2006-04-25

音楽療法士としてベトナムへ


新谷文子の”さわやかいっぱい音楽療法”
2005年10月9日、成田からベトナムに向かいました。縁あって、数年前から私は、“愛のベトナムさわやか支援隊”(三島市)のツアーに参加しています。

しかし、今回の私の「愛の都市訪問」は、いつもと違っていました。私は、昨年の1月に、静岡新聞社・静岡放送 社会福祉事業「愛の都市訪問」で、立派な楽器などの受贈の栄に浴したからです。その楽器をもって、昨年10月初めて「愛の都市訪問」を果たしました。訪問先は、収穫期を迎えたハノイ市とタインホア省でした。枯れ葉剤の被害者のために・・子どもたちのために音楽療法を施したかったからです。そのためのベトナム旅でした。
 
10月10日(2005年)、私は、自称30代。本当はXX代。元気いっぱいハノイ・友好村の講堂に立ちました(写真上)。多くの子どもたちに混じって、壮年もかなり参加しました。その数、合わせて100人以上。 いや、負けてはいられません。

この友好村は、ベトナム戦争でアメリカが使った強力な枯れ葉剤の被害を受けた人たちが収容されている施設です。ここにいる壮年は、元兵士であり、子どもたちはその第2世代です。身体障害児もいれば、精神障害の子どもたちもいます。早速、楽器で音楽療法を始めました。最初は、椅子に座ったまま手を動かせる運動。後半は、椅子を片づけて、教室を広場にしました。普段あまり動かさない体を一所懸命動かしてくれる障害児。それも楽しそうに、参加してくれていました。

音楽はすごい力です。1曲終わる毎に、子どもたちの顔が輝いていきます。1曲始まる毎に、体が自然に動いていきました。私の疲れはこれで吹っ飛びました。1曲聞くたびに、元兵士の顔が子どもの顔になっていく。音楽には、年齢の垣根を壊す大きな力が働いていきます。

ハンドドラムをもった障害の子、シェーカーを鳴らす精神障害の男の子と女の子たち。タンバリンを振る元兵士。スズを鳴らす組、カスタネットを初めて手に付けてもらう子。トライアングルを離さない男の子。たっぷり1時間ちょっと。へとへとになって座り込む子は誰もいません。動けば動くほど元気になり、力が出てきます。そのうち、ある障害の子が、車いすに乗ったまま輪の外でみていた子を、輪の中まで押してきました。


音楽療法を始めて1時間ちょっと。誰も、止めようとは言いません。誰も、へこたれません。参加してくれた子どもたちの健康を考えて、「はい、これで終わりです」と言ったのは、私でした。友好村の養護教諭が飛んできて下さいました。「子どもたちのこんな顔を見たことはありません」と。「いやー、楽しいね」と、笑顔でぐしゃぐしゃになった元兵士。戦場ではついぞ見せなかった顔でしょう。頂いた楽器の、初の海外旅行の一場面です。

昼食を挟んで、午後は、平和村に向かいました。
われわれ支援隊が一番長くおつきあいしている収容施設です。2年ほど訪問しないうちに、馴染みになった児童・少女たちは、ほとんどいなくなっていました。子どもたちは、講堂で1時間も待っていてくれた、と聞きました。友好村より狭い講堂で、人数は50人ほど。

ここには、友好村と違って旧軍人はいません。全員が子どもたちで、全寮制のこの施設に泊まり込みます。。粗末なベッドに粗末なゴザしかありません。寒い冬には、ほんとうに気の毒です。中には、デイーサービスで子どもを連れてきた通いの親もいました。発育が止まってしまった20歳近い女性。顔に黒い斑点ができた色素異常の少女。その子が、上手な歌を歌ってくれました。

午後3時頃から、音楽療法を開始しました。突然、一番前で母親に抱かれていた障害の乳児が、音楽に合わせて足を動かし始め、母親が脇をもってぶら下げると、床にジャンプするように音楽に反応しました。母親のうれしそうな顔が忘れられません。最後は、太鼓を使って、前進したり、戻ったり・・の運動をしました。男の先生一人、女性の先生二人の養護教諭三人が参加してくれました。子どもたちと同じくらい楽しんでくれた養護教諭。全員参加で、まるでディスコのようでした。

