2007-07-28
會安(ホイアン)を語る(4)
最終回は、ホイアンの没落についてだ。
16世紀の後半に登場したホアインが、約200年の全盛期を経て没落した原因は、いろいろ挙げることが出来る。
17世紀の末に貿易活動が萎縮したことは、表面的には、まず、北部のチャン(陳)と南部のグエン(阮)の間の武力対決が避けられ、平和が長期に継続されたからだ。双方の支配者は、これ以上外国商人の助けを必要としなくなったし、誘致をする努力も怠ったからである。
本質的な理由をあげるなら、ベトナム市場の小型性にある。大多数の農民が貧困に喘いでいたし、また生活が質素であったために外国商品に対する欲求がほとんどみられなかったのだ。
次に、ホイアンの衰退に与えた決定打は、1773年に起きたタイソン(西山)三兄弟の反乱だった。
ホアインは、徹底的に破壊された。その後10数年を過ぎてホアインは再建されたが、国際貿易港として享受した栄華は戻らなかった。
ホアインに定着した多くの中国人は、メコンデルタで商売をしようと、ザ・ディン(嘉定)、ビエンホア(辺和)、ミトー(美湫)などに移住してしまった。
ホイアンの衰退に拍車をかけた地理的原因は、トゥボン(Thu Bon)川の上流から運ばれてくる堆積物の急激な増加で川の水深が浅くなり、大型船の入港が不可能になったからだった。
トゥボン川は、国際港へ薬を運ぶ役目も果たしたが、同時に病気も運んできてしまった。
およそ2000年前は、現在の海水面は、現在より1.5メートル02メートル高かったという。
サー・フイン文化とチャムパ王国時代に栄えた港の位置は、現在のホイアンより10キロも内陸部に入っていたというのだ。また、17世紀初頭のグエン・フック・グエンが駐屯した地域の鎮営も、ホイアンから約10キロ下がったタイン・チエム(Thanh Chiem)だった。
ホアインが国際港として発展出来た最大の要因は、クアンナム地域の内陸水上交通の頂点に位置するという立地条件を備えていたからだった。
ホアインは、205キロのトゥボン川とダナン方向へながれるココ川海岸線沿いにタム・キーまで続く70キロのチュオン・ザン(Truong Giang)など3つの川の合流地である。
外国貿易船は、ダナンと繋がったココ川(別名デ・ヴォン川=帝網川)を上ってホイアンの国際貿易港に入った。
名古屋市・情妙寺(じょうみょうじ)所蔵の絵巻「茶屋新六交趾貿易渡海図(こうしぼうえきとかいず)」には、日本船がダナン港から三隻の漁船に曳航されてホアインに入港する光景が描かれている。
地形的な変化で、ココ川の長さは短くなり、現在は22.4キロしか残っていなく、ダナンとの内陸水路は残っている。
トゥボン川の河口を撮影した写真では、1964年と1985年の20年の差は、河口が南に数百メートル移動しているのが分かった。
17世紀以後に海と内陸の両方で、自然の変化、トゥボン川河口の位置の移動、潟湖と砂州の発達、トゥボン川の水が運んでくる堆積物の急増になどによって、ホイアンの水深は極めて浅くなってしまった。
結局19世紀に至って、ホイアンの港としての役目は縮小し、代わりに水深のある近隣のダナン港が脚光を浴びるようになった。
ホアイン港の栄華の時代は消えたが、ホイアン港が港町として大きく発展したら、今日のような古風なたたずまいのままではなかったろう。
會安(ホイアン)を語る(3)
グエン朝が日本と接触した最大の目的は、武器と武術の輸入にあったとも言われる。日本はポルトガル人から、技術を習得し、銃の製造をしていた。グエン朝は、武器もさることながら、当時のベトナム人と似た体格をもつ日本の侍の武術にも大きな関心をもっていた。
1636年にグエン・フック・ラム(阮福瀾)の第3代領主継承に反旗をあげた異母兄弟のグエン・フック・アイン(阮福暎)が動員した軍事力は、日本人だった。
そして、日本商人を、グエン朝で管理部門に抜擢したりした。
1651年、ホイアン(会安より、正しくは會安を使うべきか?)を訪問したオランダ人であるデルフ・ハーフェンの記録によれば、60人の日本人が住んでいたという。
しかし、1651年の60人は、徳川幕府の鎖国政策でホイアンに定住した日本人ががた減りした時の数字であろう。日本人が一番多く居住した17世紀初頭の数字は定かではないが、千人以上いたと見られる。
日本人商人たちがホアインで買った主な商品は、黄絹、北絹、紗陵(?)、伽沈香、鮫皮、黒砂糖、胡椒、金などだった。
一方、日本がホイアンに持ち込んで販売したものには、銀、鉄、鉄砲、銅、日本刀、柚、薬剤、木綿、据風炉(お茶用の道具か?)、傘、銭などだった。
1610年代の後半からホイアン行きの「朱印船」がめっきり減って、1637年、ついに鎖国政策が施行されるに及んで、日本人の姿は一気に減った。
代わって入ってきたのは、中国人とポルトガル人だった。1695年にホイアンを訪問した中国の僧侶大汕(だいさん)の外国描写の中に、当時全く保護も受けずに暮らしていた4~5世帯の日本人を目撃したという内容があるという。中國評論學術出版社の書籍 <鄭和下西洋與廣東商人的海外移民>の中に『清人大汕和尚稱:“大越國會安府者,百粵千川,舟楫往來之古驛;五湖八閩,貨商絡繹之通衢”。 ..... 當時暹羅社會由國王、僧侶和遺族官僚・・』と、清人大汕和尚の名が見られる。
