2010-01-15

トリビューン紙パート3(下)

パート3最終回の(下)は、枯れ葉剤被害者を抱える親の世代の重荷を訴えています。
ん~ 困ったヽ(*´□`)ノ困ったぁ~
両親の重荷
                          
チャム・ティ・シューには6才の息子、ホー・コン・ドゥックがいる。彼は、生後6ヵ月くらいにしかみえない。彼の青い静脈は、透き通るような皮膚の下で見える。その少年はやせ細り、顔色は青白い。呼吸は荒くて、苦しんでいた。シューは、娘の発作と同様に、息子の病気も、自分が枯れ葉剤に曝露したからだと信じている。
「私は、飛行機が私の頭の後ろの上空で飛行していたのを憶えている」と、シュー(43)が言った。彼女は、クアンナム省育ちだ。「飛行機が去った後、木々から全ての葉が落ちた。(枯れ葉剤を)撒布したので、私たちは濡れた。そういうことが何度行われたか、正確に覚えていない。しかし、母は少なくとも3回はあったと言っていた」
娘(右)と孫(中)を抱える母親(左):クアンナム省で

クアンナム省の撒布飛行データでは、エージェント・オレンジほぼ24,000ガロン、エージェント・ブルー21,000ガロン(ヒ素入り)が、シューの村の2マイル以内に撒布された。
「私は、息子のことが非常に心配だ」と、シューが言った。「私が息子より長生き出来れば、問題ありません。でも、私が死ねば、誰が息子の面倒を見てくれるのか」

ダオ・ティ・キエウ(写真下)。彼女は、夫だけでなく、5人の子供たちも失った。
夫、ラム・バー・チュンさんは、南ベトナム政府軍に入隊し、クアンチ省の17度線で従軍した。クアンチ省では、アメリカ軍と南ベトナム政府軍が、敵の穀物を破壊し、密生したジャングルを枯らすために70万ガロンを超える除草剤を撒布した。

彼は、7年の闘病後、医学研究所と米復員軍人省が戦争中に使用された枯れ葉剤関連の疾病とした肺ガンと喉頭ガンで2004年に60歳で亡くなった。

多くのベトナムの市民と同様に、キエウと夫は、子供たちの苦しみが自分たちのせいだと責めながら何年も過ごしてきた。

【写真上説明】 ビエン・ホア郊外で田仕事をするダオ・ティ・キュー(57)さん。彼女の田畑は、ベトナム戦争中にアメリカが除草剤を撒いた。彼女の8人の子供たちのうち、7人は先天性欠損症で生まれました、そして、5人は死んだ。南ベトナム政府軍兵士として戦ったキエウの夫も、エージェント・オレンジと他の枯れ葉剤への曝露と関連したガンで亡くなった。

「私たちは、恐らく、過去の世で何か悪いことをしたのだろうと思った。だから、私の夫は、菜食主義者になった」と、言いながら、彼女の声が変わり始めた。

ほとんど毎日、キエウは、午前3時起きだ。2人の障害をもった娘、ラム・キム・リエン(39)とラム・ゴック・フオン(35)の世話をするためだ。

生まれながらの盲目の少女:友好村で
物理療法のおかげなくして、二人とも歩いたり、話したり、スプーンを持つことすら出きない。彼らの奇形の、骨格の体と刈り込まれた髪が、彼女らをはるかに若く見えさせる。一方、彼らのやつれた、無表情な顔は、茣蓙を被せた小さな木のベッドの上で過ごした生活を映し出していた。

健康な子供は、ラム・ゴック・ニャン(20)さんだけ。キエウとチュンが10年待って生まれた子だった。ダイオキシン濃度はおよそ7年半で人間で半減すると考えた重要なことだった。母が授乳している時も、ダイオキシンは体外に出て行く。
                 
キエウは日没まで畑仕事をして家に戻り、それから、リエンとフオンを行水させ、ご飯を食べさせる。鉄の意思をもつ小柄な女性キエウは、生活苦の中でよく頑張っていると村人からも尊敬を集めている。それが、生活の痛みの中で彼女に誇りを与えている。
しかし、彼女が抱えている困難と将来に対する彼女の希望を話す時に、その強さは崩れ去るのだ。
                          
「私は、何と言っていいかわからない。正義はどこに?私は、5人の子供と夫を失った。2人の子供は身体障害者だ。毎日のように畑仕事から戻って来る日々。子供たちを持ち上げることができないほど疲れる」と、涙が彼女の黒い目からしたたり落ちた。(パート3完:パート4に続く)Posted by Picasa

2010-01-14

トリビューン紙パート3(中)

パート3の(中)は、初期に警戒信号が出ていたことと、枯れ葉剤被害で矛盾する主張が
報告されています。
.+:。ヨヨヨョョョ(´;ω;`)´-ω-`)´_ _`)ョョョヨヨヨ゚.+:。
初期の警戒信号があった
戦争中、若手の産婦人科医として、サイゴン(現ホーチミン市)で、ヴェトナム最大の産婦人科病院、ツーズー病院で、グエン・ティ・ゴック・フォン博士は、何百人もの健康な赤ちゃんを取り上げた。
その後、アメリカ軍が何百万ガロンも除草剤の使用を拡大した2年後の1968年に、ゴック・フォン博士は、自分が脳か脊髄なしで生まれた赤ちゃんを取り上げたと言った。
次の数月に、彼女は同じような重度の奇形児を週に3~4回、内臓器官が対外に出ている子ども、両手の無い子、足の無い子、無眼症の子を何十人と取り上げたと、彼女は言った。
「それは、私と私の同僚にとって、息が止まるようなことだった。最初のケースは、私の当直の日に起こった。私は母親がショック状態になるのではないかと思って、その母親にみせなかった。しかし、父親と他の家族は見たいと言った。そして、それは恐ろしい姿だった」と、彼女は涙を拭いながら、声がうわずった。
ついに、彼女は友人のところへ話をしにいった。その友人がサイゴンの新聞の1社に寄稿したのだ。ヴェトナムにおけるベトナム戦争に関連した先天性欠損症の話が、やがて出始め、今日も続く激しい論争に火をつけた。
ザーライ省プレイメの特殊部隊基地1965年

(上はプレイメの米軍特殊部隊基地。1965年10月19日、北ベトナム軍は同特殊部隊基地を攻撃。イアドラング渓谷の戦い口火となる。攻防戦では、1965年に沢田さんを含む数人のジャーナリストが 戦闘に参加。共産軍に機銃射撃した。正確な月日は不明。【小史】9月 北ベトナム正規軍の第32、33、66師団が、ホーチミン・ルートを使ってカンボジア国境から侵入。国境から東に向かって下るイアドラン渓谷に進出。国境から11Kmのプレイメに米特殊部隊が基地を構えていた。北ベトナム軍はプレイメ後方のフォーチュン山地に拠点を構築する。
10.19 イアドランの戦いが始まる。北ベトナム第33師団がプレイ・メの特殊部隊基地を攻撃。第32師団はプレイ・メ北方でプレイクへの道を遮断。戦闘は35日間にわたる。北ベトナム軍が撤退し、いったん終了。)

国立衛生研究所の研究で、一部の合成物に含まれる化学物質が実験動物で先天性欠損症を引き起こすことが明らかになった後の1971年、米軍はランチハンド作戦という枯れ葉剤撒布計画を中止した。その後まもなく、米国の軍医総監は、2,4,5-Tの国内使用を停止させた。その後、その2,4,5-Tは、高度に危険なダイオキシン、TCDDに汚染されていることが広くしられるようになった。

人間と動物の脂肪細胞に付く悪魔のような毒素、TCDDは、何十年も体内に残る。科学者は、ひとたび体内に入ると、それはAhレセプター(AhRとも書く。それは、それから、潜在的にガンと他の疾病に至る細胞成長に影響を及ぼす一連の分子現象を引き起こす)と言う名の受容体である細胞タンパク質と結合する、科学者は考えている。研究者もダイオキシンの衝撃がそのレセプターに与える影響は、遺伝子制御を変えることができ、人間のDNAの変化につながると仮定している。

遺伝子と環境の複数の要因は、人間のTCDDに対する反応に影響を及ぼす。そして、健康への影響は、遺伝子の性質、曝露の方法と量、及び研究者が完全に解明していない他の要因に依存している、科学者は言う。

