2008-09-14

愛のベトナムさわやか支援隊ツアー2008

愛のベトナムさわやか支援隊ツアー2008の御報告をさせて頂くことにします。すでに、今回初参加の北村修治さんの含蓄のある「孫への手紙」を読んで下さったことと思います。どこで、誰に会い、何をし、何を想ったかは、常に大事なことです。
旅の実行者が発言することではありませんが、支援の幅、内容は、過去最高に充実し、成功を収めたことは、参加者を初めとして、この運動を支えて下さっている方々の真心の賜と、感謝の気持ちで一杯です。御礼を申し上げます。
「対話」と「被害者のニーズに合わせた支援」を心がける我が支援隊の活動を、少しずつ時間をかけてアップしていこうと考えます。では、Let's Go!!!!
ノイバイ空港に着いたツアー参加者

8月21日、ハノイのノイバイ空港に到着した一行14名の表情には、緊張感が満ちあふれていて、少々心配にはなった。記念写真の表情には、それが如実に現れています。

前日先乗りで来ていた小生には、この日の暑さと湿度が心配でした。すぐ、宿舎に向かいました。だが、最終の29日深夜の出発まで、ダウンする方は一人もなく、笑いと感動、緊張と新発見の連続だったに違いありません。

宿舎で荷ほどきをするのも束の間、最初の行事が始まりました。

ベトナム戦争中 クアンガイ省でアメリカ軍アメリカル軍団に射殺されたハノイ出身の女医、故ダン・トゥイ・チャムさんの母親ドアン・ゴック・チャムさん宅を訪問しました。この日、3人娘が全員揃って下さいました。母親の左から次女ヒエン・チャムさん、4女キム・チャムさん、3女フオン・チャムさん。

日記が出版されたことは、ブログですでに詳細にのべているので、割愛します。そもそも、最終的に私がお宅を訪問しようと思ったのは、参加者の中に、眼科医として沼津でご活躍の名古良輔先生ご一家がいらしたことも大きいです。長女を戦場に送る母親の決意を全員が伺っておくことも、大事かと思ったのです。母親は、薬学のご専門です。父親は、他界されていますが、外科医でいらっしゃいました。

「日記が届けられた時、感動して読めませんでした。娘が書いた日記を見ただけで、感動してしまって・・・。私は、家族の中で一番読んでいません。すぐ泣いてしまうのです」

「トゥイ・チャムが戦場に行く時に、私と夫も反対はしませんでした。その時代では、そういう行為は普通のことでした。娘は戦いにいくのではなく、国を守るために行くのだから、良いことだと考えていました。トゥイ・チャムが戦場に行って、医療行為をするという意志は、前から持っていました。最初は、作家になる夢を持っていました。そのうち、作家になる夢を捨てて、医師になる決心をしたのです。そして、『戦争に出られる年になったので、行ってきます』といいました」

3人の子を“世界的芸術家”に育てた千住文子さんはで「すべての鍵は愛である」(『千住家の教育白書』(新潮文庫))と。愛するからこそ、子どもを信じる・・・・。

その母から、戦争は娘を奪っていきました。まさに、「戦争は愛想事じゃなく、この世で最大の醜悪事なんだ」というトルストイの言葉が思い出されます。

私が、最大にトゥイ・チャムを尊敬する理由は、学んだ学問を、戦争で傷ついた人々に役立てようとしたからです。福沢諭吉は『学問のすゝめ』の中で「活用無き学問は無学に等し」「懶惰(らんだ)と言うべし」と、切って捨てています。

実母ゴック・チャムさんは、今年83歳。私たちが書店で買ったベトナム語版「ダン・トゥイ・チャムの日記」に1冊ずつ丁寧にサインをして下さいました。個人から家族への広がり・・。この友好の裾野を広げることが大事だと私は考えています。人間的な絆の広がりが、真実の平和の基礎となることを信じていきたいと思います。

恩師の著作に「出会いは泉を掘ることに似ている。それがやがて、友情の川をつくり上げていく」とあります。それが平和へのうねりになると思います。

↑語らいを終えから、ゴック・チャムさんの家の近くの広場で記念撮影です。
その足で、私たちは、ルオン・ティ・ロックさん宅を訪問しました。↑ この前日、急にこの訪問が私の頭の中にひらめきました。前日夜お願いに伺い、喜んで引き受けて下さいました。このお宅は、日本軍がベトナムに進駐した時に、日本軍軍医と結婚したロックさんが住んでいるからです。
                          