平和村は、1990年にドイツのNGO団体が作った施設で、現在までにベトナム全国に10か村あります。しかし、ハノイが一番古いです。音楽療法後に、グエン・ティ・タイフォン理事長と懇談しました。

いろいろな団体が来てくれるが、音楽療法をしてくれる人はいないということで、大変に感謝されました。特に、「音楽の効用は理解していて、なるべく音楽を使うようにしていますが、やはり専門家がいないこともあって、思う通りにいきません。来年は、もっと音楽を取り入れたいです。子どもたちの顔をみて、今日は満足してくれたと確信しています」と話されました。

翌11日、私たちは、チャーターしたバスで、タインホア省のタインホアに向かった。ハノイの南170キロの所にあります。タインホア省立孤児院に待つ子どもたちへの音楽療法です。
午後2時頃到着しましたが、児童の学校からの帰りを待って、先に孤児院の理事長たちと懇談しました(写真下)。

この日、始まる直前から私の体調は悪かったのですが、力を振り絞りました。ここで負けてはならない、と。子どもたちが1年間待っていてくれたのですから。2階の講堂にある椅子を片づけて、め一杯の広さを使いました。健常の子ばかりだからです。親がいなくても、みな明るいです。「今日は、もっとみんなを明るくしてあげたい」との気持ちになりました。

講堂の中央にあるホーチミンさんの胸像の前で、まさに盆踊りにも似た賑やかな音楽療法になりました。日本から参加した人の中には、頭に白いタオルを巻いてリズムに合わせた大釜会長さん。ホーチミンさんも、驚いたに違いありません。3人が輪をつくる、ある時は4人が輪を作るゲーム。昨年も好評でした。太鼓の数に合わせて手を叩く。右の組と左の組でリズムを変える。いつも自ら率先して参加してくれる女性の所長さんも楽しそうでした。

乳児を抱いたお姉ちゃんも、輪の中に入りました。この乳児が、捨て子だと聞いてショックを受けました。いい音楽を聴いて、何にも負けない子に育ってほしい・・・と願いました。
収容の子どもは60人ですが、17名が、ハノイに送られて専門教育を受けていると聞いて、安心しました。

43人の児童・生徒たちへの音楽療法は、1時間以上続きました。正確に私の言葉は通じなくても、音楽という世界共通語で相手に伝わるという確かな感触を得た。

音楽療法が終わって、ふと、講堂の入り口で、一人の女の子が紙をもって立っているのに気づきました。紙を見ると、静岡県三島市の方の住所が以前に書かれた紙でした。彼女は、その住所をくれた人が、今年も来てくれると思って待っていたのでした。私は、「今年は来ていない」という意味で、手をよこに振った。無言の手振りは通じました。国境を越えた友情を、彼女は、この1年ずっと持ち続けてくれていたのでした。私は、日本語で「がんばってね」と言って励ましました。

わが“愛のベトナムさわやか支援隊”は、この孤児院で、毎回私たちが訪問する日に、子どもたちにスペシャル・ディナーをご馳走しています。昨年は、炒めたエビ、揚げ春巻き、肉入り野菜炒めが、メインでした。なんだ、と思われるかもしれません。普段は、こんなものは食べられないのです。ご飯に一汁一菜です。お客さんになってしまった私たちが箸をつけるまで食べない子どもたち。今の日本ではあまり見かけない光景をみました。食べ終わると、お茶を運び、爪楊枝を差し出し、ミカンの皮を少し剥いて食べやすいようにしてくれたカイ君という少年。皆、いい子でした。

翌日、ニンビン省の559部隊旧女性兵士たちに、車いすの贈呈と枯れ葉剤の被害者の極貧家庭の在宅訪問をして、ハノイへの帰途に着きました。私は一行と別れ、一人で日本に向かいました。

来年も、ここにきて、より多くの人を励ましたい・・と誓ったはずの自分が、実は励まされていることに気づきました。今後とも、音楽とこの楽器を通じて慈悲の心で他人へ尽くしていこうと心に誓いました。その行為の中に、自分を磨いていく鍵が隠されているのです。その名も、愛のベトナムさわやか支援隊でした。

皆さん、たくさんの楽器をありがとうございました。これからも、多くの人々に健康と平和と友情を配達してまいります。(了)
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2006-04-24