先天性欠損症の場合、何十もの実験で、TCDDに曝露した実験動物が、危険に影響を及ぼす服用とタイミングで、より高い確立の先天性欠損症で生まれることを示している。科学者は、人体において、曝露と欠損症の間になんらかの相関関係を見つけたが、まだ因果関係を証明するまでには至っていない。動物の研究では、TCDDが精子を腐敗させて、胎児の成長を制御するホルモン類と干渉しあって生殖に影響を及ぼすことを示唆している。

2003年にアメリカ復員軍人省は、40年前にフォン博士が遭遇した最初の奇形、無脳症を含めて、先天性欠損症18例のいずれかに該当する場合、女性のベトナム退役軍人の子供たちに障害補償を与え始めた。

男性の退役軍人の子供に補償されているのは、脊椎披裂という1つの欠陥だけだ。これは、脊柱の若干の脊柱が完全に形成されていない状態で、麻痺、脳髄液や腸の管理問題と学習障害を含む多数の困難につながっていく。

いかにして、またなぜ先天性欠損症の子供が生まれてくるかを解明することは、痛々しいほど複雑怪奇のままだ。複数の要因がからんでいるが、その多くは分かっていない。不可能ではなくても、1人の罪人を孤立させる仕事が困難なのだ。

しかし、明らかになりつつあることは、曝露してTCDD(科学者はそれをpptという単位で計測するが)の量を追跡調査されている人々 ― 特に女性には、先天性欠損症の子供を産む高い危険性があるということだ。


矛盾する見解
                    
ヴェトナムのエージェント・オレンジの影響をめぐる論争は、両国で科学と政治、悪感情に満ちた感情問題と頑固なまでの仮定の十字路に立っている。

先天性欠損症は、相違する意見の中でも最も感情的な部分だ。一部のベトナム人は、奇形で産またほとんどすべての子供が、エージェント・オレンジの犠牲者であると主張する人もいる一方、どんな先天性欠損症に対して枯れ葉剤に責任があるというなっら、その決定的な証明をだせと、アメリカ政府当局は言い張る。

2004年から2007年までヴェトナム大使を勤めたマイケル・マリン氏は、こう言う。「ベトナム当局、中でも特に地方レベルでは、これらの先天性欠損症の全てを一緒くたにして、エージェント・オレンジに関係があると話す傾向がある。同時に、私はアメリカ側が十分な意欲でこれに取り組んでいるとは思っていない。それを扱うことは、政治的毒物なのだ」
ベトナム側は、枯れ葉剤の大規模な影響の証拠として、ネイチャー誌に掲載されたコロンビア大学ジーン・ステルマン名誉教授の研究を指摘する。その研究によると、ベトナム戦争中に、210万~480万人のベトナム一般市民が化学物質に曝露したと推定した。

未だに、一部の米政府当局者は、枯れ葉剤がヴェトナムで広範囲にわたる先天性欠損症を引き起こしたという告発を、乏しい科学的な証拠に基づいた中央統制の宣伝作戦として見ている。

「我々は、ベトナム政府が、どんな形であれ、は広範囲の深刻な健康問題 ― 特に先天性欠損症と精神遅滞に対する責任は、エージェント・オレンジ/ダイオキシンにあるという20年来の長い宣伝運動の信用を損なうような研究を決して許可しないと信じる」と、2003年のハノイのアメリカ大使館のメモにある。

米政府当局者は、栄養失調、妊婦のヨウ素の欠乏、アルコール中毒さえも、先天性奇形の高い率の可能な原因として指摘する。

議論のある政治的な悪口の多くは、トゥーヅー病院で聞かれる。そこには、最もすごい奇形をもった子どもたちの面倒をみている。れている。多くは出生時に捨てられ、障害を克服するために物理療法と他の治療を受けながら、勉強して、遊んで時を過ごしている。

病院とそこで治療を受けている子どもたちは、長引くエージェント・オレンジの影響の象徴になった。たとえ彼らの良心が曝露したのか、いかにして曝露したのか、多くの場合ほとんど知られていなくても、である。

1968年に、フォン博士と同僚は、生き残れなかった何十もの胎児と奇形児を集め始め、トゥーヅー病院内のホルムアルデヒドの入っている大きなジャーの中に保存した。ここでも、奇形を引き起こした確たる証拠が不足しているにもかかわらず、除草剤についての外国報道では、しばしばジャーの映像が特徴となった。

トリビューン紙が海外でインタビューを行った結果、露出の実証は困難である、あるいは、事実からは直接の曝露はありえないという時ですら、一部のベトナムの市民は、迅速に健康障害は枯葉剤のせいにすることは明白だった。(註1:この記事については、私見を最後に付記した)曝露したと言っている一部の人の中には、撒布活動が終わって相当経過した後まで、軍隊に入っていなかった人もいる。他野人は、ほとんど撒布が行われなかった地域で活動していた。

それでも、トリビューン紙は、トゥーヅー病院やベトナムの他の場所でも、科学がダイオキシン曝露に関連と決めた先天性欠損症や疾病に苦しむ多くの子供たちに会った。多くの場合、戦時中の飛行撒布任務に関するデータは、除草剤に曝露したという彼らの両親の話と符合していた。
                                  
(註1:この記事の状況に似た現場には、私は何回も遭遇した。枯れ葉剤の情報がほぼすみずみまで流布した結果、支援を受けたいという人の気持ちがストレートに出てきて、枯れ葉剤と結びつける。その人の話をようく聞いてみないと、矛盾点を見つられない危険性がある。だが、一方で、例えば、当時北ベトナムの最南端の省はクアンビンであり、南ベトナムの最北端の省は、クアンチ省だった。枯れ葉剤撒布飛行は、クアンチ省を越境して撒布していないことになっているが、クアンビン省で従軍していたある女性は、完全に枯れ葉剤が原因としてしか思えない症状を呈していた。越境撒布飛行は完全に無かったとは断定できない。人から話を聞いて軽々に判断することは、極めて難しいことであり、調査が必要になる。:北村)。
(パート3(下)に続く)Posted by Picasa

2010-01-12

トリビューン紙パート3(上)

シカゴ・トリビューン紙のパート3に移ります。
アメリカの撒布活動が終わって数十年が経つのに、ヴェトナムにおける先天性欠損症の高い発生率に果たす枯れ葉剤の役割が、疑問のまま確定されていないことを伝えています。
え?(*゜▽゜*)? (ノд`@)アイター
パート3  先天性欠損症に苦しむヴェトナム;援助遅れるアメリカ

戦争中に使用された枯れ葉剤に責任があるかどうかで、米、越の意見分かれる

泥水に浸かった苗床から苗を引き抜き、新しい田んぼに植え替えるため、明るい黄緑の細い苗の束を背中を丸めて田植えをしていく時に、陽光がダオ・ティ・キエウの麦わら帽子に照りつける。
その畑は、ベトナム戦争中の十代の時に田植えをしていた同じ稲田である。そして、彼女はまだ、はっきりと覚えている。彼女が働いている間、朝飛行機がやってきて、エージェント・オレンジと他の枯葉剤を撒布したのを。
「私が16歳の時です、飛行機が頭上を飛んでいるのを見たのは。そして、私が結婚するまで、撒布を見ました。熟したグァバのような臭いがした。木は生き残れなかった。私の服も湿った」と、キエウ(58)は言った。
彼女の鮮明な記憶は、トリビューン紙が分析した撒布飛行からも裏付けられた。それによると、少なくとも7回の撒布飛行がキエウの畑の上を通過して行われ、1万3千ガロンの枯れ葉剤が撒布された。
その後は、キエウ人生の物語は、単純で、残酷悲惨な数学で語られる。彼女には、8人の子供たちがいた。そのうちの7人は重度の奇形で生まれた。そのうち5人は8歳以前で亡くなった。彼女の夫は、アメリカと同盟を組んだ南ベトナム軍の兵士だったが、枯れ葉剤関連の癌にかかって、彼女の夫も亡くなった。
ベトナム戦争が終わって数十年が経過した今、アメリカ軍の枯れ葉剤の使用問題を取り巻く最も議論のある問題は、莫大な数のベトナム人に与えた健康への影響だ。
論争の中心は、ヴェトナムにおいて、除草剤と先天性欠損症の疑わしい関連にある。ベトナムでは、100人に5人以上の子どもが、何らかの身体的、または精神的な異常をもって生まれており、ベトナムの科学者によると、戦争の開始以来4倍も増加しているのだ。
アメリカ政府は、昨年、100万人を超えるベトナム退役軍人の障害者に137億ドルを支払った。その多くは、枯れ葉剤への曝露である。先天性欠損症で生まれた子どもをもつ復員軍人家族への補償に、数100万ドルが費やされている。しかし、アメリカ政府当局はヴェトナムにおける枯葉剤と疾病との関係を認めることに苛立ちを隠さない。
両国が1995年に国交正常化をして以来、アメリカ議会はエイズ感染率が世界で67位のヴェトナムに、HIV/エイズ対策費として少なくとも1億2500万ドルを割り当てた。アメリカ軍が落とした不発弾で手足を失ったベトナム人援助のために、およそ4600万ドルが提供された。