日本人の墓石
こんにち、日本人の存在を伝える遺跡は、日本橋の他には、わずかな日本人墓石だけだ。
ホアインの中心から1キロほど離れたはずれの水田の中にある谷弥次郎兵衛と彫られた墓石と、民家の庭の一角に墓がある藩次郎の墓石がみられるだけで、茶屋新六や角屋七郎兵衛ら当時の日本商人が活躍した跡は、今はない。
日本は、壬辰の乱(日本では“文禄の役”)の時に朝鮮の陶工を連れてきて、日本で良い陶磁器の生産をするようになった。国内で綿布の生産が確立したために、中国絹の需要に取って代わった。そして、日本は、17世紀末ごろには、貿易代金の支払いに充てていた銀の埋蔵量が底をつき、外国商品の輸入が難しくなった。
1567年に解禁政策が解除され、南海貿易が自由になると、中国商人はベトナムに進出した。中国商人は、絹、陶磁器などを運んできて、ベトナム産の塩、桂の皮、金などを購入したほか、東南アジアの各地域をまわりながら、各種商品の売買を行った。中国の政策で日本船舶が中国に入港が出来なかったために、中国人は、ホイアンで日本商人と取り引きを行ったのである。
ホイアンから日本商人が姿を消し始めた頃、中国人のホイアン進出はさらに増えた。
そして、17世紀中盤で、中国大陸では明が清になると、清の圧迫をうけて多くの中国人がホイアンに移住したのである。また、鄭成功父子(註2)、台湾と福建省の沿岸地域を拠点に反清復明運動を継続したために、ホイアンは、反清復明集団に食糧と軍需物資を供給する特需景気になった。
中国人は、通りに独特の中国人通りを形成し、「明郷(ミン・フオン)」と呼んだ。
中国人がホイアンに最大に居住した時の規模は、5000~1万と推定されている。クリストポロ・ボリの『コーチンチャイナ』に、「日本人と中国人の町にはそれぞれ首長がいて、住民たちは各自の風俗習慣を守ったまま暮らしている」と記録されているという。
ホアインの中国人が、長い年月を経ても、結束とアイデンティティを失わなかったのは、出身地による「幇(パン)」という同郷同胞の連帯組織や会館を作り、相互扶助を行ってきたからだ。華僑社会の成立である。
1644年清によって明が滅びると、明の難民は、ホイアンやメコンデルタにたくさん移住した。”明”末期の動乱で中国人の海外流出が急増。原因は人口過剰とそれに伴う貧困化。ヨーロッパによる東南アジアの植民地化が進むと、西欧人と土着民の間に立って流通経済に進出。18世紀末からホアインでは、絹と陶磁器貿易が衰退し、中国人の大きな需要は乾燥農水産物へと移っていった。
日本橋
ホイアンを代表する歴史遺跡をあげるなら、日本橋(Cau Nhat Ban)である。この日本橋は、チュア・カウ(Chua Cau)とも呼ぶ。これはパゴダの橋という意味だ。
或いは、來遠橋(Lai Vien Kieu)と人は良く呼ぶ。この「らいえんきょう」という呼び方は、ベトナム語にかいたライ・ヴィエン・キエウという発音に非常に近いことが分かって貰えると思う。
よく日本語の案内書やブログには、日本橋をチュア・カウと書いているが、これは全く間違いだ。チュアは寺の意味であり、あくまでも寺付きの橋なのだ。
チュア・カウと呼ばれている所以は、橋と寺院の機能を兼ねているのだ。日本橋の長さは18メートル、幅3メートル、側面7間の構造物だ。橋が建設されて、半世紀後に付属寺院が建立された。
來遠橋と呼ばれるようになった所以は、グエン朝の6代目の王グエン・フック・チュー(阮福口)が、1719年にホアインを訪れ、日本橋を來遠橋と名付けた。《論語》の「学而」に、「有朋自遠方來 不亦楽呼」(「友が遠くから尋ねてくれば、これもまた楽しいことではないか」)から取ったと言われる。
日本橋は、ホイアンの遺跡の中でも実によく保存された物の一つで、名実共にホイアンのアイコンである。
ホアインの観光案内には、日本橋の建設時期を1593年とか1637年と書いてあるのもあるが、正確な建築年度は分かっていない。日本橋の建設を16世紀末、17世紀初頭、17世紀中葉と大きく3種の学説がある。
日本人商人が最高に来ていた時期を考えると、17世紀初期の可能性が一番高いと言える。
橋の袂の門の上には、「来遠橋」という名札が掛けられている。
寺の中には、道教の神が祀られている。それは「バック・フオン・チャン・ヴォーダイ・デー」(Bac Phuong Chan Dai De=北方真武大帝)だ。真武大帝は、北方を守護する神で、玄武大帝とも称して、清龍、百虎、朱雀とともに四方を守護する神だ。真武は、本来なら玄武なのだが、宋朝廷に趙玄郎という名前の始祖がいて、「玄」という名を使えなくなり、真武になったという。
もともと、日本橋は地震を起こすク(Cu)という化け物を退治するために建てられたと言われる。
クは、ベトナム人の呼び名で、中国人は蛟龍、日本人はナマズという。
クはしっぽで地震を起こすのだが、頭はインドに、身はホイアンに、しっぽは日本にあるといわれた大きな化け物だった。この化け物の胴体の部分に橋を建て、寺に「北方真武大帝」を祀ることで、地震の源の化け物の力を押さえ込もうと考えたと言われる。
