2011-04-29

養父(やぶ)医者

もう、大分前になるが、養父医者を求めて・・・枯れ葉剤の被害者の状況を出版するために、ベトナムに頻繁に通った時代が続いた。
その時にお世話になった方々の中に、現地のお医者さんがいた。中に、なかなか立派なお医者さんがいて、大変心強く感じたものだ。初期のころ、エージェント・オレンジの研究に奔走した故レ・カオ・ダイ教授。越独友好病院の故トン・タット・トゥン院長と故トン・タット・バック副院長の親子医師。もう一人、ホーチミン市のグエン・ティ・ゴック・フォン先生。グエン・ブイ・ダイ108軍病院元院長。ハノイのバックマイ病院女医のディエップ先生らのお名前がすっとあがってくる。 こういった多くの先生方から、精神の啓発と心の滋養を頂いてきた。
樹齢千年を超える樽見大櫻(養父市)
 私の父は医療関係者でもなんでもなかったが、小説『城の崎にて』を書いた志賀直哉さんらが愛した兵庫県但馬の出身である。城崎温泉とはちょっと離れた温泉町の出である。
 妙見山、氷ノ山など1000メートルを超す山を臨む。その近くに、但馬牛で有名な兵庫県養父(やぶ)市がある。そこは、「藪医者」の語源の一つだ。
 松尾芭蕉の高弟、森川許六(きょりく)がいる。江戸時代前期から中期にかけての俳人で、近江国彦根藩の藩士。 蕉門十哲の一人。彼の『風俗文選』によると、やぶ医者とは元々、養父にいた名医のことだという。

 死者を蘇らすほどの腕を持ったその名医の噂は京の都にも届いた。その名医を慕って、各地から医術を学びにくる人が多かったというのだ。
 ところがやがて、大した腕もないのに、「自分は養父医者の弟子だ」「養父から来た」と、口先だけの医者が続出し始めた。いつの時代も変わらない社会現象だ。

 当然、養父医者の名声は地に落ち、いつしか「藪」の字があてられ、ヘボな田舎医者を意味するようになったらしい。名医を「養父医者」と、いい加減な医者を「藪医者」と、字に表せば違っても、口で言えば同じに響く。

 昨今は、売名行為に熱心だったり、似非養父医者を標榜するモラルの低い医者が数の上でも増えつつあるのは非常に残念だ。その一方で、この1000年に一度の大震災に立ち向かい、医道の使命を背負って、行動するお医者さんも目立つ。
 (1)ジャーナリストの先輩、西牟田耕治さんからの手紙の中に入っていた情報を披露しよう。

 3・11の大災害を知るや、3日後には仲間と共に宮城県名取市に入り、クリニックを拠点に避難所を巡回しながら被災者の診療に当たっていた医師がいる。NPO法人「ロシナンテス」理事長の川原尚行さん。

 川原尚行さんは、福岡県立小倉高校時代、ラグビー部のキャプテンを務めた方。九州大学医学部を卒業後、外務省に入り、医務官としてアフリカに赴任したが、2005年に退官して、スーダンに診療所を解説した。宮城県での診療の後は、スーダンへ戻った。
ラグビーの格言『ONE FOR ALL, ALL FOR ONE』・・・ひとりは皆のために、皆はひとりのために・・・を地で行く人だ。
本当の養父医者なんだと思う。

 (2)昨日、徳島から手紙が来たので、ご了解をえて一部をそのままご紹介する。
 「徳島の友人(53歳の医師)が、東北の被災地に入り、病気になった方々の診察に当たってきました。一月程前でした。徳島からバスで行って、夜の11時頃着いて、翌朝6時起床。朝食後、車で一時間かけて避難所に着いて、それから昼食の時間もなく、ずっと診察や手当て。夕方4時頃まで、誰もトイレに行ってないこと気づいたそうです。更に宿に戻るのが夜11時頃。夜中の零時頃、晩ご飯。翌朝も6時起床・・・と、1週間滞在して、徳島にバスで戻ってきてから、二日間寝込んだそうです。でも、被災地の方々に、却って元気を頂いた・・・年齢を重ねてきた方ほど、明るく丁寧で穏やかであったそうです。