枯れ葉剤 新たな法廷闘争

国際弁護士 エージェント・オレンジ被害者への強い支援を約束 
 (2006年2月22日) 出典:ベトナムニュース通信

外国人ベテラン弁護士が、22日、アメリカ化学企業への訴訟で、ベトナムエージェント・オレンジ被害者の支持を強く訴えた。

「訴訟は被害者に勝利をもたらすだろう。それは、強力な議論だけでなく、説得力のある明白な証拠によっても後押しされるだろう」と、ジテンドラ・シャーマ国際民主弁護士協会会長は、3日間におよぶ、枯れ葉剤被害者訴訟支持について行われた会合後開かれた記者用のブリーフィングで語った。

同訴訟の勝利のために最大の努力を約束した同会長は、また、「ベトナムは同協会加盟の96カ国から強力な支持を得られると思う」と述べた。

シャーマ会長は、戦争中に撒布された除草剤によって、アメリカ軍はベトナム人民に深刻な危害を引き起こしたと繰り返し述べた。「エージェント・オレンジ/ダイオキシンの結果生じた直接・間接の被害者は、補償を受けなくてはならないし、アメリカ化学企業は、補償する義務がある」と、彼は強調した。

シャーマ会長は、3月に、同協会は、ベトナムのエージェント・オレンジ被害者の生存権が侵害されてきたとして、国連高等弁務官事務所に書類を提出することを明らかにした。

一方、同弁護士協会のジーン・ミラー事務局長は、「この訴訟において、アメリカの法廷でベトナムのエージェント・オレンジ/ダイオキシンを代表することを名誉だ」と語った。患者と会い、苦悩を確認した後、彼女は、「自分は被害者と家族に起きていることを知らんぷりは出来ないし、ベトナムが被害者に対してとってきた多大な努力と真心のケアを忘れることはできない」と語った。

ジーン・ミラー事務局長は、エージェント・オレンジ被害者調査のためにこれまで3度訪問している。アメリカの化学企業に対するベトナムのエージェント・オレンジ/ダイオキシンの被害者訴訟応援の準備のために尽力してきた。

日本のJuriko Moto(日本名不明)教授は、エージェント・オレンジ/ダイオキシンの結果について、それを非難するだけでなく、その化学物質が、いまだにカナダでも使用されているので、これ以上の使用阻止を目的として、世界に伝えていくことは必要だと語った。

国際民主弁護士協会は、ベトナム人のエージェント・オレンジ/ダイオキシン被害者に多大な尽力をしてきた。8年前に、同協会は、その問題で発言した。2000年には、同協会は、ベトナムにおけるアメリカのエージェント・オレンジの使用を非難する最初の決議を採択した。

2002年には、同協会は、ベトナム人エージェント・オレンジ/ダイオキシン犠牲者の訴訟を支援する研究チームを発足させた。そして、同協会は、訴訟のために有名弁護士を提供した。2005年6月に開かれた会議では、57カ国から参加した500人を越える弁護士が、ベトナムのエージェント・オレンジ/ダイオキシンの訴訟を支持する決定を採択した。

ベトナム・エージェント・オレンジ/ダイオキシン被害者協会によれば、ベトナムは、3月22日に法廷に討議資料を送る予定であり、3ヶ月後にニューヨークで控訴の法廷で討論を行う予定である。(訳:北村 元)

2006-04-21

ベトナムの動く市場

商品を一杯積んだベトナム・ハノイの『歩くスーパーマーケット』。ハノイのどこでも見られる風景である。『歩くスーパーマーケット』は、天秤棒で担いで移動する場合もあれば、自転車に乗せたり、商品を入れた籠を手に持ちノン(日本の菅笠)をかぶって移動する人、中には、商品を入れた籠を頭に乗せて売り歩く人もいる。

なぜ、あなたはお店に買いにゆくのですか? お店の方からやってきてあげるのに!!と言わんばかりだ。メール・オーダーやインターネット・ショッピングは、ここではまだまだ先の話だ。

人が激しく行き交うハノイの早朝の喧噪の中に、いつもながらのありふれた姿がある。パン、野菜、ミカン、リンゴ、婦人の下着、トイレット・ペーパー、ドアマット、お線香、神棚に捧げる紙の供え物。中には石炭、などを売り歩く。やがて、早朝の時間が過ぎると、物売りの姿は、プラスチック製品、陶器、布団、卵、花、ゴザ、すだれ・・等に変わっていく。選択には困らない。