日本橋の棟上げを祝う文章と寺の中にある碑文によれば、1653年、1763年、1817年、1865年、1915年、1917年、1986年にそれぞれ改修している。現存建築様式には、18世紀と19世紀の建築様式が見られる。
日本橋の両方の袂には、猿と犬の像がおかれている。戌年生まれと申年生まれの日本の天皇が多く、猿と犬を崇拝するために建てられたというまことしやかな話が伝えられている。日本橋建設の着工の年が戌年に始まり、申年に完工したからだという話もある。こちらの方が、もっともらしく聞こえる。猿と犬の銅像は、当時日本橋を建設した人々には意味があったはずだが、その正確な目的が未だ分かっていない。
2007-07-24
ホー叔父さんの家
ハノイにある大統領官邸構内には、バク・ホー(ホー叔父さん)にゆかりのあるものが多くあります。
何と言っても一番大きな建物は4階建ての現大統領官邸です。ホアン・ヴァン・トゥ通りを黄色い建物に向かってまっすぐ進む。その突き当たりの黄色い建物が、大統領官邸です。突き当たりは右折のみ可で、フン・ヴオン通りに曲がるあたりが、一番近くに大統領官邸がみえます。
ホー叔父さんが仕事をしていた部屋は、典型的な東部様式だ。その部屋で、ベトナム人や外国人の賓客を迎えました。居間には、簡素な木製のテーブルと籐の椅子です。ホー叔父さんは、多くのベトナム家庭にみられるような簡単な、というよりも粗末なベッドを使用していました。
実際、ヴィエト・バックのジャングルや山岳地帯、チュオンソン山脈のこちら側からも、向こう側からも、メコンデルタから、高原や海岸地方から、カマウの南端から、花の村のゴック・ハーからやってきた人々は、この大統領官邸の敷地の中にあるホー叔父さんの家をみると、自分の家に帰ってきたようだとよく言う。
ホー叔父さんの家の前の池の上にかかる橋の上に立って、喜びを感じない人はいないと人々は言います。魚の群をみて両手でポンとを叩くと魚が寄ってくる姿をみて喜ばない人はいない、と。それは、ホー叔父さんが魚に餌をやるときの仕草だったといいます。
ホー叔父さんの家を取り巻く小道には、生命が溢れているように見える。まるで、愛されたホー叔父さんの歩んできた道を、大統領官邸を訪れた人たちに告げたがっているようだとある人は言いました。時代が時代であったといっても、ホー叔父さんの質素な家には、外国人観光客も驚くのです。(おわり)
2007-07-10
訃報 グエン・ヴァン・クイさん 逝去
ニューヨークで支持者と一緒に行進をするクイさんの写真を見つけたのは、7月5日。早速7月6日に、このブログで、6月に行われた第2回巡回裁判の記事を書いた。7月6日のことだった。
昨日(7月9日)、クイさんご逝去の報が入ってきた。
7月6日の記事は、虫の知らせだったのか。
ガンを二つとも三つとも患わっていると聞いていた。医者の話だと、いつ亡くなっても不思議ではないと。原告第2号になった理由は、「はやくきちんと書類を整え、話を聞かないと亡くなられてしまう」というのが、ベトナム枯葉剤被害者協会の全員の見方だった。
クイさんは、常に、義理の母に感謝していた。「面倒をみてもらって・・・」と。
そして、アメリカの連邦地裁で裁判が棄却になった時は、「次は私が行って、正義を訴えたい」と、情熱をたぎらせていた。
今年、6月、いよいよクイさんに白羽の矢がたった。私も喜んでいた。
アメリカで窮状を訴えたクイさん。(写真はハイフォン市の自宅で)
代表団の中で、重要な役目を担った。体は痛んだはずなのに、一度も苦情を言わなかった、という。自分のことを要求するより、いろいろな人を元気で受けていたと、聞いた。
使命を果たし終えたのか、帰国して10日あまりの七夕の日に、旅立たれてしまった。
1955年12月13日生まれのクイさん。普通なら、これからまだまだ社会貢献が出来る年齢だ。われわれは、クイさんを連れて行ってしまった枯れ葉剤を憎み、ダイオキシンを憎み、その製造者と使用者を憎む。
友人を失った悲しみ、肉親を失ったような寂しさが、私たちを包んでいる。サッカーの大好きな息子さんのために、私は大スターの写真をそろえて、スーツケースのぞばにおいてある。いつでも、クイさんに会いにいけるようにしてあった。
戦争ではコントゥム省のポコに行き、その後クアンガイ省に移った。
いずれも、枯れ葉剤の多く撒かれた地域だった。
私たちは、クイさんのご遺志を継いで、枯れ葉剤被害者のために正義を勝ち取ることが使命であり、苦しんでいる方々の支援に全力をあげていくことに邁進したいと思う。
クイさんのご冥福を心よりお祈りし、ご遺族に心よりお悔やみを申し上げたい。合掌。
愛のベトナムさわやか支援隊 一同
2007-07-09
ホアンキエム湖のおはなし(2)
1786年、レ・チエウ・トン王がグエン・フエから権力を譲り受けた後、カイン・トゥイ・ホールとチン皇帝の宮殿の焼き討ちを命じた。
19世紀まで仏に捧げたパゴダは、カイン・トゥイ・ホールの跡地に建立された。それは玉山祠と名付けられた。それは、真珠島の上にたてられたからだった。
その後、このパゴダは、学の神である伝説上の人物ヴァン・スオンとヴェトナムの名将チャン・フン・ダオを祀る寺院となった。
1864年に、ハノイの最大の文化人の一人グエン・ヴァン・シエウは、ホアン・キエム湖全体の修復にとりかかった。ドック・トン丘に、筆の形をした石塔をたてた。
