ハノイの旧市街 36通り
ハノイの旧市街を、人は36通りと呼びます。お江戸八百八町にも似た表現ですね。その昔、ベトナム北部紅河デルタ地帯に定住する村々の職人がタンロン城に品々を収めていたように、ベトナムの首都ハノイのそれぞれの通りが専門業者の集まりでした。
ハノイの旧市街を、人は36通りと呼びます。お江戸八百八町にも似た表現ですね。その昔、ベトナム北部紅河デルタ地帯に定住する村々の職人がタンロン城に品々を収めていたように、ベトナムの首都ハノイのそれぞれの通りが専門業者の集まりでした。
多くのベトナム人に耳なじみの詩があります。
タンロン城にいってみよう
36通りを回ろう
ハン・ボー、ハンバック、ハンガイ、
ハンブオム、ハンティエック、ハンバイ、ハンカイ・・・
このハンとは・・商品 品物のことです。
今日、36通りの職人通りがあったかつてとは、ハノイは大きな都市になりました。多くの通りでは、苔むしたレンガ色の屋根の家は、コンクリートの高いビルにとって変わりました。広告掲示板や看板がいっぱいです。にもかかわらず、古いものも残っています。
ハノイの人たちは、旧市街を今でも”36通り”という呼び方で呼んでいます。この旧市街というのは、ホアンキエム湖の北端の噴水から始まって、ハンダオ、ハンガン通り、そしてさらにハンブオム、ルオン・ヴァン・カン、ル・オン・ゴック・クエン、そしてマーマイに至り、ハン・ダウ公園で終わりとなる。
かつて、ハンダオ通りではシルクを売っていましたし、ハンドゥオン通りでは駄菓子を売っていました。ハン・ブオムは麻などの繊維や生地の専門店街でした。しかし、こんにち、すべてが変わってしまいました。ハンダオでは、ターバンを巻いたインド人がボンベイ・シルクを売り、ハンガン通りでも大きく様変わりしています。
通りの店先は華やかですが、表通りから狭い路地を入っていくとそこはまた別世界が展開します。常に薄暗く狭い場所に、昔の生活を楽しむ大家族が住み、何十年と改装もしていない佇まいの中で、昔のままの生活風景が見られることも結構あります。
ラン・オン道路に行ってみましょう。中国風の薬草の匂いがしてきます。それも何世紀も前からの匂いのようにも思えます。ここでは、薬草なら何でもこいという感じですね。安っぽい風邪薬から、珍しい薬草を入れた高価な輸入品まで。さて、ハン・ティエック(錫・ブリキ町)は、賑やかです。金槌で叩く金属音が響いてきます。
昔ながらの商売を続ける通りがある一方で、中国薬草を売っていたトゥオク・バック通りのように、金属製品の販売専門に変わってしまったところもあります。
銅製品専門街だったハンドンは、青銅職人が作った仏壇、祭壇用品や、線香、葬祭用品を販売しています。ハンチオ通りは、昔のままで、い草のマットや木製のビーズマット、中国から輸入した竹のマットを販売しています。ハンマー通りも言ってみれば紙屋町で、普通のカラフルな各種の紙だけでなく、身内の人が亡くなった場合に棺に入れたりするニセのお札を初めとして、あの世で住めるようにと紙製の家、足に困らないようにと車、飛行機で移動できるようにと紙飛行機まで揃えてあります。
人々の住む集落は、特に首都では、城下に成立したものが、世界のあちこちに見られます。ベトナム人も徐々に農地を離れ、都会らしき所に集まり始め、そこに定住していきました。時代を経て、これら村社会の集団が都市を形成することになりました。
中越国境のランソン、ラオカイ、カオバンのような町を形成したのは、言ってみれば国境貿易の商人です。ナムディン、フン・イエン、ハイフォン、ソンタイ、タイビンなどの都市の形成には、宮廷やフランス植民地政府が背後にあります。
水路沿いの交易で都市が形成されたのは、ダナン、ホイアン、ビエンホア、カントーなどがあります。
都市生活は文明の影響を受けます。「世界を見ても、都市は、偉大な人間と知識人を生み出す。都市では、有能な人々は、古きしきたりと習慣から自由になり、それが刷新につながっていく」と、ベトナム人は言います。
中部ベトナムでは、ホイアンという古い街が見事に保存されています。原型を保った建物とその魅力のおかげで、この川沿いの街は大勢の旅行者を引きつけてきました。観光地としての成功が成長を促進し、今では「町」から「市」に昇格しました。もちろん、小都市としての古い佇まいを失えば、観光客は来なくなるので、保存と経済発展とのバランスをとるのが難しいでしょう。祭りのシーズンには、市民は集い、ホアイ川近くでバイチョイ(中部の地域にある歌を使ったゲームの一種)を歌い、詩を吟じチェスをします。
一方、古都フエには、かつてのような学校やすばらしい庭園は減ってしまいました。それでも、フエ市の並木道は落ち着いた佇まいをみせ、特に故宮に隣接する地域では、王の籠より家を高くしてはいけないという規則が幅を利かせています。
フランスl植民地時代、フランス人の官吏が書いた手記は、19世紀のベトナムを垣間見せてくれます。タンロン(現ハノイ市)に着いた彼らは、竹でできた崩れかかったようなバラックの列が並び、タンロンの通りは実に不思議な様相だと著述しています。しかも、各通りとも、各家の門は夜にはしっかりとカンヌキをして他人の侵入を許さず、ちょっとした要塞の如くであったとも書いています。
1835年、阮朝2代ミンマン(明命)帝は一旦バットクワイ城を取り壊し、フエの宮城より小さなザディン城を現在のLe Thanh Ton, Dinh Tien Hoang, Nguyen Dinh Chieu, Nam Ky Kho Nghia通りに建設し直しました。しかし、これは後に、フランスによって壊されてしまいました。ミンマン帝は、自分の城跡が1千万都市(ホーチミン市)に成長するなど思いもよらなかったでしょう。
南部のサイゴンの町は、ハノイと同じように伝説と歴史をにじませながら、エネルギーと楽観主義に満ちている。喧騒と活気にあふれた町サイゴンは、ハノイよりも先に将来に向かって歩んでいるようですが、私は、ハノイの街並みが好きです。
北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊
Love & Support Vietnam Since 1990
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