+++

大変な医療行為だったことは、容易に想像できる。迅速な行動に最大の敬意を表したい。迅速な治療が必要な時の遠路はるばるの往診に、現地の被災者は安堵されたと思う。まさに「道の遠さに、志が表れるものである。

沖縄の人びとが使う「チムグルサン」という言葉。胸が痛むという意味だ。
我が師は、「沖縄には、”かわいそう”という相手を下に見た同情の表現はない」と仰った。捨ててはおけぬという「同苦」の精神があってこそ、現地にかけつける行動に結びつく。上のお二人のお医者さんの行動に拍手を贈りたい。
 私たちの今年のベトナムでの活動も、また、養父医者や誠意の看護師の力を借りて行動しようと思っている。
北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊・Love & Support Vietnam(since 1990)
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2011-04-26

ビン・バーの戦い 1969年

今回のストーリーは、オーストラリア元兵士とベトナム戦争の話です。ちょっと長いですが、読んでください。
オーストラリアの2人のベトナム退役軍人が、旧敵の戦死者の発見のために任務を遂行中である。

彼ら戦死者は“さすらう魂”と呼ばれている。オーストラリア軍が作戦行動をとっていたところでは、どこに埋葬されているかわからない旧北ベトナム軍の行方不明兵士3906人がいる。 家族が知るまで、死者の霊が苦悩したまま彷徨(さまよ)っていると、戦死者の家族らは思っている。

しかし、戦った元オーストラリア兵は知っている。戦闘で3906名を殺した後、彼らをベトナムの野原、ジャングルやゴム園に葬った場所を記録しているからだ。

死者は、北ヴェトナム人民軍兵士又はベトコン・ゲリラの兵士だ。 彼らは、1975年に戦争終了後以降、戦闘中の行方不明兵士にリストされている何十万人ものベトナム人兵士の氷山の一角にすぎない。
ベトナム戦争が終結した時点で、オーストラリア側には、6人の行方不明兵士がいた。それから40年後、彼らの遺骨も発見され、国旗に包まれた棺に収められて帰国を果たした。政治家が勇姿を讃え、将軍が敬礼し、軍のラッパが弔奏した。そして、遺族はようやく愛する人を埋葬することが出来た。

オーストラリアの調査官の中に、ベトナム側の死者を葬った旧兵士がいた。彼らは思った。我々がそのさすらうベトナム兵の魂の発見の手助けが出来れば、われわれが共有する歴史の章を閉じられるのではないか・・と。

調査官たちは、遺体がどこに埋められたか正確にわかっている。オーストラリア兵が書いた埋葬場所の地図とベトナム側の記録と合わせれば、兵士の名前もわかるのではないかと考えている。「そうすれば『さすらう霊魂』も帰宅して、ベトナム人家族のもとで休むことができる。オーストラリアの退役兵士にとっても、そうすれば、戦争が終わった後でも多くの慈悲の気持ちがあることを示すことになるのではないか」と、歴史家でありベトナム退役軍人であるデリル・デ・ヒアー氏は言う。

デ・ヒアー氏は、1966年から1971年まで当時の南ベトナムのフック・トゥイ省に駐屯したオーストラリア第1機動部隊の軍事経験に関する大きな研究プロジェクトを行なってきた豪州国防軍士官学校のNSW大学チームの一員である。

このプロジェクトは、2500以上の場所でオーストラリア軍が関与した4500の戦闘を記録にとった。それらの場所で、オーストラリア軍は3906遺体を埋葬した。それらの遺体は、待伏せ中に殺された敵兵と6人の一般市民である。