その塔の上の部分に、彼は、三文字の漢字を彫った。「タ・タイン・ティエン」と。意味は「青い 空に 書く」だが、それは、本物の正義の人間の決意と意志の高さを表している。
寺院の門の上の三匹の蛙の後ろに置かれた桃に似た石に、「ダイ・ギエン」(硯)という文字が彫られている。硯の塔を過ぎると、フック橋だ。そこは、“幾筋かの朝の光が集まる所”を意味している。ドック・トン丘と塔の由来についても説明をつけた。
橋の反対側の袂には、待月楼(Duc nguyet Lau)がある。そこは、同時に玉山祠の入り口でもある。この寺には、三つの建物がある。一番前が、祈りの人のためのもの、真ん中がヴァン・スオンを祀ったもの、最後は名将チャン・フン・ダオを祀ったものだ。
玉山祠には、インク・タワーから始まってダック・グエット・ラウ、チャン・バー・ディン、祈念堂まで多くの文章が掲げられている。北部の有名な学者の言葉が書かれている。
祈りの家の前に、チャン・バー・ディンがある。それは防波堤である。湖上を見渡すと、南西の方向に、16世紀末期に建造された亀の塔がある。この建物には歴史的、芸術的意義はないが、数世紀前に建造されて以来、ハノイ人にはなじみ深いものになっている。
今日、湖周辺一帯を、ハノイの人は、ボー・ホー(歌の湖)と呼ぶ。テットの時、真夏のお祭りの時、人々は、特に歩き、話をし、そして楽しく賑やかに遊ぶからだ。
ホアンキエム湖と玉山祠をみた人が、ギリシャの詩人の言葉を思い出してこう言ったという。「市の中心部の花のバスケット」と。(おわり)
ホアンキエム湖のおはなし(1)
地理学者の研究の結果、ホアンキエム湖はかつて紅河の一部であったと結論づけられた。紅河が今日のような流れに変わった時に残されたものだという。
紅河の流れの変化は、千年前に起きたというのだが、ホアンキエムと名付けられたのは、わずか500年前だ。その昔、この湖の名前は、“ルック・トゥイ”(青い水)だった。それは水の色が四季を通じて変わらなかったからだ。
15世紀頃にはこの湖に現在の名前が付けられたが、少し歴史をひも解こう。
1406年、明が10万の兵で進行。首都に入る。1413年、明軍によって陳朝滅ぶ。20年間明に支配される。
レ・ロイは、もとベトナム中部タインホアのラムソン(藍山)の豪族であったが、ラム・ソンに住んでいた時、彼は天から剣を受け取ったという。
彼はそれを侵略してくる明との20年の戦いのために、常にその剣を肌身離さず持っていた。
明の永楽帝によるべトナム侵攻・支配に抵抗。1416、のち重臣となるグエン・チャイ(阮薦)らとともに、ラムソンで挙兵に及ぶ(藍山起義)。
1418年にはビンディン・ウォン(平定王)と称する。以後、10年に及ぶ明への抵抗運動を続け、1427年、明をベトナムから撤退させることに成功。1428年、正式に明から独立し、ドンドー(東都、現ハノイ)で帝位に就き、黎(レ)朝を創始、国号を「大越」とした。ベトナムの後黎朝(Nhà Hu Lê)大越国の初代皇帝(在位 1428-1433年)。レ・タイ・ト(Lê Thái To、黎太祖)の廟号でも知られる。諡号は高皇帝。
宰相グエン・チャイらの補佐のもと、国家制度の整備を行い、均田制・科挙制なども導入、諸法典の整備に取り組んだ。また、明との関係修復を図ったものの、名目上陳氏の末裔として担いだ陳暠を殺害したことや、「反乱軍の首魁」を冊封することへ抵抗感などからの反対論が明宮廷で大勢を占めたため、「権署安南国事」への任命に留まり、在世中は安南国王に封ぜられることはなかった。1433年に死去。子の黎元龍が継ぎ太宗となる。
これは史実であるが、そこには、こういう伝説がある。
彼が敵を破った後、タン・ロン城に戻った。ある日、ルック・トゥイ湖をボートで遊覧していると、突然カメが水面に現れてきた。王は、とっさに剣をとって、カメに向けた。
しかし、カメはその剣を口にくわえてひったくると、水面下に潜った。レ・ロイ王は、湖の水を抜いたが、剣は見つからなかった。
彼は、これは神が明の侵略者と戦うために下さったのだ。だから、敵は負けたのだ。神がそれを持っていったのだと考えた。
そこで、湖を還剣湖名付けた。人々はもっと簡単に剣湖(ホ・グオム)と呼ぶ。
そして、その伝説によると、湖の水抜きをしたときに、湖はヒュー・ヴオンとタ・ヴオンの二つに分かれたという。
後に、この湖は、海軍の訓練場として使われた。そこで、この湖は、トゥイ・クアン(海軍)とも呼ばれている。
19世紀の終わりには、ヒュー・ヴオンは少しずつ水が増えてきたが、20世紀の初めには消えてしまい、今のファン・チュウ・チン通り、ファン・フイ・チュー通りになった。 (つづく)
2007-07-06
枯れ葉剤被害者 巨大企業に挑戦
6月16日、枯れ葉剤被害者運動は、マーティン・ルーザー・キング・ジュニア・労働センターで行われた。ベトナム枯れ葉剤被害者歓迎式典をおこなった、式典には、予想外の人数が参加した。
左の写真は、ハイフォン市から駆けつけたグエン・ヴァン・クイさん。彼は、北ベトナム軍の旧兵士で、エージェント・オレンジに曝露した。現在、複合ガンの末期症状で、重い障害をもった子ども2人がいる。