いまだ、35年前の戦争終結以来、南部の多数の一般市民が枯れ葉剤に曝露したという証拠があるにもかかわらず、アメリカ議会は除草剤関連問題でヴェトナムを援助するためにちょうど600万ドルをとってあった。枯れ葉剤は、その後アメリカで使用禁止になった。

フォード財団、ゲイツ財団と大西洋博愛団体を含む民間の慈善団体は、除草剤がもたらしたベトナム人の健康障害と環境破壊を克服援助するため、アメリカ政府のほぼ3倍以上の資金を拠出してきた。

戦争中、アメリカ政府当局は枯れ葉剤が無害であることを南ヴェトナムに保証した。南ベトナム政府も、代わる代わる、化学物質は安全だと国民を信じさせようとした。国立公文書館からの文書によると、ベトナム兵士は化学物質を浴びに行ったり、水でそれらを飲むくらいまで遠くに行った。

「公務員と幹部は、体と水に枯れ葉剤を吹きかけて、人々の前でそれを飲むことによって、枯れ葉作戦の無害性を説明した」と、南ベトナム人政府の1963年10月の報告は述べている。

アメリカ兵と同様、ベトナム市民も、空の除草剤のドラム缶をシャワーやバーベキュー用に使った。化学物質が無害だったと信じて、南ベトナム兵はしばしば、ダナンやビエンホアのような場所で、5ガロンも除草剤が残っている空のドラム缶を一般人に売ったと、政府の記録には出ている。

だが、合成物の多くは安全ではなかったのだ。それらは、最も有毒な人工化学物質として知られるダイオキシンTCDDに汚染されていたのだ。汚染物質は、エージェント・オレンジ、パープル、グリーンとピンクの中に発見された成分を製造するために、米化学会社によって使われた製造過程での予想外の副産物だった。それらのエージェント・オレンジ、パープル、グリーンとピンクは、ヴェトナムで撒布されたほぼ2000万ガロンの除草剤の65%以上を構成していた混合物である。

科学者は、ガン、パーキンソン病と重い先天性障害を含む12以上の疾病をダイオキシン関連とした。

「私は、ダイオキシンが崩壊させなかったホルモン系に出会ったことがない。それは、ほとんどすべての脊椎動物種の、発達のほとんどすべての段階で、広範囲にわたる影響を与える。」と言うのは、国立環境衛生科学研究所所長で、著名なダイオキシン専門家のリンダ・バーンバウム博士だ。((中)に続く)Posted by Picasa

2010-01-08

ある少女からの手紙 眼科医・名古良輔

私たちのベトナム支援隊ツアーに一昨年と昨年、2年間連続で参加してくださった沼津在住の眼科医師、名古先生が、地元紙の沼津朝日新聞に寄稿されましたので、今回は、名古先生のご許可を頂いて、その投稿記事をご紹介させていただきます。「ある少女からの手紙」の内容は、本ブログでも昨年の12月25日のクリスマスの日に「蓮の花奨学生からの便り(2)」として掲載してあります。そちらもご覧ください。
ヾ(●⌒∇⌒●)ノ わーい  ワーイ♪♪\(^ω^\)( /^ω^)/♪♪ワーイ 

「ある少女からの手紙」
 名古良輔
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 二年前からベトナムでの枯葉剤被害者支援活動に参加しています。昨年は計十五名の子ども達に学業の支援にと奨学金を贈呈しました。会の中心メンバーであるジャーナリストの北村元さんのアイディアで、切手を貼った封書を同時に手渡し、春と秋に奨学生のみなさんに近況を報告してください、とお願いをしました。
私が贈呈役を仰せつかったクアンガイ省の高校三年生レ・ティ・キム・チュンさんからも手紙が届いたのです。その手紙からは、日本では想像もできない険しい状況の中で必死に学ぼうとする彼女の強い決意が感じられます。贈呈式で彼女が見せた強い意志を秘めた、あの凛々しい瞳を私は忘れられません。
 ひるがえって日本の状況を調べると内容や程度に違いはあるものの、同年代の若者たちも厳しい状況にさらされていることに気づきます。

事実一。厚生労働省の発表では二〇〇九年度九月末現在の高校生の就職内定率は三七.六%で前年同期を一三.四ポイント下回り過去最大の下落率。

事実二。年収二〇〇万円未満の家庭での高校生の四年制大学進学率は三割に満たない一方、千二百万円以上の家庭では倍以上の六割強に達していること。さらに母子家庭の調査などから世代を超えて貧困が連鎖している実態が明らかとなった。

レ・ティ・キム・チュンさん

 グローバル化のもとでは二極化は避けられません。しかしながら、どんな状況下でも自分の未来を切り拓くのは、自分自身の努力しか無いのです。以下に引用するチュンさんからの手紙の一部を読むことで、日本の若者たちが力強く生き抜くための勇気を少しでも取り戻してくれればと心の底から私は願うのです。

 『皆様お元気ですか? 皆様にお会い出来ることを願っています。支援隊から奨学金を頂いて、沢山の励ましを頂戴しました。そして頑張る力も与えて頂きました。学校の友達には、日本人の優しさ、親切さ、人を愛する心について話をしました。そして友だちには、あの時下さった富士山の写真を自慢して見せました。友だちは皆、日本の素晴らしさと日本人の事を感心してくれました。

私の故郷はとっても貧しいです。両親は二人とも軍人でした。兄弟は五人です。女三人男二人です。しかしお兄さん二人は枯れ葉剤の影響を受けて普通の生活はできません。全ての事は誰かにやってもらわなければなりません。私が中学二年のとき兄が一人亡くなりました。家族は少しの水田を耕作しています。両親は戦争の時負傷しています。しかし両親は私を養うのに一生懸命です。生まれつき障害を受けている子ども達を悲しく思っているようですが、それにもかかわらず負ける事無く私達を養って、教育も受けさせてくれています。

 両親を悲しませないようにしようと考えています。そして自分自身いつも願っていることは、早く大人になって家族を助けられるようにしたい。そして、いつか日本に行ってみたい、ということです。日本人はとっても親切な人たちだと思います。

 最後に皆様のご健康と仕事が順調でありますように、そして今後意義のある活動を続けてくださる事を心から願っています。』

ゎぁぃ♪ ヾ(*⌒∇⌒)八(⌒∇⌒*)ツ ゎぁぃ♪
以上が、名古先生の寄稿の全内容です。奨学金を贈呈した 近況を知らせる手紙がきた 私は、こういうやり取りを続けながら、相手の方の気持ちを想い、家庭を想像し、私達とのつながりが太くなっていくのだと思います。
                         
一方通行でなくてよかった・・と、この便りでさらに力が湧いてきました。キム・チュンさんも、もっともっと話したいことがあるのではないかと、思います。キム・チュンさんに少しでも笑顔を、キム・チュンさんのご家族に少しでも笑顔を・・そこにボランティア活動の大いなる楽しみがあると、考えます。
                         
ニンビン省での奨学金贈呈の時、名古先生は、相手の男子生徒より深いお辞儀をして渡されたのをみて、これは大事なことと深く感じました。必ず、相手に気持ちは通じる・・・その気持ちとは・・・「彼」や彼女」のまなざしを未来に向けてあげようとするやさしくも、雄大な気持ちではないでしょうか。 私たちの側のその心を大事にしていきたいと、私は思いました。(北村 記)Posted by Picasa