遺体の数が最も重要だというなら、ベトナムで500人の戦死者を出したオーストラリアはベトナム戦争の一部を勝利したことになる。 しかし、ベトナム戦争の勝利者は、最も戦死者を多く出した側だったのだ。

ベトナム戦争中のオーストラリア軍の方針は、敵を殺した場所に埋めることだった。主として、敵兵は一人とか二人で葬られた。それは、オーストラリア軍が戦った戦闘の形態を映している。つまり、小グループの間での短期的で急激な戦闘だったのだ。

2009年に、オーストラリアの行方不明兵士(MIA)6人の最後の一人が帰還したのは、この調査の期間だった。

デ・ヒアー氏は、こう話す。 「我々は、ある日車座になって話していた時、『我々は、すべてのベトナム人遺体をどこに埋葬したかわるよな』という話になった。そして、我々は考えた。『我々が埋めたこれらすべての人たちは、彼らにとっては行方不明兵士なんだよな』」って。

調査チームの責任者である歴史家のボブ・ホール氏は、ベトナムが60万人もの行方不明兵士を抱えているのに、オーストラリアの行方不明兵士の発見を手助けしてくれたベトナムの努力に恥ずかしさを覚えた。


2週前、ラッド外相はホーチミン市を訪問し行方不明オーストラリア兵士の発見に尽力してくれたことに対して、ベトナム当局者に謝意を表した。恐ろしい戦闘の後、兵士の遺骨が故国に帰還したことは、「我々共有する歴史の章をすでに閉じたことを意味する」 。ラッド外相の発言は時期尚早だった。

「彼らがかつて与えてくれた援助にお返しして、我々がベトナム人の行方不明兵士の一部でも発見できるように、出来ることのすべてをすることが私にとってはフェアの精神のようにみえる」と、ホール氏は言う。こうして、無名戦士の名前を掘り起こすために、彼らの研究は新しい段階に入った。 彼らは、その作業を「彷徨(さまよ)える霊魂作戦」と名付けた。

 この作戦にかかわっているデ・ヒアー氏の心には、過去の似通ったことを思い出す。40年前、彼はベトナムで、陸軍の第1心理作戦部隊(第1PsyOp)の軍曹だった。部隊の役割は、戦闘停止を奨励する宣伝をして敵兵の士気をそぐ任務も入っていた。

ビラと放送では、戦闘で死ぬば、体もなくなるという敵兵士の恐怖心につけこむベトナム伝統の信念を巧みに利用した。そして、 心理作戦には、いわゆる「さすらいの霊魂」というテープを放送したことがある。

デ・ヒアー氏は言った。「我々は、夜間に行動をした。なぜかというと、敵は全くしばしば夜間に行動していたからである。そしてまた、夜間の気温が下がった時に、音はより遠くに伝わるからだった」と。

デ ・ヒアー氏には、戦死者を見つけ埋葬することがベトナム人にとってどのくらい大切なことか経験上分かっていた。

彼は、フック・ハイ村の近くで、3人のベトコンを待伏せして、殺した時の1970年8月の話をした。

その翌日、殺されたゲリラの1人の年老いた父親が、自分の息子の遺体を捜して、村の警察署長のところに行った。逆に、 「あなたは、遺体を見つけ出すことができるか?」と、警察署長はヒアー氏に尋ねたのだ。

デ・ヒアー氏は、話を続けた。 「それで、私はその老人と別のオーストラリア兵のところに行き、我々は出かけた。遺体は砂丘の中に埋めてあった。我々は手で掘った。-信じられるか。我々はシャベルを持っていかなかったのだ。-そして、我々が最初に掘り起こした遺体が偶然その人の息子だったのだ」

「そして、2つの点で私の心を打った。まずは、その老人の父親がいかに悲しみに打ちひしがれていたかだった。私は、自分の人生でそこまでの悲しみを見たことがなかった」

「私は、遺体を運んだ … そして、我々は遺体を連れ帰った。私は彼の家まで運んであげた。私は、通訳を通して、遺体を綺麗にしたいと申し出た。しかし、答えはノーだった。その老人は、自分の手でそうしたかったのだ。 … 幸運にも、ゲリラは、父親の手で傷口はきれいになった。傷によって醜くはならなかった」