改めて、こんなに若さがあるのだとびっくりした。本当は、若いお父さんなのだ。
「われわれは、エージェント・オレンジが後の多くの世代に悪い影響と結果を与えていることをアメリカ市民に伝える必要がある」と語った。
私たちは、クイさんの家に支援をしている。よく、ニューヨークまで行った、と。「一言でも訴えなくてはならない」という気持ちで行った。
ベトナム側からは、グエン・ティ・ホンさん(60歳)、グエン・ムロイさん(24歳)、ヴォータイン・ハイさん(48歳)、グエン・ヴァン・クイさん(52歳)が、涙ながらに訴えた。最年少のムロイさんは、両親がダイオキシンに曝露したこと、他の3人は、発症した恐ろしい病気と暮らしていかなくてはならない困難な生活の現状を必死に訴えた。
さて、ベトナム戦争中に広範に枯れ葉剤として撒かれたダイオキシン混入の化学物質を製造した農薬メーカーに補償を求めた2007年6月18日、ニューヨークの連邦裁判所前には、多くのベトナム枯れ葉剤被害者ための支持者が集会にきた。
アメリカの復員軍人、エージェント・オレンジのベトナム人被害者そして反戦活動家らは、人体に有害として知られているのに化学戦争物質を供給したとしてダウ・ケミカルやモンサントなどの会社を非難した。
「企業は自らの犯罪にカネを払え」「ベトナム・エージェント・オレンジの生存者に正義を!」などいうプラカードをもっていた。(上の写真)
同時に、南ベトナム出身の反対派は、南ベトナム政府の旗を振って、正義を求める枯れ葉剤の被害者やその支持者に罵声を浴びせていた。この人たちは、ワシントンやバージニアからバスでやってきたり、中にはパリから飛んできた人もいた。
これらの人は、未だにサイゴン政権の支持者でもある。サイゴン政権は、アメリカ軍の大規模な軍事介入にもかかわらず崩壊した不人気の政権だった。道行く人は、戦後30年経っても絶えない化学戦争の結果の説明に関心言葉を名前を聞いたことがないという人々だった。
労働者組織の人は、エージェント・オレンジ被害者運動のゴ・タイン・ニャン氏に質問した。「なぜ、この反対派の人たちは、自分の故国で300万以上の被害者を出しことに賛成しているのか?」と。
ニャン氏は答えた。「彼らは、ベトナム政府が共産主義者だと思っているからです。彼らは共産主義に猛烈に反対していましたので、人々が病気に苦しんでいても構わないんです」
これは、ベトナム戦争中にエージェント・オレンジをアメリカ軍に供給したとして、Dow Chemical、Monsantoの巨大会社ほか、35社の農薬メーカーを相手取って、300万人以上のベトナム人被害者を代表して「ベトナム・Agent Orange/Dioxin 被害者協会」が行った集団訴訟で、これを却下した下級審の決定を不服としてベトナム側が連邦裁判所に控訴したものだ。
これら化学会社はベトナム戦争中にエージェント・オレンジを米軍に供給し、広範なダイオキシン被害をもたらした直接の責任があるとし、数十億ドルの補償とベトナム汚染地の環境浄化、医療検診、支援を求めている。原告らは、ダイオキシン汚染で、数十年たってガン、奇形、臓器機能不全などを引き起こしているとして、補償を求めている。
控訴裁判のヒアリングで、判事は、戦争で使われた毒物が直接人を殺すためではなく、数年後に被害が出たという場合、国際法に違反していないのではないかと発言した。
第2次世界大戦後数年たって行われた裁判では、ナチの死のキャンプで使用されたツィクロンBガスのメーカーは有罪になった。 そういう前例にも、判事は微動だにしなかった。これらの裁判とはケースが違い、戦争中に使用された毒が人々を殺すことを直接狙ったものかどうか、数年後に被害がでただけでは、国際法に違反しているかどうか疑問だと、判事はした。ロバート・サック判事は、「違った状況ではないのか?殺すために或いは危害を与えることを狙った毒なのか?」と発言した。
会社側の弁護士も戦争での毒物の使用で罰せられた前例はなく、判事が本件を取り上げた場合、戦場での意思決定に影響を与えると警告した。イラクでの劣化ウラン弾の使用に触れ、現実の外交に影響を与えるとした。
戦争中に毒物の使用を承認した大統領の責任も問題になるが、原告側はアメリカ大統領は免責特権により訴訟の対象としていない。
シース・ワックスマン全米弁護士会前総長(左)は、枯れ葉剤製造メーカーの立場に立って、戦争で毒物を使用したことに対する懲罰をする先例が不足している事を指摘し、もし裁判官がこの訴訟を進められるということになると、アメリカの戦場での決定に支障を来すことになると警告した。
アメリカがイラクで使用した劣化ウラン弾の使用を例にあげ、「これは、われわれが進めている外交政策に障害となる」と語った。
判事が本件を取り上げるかどうかの決定をするまでに数ヶ月かかるとみられる。本件が取り上げられ場合でも、判決が出るまでに数年はかかると見られている。
1984年には、7社が、法廷外で、エージェント・オレンジがガンなどの健康障害を引き起こしたと主張するアメリカ復員軍人と1億8千万ドルの支払いで和解した。
アメリカは、戦時の撒布とベトナムが主張する3百万人以上が3世代に渡ってダイオキシンによる障害で苦しんでいるとの間には科学的に証明された関連はないといいう態度を取っている。
