2007-07-28

會安(ホイアン)を語る(3)

 17世紀初めに日本人通りが形成されたところは、こんにちのグエン・ティ・ミン・カイ通りと、日本橋近くのチャン・フー通り一帯だった。

 グエン朝が日本と接触した最大の目的は、武器と武術の輸入にあったとも言われる。日本はポルトガル人から、技術を習得し、銃の製造をしていた。グエン朝は、武器もさることながら、当時のベトナム人と似た体格をもつ日本の侍の武術にも大きな関心をもっていた。


1636年にグエン・フック・ラム(阮福瀾)の第3代領主継承に反旗をあげた異母兄弟のグエン・フック・アイン(阮福暎)が動員した軍事力は、日本人だった。

そして、日本商人を、グエン朝で管理部門に抜擢したりした。

1651年、ホイアン(会安より、正しくは會安を使うべきか?)を訪問したオランダ人であるデルフ・ハーフェンの記録によれば、60人の日本人が住んでいたという。

しかし、1651年の60人は、徳川幕府の鎖国政策でホイアンに定住した日本人ががた減りした時の数字であろう。日本人が一番多く居住した17世紀初頭の数字は定かではないが、千人以上いたと見られる。

日本人商人たちがホアインで買った主な商品は、黄絹、北絹、紗陵(?)、伽沈香、鮫皮、黒砂糖、胡椒、金などだった。

一方、日本がホイアンに持ち込んで販売したものには、銀、鉄、鉄砲、銅、日本刀、柚、薬剤、木綿、据風炉(お茶用の道具か?)、傘、銭などだった。


1610年代の後半からホイアン行きの「朱印船」がめっきり減って、1637年、ついに鎖国政策が施行されるに及んで、日本人の姿は一気に減った。

代わって入ってきたのは、中国人とポルトガル人だった。1695年にホイアンを訪問した中国の僧侶大汕(だいさん)の外国描写の中に、当時全く保護も受けずに暮らしていた4~5世帯の日本人を目撃したという内容があるという。
中國評論學術出版社の書籍 <鄭和下西洋與廣東商人的海外移民>の中に『清人大汕和尚稱:“大越國會安府者,百粵千川,舟楫往來之古驛;五湖八閩,貨商絡繹之通衢”。 ..... 當時暹羅社會由國王、僧侶和遺族官僚・・』と、清人大汕和尚の名が見られる。

日本人の墓石
こんにち、日本人の存在を伝える遺跡は、日本橋の他には、わずかな日本人墓石だけだ。

ホアインの中心から1キロほど離れたはずれの水田の中にある谷弥次郎兵衛と彫られた墓石と、民家の庭の一角に墓がある藩次郎の墓石がみられるだけで、茶屋新六や角屋七郎兵衛ら当時の日本商人が活躍した跡は、今はない。

日本は、壬辰の乱(日本では“文禄の役”)の時に朝鮮の陶工を連れてきて、日本で良い陶磁器の生産をするようになった。国内で綿布の生産が確立したために、中国絹の需要に取って代わった。そして、日本は、17世紀末ごろには、貿易代金の支払いに充てていた銀の埋蔵量が底をつき、外国商品の輸入が難しくなった。

1567年に解禁政策が解除され、南海貿易が自由になると、中国商人はベトナムに進出した。中国商人は、絹、陶磁器などを運んできて、ベトナム産の塩、桂の皮、金などを購入したほか、東南アジアの各地域をまわりながら、各種商品の売買を行った。中国の政策で日本船舶が中国に入港が出来なかったために、中国人は、ホイアンで日本商人と取り引きを行ったのである。


ホイアンから日本商人が姿を消し始めた頃、中国人のホイアン進出はさらに増えた。

そして、17世紀中盤で、中国大陸では明が清になると、清の圧迫をうけて多くの中国人がホイアンに移住したのである。また、鄭成功父子(註2)、台湾と福建省の沿岸地域を拠点に反清復明運動を継続したために、ホイアンは、反清復明集団に食糧と軍需物資を供給する特需景気になった。

中国人は、通りに独特の中国人通りを形成し、「明郷(ミン・フオン)」と呼んだ。

中国人がホイアンに最大に居住した時の規模は、5000~1万と推定されている。クリストポロ・ボリの『コーチンチャイナ』に、「日本人と中国人の町にはそれぞれ首長がいて、住民たちは各自の風俗習慣を守ったまま暮らしている」と記録されているという。