トリビューン紙パート2(下)

今日のパート3も、いろいロ意味のある記事です。ご一読ください。
(´゚'ω゚`)ショボーン  (´・ω・)9 このやろう
2正面戦争
メアリー・アンドーヴの夫はベトナム退役軍人で元海兵隊員である。彼は、1989年にクーリーの死因と同じ多発性骨髄腫と診断された。復員軍人省は、それをその5年後までエージェント・オレンジ関連の疾病と認めなかった。
復員軍人省がエージェント・オレンジの曝露は戦後の高い発症率と関連があると認める16年前に、ベトナム戦争は実際終わっていたのだ。1991年に認められた最初の3疾病は、軟部組織肉腫、非ホジキン・リンパ腫と、化学会社が数十年以上前にダイオキシンと関連性があるとした皮膚疾患の塩素ざ瘡だった。
1991年から1997年の間に、復員軍人省は、数種のガンと神経障害を含む10の疾病がエージェント・オレンジ関連の疾病という証拠を受け入れた。次の6年間で、2つの疾病が、さらに追加された。
ヴェトナムで従軍した退役従軍看護婦のドーヴは、早くから彼女の夫に言っていた:「病気と戦うの?それとも、政府と戦うの?-あなた、両方はできないわよ」と。彼女の夫は、闘病することを選択した。だが、彼はその病気で6年以内に亡くなってしまった。
ドーヴは言う。「政府は、ベトナムでやったことなど分かっちゃいない。破壊が為されたのだ」
圧倒的な傷病の請求の数が、遅れに拍車をかける。復員軍人省の年次報告によると、障害手当て受給のベトナム退役軍人の数は、2003年から2008年にかけて20%増大し、1,015,410人になった。

同時に、湾岸戦争、アフガニスタン紛争とイラク戦争の後、手当てを受けている復員軍人の数は、88%飛躍し、897,000に及ぶ。

「イラクとアフガニスタンのケースを迅速に処理するという多くの圧力がある。路頭に迷っているようにみえるのは、その中間のケース(ベトナム戦争退役兵のこと)だ。そのケースでは、自分はすでに棄却され、現在上訴している」と、退役軍人のための活動グループ、全国退役軍人法律支援計画(本部:ワシントン)のバートン・スティックマン専務理事は言った。
スティックマンは、復員軍人省は一般的にケチだ。エージェント・オレンジには、常に懐疑的な裁定をする連中だ」と、言った。

シンセキ(ヴェトナムで負傷するベテラン)は、病気を枯葉剤に起因したと思われる病気の拡大しているリストに加えるために、10月に新しい規則を提案しました。規則は、一般のコメントの期間を経ます。彼は、彼も主張プロセスの速度を上げたいと言います。

「事務局長としての私の確証から、私は何回も問いただした。『ベトナムで最後にエージェント・オレンジが使用されて40年も経っているのに、どうしてまだ、戦場で従軍した我々の退役兵の健康状態をきめベテランに健康結果を決めようとしているのか』」と。シンセキ氏は当時の声明で次のように述べた。「多数の健康問題に耐えている退役軍人は、タイムリーな決定を待っている」と。

全米ベトナム退役軍人会のポールサットン前議長は、「その発表はあまりにも些細なことであり、をあまりにも遅すぎた。現時点で、我々の仲間のおよそ150万人は逝ってしまった」と語った。

Feeling 'betrayed'『裏切られた』

ジャック・クーリーは、政府と戦おうなどとは一度も思ったことがなかった。彼はセントルイスの陸軍高等学校に通い、ウェストポイント陸軍士官学校では、南北戦争のユリシーズ・グラント将軍に深い尊敬の念を抱いていた。1965年版ウェストポイント年鑑(ホウィッツァー)の中で、同級生がこう述べている。「ジャックは、『強襲してものを取っていく』タイプではない」と。
1968年7月のある日に、クーリーはヘリコプターで、クアンチ省着陸地点ジェーンに飛んだ。彼は、妻マリアに宛てた手紙の中で、「神に見捨てられた所」と書いた。

クーリーは、キャンプ・キャロル所属の砲撃将校として、地域を移動していた。トリビューン紙による撒布データの分析で、全部で16万8千ガロンのエージェント・オレンジと他の枯れ葉剤が、彼がそこに駐屯していた年に、クアンチ省にばら撒かれた。

「ここは、現在でもましな場所だ」と、クーリーが1968年前半に郵送した録音テープの中で、彼の母に確信をもって語っている。

退役後、クーリーはノートルダム大学から法律の学位を取得して、シカゴで連邦判事の秘書として勤め、連邦治安判事に任命された。彼は、人々をまとめることができる熟練した調停者との名声をえた。彼は問題解決に関して教科書を書き、ノースウェスタンやロヨラ大学で教壇に立った。

彼が多発性骨髄腫と診断されたとき、クーリーはすばやく病気はエージェント・オレンジ剤との関連だと思った。

「私は、その時(2007年夏)2と2を一緒にして、私が空中監視任務と別の任務の最中に、多量の有毒化学物質の曝露した気づいた」と、クーリーは障害補償を求める復員軍人省宛ての請求文書に、こう書いた。

クーリーは、幹細胞移植を以前に受けたが、病気の拡大は止められなく、エヴァンストン病院で集中治療を受けている間、クーリー家は復員軍人省へのクーリーの請求作業を始めた。

クリスティーナ・クーリーは、ヴェトナムで従軍していた男女兵士に対して、エージェント・オレンジの危険性を明らかにしなかった政府の怠慢によって、父は「非常に裏切られたと感じている」と語った。

「政府は我々を見守るためにあると、父は強く信じていた」と、彼女は言う。

9月(2009年)に行われたクーリーの追悼式で、シンセキ長官を含めたウェストポイント65期生('65年卒業組)の友人が出席した。そして、追悼式の最後の短い祈りの中で、「エージェント・オレンジために仲間を失った家族」と復唱されました。

その2週後、連邦政府から送られた箱が、エヴァンストンにあるクーリー家の郵便受けの中に入っていた。中には、クーリーはベトナム戦争に従軍していたことを立証するという、ほぼ4ヵ月前に要請された文書だった。(完 パート3に続く)Posted by Picasa

2010-01-07

トリビューン紙パート2(中)

今日は、昨日の(上)の続きの(中)です。読んでください。なお、掲載の写真と文中の人物とは無関係です。
(`Д´)ゴゴゴ…━(ノдヽ)━( 乂 )━━━ヽ(゚Д゚)ノゴルァァア!!
3種の行為の悲劇
ベトナム退役軍人にとって、エージェント・オレンジをめぐる進行中のドラマは、3つの行為に分類できる。最初の第1は、兵士たちがヴェトナムで撒布されたダイオキシン入りの枯れ葉剤がもたらす危険性に、全く気づいていないこと。第2は、遅ればせながら、危害があったことを発見し、憤激する。そして、第3の行為は、復員軍人を助けるために出来た官僚機構に欲求不満を起こすことだ。
シカゴ清掃局の元運転手、ジェームズ・スプランデル氏は、この三つ全てを乗り切った。
戦闘行動中のアメリカ軍兵士。場所日時不明。

スプランデル氏はほぼ41年前に、サイゴンの20マイル南の、タン・アン軍用飛行場の戦闘従軍医として1年の”ツアー”を生き抜き、安堵して、南ベトナムを去った。今日、64歳になったスプランデル氏は、糖尿病と脚力がなくなる神経障害のため、車椅子を使用している。復員軍人省に障害請求を認めてもらうのに14ヵ月かかった。

彼には戦地を再訪したいという願望はほとんど湧かないが、はっきりと思い出すのは空軍基地周辺の川と小川の水は何もおかしくなかったと、スプランデル氏には自信があるということだ。「入浴のための巨大なタンクがあった。われわれはそれに浸ったり、タンクの水を飲んだ。彼らは、それが携帯用の水であると我々に話った」と、スプランデル氏は言った。