米軍は、ベトナムの穀倉地帯とジャングル地帯の壊滅を狙って、1961年から1971年までに南ベトナムの550万エーカーの土地に繰り返し枯れ葉剤エージェント・オレンジを散布した。その量は、1800万ガロン以上に及ぶ。この結果、米軍とベトナム人双方に多くの被害が出ている。
1984年の和解の結果、ダウ・ケミカルとモンサント など7社は被害を受けた米軍人に対して1億8千万ドルの補償を行った。米政府も毎年15億ドルの予算で、対象者に補償を行っている。
2007-07-05
エージェント・オレンジは死なず
最近の科学的研究によれば、アメリカ軍の旧ダナン基地では、健康に有害な異常な高レベルの汚染があることがわかった。エージェント・オレンジの有毒遺産が、再び生き返ってきたのだ。いや、実は全く死んでいなかったのだ。
最近調査を行ったトーマス・ボイヴィン氏は、「自分がいままで見てきたなかでも最高度のレベルだった」と語る。
「もし、これがアメリカやカナダだったら、大がかりな研究をし、洗浄を必要とするだろう」
彼の会社、カナダのハットフィールド社による土壌検査では、エージェント・オレンジに含まれる高度の有毒化学物質は、国際許容基準の300倍から400倍の多いことが分かった。
このレポートはまだ発表されていないが、ボイヴィン氏とベトナム側関係者は、中央集計をまとめている。
ハットフィールド社は、1994年からベトナムで汚染調査を行ってきているが、これより以前の数々の調査では、ダイオキシン数値は、ベトナム全土で安全基準になったことを示していた。
しかし、ダナンの旧アメリカ軍基地(空港)での調査が行われるまでは、同社は、6箇所の重度汚染地区に一度も調査の手を入れられなかった。その重度汚染地区では、エージェント・オレンジが備蓄され、ジャングルの木を枯らす目的で枯れ葉剤として調合されて、飛行機に積み込まれた場所である。
この調査は、何年も合意が出来なかったベトナムとアメリカの間の、戦争の遺産の解決に向けた新たな精神に基づいた協力の産物である。
昨年のブッシュ大統領のベトナム訪問で、ベトナムのグエン・ミン・チエット大統領とブッシュ大統領は、エージェント・オレンジの備蓄庫でのダイオキシン汚染にふれて、共同作業をすることで合意した。
チエット大統領の訪米の際に、さらに詰めた話し合いが行われる予定だ。 ダナンの最高度の汚染地域は、エージェントオレンジ調合場所として850ヘクタールという非常に狭い場所に限定されている。
ここのダイオキシンが、ダナン市のほとんどの地区の100万の住民やダナン国際空港に直接の脅威を与えているものではない。
しかし、血中濃度の検査では、数十人にダイオキシン量の増加が認められている。これらの人々は、汚染地区にある池で魚をとったり、蓮の花を収穫したりしている。
検査の結果では、雨が、ダイオキシンを、市の下水に押し流したり、10万以上の住民が住む近隣の地域に押し流していることも分かった。そのダイオキシン量はわずかに高いだけだが、もしダイオキシンが適正に封印されなければ、ダイオキシン量は増加する可能性がある。
ハットフィールドの調査研究に財政的援助をしているフォード財団ベトナム代表のチャールズ・ベイリー氏は、「ダイオキシン量は、旧基地の外では劇的に減った。にもかかわらず、それは住民の健康の脅威になっており、危険である」と言う。
アメリカは、汚染箇所の洗浄方法の技術研究に40万米ドルを拠出している。
ニューヨークに本部を置くフォード財団も、ダイオキシンの臨時封じ込め対策に資金援助をしており、この対策は雨季の始まりを控えて北部の夏に開始されることになる。
しかしながら、この対策は遅きに失した。
グエン・ヴァン・ズンさん(38歳)と彼の家族は、1990年から旧基地の外側に居を構えた。
ズンさんは、蓮湖で捕まえた魚を自宅に持ち帰っていた。彼の娘の脚は、2歳の時に、見るもあわれな変化を見せ始めたのだ。
いま、彼女は7歳。名前をグエン・ティ・キエウちゃんという。彼女は、先天性の奇形をもって生まれた。脚、頭の形、飛び出しそうな眼球。右目は飛び出さんばかりに膨れあがっている。顔はただれたように赤くなっている。
さらに、彼女の肩の骨は不自然に突き出して肌が突っ張っている。彼女には歯が2本しかない。
彼女の向こうずねは、鋭角的に曲がってしまった。そして、何カ所かで折れているようにもみえる。まるで、トンカチで潰したように膝下はふくらみがなくなってしまった。
脚がこのような状態だから、歩くことは出来ない。仰向けになって移動するのみだ。
ベトナム人民軍は、ダイオキシンの封じ込めにいくつかの対策をとってきた。しかし、ベトナム資源環境省のレ・ケ・ソン部長は、「ダナンを初め、他の重度汚染地区を洗浄するだけで、4千万米ドルの費用がかかるとみられる。とても、発展途上国ベトナムが払える金額ではない」という。
「われわれは、アメリカ側にもっと積極的に援助して欲しいとお願いしている。エージェント・オレンジの結果を調査するだけではなく、その結果を克服することもして頂きたい。この問題が解決するまでは、真の国交正常化がなったとは言い切れません」と。