多くの売り子が、一日何回も同じ道を歩く。巡回といった方がいい。縄張りがあるのかも知れない。もっと特別な物、例えば、鹿の枝角とか帽子の行商人は、買い手を求めてより広い範囲を売り歩くので、それほど頻繁には来ない。商品を積んだ自転車は、道路でよくひっくり返る。それは単純に、1回の出動で、たくさんの物をうるために積載荷重となるからだ。

買いたい物を売る行商人が来た時は、「エム・オーイ」と言えば止まってくれる。一番買いやすいのはパンだ。2千ドンとか3千ドンで買える。他の物を買う時は、値段の交渉をするのが普通だ。

パンの利益はほんのわずかだ。行商人の売上げ利益は、一日平均で2万5千ドンからそんなものだ。恐ろしく利幅の少ない仕事なのだ。それを値切るのは心苦しいものがあるが、売り子が外国人だと足下をみることもあり、ふっかけられてはいけないと、こっちも必至になってしまうこともある。

利幅が少ないうえに、行商人の多くはハノイの近郊から出かけてくる。多くの場合、自宅の農業の副収入として欠かすことの出来ない収入である。だから時として販売するものは、自宅の農家で出来たものであったり、自分の手作りの物であったり、ハノイ近郊の夜の市場で安く買ったものを転売するのである。

歩く市場の歴史は、1010年に誕生したハノイと同じくらい古いと言われる。ハノイ市は、都市を取り巻く村々の中で成長拡大していった。それらの村は、村毎に特徴を持ち、その特徴はいまも失っていない。やがて、それは住宅街と商業地区にわかれていくのだが、陶器、竹細工、衣類、薬草などを売る区域がハノイ城の中に出来上がっていく。

これらの特徴をもった区域は、いまでもフォー・フオン(Pho Phuongハノイの旧市街)に見られる。竹屋通り、紙屋通り、鍛冶屋通りなどである。さらには、チャン・カム(Chan Cam)という所は弦楽器を売り、ハン・バック(Hang Bac)は銀製品を売り、ハン・チウ(Hang Chieu)はゴザを売る、といった具合だ。炭を買おうとするならハン・タン(Hang Than)に行けばよいのだが、なんと時代の移り変わりで、ハン・タンではウエディング・ケーキを売るようになってしまった。黒い物から白い物に、商品が変わってしまった。

移動市場が未だに絶えないのは、人々が自分の店や仕事場を管理しなくてはならないからだ。ショッピングの時間が少ない事が挙げられる。そして、もう一つの理由は、ベトナムの伝統的な建物の構造と生活習慣による。ベトナムの建物では、三階建ては少ない。最近でこそ3階建ては多くなってきたが、多くは、細長く奥行きが深い。

居間と台所は、大抵のばあい道路に面した地上階にある。気候が暑いのと狭いスペースのため、生活はすべて横丁の通りか表通りに面した所で行われる。それが故に、移動市場の行商人が客と接触しやすかったのである。

しかし、残念なことに、行商という商売の形態に
は先がみえてきた。都市の人口が増えて、高層の建物が増えてくると、都市での歩く市場はそう長くは続かないだろう。だが、当面は、軒先で待っていれば、移動市場はどこかからか来て、どこかに去っていく。欲しい物が来るまで待てばいいのだ。あなたが急いでさえいなければ。

お急ぎの方は、スーパーに行けばよい。その代わり、袋やバッグ類は持って入れない。それがいやなら、市場に行けばよい。急ぎでなければ、「歩く市場」は、確かに便利なのだ。

2006-04-20

被害者の声に耳を傾けよう

愛の支援隊ツアー ただ今募集中
(詳細は4月12日号をご覧下さい)

下記の国際アピールが、ツアー参加のきっかけになることを切に希望します。

エージェント・オレンジ/ダイオキシン被害者国際会議アピール
2006年3月28日-29日 ハノイ   (訳:北村 元)

われわれ、エージェント・オレンジ/ダイオキシン、及び他の有毒化学物質の被害者は、2006年3月28日-29日にハノイで開かれたエージェント・オレンジ/ダイオキシン被害者国際会議に参加したアメリカ、オーストラリア、カナダ、フランス、ドイツ、イギリス、ニュージーランド、ロシア、韓国、スイス、及びベトナムの科学者、支援者と共に、国際社会へ向けて次のアピールを採択した。