そして、ロックさんの次女が、眼科医として地元のドンダーで長く貢献されてきたので、名古良輔先生にご紹介しようと思いました。が、チャムさん宅に長居をしてしまい、お嬢さんのとしみさんには、お会いできませんでした。残念!              
                            
としみさんも、来年には定年を迎えられるとか。新進気鋭の時にお会いした眼科医も、いつの間にか大ベテランになられていたのです。でも、いつか必ず、名古先生にお引き合わせしようと、考えています。                    
                           
そして、この後、ハノイで最初の夕食会に向かいました。Posted by Picasa

2008-09-13

北村修治さん 孫への手紙(2-3)

おじいさんの車には、「60年間一人も殺さず、殺されず。日本国憲法第9条のおかげです」と、書いた紙が貼ってあります。他人様(ひとさま)がみればバカなことをしていると思うかも知れません。皆さんが大人になった時どのように評価するのでしょう。

このベトナムに来て『60年間・・・』というのは、すごい言葉、自分のやっていることの正しさ、大切さを実感しています。こういうのを手前味噌というのでしょうか。

でも考えてみてください。同じ軍隊を持ちアメリカと仲良くしながら、韓国はアメリカと一緒にベトナムを攻撃したのに、にほんはそうならなかった。それはなぜか。まさに『日本国憲法9条のおかげです』ということになりはしないでしょうか。憲法9条がなかったら、日本の自衛隊は韓国やニュージーランドと一緒にアメリカのベトナム攻撃に参加し、日本の中にも枯れ葉剤の被害者が出たはずです。

あの時代『アメリカはベトナムから手を引け』と書いたゼッケンを胸に8年間も街を歩いた人がいます。たしか、金子さんといったと思います。この人とくらべたら、おじいさんのしていることは思いつきですから、たいしたことはありませんが、何もしないよりましだと思っています。

べ平連機関紙創刊号
ベトナムに来て田中正造の「悪魔を退治しないでのさばらせておくなら、自分も悪魔と同じだ」という言葉を思い出しています。田中正造は、行動を起こせと言っているのだと思います。

人間一人のやることなんかたかがしれています。でも、勉強し、何が正義で何が悪魔かを見極め、一人でもいい、小さいことでもいい、自分の出来る範囲でいい、行動する人になってください。
田中正造
おじいさんは、7月19日、72歳になりました。あの日、食事会をしてお寿司を作りました。あのころから、朝起きても疲れが残っていて、このベトナムの旅もずっと迷っていました。来年のことはわかりませんが、できたらあなたちと一緒に来たいと思っています。

贈呈の車椅子に試乗する北村修治さん(ニンビン省)
ヒロシマ、ナガサキ、水俣、足尾、その現場に実際にたってほしいと思います。外国ならベトナムです。ダイオキシンの被害は過去の話ではなく、未だに進行中なのです。

この手紙より先に日本に戻れますように。皆さん、お元気で。(終わり)
                          
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ハノイを離陸してすぐ、北村修治さんから頂いた孫への手紙のコピーを読み始めました。私が思うことのほとんどが、ここに入っていました。             
                                                       
読み進むうちに、涙が伝い落ちました。孫を思う強い気持ち。現場に立つことの大切さ、田中正造を引き合いに出して「悪を斬る」ことの重要さを優しい言葉で訴える北村修治さん。            
                          
孫とハノイへの夢を抱くおじいさん。そこには多くの人が見落としている大切なものを拾って歩こうという、孫との一種の共戦譜が描かれているように思えました。      
            
化学戦争という観点からみたら、ベトナムほどデータの揃っている戦場はありません。それは断言致します。その戦場を現場と言わずして何というのでしょうか。       
                                  
北村修治さんとの語らいは楽しい物でした。平和への示唆に富んだ語らいであり、真剣で、真面目で、大きな共鳴箱のなかで共鳴する心地よい響きでした。        
                                 
ご高齢ではあるが、大変お元気でした。今回の支援旅にご参加下さり、10日間を同行させていただいたことに、ひたすらの感謝を申しあげる次第です。         
                                    
どうか、今後ともお元気で。(北村元 記)Posted by Picasa

北村修治さん 孫への手紙(2-2)