戦争中、アメリカ軍は、旧基地の積み込みステーションで、180リットル入りのドラム缶にエージェント・オレンジを貯蔵していた。そして、飛行機に積み込む前に水で希釈していた。
その過程で、エージェント・オレンジはしばしば地上にこぼれた。土壌にしみ込み、沈殿物となった。そして、半減期は17から18年と言われていたが、数世代もそこに堆積し、触れた人に脅威となる。
元アメリカ海兵隊員で、ベトナム・ベテラン・メモリアル財団チュック・シアシー氏は、「ダナン事業は、エージェント・オレンジに対するアメリカ政府の重要な変化だ。長期にわたって、アメリカ政府は、基本的にエージェント・オレンジの結果を否定してきたからだ」と言うのだが。
右の写真。ダナンの自宅で車椅子に座っているのは、チャン・ティ・レ・フエンさん。
近所の子が、硝子のない窓から覗く。 何歳? 8歳? 10歳。とんでもない。23歳だ。
彼女の家族は、旧ダナン基地のすぐそばに住んでいた。枯れ葉剤認定患者としてベトナム政府からわずかな給付金と車椅子をもらった。
すべてが、遅きに失した。”何で今ごろになって、アメリカは変化したんだ。無言でカネをだすのか。この行為が、無言のお詫びなのか。謝罪はないのか?”と問いかけたい。
2007-07-02
ホイアンを語る(2)
一方で、ホイアンの登場は、16世紀後半に遡るという記録もある。1553年に編纂された『オー・チャウ・カン・ルック(O Chau Can Luc』鳥州近録)では、クアンナム地方の商業活動を記述しているがホイアンという地名は出てこない。西洋の人たちは、ホイアンを”Faifo”と表記した。ベトナムを初めて訪問したヨーロッパ人は、ポルトガル人のアントニオ・デ・ファリア(Antonio de Faria)が、1585年にダナンを訪問して、“Faifo”という記録を残したという。その後、ポルトガルの商船は、アントニオ・デ・ファリアの案内で、ホイアンを定期的に訪れた。
東洋では、16世紀から、日本、中国など東北アジアだけでなく、フィリピン、インドネシア、マラッカ、タイ、インドなど南アジアの商人たちが交易活動を目的に、ホイアンを訪問している。
西洋では、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスなどから来た商人たちがホイアンで旺盛な交易活動を展開した。
ホイアン周辺で産出された品物は、金、桂皮、沈香、キナム(奇南=使用している香木だが、現在では「一木の塊りを安定した質で揃えることが困難」で、チップ状(昔からの呼び方で言うと「爪・笹の類」)のものを集めている。現地の熟練者は、永年に亘る経験から得た知識に基づいて、これらを何段階かのランクに分類している。その最上級が「奇南(キナン、キナム)」というもので、この言葉は、漢字による何種類かの表記があるものの、華僑系の業者などの間で「伽羅」を意味する表現の一つ。そして「天の海」は、95%がこの「奇南」で出来ている)、白檀香、胡椒、燕窩、生糸、象牙、犀角などだった。当時の取り引き品目の中には、ホアイン周辺で生産されない香料、鹿の皮、絹などがあった。これは、ホイアンが仲介貿易の役も担っていたことを物語る。
ホイアンに初めて居留地を作り、組織的に活動したのは、日本人だった。ホイアンに日本人が登場したのは、およそ1560年頃と推定される。13世紀から、東アジアでは、「倭寇」の出没で、朝鮮半島や中国の王朝は問題を抱えていた。
14世紀に、朝鮮と明は、「倭寇」問題を理由に、日本との私的な貿易を厳禁して、一部指定した港を通じて朝貢貿易だけを制限的に認可した。特に、明は日本商船の入港を徹底的に禁止する政策を1371年から施行した。
成祖の永楽帝(明帝国の初期、自ら兵を率いてのモンゴリア遠征、南海への鄭和派遣、日本との勘合貿易など対外関係を中心に華々しい功績を残した成祖永楽帝)が、役人鄭和を、1405年から1433年まで28年間に7回の南海遠征を断行させたが、明の政策は1567年まで継続した。
従って、日本は皇室や貴族が消費する中国産の絹や陶磁器を求めにくくなった。さらに、1592年(壬辰・文禄元年)に起こした文禄の役(韓国では壬辰倭乱)。1592年4月、小西行長を主将とする第一軍、加藤清正の第二軍が相次いで海を渡った。宗義智が先陣に立てられたのは秀吉の命令だった。秀吉の意図は明国を征することで、朝鮮に対し「貴国先駆して嚮導(きょうどう)せよ」というのだから、これはもう誇大妄想に陥った権力者の病気である)が失敗に終わると、日本が必要とする物品を朝鮮と明から直接調達することが出来なくなった。
このような事情の中で、日本は、ベトナムのホイアンを媒介にした交易活動を通じて必要とする中国産の商品を購入することが出来た。九州では、1330年代に遡るベトナム産の陶磁器の破片が出土した。
14世紀後半から15世紀中盤にかけてのおよそ100年間に、明、朝鮮、日本と東南アジアの間に活発な中継ぎ貿易の役を担ったのは、琉球人だった。日本はm1543年、ポルトガル商人の到来をきっかけに、東南アジア、南アジアに進出したポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスなどヨーロッパの商人たちと「南蛮貿易」を始めた。