兵士たちはバーベキュー用の台として、トイレの汚水層として、シャワー用水保存タンクとして、普通にへージェント・オレンジのドラム缶を再利用した。しかし、健康リスクがあることは、一度も知らされていなかった。調査によれば、55ガロン入りのドラム缶には、5ガロンものエージェント・オレンジが残留していたことがわかった。

アールオイに向かうクアンチの山道 木は未だに生えない

戦後まもなく、政府は、復員軍人がダイオキシン曝露による健康不安に直面しているという新たな認識に対応するように見えた。エージェント・オレンジの危険性について学ぶと、議会は即座に、枯れ葉剤曝露の健康影響を決定して、監視することを意図して、1979年に全面的疫学調査を命じた。

しかし、政府はその命令にたじろいだまま、まだそれを実行していないのだ。

ヴェトナムで従軍した女性兵士の初期の研究は、生殖の問題と第2世代の先天性欠損症だけでなく、数種類のガン発症のより高い危険性を仄めかしている。しかし、男性の帰還兵と同様、広範な研究はまだ完成していなかった。

激戦地の一つ:ハイヴァン峠

一方、復員軍人は、ヴェトナムで使用された除草剤を生産したダウケミカル社、モンサントや他の化学会社に対して大型の集団訴訟を起こした。この訴訟は、1億8000万ドル支払うことで、1984年に和解となった。1988年から1997年までの間支給された最も一般の支払いは、精神障害のためであったが、それは、皮肉にも、研究ではエージェント・オレンジに関連していなかった。

法廷外の決着である和解は、しばしば論争の終了を暗に示す。しかし、この論争はこの25年で決着どころか大きくなる一方であった。合意の時点で、科学者は、ダイオキシンの長期の影響、特にガンや徐々に小さな研究で文書化されていく遅く発症する病気との関連性を完全には理解していなかった。

1998年に、弁護士は、何千もの復員軍人が枯れ葉剤と関連する病気を発症する頃には、和解金が完全に底をついたと主張して、枯葉剤を製造した化学会社を相手に新たな訴訟を起こした。そして、第2回巡回控訴裁判では、その主張を却下した。そして、最高裁判所は3月にこの裁判の審理を拒否した。

枯れ葉剤の健康への影響に関する最も包括的な研究は、空軍によって行われた。27年以上は生物学的サンプルを採取し、戦争中に、枯れ葉剤を扱って撒布した少数の兵士の健康を追跡した。

枯れ葉作戦のために名づけられたランチ・ハンド作戦の研究は、化学製品の影響を過小評価していると長い間く批判を受けてきた。もっと最近では、戦争中に使用された一部の枯れ葉剤は、かつて思われていた以上にダイオキシンに汚染されていたことを示す新情報が出てきた。
研究に取り組んだ科学者は、この光の中で豊富なデータを再検査すれば、重要な新しい洞察をもたらすことが出来ると言う。「私は、全部が再検討される必要があると思う」と、サンアントニオのテキサス大学健康化学センターの伝染病学者ジョエル・ミカレック氏は言った。

一昨年、アメリカ議会は復員軍人省に対して、その作業のために資金提供をするよう指示した。しかし、今までに、資金が利用できるようにはなっていない。(下に続く)
( ゚Д゚)ドルァ!!  (`Д´)ゴゴゴ…━(ノдヽ)━( 乂 )━━━ヽ(゚Д゚)ノゴルァァア!!Posted by Picasa

2010-01-06

トリビューン紙パート2(上)

シカゴ・トリビューン紙の報告を続けます。
トリビューン紙調査のパート2では、長い銃撃戦が海外で終わると、多くのアメリカ復員兵にとって、エージェント・オレンジ関連の健康問題の補償を求める官僚との戦いは、予想外の新たな戦争に発展している、という報告だ。
困ったもんだ ( ̄~ ̄)ξ (・_・。))コマッタナァ
エージェント・オレンジの致死遺産:ヴェトナム戦争復員兵、傷病の後に続く不正義
ヴェトナム戦争復員兵は障害者認定を求めて、何年もかけて懐疑的な機関との戦いが続く

ジャック・クーリーは、病院ベッドから、長く優れた法曹の職歴を使って、最後の激論を展開した。
多発性骨髄腫で倒れる4か月前に、シカゴ地区のベトナム退役軍人であり連邦治安判事の彼は、正義を求めて140頁の主張を書き、米復員軍人省に訴えた。政府に対するクーリーのメッセージは、個人的で、直接的だった:エージェント・オレンジは私を殺しにかかっている。だから、貴省は責任をとる必要がある。

クーリーは昨年の春そのことを知らなかった。しかし、前砲兵隊キャプテンである彼が、彼はちょうど多くの復員兵が身に堪えている腹立たしいまでの官僚の迷路に入り込んだ時に、障害請求を起こした。復員軍人省は1ヵ月後、クーリーがヴェトナムで従軍したという必須の証明に欠けていると主張して、クーリーの言い分を逆襲した。


クーリーは、何か月もかけて、この入り組んだ迷路を進んだ。しかし、クーリーの余命少なく、彼の家族は、旧友であるウェストポイント陸軍士官学校1965年卒業組のメンバーに接触した。その人が、エリック・シンセキ元アメリカ軍参謀長で、現復員軍人省長官だったのだ。

手っ取り早く、クーリーの主張に対する障害は立ち消えた。クーリーがエヴァンストンで、65歳で、7月21日に亡くなる3ヶ月前に、復員軍人省は、障害者手当てとしての2,700ドルの小切手を届けたのだった。

「これは、傷病に対する侮辱だった」と、彼の娘クリスティーナが言った。「シンセキ将軍がもし・・・家族の友人でも、ウェストポイント同級生でもなかったなら、私たちはこのお金を見ることはなかったろうと思う。私は人脈もなく苦闘している他の皆についてもそう思わざるを得ない」

ベトナム戦争はほぼ35年前に終結した。しかし、多くの復員軍人には、戦争で使われた枯れ葉剤と関連したガン、糖尿病、パーキンソン病など他の病気との戦いは、今始まったに過ぎない。2007年までは、ジャック・クーリーは健康だったのだ。

多くの復員軍人には、これは、古い戦争が終わってしばらくしてからの予想もしなかった新しい戦争なのだ。

政府は、数十年後にベトナム退役軍人を襲った衰弱性疾患と、戦時の従軍との関係を認めるのが遅かった。復員軍人が公認されたエージェント・オレンジと関連している病気に苦しむ時でも、彼は復員軍人制度の障害補償を要求を何年も待たなくてはならない。

エージェント・オレンジへの曝露と関連した一種の血液がんである多発性骨髄腫によるジャック・クーリーの死は、戦争関連の障害請求に関する最終的な仲裁人である復員軍人省の行き詰まった作業に風穴を開けることになった。

「本当は、ヴェトナムに行った復員軍人が、一般人の仲間より重い病気で戻ってきたということだ。何かが、あそこで起ったんだ。それをめぐって、腕相撲なんかしてもしょうがないでしょ?」と、リンダシュワルツは言った。彼女は、コネティカット州の復員軍人問題委員会の委員長で、女復員軍人の健康に関する初期研究をまとめた人だ。

復員軍人省は、シンセキ長官と話し合うという要請を断った。シンセキ長官は、同省の考え方を変え、同省を国に尽くした人々の擁護者にしたいと言った人だ。

長期に眠っていたエージェント・オレンジの効果が、多くのヴェトナム戦争帰還兵の表面に出始めたために、復員軍人省が交通渋滞(北村註:書類審査の遅れ)を除くために3,000人以上の職員を増強したにもかかわらず、障害の請求はそれを上回る速さで増えていった。

「彼らはどこから手をつけていいかわからない状態だ。彼らには、迅速な意思決定をなどできないのだ」と、元復員軍人省弁護士で、現復員軍人省に対しうる裁判の復員軍人代表をしているジョー・ムーア氏は、言う。

訴訟が復員軍人省に90日以内の請求決定を求めてワシントンの連邦地裁に起こした2008年12月の裁判に呼応して、政府は、「ヴェトナム戦争時代の復員軍人の特定の病気」が、案件処理の滞りの原因だと認めた。

アメリカのヴェトナム戦争復員軍人協会と近代戦争復員軍人が起こした裁判では、帰還兵の障害請求に対して復員軍人省が行動を起こす前に、「毎年何千もの復員軍人が死亡している」ことが論争となっている。訴状では、復員軍人省が最初の請求を検討するまでに少なくとも6ヵ月はかかり、上訴は4年かかるという。