この家に入って最初に目にしたのは、少しだけ見える3人目の少女が、台所らしき所で藁のような物を燃やしてお湯を沸かしていました。この少女は、私たちの前に来ることをすごく嫌がりました。美咲さん、くらいでしょうか、15歳くらいにみえました。4人の子どもたち、最初は顔が見えません。全員下を向いているからです。
ファム・ヴァン・トンさん宅で診察する名古医師(8/24 タイビン省)

それでも、同行した目医者さんの名古先生が目を検査し、この娘さんは直りそうだと伝え、暮らしの土台を作るために子豚を2頭あげて・・・そんな話をしているうちにだんだんとお顔が上を向いてきました。心の中に、光が差し込んだ、おじいさんはそう思いました。

この6人の手を握りしめて別れました。「元気でね」という言葉しか言いようがありません。でも、握り返すその強さが、心がつながったように私には思えました。

実は、沼津の写真展を見て、生子(いくこ)おばあさんの名前で三島の支援する会にお金を送りました。今でも、みんな生子おばあさんの名前の領収証です。あの人が生きていたら、きっとベトナムに来ていた、あの人が生きていたらきっとこうするに違いない、そんな思いが私にはあるのです。

トンさん宅で写真をとる北村修治さん(右)
「東シナ海前にして ワシらが生きた土地がある」
おばあさんが歌っていたその中に、「ベトナムの友 撃ちにいく」という一節がありました。

日本は大東亜戦争に負け、沖縄は今でもアメリカの軍事基地です。ベトナム戦争当時、沖縄からB52爆撃機がベトナム攻撃に飛び立ちました。

おじいさんは良く知らないのですが、枯れ葉剤はアメリカがベトナムの人々の暮らしを根底から破壊するために、田んぼや畠に雨のように降り注いだ、中には直接それを浴びた人もいたはずです。

米軍嘉手納空軍基地
日本の戦争のようにアメリカがベトナムから攻撃されたのではないのです。ベトナムが社会主義の国になることを妨害するために軍隊を送り枯れ葉剤をまいたのです。

枯れ葉剤の被害者は、ベトナム人だけではなく、アメリカの軍人とその子孫、アメリカに軍事協力させられた韓国人、春実ちゃんの住むニュージーランドも何かで見たように思います。

アメリカでデモをする元韓国兵の枯れ葉剤被害者(2006年8月24日)
アメリカはアメリカ人に補償しているのに、同じような被害を受けた韓国人、ベトナム人には見て見ぬふりです。韓国では、アメリカ人と同じように救済しろとデモや裁判が起きているそうです。(つづく)Posted by Picasa

2008-09-12

北村修治さん 孫への手紙(2-1)

2008年8月28日 ベトナム・ハノイのホテルにて  北村 修治

瑞江さん 美咲さん
勇人くん 春実ちゃん

最初にこの国に来たのは2003年の2月、5年前でした。あの時は戦争博物館で枯れ葉剤のダイオキシンのため奇形になった人のホルマリン漬けの姿をみたり、200キロも掘った言われるクチ・トンネルにもぐったりしました。
今度の旅は、15年も前から枯れ葉剤の支援をしている三島市の人たちが開いた写真展の『3人分の手足がついて生まれた赤ちゃんにお乳をふくませている母子』の写真がきっかけです。悪魔だって、こんなひどいことはしなだろうと思いました。

知識は、本や新聞、ラジオ、テレビから得られますが、おじいさんは若い時から実際に現場に行かないと、自分の体に実感として入ってこない・・そんな人間でした。
今度のベトナム訪問は、実際に枯れ葉剤の被害に苦しみ貧困のどん底に突き落とされている家庭を何軒も訪ねました。鈍感な私も目が開きました。
ハノイ友好村(8月22日)
8月22日は、ベトナム友好村。枯れ葉剤の被害を受けた元兵士や障害をもって生まれてきた子どもが暮らしています。その子どもたちとほっぺをくっつけたり抱き合ったり、見つめ合ったり。どうしてこの子たちがこんな目にあわなければならないのか、おじいさんの体の中に怒りが湧き上がり、膨らんでいきます。

その時思いました。毎週1回焼いているマドレーヌをこの子たちと一緒に作ったら、誰にも失敗なく作れるお菓子だから、みなニコニコ「おいしい」と言う声が挙がるにちがいない、と。
写真を撮っている人が北村修治さん