われわれは、ダイオキシンと他の有毒化学物質がに汚染されたエージェント・オレンジが、人間生命と健康に及ぼす影響と、影響を受けた人々の苦痛を討議した。意見交換にもとづき、われわれは次のことを確認する。

1. ベトナムで展開された戦争中、アメリカの化学会社は、枯れ葉剤あるいは除草剤と偽装して、何百万リットルという有毒化学物質を製造し供給した。これらの化学物質には、高レベルのダイオキシンが含まれていた。それらは、全く致命的な物資だった。

2. これらの有毒物質は、環境、何百万エーカーの森林を破壊し、生態系に不均衡を生じさせ、貴重な森林の植生のとどまらず、森林資源の喪失、数種の動物の絶滅に至らしめた。その結果として、洪水、浸食、干ばつのような自然災害がより増加し、南部ベトナム住民の主要な生存源である農業に大打撃を与えた。

3. しかしながら、これらの有毒化学物質の最悪の影響は、それらに被曝した人々の人間生命へと健康に与えた影響である。エージェント・オレンジ/ダイオキシンと他の有毒化学物質の被害者は、以下で構成されている。

a. 解放戦線軍の自宅に住んでいた何百万のベトナム人とその兵士、そして当時アメリカの同盟国だった旧サイゴン政権のために働いた人々とその軍隊。

種々の調査と科学的研究(しばしば外国及びアメリカの科学者の参加を伴って)は、ベトナムの被害者は、各種の重い病気に罹病していることを示している。1994年と1995年に全米科学アカデミー医学研究所がリストにあげたダイオキシン関連の疾病よりもはるかに数が多く、はるかに重い。


加えて、多くの婦人被害者が生殖機能に問題を抱えている。彼女らの多くは、子どもを生む能力と、母になる喜びを奪われてしまった。しかしながら、最大の苦痛は、エージェント・オレンジ/ダイオキシンがすでに次世代の子どもにまで傷をつけてしまったことであり、その次の世代にも同じ影響を与えるだろうということだ。多くの子どもたちは、戦争経験なしに生まれてきているが、体は奇形となり、普通の人間として生きていくべき幸せという単純な経験すら享受できない。

上記の理由で、エージェント・オレンジ/ダイオキシンの被害者とその家族は、社会の中で最も貧しく、かつ最も不幸な人たちに属している。何千という人々が、自分たち自身とその家族への正義もなく死亡していった。

種々の重病に苦しむベトナムの被害者がいるという事実を理解する。というのは、彼らは、エージェント・オレンジ/ダイオキシンが撒布された地域に住んでいたからだ。

.b. アメリカ、韓国、オーストラリア、ニュージーランドの何千、何十万の兵士、将校が、ベトナム戦争従軍中に、エージェント・オレンジ/ダイオキシンに汚染された。その結果、彼らは、重い疾病に苦しんでいる。いくつかの国々は、エージェント・オレンジ/ダイオキシンと他の有毒化学物質の健康への影響を認め、影響を受けた復員兵に医療費などを支払っている。にもかかわらず、他の多くの人々が、その恩恵に浴せず、未だ認知と損害賠償と正義を求めて戦わなくてはならない。

c. ベトナムにおけるエージェント・オレンジ/ダイオキシンに影響を受けた人々とは別に、カナダのゲージタウンや他国の多くの人々が、エージェント・オレンジ/ダイオキシンの使用による疾病を引き起こしている。彼らの状態は、ベトナム人と他の被害者の症状に似ている。そして、それ故に、彼らは、被害者との連帯を示し、正義を求める闘争を表すために、今回エージェント・オレンジ/ダイオキシン被害者国際会議に参加したのである。

エージェント・オレンジ/ダイオキシンと他の有毒物質による汚染は、物理的に健康の弱体化、多くの人の死、家族の幸せの喪失、貧困の人生、奇形を伴った子どもの排除につながっている。そしてこれら有毒化学物質の使用は、国際法違反である。

4.    われわれは、正義とベトナムの現実を一顧だにせず、ベトナム被害者訴訟を棄却したジャック・ウエインシュタイン判事が出した結論に、全く異議を唱えるものである。