「そのような遅れを目の前にすれば、多くの帰還兵は、長年の遅れや欲求不満に耐えるよりは、むしろ、本来もらうべきものより少ない価値のものを甘受する方を選択して、諦めるだけだ」と、訴状で述べている。

さもなければ、彼らは早く死んでいくだけだ。復員軍人省のデータによると、2000年から2007年までの間に死亡した490,135人のベトナム退役軍人のうち、58%は、60歳以前で若死にしている。(中に続く)Posted by Picasa

2010-01-04

蓮の花奨学生からの便り(6)完

蓮の花奨学生からの便り最終回は、クアンガイ省の青年グエン・タイン・チ君です。チ君は、蓮の花奨学金を受けて、2年目になります。われわれが会ったのは、8月20日、クアンガイ省の枯れ葉剤被害者協会で、奨学金を贈呈した時初めてでした。奨学金は櫻井恵美子さんがお贈りしました。近況報告は11月29日に書かれ、ホーチミン市から12月4日に投函されております。それでは、想像をめぐらしながら、読んでみてください。
【☆´Ⅴ`★p《*:。・元気出して・。:*》q
p【◇:*・。元気出すんだょ。・*:◇】q´∀`◎)
ベトナム支援隊の皆様へ
先ず最初に皆様のご健康をお祈り申しあげます。
それから手紙が遅くなってすみませんでした。勉強が忙しかったことと、入院していたために遅くなりました。お許し下さい。
8月20日贈呈式で、櫻井恵美子さんから
ホーチミン市に三ヶ月前に勉強しに来ました。現在ホーチミン市経済大学に通っています。私は、今姉の家に居候しています。大学まで20kmくらいの距離です。
大学に入学する前に先輩達に勉強がとても難しく大学生活は楽しくないといわれましたが、始めてみたらとっても楽しく、大学の友達も親しみやすく、楽しく頑張っています。
勉強もそれ程難しくなく先生の講義を真面目に聞けば問題ないと思います。
テストの点数は全部ではないのですが、少し分かりました。今のところ満点かそれに近い点数を取れました。
大学の部活にも参加しています。ようやく若者の生きる力と情熱を理解できた気が致します。この大学で自分を発見し、自分の能力を伸ばすことが出来ると確信します。大学で勉強が出来るということの価値が、ようやく分かったような気がします。
チ君の手紙 ホーチミン市の字がみえますね。
自分の将来、親への恩返し、そして支援隊の皆様への恩返しの為に今後一所懸命頑張ります。
 (静岡在住 ヴィンさん訳 2009.12.22 ありがとうございました)


皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします。


そして、改めて皆様にお礼を申し上げます。近いうちにお会い出来ることを心より願っています。
 
ワーイ♪ ヘ(゚∇^ヘ)(ノ^∇゚)ノ ヘ(^∇゚ヘ)(ノ゚∇^)ノ ワーイ♪
うれしいお便りでしたね。成績もよさそうだし、自信を持っているのがうれしいですね。私の方からも会いに行きたいです。住所は、ホーチミン市ミンタン郡チュオン・フック・ファン通りとなっています。それにしても、大学まで20キロとは、すごい距離です。バス通学? それとも自転車???じゃあ大変でしょう。学問は距離ではないですが、通学時間も半端じゃないと思いますね。
チ君の奨学金申請の文書を載せておきましょう。北村の名前が出ていますが、枯れ葉剤被害者協会の方が小生の名前を言ったんでしょう。申請書記入時は、まだ高校生でしたので、在学中の高校の名前が出ております。

ベトナム社会主義共和国
国立・自由・幸福
北村さまへ、Posted by Picasa

申請書


私はグエン・タイン・チです。 1991年生まれです。
住所:クアンガイ省、モードゥック郡、ドゥックラン村

チャン・クアン・ジエウ高校在学です。
2007年~2008年には、ベトナム支援隊の皆さまから奨学金、1.50万VND(ベトナムドン)を受け取りました。ありがとうございました。

2008年~2009年度が終わり、この申請を書いて2008年~2009年の奨学金を頂けると本当うれしいです。ご検討をよろしくお願いします。

お礼を申し上げます。

2009年7月30日
Nguyen Thanh Tri
数学、理科、コンピューター、 国防教育、体育は、いずれも80点以上でした。そして、担任先生の意見として、「友達と仲良くしている。家族は貧しいが、よく勉強している。何でも熱心で吸収している。」と、書いてあります。
蓮の花奨学金を贈呈した人は皆希望に輝いていますが、チ君は中でも希望の星ですね。その後に続く人たちが必ず出てくると思います。入院したとありましたが、健康に気をつけて、学問をどんどん吸収してもらいたいと思いますね。
今回の便りの掲載は一応これで終わりますが、また機会があれば掲載していきます。(完)

2010-01-03

トリビューン紙パート1(下)

今日は、福島県いわき市豊間の「二見ガ浦」で、友人の藤島賢三さんが写した「初日の出」をお借りしました。寒かったと思いますが、それだけに、いい作品に仕上がっています。
ありがとうございました。この初日の出に、平和・健康・不況の脱却・無明の打破を託したいです。
世界では、枯れ葉剤被害に苦しむ人が、この日の出の向こうにたくさんいることを忘れられません。パート1の(下)では、さらに事実を掘り下げています。北村の拙訳ですが、ご一読ください。

が( ̄□ ̄)ん( ̄ー ̄)ば( ̄△ ̄)れ(。 ̄O ̄)♪

'We're a mess' 『我々はめちゃくちゃだ』

ほぼ40年後、インディアナ州ブラウンズバーグの閑静な通りで、キャリー・プライス-ニックスとアマンダ・プライス-パーマーは、退職し、長びく疲労の身で終身の障害者生活に入った。彼女ら2人の間で、過去20年間に、脳手術5回、脊髄手術2回、子宮摘出手術を含めて41回の手術を行った。

父親のスティーブン・プライスは、1967年にダナンのアメリカ空軍基地で兵役を務めた空軍整備士だった。(戦争終結から35年たった)今日でさえ、その場所は世界保健機構の定めた安全基準の365倍も高いTCDD濃度で汚染されている。

プライスは、白血病、糖尿病と塩素ざ瘡との闘病後、2008年4月に死亡した。そして、その全ての病気が、ヴェトナムで使われた除草剤と関係している。補償申請から2年たって承認された後、2005年に軍人復員省から全障害補償を受け取り始めた。

彼の娘は2人ともスピナ・ビフィダと関連する脳底の構造欠陥であるキアリ奇形にかかっている。それは、復員軍人省が男性退役兵の子の枯れ葉剤関連の先天性欠損症と認めている疾病である。

プライスは、2002年7月にプライス-ニックスのために復員軍人援護局に認定の申請をした。3年半後に、彼女は部分補償として承認された。その頃には、彼女の膀胱が閉じた。そして、彼女の父親は死にかけていた。

同様の健康問題を持っていたパーマーは、復員軍人省から補償を求めるのに6年を費やした。「彼らは、あなたが死ぬのを待っているんだよ」と、姉が言った。先週、復員軍人省は、その病気は脊椎披裂(スピナ・ビフィダ)と関係ないと判定して、パーマーの請求を認めなかった。

パーマーの腹筋の劣化により、彼女は手で自分の排便を除去しなくてはならなくなった。プライス-ニックスは自分の腸を管理するためにペースメーカーのような装置を持っていて、毎日彼女自身をカテーテルを入れなくはならない。

「私たちの体は、もう、めちゃくちゃです」と、パーマーが冗談混じりに言った。やがて、2人が今の状況からの回復は望めないのが現実を考えたのか、姉妹は泣き始めた。

【写真説明】2008年に病院で、ベトナム戦争中に撒布された除草剤に関連したガンで死に向かっていた父スティーブン・プライスさんと、母親ブレンダ・プライスさん(上右)と家族写真に一緒におさまるアマンダ・プライス・パーマーさん(下):インディアナ州ブランズバーグで