足尾の鉱毒と闘った田中正造は、強制破壊される谷中村に移り住んだ。読み聞きの知識から、人と人が向き合う、そして共に行動する正造のようには誰もなれないでしょうが、人間同士が向き合うために出かけていく。簡単に、速く、楽に、では、大事なことは何も分からない、伝えられない、そのことを皆さんに、これはベトナムの子どもたちの『無言の伝言』として伝えたいのです。

被害家族を訪ねる旅の案内人は、北村元(はじめ)さん。シドニーに住んでいるジャーナリストです。この人を支えているのは、正義ではないかと思いました。正義があるから怒りが湧く、怒りが行動に結びつく。人が行動を起こすもう一つの源は『感動』です。この関係がないと、身銭を切って・・というようにはならないと思うのです。

身銭を切るというのは、可哀想だから、という同情で小銭をあげるのではなく、自分の大切なものを差し出す・・・体の一部を切り取って、という意味のことではないでしょうか。
横道にそれました。ごめんなさい。
田中正造の生家
その家は夫婦と子どもが4人。2人が失明、1人は少し見えない、夫も障害者。どうして暮らしているのでしょう。お米を作っていても、一家で食べるほどから、1日2回、おかずだってほんとに質素だと思うのです。病気になっても医者にいけない。綺麗な水もない。「井戸がほしい」と言いました。

話しているうちに、お母さんは泣き出しました。向き合っている私たちの何人か目頭を押さえていました。

文字にするとこんな場面なのですが、皆さん、想像できますか? あなたたちもベトナムに来て、この家族と向き合ってほしいと思いました。(つづく)
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2008-09-11

北村修治さん 孫への手紙(1)

8月21日の成田出発から8月30日の成田帰着まで、延べ10日間にわたった愛のベトナムさわやか支援隊2008年ツアーは、参加14名は精力的に、溌剌と奉仕活動に精魂込めて動き、無事終了しました。
私自身は、一層内容が充実して、手応えのある過去最大の厚みのある支援と確信しました。支援隊員の日頃の努力も実って、寄付金の額も増えて、多岐に渡る支援の態勢もできつつあります。ベトナムでは、大勢の方々の暖かいお心に感謝しながらの毎日でした。ここに厚く御礼を申し上げます。
しかし、ツアー中色々なことがありすぎ、自分の中でもまだ消化できていません。ブログの原稿を書くのが、実は今は億劫です。誰かが書いてくれるのでは・・・と淡い期待をしているのですが・・・・億劫の最大の理由は・・・これが言えればすっきりするのですが。
今年も、私はベトナムに浸りきったツアーでした。なぜ、行くのか・・・。

俺に是非を説くな 激しき雪が好き
これは、朝日新聞東京本社で自決(1993年)した右翼・野村秋介の句です。私は、右翼でも左翼でもありません。しかし、待っている人がいるなら、理由はいらない、行って支援する・・・そんな気持ちです。
コツコツと「幸福の鍛冶屋」に徹するしかないんです。支援の近道はありません。コツコツと被害者のもとを訪れ、連帯し、激励して行く以外に、支援の姿はないんです。物をさしあげて、おいてきただけでは相手の笑顔に結びつけられないのです。
「お前たちはまだこれから地上の仕事をしなければならない! まだたくさん戦い抜かねばならない。戦わないではいられないーー戦わないでは、そして愛さないでは生きられない」(片山敏彦訳 みすず書房)    ドイツの女性作家マルビーダ・フォン・マイゼンブークの呼びかけが心に潤いを与えてくれます。
アフガンで命を落とされた伊藤和也さん(31)=掛川市出身=の葬儀が現地、アフガン東部ジャララバード近郊で行われた。ペシャワール会現地代表で医師の中村哲さん(61)は弔辞の中で、伊藤さんや過去の戦争で死んだ人びとへの鎮魂のためにも「変わらずに皆さんと苦楽を共にしたい」とあらためて用水路工事などの事業継続を誓った。 伊藤さんの死について中村さんは「アフガンをむしばむ暴力に殺された」と述べたうえで、「戦争と暴力主義は無知と臆病(おくびょう)から生まれる。解決にはならない」と訴えたのです。
今月17日発行の英科学誌「カレント・バイオロジー」に、天敵のスズメバチに襲われたミツバチは、スクラムを組んで相手を窒息状態に追い込み反撃する--このような研究報告が掲載されているそうです。
スズメバチが蜜を横取りするためにミツバチの巣に入り込むと、ミツバチはスクラムを組んでスズメバチの腹部の周りに輪を作り、呼吸できないよう強く締め付け窒息死させるそうです。大きな敵に団結して立ち向かうミツバチ。われわれも、団結しなくてはいけません。
多くのベトナム人被害者が許しを与えているにもかかわらず、アメリカ政府は、その許しさえも受けない。負けたアメリカは、被害者を苦しませたままである。これもまた、組織暴力と言えると思うのです。
そして、タイビン省では、われわれは枯れ葉剤被害者協会事務所に呼ばれ、お怒りの言葉を頂戴しました。このことは、いつか、きちんと御報告したいと思っています。
初めての参加者には、そういう場面もきちんとみて頂いたので、よかったと思っています。支援がどうあるべきか、現地の役人が潤うことが必要なのか・・・一人の役人の懐が潤うってどんなことなのか・・・これは、大事な問題です。示唆に富んだ会談を提供してくれタイビン省枯れ葉剤被害者協会(VAVA)には大感謝です。
しかしそういう経験をへて、支援旅を終えて、なおかつ、ブログに書きつらねるには重い事情が今回はあって、書くことになおも逡巡しています。
そこで、愛のベトナムさわやか支援隊の支援報告は、今回初参加の北村修治さん(静岡市清水区在住)が、お孫さんに宛てたお手紙の使用許可を頂き、中に登場する実名を仮名にして、まずはブログをスタートしたいと思います。(北村 元記)
孫への手紙(1)
ベトナム・ハノイのホテルから  北村修治 2008・8・23