この「南蛮貿易」の経験が、後の「朱印船」制度の発展の重要な土台になった。朱印船の積載量は小さいもので薩摩の島津氏が福州で購入した12万斤(きん)積(480石、載貨重量72トン)から、大型船は100トン~200トン規模で、中には因幡の亀井氏がシャムから購入した80万斤(きん)積(3200石、載貨重量480トン)までかなりの差があった。
具体的な朱印船の姿は、寛永11年(1634)に長崎と京都の清水寺に奉納された絵馬からうかがうことが出来る。なかでも、長崎の末次(すえつぐ)船の絵馬は朱印船の姿をリアルに描いていて、最末期の朱印船が中国船をベースにしながら帆装の一部や舵と船尾回りに西欧のガレオン船の技術を取り入れ、船首楼(ろう)を日本独特の屋倉(やぐら)形式とするなど、中和洋の技術を折衷したジャンクであったことを今に伝えている。
南蛮貿易が始まるとヨーロッパからガレオン船と呼ばれる竜骨を使った現在我々が普通に見る船底が尖った波の揺れに強い船が入港されるようになった。ガレオン船の影響を受け、朱印船貿易をする船は次第に竜骨を使ったヨーロッパ方式の船に変わっていった。しかしながら江戸時代になると、鎖国を強いた江戸幕府は竜骨を使った船の製造を禁止して元の和船しか日本に存在しなくなった。(註:ガレオン船は近世に用いられたスペイン、ポルトガルの帆船で、商船や軍艦として用いられた。ことに大航海時代に新大陸発見や世界一周などで用いられたりしたため、優秀な船として西欧諸国の範となった。ガレオンはキャラックの発展型で、より大型され、武装と積載量を増強した軍用艦。コロンブスのサンタ・マリア号などでよく知られているカラック船は、16世紀によりスマートな形の船となり、ガレオン船と呼ばれるようになった。衝角の名残であるビークヘッドが船首から飛び出し、船縁のそり返りのカーブが大きいのが特徴。マストの数は3~4本で、その構成はキャラックと同じように横帆と縦帆が組み合わせられた。船尾には、敵船への乗り込みや小銃の狙撃に便利なように、背の高い船尾楼を備えていることや、船尾形状が切り落としたように四角くなっているのが外見上の大きな特徴。17世紀頃の全長約55メートルの大型ガレオン船には、約40門の大砲が甲板の両側に並べられており、約400名の乗組員のうち、ほぼ1割にあたる40名前後が砲撃手として戦闘に参加する。)
グエン・ホアンの後継者であるグエン・フック・グエンは、1585年クア・ヴィエ(Cua Vie)港で、日本の海賊船をヨーロッパの船舶と誤認して、攻撃して2隻を撃沈した。その後、1599年に、日本の海賊船は、トゥアン・アン(Thuan An)港で座礁し、グエン・ホアンの将軍に拿捕された。グエン・ホアンは、1601年に徳川家康に書簡を送り、日本商人の船舶を攻撃したことを陳謝し、両国の和親の気持ちを伝えた。徳川家康が返書を送ったことをきっかけに、ベトナムと日本の間に「朱印船貿易」が活発に展開された。
「朱印船」とは、渡航証明書、つまり、「朱印状」の発給を受けた船舶をいう。「朱印状」が有効になるには、「朱印状」を発行した政府とそれを認める政府間の協定や約束が締結されていなければならない。
商人たちは、室町時代の倭寇と豊臣秀吉の朝鮮侵略のため、東シナ海貿易のル-トを失ったため、貿易船を南に向けていた。朱印船とは「異国渡海朱印状」と呼ばれる渡航証明書を持ちアジア諸国と交易した船を指すが、それまで黙認されていた私貿易を統制するものだった。それを幕府が統制・独占して、渡航する船に朱印状(許可証)を与え、外国に対しても朱印状をもった船(朱印船)にのみ貿易を許可した幕府公認貿易のことだ。派船数は、1604年~1635年(寛永12)の約30年間に350隻以上、年平均約10余隻に及んだ。のべ渡航者は約10万人で、日本における「大航海時代」だった。渡航先は、高砂(台湾)、トンキン、シャム(タイ)、カンボジア、呂宗(ルソン)などだった。
この制度は、1592年(文禄元)豊臣秀吉によって開始されたとされているが、近年の研究では徳川家康という説が有力だ。朱印船貿易に従事したのは西国大名や幕吏、京都・大坂・堺・長崎などの豪商で、日本に滞在していて中国人やヨーロッパ人も含まれる。しかし、江戸幕府は年々制限を強めたため、次第に大名は少なくなり、角倉・茶屋(京都)、末吉(大坂)、末次・荒木(長崎)といった有力商人に限られた。しかし、寛永12年(1635)に日本人の海外渡航が全面的に禁止されて終わりを告げた。
徳川幕府の「朱印船」制度が始まった1601年から、この制度が廃止された1635年まで、およそ355隻の船舶が南方諸国に渡った。記録によると、1604年以前を除いて、1604年から1635年まで合計124隻の「朱印船」がベトナムの港に碇を降ろした。そのうち、トンキン行きが23隻。コーチン・チャイナ行きが87隻だった。
日本からの出発は、通常3月~5月の間で、ベトナムまでの航海には40日間くらいかかった。また、日本への出港はそれから数ヶ月後だったので、日本商人はホイアンに居留地が必要となった。また、商業活動のために、現地女性と結婚する場合もあったと想像される。徳川幕府は、国内でのキリスト教の伝播と風紀の乱れが発生に加えて、経済力をもった大名の登場を憂慮して、1638年に鎖国政策を断行した。(つづく)