ブラウンズバーグから遠く離れた中部ヴェトナムのクアンビン省では、ドー・ティ・ハンさん(19)が、この姉妹に類似した症状で苦しんでいた。彼女は、彼女の脳に溜まる液体が原因で規則的な発作を起こす。彼女は歩くことができず、また腸を管理する障害をもっている。

彼女の両親は、ヴェトナムの健康管理制度が遅れているために、これまで特定の診断を受けたことはなかった。しかし、ハンさんの病気は、スピナ・ビフィダで苦しんでいる人々の症状をを映している。

抗米戦争の兵士として、ハンさんの父親、ドー・ドゥック・ジエウさん(58)は、アー・ソーと呼ばれるアメリカ軍が放棄した空軍基地に4年の間配属された。そこは、ホーチミン・ルートがラオス国境に沿って曲がりくねった谷の中にあった。アメリカ軍と南ベトナム軍は、旧名アーシャウと呼ばれたアールオイ渓谷で40万ガロン以上の枯れ葉剤を撒布した。

新しい調査では、アメリカ軍がアー・ソー空軍基地内の化学物質を保存した地域では、危険なまでの高濃度のTCDDに依然として汚染されている事が示されている。

戦争終結以来、ジウと妻(ファム・ティ・ニック)には、15人の子供たちがいた。12人とも、3才前に死んだ。そして、全員がハンさんに似た病気だったと、ジウは言った。子どもたちの小さな墓は、ジウの自宅の裏手の砂丘の上にあった。ジウは線香を手向けるために、ほとんど毎日墓に行くのである。

「私なんかには将来も幸せもないんです」と、ジウが言った。

【写真説明】枯れ葉剤前と後の違いを示す俯瞰写真は、戦争中にヴェトナムで撒布された時の除草剤が持つ影響を如実に示している。上左は撒布される前のマングローブ林で、撮影日は不明。上右の写真のマングローブ林が消えているのは、同じ場所の1970年の撮影。ここは、1965年に撒布された。(AP写真)

見えない傷

アメリカの退役軍人が現在除草剤関連の病気で受けている補償は、長くて、過酷な戦いの末にやっと得られたものだ。その闘争の中では、科学と政治の境界線がしばしばぼやけたのである。

問題の一部は、退役兵士が目に見えない傷を負って帰還していたということだった。心的外傷後ストレス障害を含む戦争関連の病気としての認知と補償を受けるための闘争は、すべての戦争の復員軍人のために、ドアを開けることになった。

「現在の兵士が現在受けているより良い手当ては、ヴェトナムで戦った先輩兵士のおかげだ」と、ステルマン氏は言った。

新しい科学的研究、政府出資の研究において、不撓不屈な各種調査、政治的干渉のあった調査、化学会社に対する退役兵士の集団訴訟での1億8000万ドルの和解などが、1991年のエージェント・オレンジ法へと道を開いた。

その法案の成立によって、ベトナム退役軍人が補償されうる「推定的疾病」のリストを作成した。それは、全米科学アカデミーに対して、除草剤の中に見つかった化学製品の研究を見直し、2年毎に、追加をリストに推薦するように義務付けたのである。枯れ葉剤への曝露がどちらかと言えば人の危険を増すことになっているならば、疾病または先天性欠損症はリストに勧告される。

それ以来、アメリカ復員軍人省は、女性復員兵士の子供たちで、17の先天性欠損症だけでなく、15の疾病も加えた。

しかし、退役兵士のグループは、男性復員兵の子どもに多数の先天性欠損症が関連している可能性があるので、さらに12以上もの疾病が枯れ葉剤と関係していることがありうると主張する。

疾病の追加が遅々として進まない一つの理由は、復員軍人省が復員兵士のより幅広い疫学的研究をしないで、職場での曝露や労働災害など外部の研究に頼ってきたからだ。アメリカ議会が疫学的研究を最初に求めたのが、1979年だった。長い間、復員軍人省は、曝露の度合いを測定する方法がなかったので、復員軍人に関する枯れ葉剤の影響の研究ができなかったと主張している。

しかし、コロンビア大学公衆衛生学部のステルマン名誉教授によると、その弁解は、もはや通用しない。

彼女の夫であるスティーブン・ステルマン疫学教授とともに、彼女は(アメリカ軍による)撒布飛行の包括的なデータベースを編集して、それを駆使して、医学研究所(健康政策に関する勧告が復員軍人省の意思決定を影響を与える医学専門家独立委員会)から二回も神聖視された曝露モデルを開発した。

復員軍人省は、2003年に、諮問を受けながらそのモデルを採用すると言った。だが、復員軍人省は、いまだに評価中なのである。

「私は、それを精力的に追求してこなかったことに驚きを禁じえない」と、デイビッド・サヴィツ博士(同省の再検討委員会の議長を勤めたニューヨーク市のマウント・サイナイ医科大学医師)は言った。

9月(2009年)には、復員軍人省は、ベトナム退役軍人の健康に関する広範な3年間の研究結果を発表した。だが、エージェント・オレンジのような、枯れ葉剤に焦点を当てたものではなかった。ベトナム戦争が終結して30年以上経過して、その計画は、政府が単に彼らの死を待っているにすぎないと思う多くの復員兵士がいるようになった。

ベトナム退役軍人で、”アメリカ・ヴェトナム復員軍人会”のポール・サットン前議長は、「復員軍人省の呪文は、遅延、遅延、彼らが皆死ぬまで遅延だ」と、非難している。

エリック・シンセキ退役将軍(現在復員軍人省長官)は、復員軍人省と元兵士の対立関係を認めた。シンセキ長官は、戦闘中に負傷した経験があるが、国に貢献した人々のために擁護者以上のことをしたいと誓っている。

国会議員は、エージェント・オレンジ調査が遅れれば遅れるほど、損失経費につながると言っている。

「私は、復員軍人省が本当の答えを知りたがっていると思わない。財政的経費は、高くつくので、誰もが怖がっているんだ」と、共和党のボブ・フィルナー(カリフォルニア州選出)、下院復員軍人問題委員会委員長は言う。

ジェイソン・グロット記者(ベトナム取材); ティム・ジョーンズ(インディアナ州取材)〔パート1終わり〕Posted by Picasa

2010-01-02

トリビューン紙パート1(上)

皆様、あけましておめでとうございます。
昨年は、多くのご支援をありがとうございました。
今年も、また、ベトナムの方々の助っ人なりたいと考えます。気高き独立峰富士を仰ぎながら、決意を新たにしている次第です。皆様のご協力をお願い申し上げます。

これは、元日の三島から見た富士の勇姿です。すばらしいですね。少し雪が少ないように思いますが、気のせいでしょうか。これは、三島市在住の櫻井直人さんの撮影によるものです。使用許可、ありがとうございました。

さて、年明け早々、来年の話も妙ではありますが、来年は、枯れ葉剤がベトナムに撒布されてから50年の節目を迎えます。ダイオキシンの半減期は17年とかされておりますが、いまなおベトナム中部や旧米軍基地周辺では強力なダイオキシンが猛威を振るっております。

そこで、最新情報を、シカゴ・トリビューン紙がほうどうしております。最近では、一番しっかりした報道と確信します。

不定期になりますが、できれば、10回にわたって、翻訳を掲載したいと考えます。
ご笑覧いただければ、幸いです。

             ぁけぉめ☆m(_ _)mことょろ\(^0^)/

パート1(上) エージェント・オレンジの致死的遺産:
         それはアメリカにとって無視の記録

アメリカ、ヴェトナムで、有毒枯れ葉剤は未だに死者を出しつづけている・・・

C-123型機による枯れ葉剤撒布飛行

【写真の説明】米空軍提供の写真。1965年9月撮影。旧南ベトナムのベトコン陣地がある思われる地域の上空で、液体枯れ葉剤を撒布する「ランチハンド」作戦参加の4機のC-123航空機。密林の上空を、特別装備の4機で、1,000フィートの幅で撒布飛行を行った。

シカゴ・トリビューン紙調査のパート1では、米政府当局はちょうど健康障害が拡大しているときですら、長期的に続く問題を無視してきたことをお伝えする。

アメリカ中部インディアナ州では、2人の姉妹が、来る日も来る日も苦しんでいる。姉妹は脊髄疾患で、脳が脊髄にくさびでとめられるような痛みを伴う状態だ。2人はいま、30年代。しかし、姉妹の体の機能はゆっくりと弱体化している。