『ブッシュさん テロより怖い枯れ葉剤』
ベトナムに着いた日は、大東亜(太平洋)戦争、ベトナム戦争の被害者ともいえる二人の老婦人の家を尋ねました。これはまた後日お伝えします。

昨日は、友好村といって、ベトナム戦争の枯れ葉剤に被害者の施設2箇所を訪問しました。
ベトナム戦争は30年前のことなのに、まだ孫の第三世代に異常なこが生まれたりしています。その子等と手を握り会ってきました。自然と我が孫と思いました。
誰もが祝福されて生まれてきたのに、その幸せになる道を、最初から閉ざされている。私は鈍感なので、現場に立たないと、そのことが自分の中に入ってこないのです。いま、否応もなくこのアメリカのやった人類最初の非道な暴挙に怒りがこみ上げてきます。
バクザン省こども障害村で

最初の私の意地悪川柳・・今こうして手紙を書き始めると、こんな安易なものでは、この子たちの苦しみは伝えられないと思うのです。

ヒロシマ、ナガサキの放射能、そして水俣病の有機水銀、第三世代にまでその被害が続いているのでしょうか? そんなことを考えています。

別添えの手紙に刷り込んだ写真に導かれて、ベトナムに来ました。私のささやかな支援金は形を変え、車椅子になったり、補聴器になったり、昨日は3人の奨学金の一部になったり、この子等の人生からすれば、束の間の安らぎかもしれませんが、確実に届いだのではと、そんな自己満足をちょっぴり味わいました。

名古医師(バクザン省子ども障害村)と海外青年協力隊の新井隊員(理学療法士=
右端) 内輪の人は大釜副会長

どうして、補聴器と思われるかも知れません。枯れ葉剤のダイオキシンによって耳が聞こえなくなってくる。先天性ではないので、補聴器で少しは救われるわけです。

10人~15人の子どもに実際つけてもらいました。聞こえた瞬間の彼、彼女らの表情、その豊かさは文字では表現できません。帰ったら写真通信でも考えていますが、どうなることやら。

この三島のグループの中には目医者さんがいて、目の検査をしたり、音楽療法士さんがヒョッコリひょうたん島等の音楽に合わせ手体を動かす。

それまでうつむき加減だった子の表情がだんだん変わっていく・・・自然の美しさとはまた別の人の心が生み出す。これは心の美しさだと思いました。

北村修治さん(友好村で)
今8月23日3時30分。昨日も今日も、1:45分に目が覚めました。8月に入ってずっと・・なのです。何か疲れが残っている、そんな毎日ですが、暑さのせいでしょうか。それでは、今日はここまで。お元気で。(つづく)Posted by Picasa