヵ月かけて、ヴェトナムの8省へ取材旅行をした。その中で、枯れ葉剤に曝露したと言う一般人と旧兵士ほぼ24人にインタビューした。
弊紙は、彼らの話を補強するために、全撒布飛行、地図のソフトウェアとGPSのデータベースを使った。そして、アメリカ国内では、弊紙は、数千ページに及ぶ政府文書も研究し、影響を測定して、ドル価と人間の惨めさの双方でコスト評価をするために、旧兵士の自宅訪問も行った。
エージェント・オレンジと他の枯れ葉剤が直接の病気原因だということに、一部の科学者は依然懐疑的である。しかし、戦争終結後に完了した何百という独立した研究では、除草剤に曝露した人々には病気(例えば軟部組織肉腫と非ホジキンのリンパ腫のような病気)にかかる危険性は高いという強い証拠がある。枯葉れ剤関連の疾病数は増え続けている。
イラクとアフガニスタンでの戦争が長引いているとき、太平洋を挟む両国での枯れ葉剤をめぐる長い論争は、戦争でしばしば予見できない結果になるということを想起させる。
「ベトナム退役軍人に何が起きたか?という質問に対する答えを、われわれは知らない」と言ったのは、米国在郷軍人協会と全米科学アカデミーのためにエージェント・オレンジを何十年も調査してきた伝染病学者のジーン・ステルマン氏だ。「政府は、この研究をすることを望んでいない。なぜなら、化学戦争にまつわる国際的責任と問題のためだ。そして、政府は、勝つつもりでいる。なぜなら、政府は組織が大きいし、(被害者の)誰もが老齢化しているし、気になる新しい戦争がおきているから」
致命的な防御
冷戦が荒れ狂い、アメリカが至る所で共産主義の脅威に悩まされそうだったために、アメリカ軍は1961年に南ベトナムで枯れ葉剤の撒布を開始した。南シナ海を抱く細長い小国ヴェトナムは北を支配する共産主義者と、半分に分割された。民族主義指導者のホーチミン率いる共産国家は、アメリカが後ろ盾になった南ヴェトナム共和国を倒すことでベトナムの再統一を模索した。
アメリカと戦っていた北の軍隊の最大の財産は、南ベトナムの景観であったかもしれない。山岳地帯、広がる水田と密林に垂れ下がる3倍の天蓋のジャングルは、敵と一般人の区別がつきにくい戦場を覆い隠した。
その緑のおかげで、北ベトナム軍は、侵略と再供給を可能にし、分厚い生殖の中に溶け込めることができた。その一方で、地域の支援者が栽培した食物のおかげで生きていくことも出来た。
発作の子ども抱くホイさん。だが、この子も亡くなった。 アメリカは、敵を保護している自然の要塞の破壊を狙って、化学物質の枯れ葉剤で反撃した。10年以上にわたって、アメリカと南ベトナム人軍隊は、東南アジアにほぼ2000万ガロンの除草剤を撒いた。撒布面積は、ミシガン湖の4倍に相当する広さである。撒布のほとんどの任務は、南ベトナムで行われた。しかし、カンボジアとラオスの国境地域にも撒布された。
最も広範に使用された除草剤はエージェント・オレンジであったが、残りの半分の薬剤は、エージェント・ホワイト、エージェント・ブルー、エージェント・パープル、エージェント・ピンクとエージェント・グリーンであった。それらのうちのおよそ65%は、TCDD(毒性の高いダイオキシン)に汚染されていた。一方、百万ガロン以上のエージェント・ブルーにヒ素が含まれていた。
国立衛生研究所の調査研究が、合成物のいくつかに見つかった化学物質を使って行った実験動物でも、先天性欠損症を引き起こしたことを示したため、アメリカ軍は1970年にエージェント・オレンジを使用中止した。まもなく、アメリカの公衆衛生局長官は、2,4,5-Tというダイオキシンに汚染された合成物の国内使用を停止させた。
その翌年も、限定的な撒布作戦活動はベトナムで続けられた。しかし、ダイオキシンを含まない化学物質のみが使用された。
ランチ・ハンド作戦と知られる除草剤撒布計画は、公式に戦争が終結する4年前の1971年に中止した。(下に続く)