5.   われわれ、エージェント・オレンジ/ダイオキシンに被害者とその支援者は、人種、政治的信条に関係なく団結して作業することを確認する。そして、アメリカ化学会社が、法律に明記された通り、社の能力に応じた損害賠償を支払うことを要求する。

6.    われわれは、ベトナム人の エージェント・オレンジ/ダイオキシン被害者が起 
こした訴訟に関して、正義を求める闘争の中で彼らの最終勝利まで支援する。
 
     われわれは、韓国被害者の当初の勝利を祝福する。そして、彼らの最終勝利まで支援を継続する。われわれは、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドのベトナム戦争復員兵の正義を求める闘争を支援する。
    
     われわれは、なお、正義を求めて闘争しているカナダ、及び他の国のエージェント・オレンジ/ダイオキシン被害者を支援する。

7.    われわれは、アメリカ政府が有毒化学物質の結果をうち破れるように貢献する責  任を負うことを要求する。

8.    われわれは、韓国、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ各国政府に、各国の被害者とベトナムにおける被害者に向けての適切な政策を実施するよう求める。

9.    われわれは、各国政府、国際・国内機関、非政府機関に対し、ベトナムにおけるエージェント・オレンジ/ダイオキシン被害者に物質的・精神的に支援を供与し、有毒化学物質の重い結果を乗り越えられるように同国を支援することを呼びかける。

苦痛と苦悩は、唯単に個人個人の問題ではない。
正義を求める闘争は、全世界のためであり、将来の世代のためであり、そして、平和で健康的な惑星「地球」のためでもある。

2006-04-19

ベトナム家族の絆

ただ今 愛のベトナム支援隊ツアー募集中

(詳しくは4月12日号をご覧下さい)


 名前とは何だろう。かつて人々は、氏でひとくくりにされていた。やがて、それは壊され、家族となる。日本は、姓の数が一番多くて10万以上あるらしい。イングランドは1万6千に姓の数を持つ。中国は926,韓国は274だという。
 
 ベトナム最大の民族、キン族は、推定で190から300と幅が広い。正確な数を決めることは不可能だという。同じ姓であっても、必ずしも同じ家系の出身ではないというのだ。その一方で違った姓でも、事実姻戚関係にあることもある。

 姓の改変は、ベトナムでは新しい習慣ではない。歴史上、姓を変えた人の多くの例がある。当局とまずい関係になった人々、例えば反体制派の人、犯罪人などは、しばしば姓を改める。王が新たに誕生すると、前の王の支持者らは追求を逃れるために姓を変える。15世紀レ朝の役人は、マック・ダン・ズン(Mac Dang Dung)とその親戚は、チン王朝になった時に、ファム(Pham)とレウ(Leu)という姓にした。

 一方、新しい王が、その重みを示すために、あたらしい名前を送る例もある。例えば、15世紀のレロイ朝の役人グエン・チャイは、皇帝への奉仕のゆえにレ・チャイという名前を授かった。

 家系譜は、世代から世代に継がれた文書である。そこには、名前、年齢、墓の場所、祖先の命日、父方、母方の子ども、家族の系譜が収められている。家族の歴史は、“大越歴史全史”(Great Viet’s Full Text)のような歴史的記録とは別物である。そこでは、家族の歴史は、個人的なものである。家族史は、通常秘匿されているが、歴史的記録は、全ての人が閲覧できるのである。

 歴史家ファン・フイ・チュー(Phan Huy Chu)によれば、1026年にリ・タイ・ト{(註:1010年.、リ・コン・ウァンが帝位(李太祖:リ・タイ・ト)につく。都をタン・ロン(昇龍;現在のハノイ)に遷都する。トア・ティエン(順天)と改元。李朝:1009?1225年ベトナム初の長期王朝)}は、皇帝名の記録(Hoang Trieu Ngoc Diep)の編纂を命じた。残念ながら、その記録はなくなったままである。Sino-Nom研究所に保管されている264氏族の中で最古の家族記録は、チャン(陳Tran)家族のもので、1533年に遡る。この記録は、チャン・ヴァン・キン(Tran Van Kinh)氏まで10世代を網羅しているのである。