ホアインの中国人が、長い年月を経ても、結束とアイデンティティを失わなかったのは、出身地による「幇(パン)」という同郷同胞の連帯組織や会館を作り、相互扶助を行ってきたからだ。華僑社会の成立である。

1644年清によって明が滅びると、明の難民は、ホイアンやメコンデルタにたくさん移住した。”明”末期の動乱で中国人の海外流出が急増。原因は人口過剰とそれに伴う貧困化。ヨーロッパによる東南アジアの植民地化が進むと、西欧人と土着民の間に立って流通経済に進出。18世紀末からホアインでは、絹と陶磁器貿易が衰退し、中国人の大きな需要は乾燥農水産物へと移っていった。

日本橋
ホイアンを代表する歴史遺跡をあげるなら、日本橋(Cau Nhat Ban)である。この日本橋は、チュア・カウ(Chua Cau)とも呼ぶ。これはパゴダの橋という意味だ。

或いは、來遠橋(Lai Vien Kieu)と人は良く呼ぶ。この「らいえんきょう」という呼び方は、ベトナム語にかいたライ・ヴィエン・キエウという発音に非常に近いことが分かって貰えると思う。

よく日本語の案内書やブログには、日本橋をチュア・カウと書いているが、これは全く間違いだ。チュアは寺の意味であり、あくまでも寺付きの橋なのだ。

チュア・カウと呼ばれている所以は、橋と寺院の機能を兼ねているのだ。日本橋の長さは18メートル、幅3メートル、側面7間の構造物だ。橋が建設されて、半世紀後に付属寺院が建立された。

來遠橋と呼ばれるようになった所以は、グエン朝の6代目の王グエン・フック・チュー(阮福口)が、1719年にホアインを訪れ、日本橋を來遠橋と名付けた。《論語》の「学而」に、「有朋自遠方來 不亦楽呼」(「友が遠くから尋ねてくれば、これもまた楽しいことではないか」)から取ったと言われる。

日本橋は、ホイアンの遺跡の中でも実によく保存された物の一つで、名実共にホイアンのアイコンである。

ホアインの観光案内には、日本橋の建設時期を1593年とか1637年と書いてあるのもあるが、正確な建築年度は分かっていない。日本橋の建設を16世紀末、17世紀初頭、17世紀中葉と大きく3種の学説がある。

日本人商人が最高に来ていた時期を考えると、17世紀初期の可能性が一番高いと言える。

橋の袂の門の上には、「来遠橋」という名札が掛けられている。
寺の中には、道教の神が祀られている。それは「バック・フオン・チャン・ヴォーダイ・デー」(Bac Phuong Chan Dai De=北方真武大帝)だ。真武大帝は、北方を守護する神で、玄武大帝とも称して、清龍、百虎、朱雀とともに四方を守護する神だ。真武は、本来なら玄武なのだが、宋朝廷に趙玄郎という名前の始祖がいて、「玄」という名を使えなくなり、真武になったという。

もともと、日本橋は地震を起こすク(Cu)という化け物を退治するために建てられたと言われる。

クは、ベトナム人の呼び名で、中国人は蛟龍、日本人はナマズという。

クはしっぽで地震を起こすのだが、頭はインドに、身はホイアンに、しっぽは日本にあるといわれた大きな化け物だった。この化け物の胴体の部分に橋を建て、寺に「北方真武大帝」を祀ることで、地震の源の化け物の力を押さえ込もうと考えたと言われる。

日本橋の棟上げを祝う文章と寺の中にある碑文によれば、1653年、1763年、1817年、1865年、1915年、1917年、1986年にそれぞれ改修している。現存建築様式には、18世紀と19世紀の建築様式が見られる。

日本橋の両方の袂には、猿と犬の像がおかれている。戌年生まれと申年生まれの日本の天皇が多く、猿と犬を崇拝するために建てられたというまことしやかな話が伝えられている。日本橋建設の着工の年が戌年に始まり、申年に完工したからだという話もある。こちらの方が、もっともらしく聞こえる。猿と犬の銅像は、当時日本橋を建設した人々には意味があったはずだが、その正確な目的が未だ分かっていない。

まさか、「犬猿の仲」という日本的な感情を表す物でもあるまい。(つづく) Posted by Picasa

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