アメリカから数千マイル離れたヴェトナム。水田に囲まれた家で、一人の娘の脳脊髄液がもたらす発作からの痛みでのたうつ時に、父親は、その19才の娘を押さえつける。彼女の脳髄液は、この4年で4回も抜き取った。

「医者は、『気の毒だが、自分達では娘さんを治療することができない。娘さんを自宅に連れて行ったほうがいい、この先それほど長くはないですから』、と私に言った」と、父親は話す。

これらの女性は、8,300マイル以上も離れた国の、異なる文化から生まれた。彼らの父親はベトナム戦争を、それぞれ反対側で戦った。しかし、(第2世代の)彼女らは、数十年前アメリカ軍が撒布したエージェント・オレンジと他の枯れ葉剤の頑固なまでの戦争遺産によって結ばれている。

人工物では、現在、最も有毒であるとされる化学物質のダイオキシンに汚染された枯れ葉剤は、複数のガン、先天性欠損症と他の疾病の高率の発症と関係している。これらの疾病が、アメリカのの復員軍人とその家族の金銭補償の劇的な増大に貢献しているのだ。

ベトナム退役軍人への兵役関連の障害支払いは、2003年以降60%の急増をみせ、昨年にはついに137億ドルに達した。そして、今では、その額はアメリカ復員軍人省がすべての戦争の復員軍人に支払っている金額の半分以上を占めるに至っている。ヴェトナム戦争復員軍人への平均的補償支払いは、第二次世界大戦時の復員軍人に対するものより41%多く、朝鮮戦争に従軍した復員兵士より35%多い。それらの障害への支払いには、ベトナム退役軍人の健康管理に費やされた数10億ドルを含まれていない。

退役兵士が晩年を迎えていることと、その2世の病気も発見されて、科学者がダイオキシンの影響についてより学べば学ぶほど、その支払いは段階的に増えていくだけと見られる。この9月には、さらに3つの疾病が復員軍人省が補償する病気のリストに加えられた。その疾病の追加により、およそ20万人の退役兵士が対象となり、年間およそ数十億ドルの追加支出となると、同省は推定している。

一方、ベトナムでは、戦争中には生まれてさえいなかった人々を含む、莫大な数のベトナム人が、また、枯れ葉剤関連の疾病を患っている。さらに数万人が、今日も、数多の旧アメリカ軍基地の環境に残留したままのダイオキシンから、危険にさらされている。

それでも、エージェント・オレンジが公式に健康の潜在的脅威と認められて30年も経過しているが、アメリカ連邦政府は軽視の連続記録を伸ばしてきた。

【写真説明】ドー・ティ・ハンさん(19)の発作が起きると、父ドー・ドゥック・ジウさん(58)は怪我をしないようにと床に寝かせつける。ハンさんは、脳に溜まる脳髄液が起因して発作を起こす。その発作は、父親ジウさんのエージェント・オレンジの曝露と関係がある。

病気の補償を求めているアメリカの退役軍人は、遅れと腹立たしい官僚機構と向き合っている。枯れ葉剤がどのように退役兵士の健康に影響を及ぼしたかという大規模な研究の要請にも応じなかったことも含めて、連邦政府はエージェント・オレンジの全面的な影響について、決してとことん真相を究明してこなかったことが、彼らの欲求不満をいや増している。

ヴェトナムでは、子供たちが、エージェント・オレンジが起こした悲劇の歌を歌う。そして、米越両国が貿易と軍事関係の強化を促進するときですら、ベトナム政府役人は、化学物質がもたらす健康と環境の荒廃について、アメリカが避けて通ることができるのだろうかと思っている。

ベトナム当局は、ヴェトナムにおける枯れ葉剤剤関連の問題に対処するには数千万ドルかかるとはいっているが、1995年に両国が国交正常化して以来、アメリカ議会は、ちょうど600万ドルを割り当てた。これに対して、慈善組織であるフォード財団は、エージェント・オレンジに焦点を当て、1170万ドルを提供している。

調査取材のために、同財団からの援助で、トリビューン紙は、1ヵ月かけて、ヴェトナムの8省へ取材旅行をした。その中で、枯れ葉剤に曝露したと言う一般人と旧兵士ほぼ24人にインタビューした。

弊紙は、彼らの話を補強するために、全撒布飛行、地図のソフトウェアとGPSのデータベースを使った。そして、アメリカ国内では、弊紙は、数千ページに及ぶ政府文書も研究し、影響を測定して、ドル価と人間の惨めさの双方でコスト評価をするために、旧兵士の自宅訪問も行った。

エージェント・オレンジと他の枯れ葉剤が直接の病気原因だということに、一部の科学者は依然懐疑的である。しかし、戦争終結後に完了した何百という独立した研究では、除草剤に曝露した人々には病気(例えば軟部組織肉腫と非ホジキンのリンパ腫のような病気)にかかる危険性は高いという強い証拠がある。枯葉れ剤関連の疾病数は増え続けている。

イラクとアフガニスタンでの戦争が長引いているとき、太平洋を挟む両国での枯れ葉剤をめぐる長い論争は、戦争でしばしば予見できない結果になるということを想起させる。

「ベトナム退役軍人に何が起きたか?という質問に対する答えを、われわれは知らない」と言ったのは、米国在郷軍人協会と全米科学アカデミーのためにエージェント・オレンジを何十年も調査してきた伝染病学者のジーン・ステルマン氏だ。「政府は、この研究をすることを望んでいない。なぜなら、化学戦争にまつわる国際的責任と問題のためだ。そして、政府は、勝つつもりでいる。なぜなら、政府は組織が大きいし、(被害者の)誰もが老齢化しているし、気になる新しい戦争がおきているから」

致命的な防御

冷戦が荒れ狂い、アメリカが至る所で共産主義の脅威に悩まされそうだったために、アメリカ軍は1961年に南ベトナムで枯れ葉剤の撒布を開始した。南シナ海を抱く細長い小国ヴェトナムは北を支配する共産主義者と、半分に分割された。民族主義指導者のホーチミン率いる共産国家は、アメリカが後ろ盾になった南ヴェトナム共和国を倒すことでベトナムの再統一を模索した。

アメリカと戦っていた北の軍隊の最大の財産は、南ベトナムの景観であったかもしれない。山岳地帯、広がる水田と密林に垂れ下がる3倍の天蓋のジャングルは、敵と一般人の区別がつきにくい戦場を覆い隠した。

その緑のおかげで、北ベトナム軍は、侵略と再供給を可能にし、分厚い生殖の中に溶け込めることができた。その一方で、地域の支援者が栽培した食物のおかげで生きていくことも出来た。

発作の子ども抱くホイさん。だが、この子も亡くなった。
アメリカは、敵を保護している自然の要塞の破壊を狙って、化学物質の枯れ葉剤で反撃した。10年以上にわたって、アメリカと南ベトナム人軍隊は、東南アジアにほぼ2000万ガロンの除草剤を撒いた。撒布面積は、ミシガン湖の4倍に相当する広さである。撒布のほとんどの任務は、南ベトナムで行われた。しかし、カンボジアとラオスの国境地域にも撒布された。
最も広範に使用された除草剤はエージェント・オレンジであったが、残りの半分の薬剤は、エージェント・ホワイト、エージェント・ブルー、エージェント・パープル、エージェント・ピンクとエージェント・グリーンであった。それらのうちのおよそ65%は、TCDD(毒性の高いダイオキシン)に汚染されていた。一方、百万ガロン以上のエージェント・ブルーにヒ素が含まれていた。

国立衛生研究所の調査研究が、合成物のいくつかに見つかった化学物質を使って行った実験動物でも、先天性欠損症を引き起こしたことを示したため、アメリカ軍は1970年にエージェント・オレンジを使用中止した。まもなく、アメリカの公衆衛生局長官は、2,4,5-Tというダイオキシンに汚染された合成物の国内使用を停止させた。

その翌年も、限定的な撒布作戦活動はベトナムで続けられた。しかし、ダイオキシンを含まない化学物質のみが使用された。ランチ・ハンド作戦と知られる除草剤撒布計画は、公式に戦争が終結する4年前の1971年に中止した。(下に続く)Posted by Picasa