 現存の264氏族の記録の一部は、中国語で書かれ、一部チュノム(字喃)で書かれている。これらの記録書のうち3冊は印刷され、残りは手書きでなされている。およそ半分の記録書は、百頁以上である。一番厚いのは、フオン・ケのグエン・ティ(Huong Khe-Nguyen Thi)家族のことを記録したもので、手書きで1200頁にも及ぶ。この本は、フオン・ケのグエン家の家族史を載せてある。この家族は、学術的な成功を収めた家系である。一番短い物は、6頁しかなく、ナムディン省のギア・フン(Nghia hung)郡ダイ・アン(Dai An)のDO
村の祖先とドー家族の教育の家族記録という題名がついている。

 ほとんどの家系記録は散文調で書かれ、一部は詩で書かれている。また、中には、グエン・ディン(Nguyen Dinh)家の記録のように、自然神教の韻律を踏んだ6?8調の語で書かれているものもある。作者の名前は、162の記録書に記入されている。家系記録書の中には、はしがきを宮廷の権威ある者が書いている。例えば、18世紀の学者で大臣だったグエン・ギエム(Nguyen Nghiem)等がそうである。また、一方では、ゴ・ティ・シ(Ngo Thi Si)とかファム・ディン・ホー(Pham Doinh Ho)らの有名詩人が序文を書いているケースもある。

 家系の記録がしっかり残っているのは、タンロン(昇龍)のハノイ、続いてハ・タイ省、ハイ・ズオン省、ゲ・アン省となる。そして、ベトナム南部の省の名前が出てくるのは、わずか3冊の本だ。トゥア・ティエン・フエ省、ザ・ディン(現ホーチミン市)とハ・ティエン省だ。

 Sino-Nom研究所に残る家族の記録は、ベトナム家族の完璧ではない。多くのテキストは、戦争中に破壊されたか紛失された。強硬左翼がこれらの記録書を封建思想の名残りと非難したり、焼いてしまったが故に、政治敵変化も、また家族記録の減少の原因となっている。

 伝統と祖先への尊敬の念から、一部の人たちは、家族の記録を大事にしまっている。毎年、ハ・タイ省ズオン・ラム(Duong Lam)郡モン・フー(Mong Phu)社在住のハ・ゴック・ゴアン(Ha Ngoc Ngoan)さんは、祖先の命日にあたる陰暦の12月20日に、大家族が集合する。大家族が彼を取り巻く中で、語案さんは、記録書をひもとき、先祖の歴史を声に挙げて読む。そこで、ゴアンさんは、若い世代に先祖の威徳を聞かせるのである。

 自分のルーツを探りに出かける人もいる。ゲ・アン省で1919年に生まれたホアン・ギア・チュオン(Hoang Nghia Chuong)さんは、今、ハノイに住む。少年時代、彼は、自分の家族は、フン・イエン(Hung Yen)省ホアン・ヴァン(Hoang Van)村の出だと父親から聞かされていた。1980年に郵便局を定年退職すると、チュオンさんは、自分の家族の過去を調べ始めた。中国語とフランス語がわかるチュオンさんは、歴史記録を解読することができた。そして、息子のルオック(Luoc)さんの助けを借りながら、中部ベトナムへ足を運び、現在ヴァン・ノイと呼ばれる家族のルーツの村を探し当てた。

 グエン・フィ・トン(NguyenPhiTon)さんという73歳の農家の古老は、中国語とフランス語が読めないために、自分の家族のルーツを探すのを諦めた。トンさんは、現在タイ・ビン省に住むが、自分の父が中国語で書いた記録書を翻訳してくれる人を見つけた。そして、自分の子ども、孫、ひ孫の名前と誕生日も記録に書き入れた。16頁に及ぶ書類を自分の息子にタイプを打ってもらい、それをタイ・ビン省、バク・ニン省、バク・ザン省に住むグエン家の親戚に配った。

 この家族の記録のおかげで、グエン、ブイ、レ、ゴという姓のついたグエン家の若い世代の親戚たちは、毎年旧暦の3月19日に集い、タイビン省のタン・チュー社出身の祖先の命日に霊を慰めている理由が分かった。

   父の枝が同じ源に発していることは珍しくない
   四つの名前がなぜ同じなのか
   生活は山あり谷ありだが、ブイ、レ、ゴ、グエンは同じ流れだ。

   祖先が記録したものを求めて。
   子どもたちに安定したルーツをもった木々を覚えてもらう
   そして、自分の源を覚えている人は 成功するだろう