「私の心を打った2番目のことは、その父親は悲しみに打ちひしがれ、且つ私たちを本当に憎んでいたが、その父親は、私の手を何回も何回も握ったのだ。それは、自分の息子の遺体を取り戻すもどことができたことに感謝していたからだ。だから、彼はその霊魂を休ませることが出来たのだ」

ボブ・ホール氏は、ベトナム戦争で1969-70年に従軍し、22才の大尉だった。彼の小隊は、いくつかの小競り合い、-衝突というべきか-に関わった。「そして、我々はその結果遺体を埋葬した」と、彼は言った。

戦争中、オーストラリア軍は、軍事行動後報告書に、衝突ごとに、時間、日付、場所と殺した人数を記録していた。埋葬地には、軍の地図に印を付けた。

研究の一部として、ホールとそのチームは、地図上の印を緯度と経度に変換した。そして、Google Earthの地図上にその位置を入力した。

昨年、ホールとデ・ヒアーはベトナムにデータを持って行き、ベトナム政府の役人と40年前に戦った兵士を含めてベトナムの退役兵士に手渡した。その資料は、 ベトナム側に、オーストラリア軍に殺された全兵士の埋葬場所を知らせるものであった。

デ・ヒアーは、ベトナム側の反応に触れて、「彼らは、全く興奮した。彼らにとって、自分たちの兵士の埋葬場所を知ることは、大きな安堵になった」と言った。
このデータは戦死者の埋葬場所を示すのだが、名前がわかるというものではない。名前を合致させることが、”彷徨える霊魂作戦”の最終部分になる。

ホールのチームは、かなりの高い確率で、オーストラリア兵が作った地図に付けられた墓から、ベトナム兵の名前を合致させられるとみている。 これには、公式のベトナムの記録、遺体から集められた文書を照合して、オーストラリア側の地図からのデータと突き合わせる作業が必要だ。

彼らは、この調査作業の費用として5万ドルかかると推定している。 しかしながら、連邦政府に資金を求める訴えは、官僚の足並みが揃わず失敗に終わった。DNA識別の技術援助を含めてベトナム政府の行方不明兵士捜索事業には適所の支援を提供していると、オーストラリア政府は表明した。

政府の考えに、ホールのチームを困惑している。政府の提案は、死者の識別により速く、より簡単で、より安価な方法を使っている、とチームは言う。

そして、政府援助を求める他に、チームは、戦場で採取した戦死者の手紙、日記、写真を返還するように、オーストラリアのベトナム退役軍人に訴えた。

その目的は、和解行為の中で、戦死者の家族に私物を返還することである。それらがあれば、特定の墓で戦死者を特定することも可能になるからである。

説明が難しくないものを変換出来れば、ホールやヒアーらが、旧敵の家族にいくらかでも心の安堵を与えられると考えている。

「これは正しい行為だと、私は思う。我々は、この情報があるということを知っていた。 我々は、この情報がベトナム人にとって重要であるということを知っている。 率直に言って、私自身がこれらの少しの2つの情報を知りながら、それについて何もしないで、私が生きていくことはできない」と、ホールは言った。

シドニー・モーニングヘラルドの記事から
北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊 Since 1990
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2011-04-21

2011予算案 オバマ大統領署名

米上下両院は14日、オバマ米大統領と議会指導部が先週合意した2011年度(2010年10月─11年9月)の予算法案を可決した。
 下院本会議は、オバマ米大統領と議会指導部が先週合意した2011年度(2010年10月─11年9月)の予算法案を260対167で可決した。
 予算法案は、今会計年度の歳出を380億ドル削減する。下院の共和党議員の約25%は、削減幅が十分でないとして反対に回った。また、半分以上の民主党議員は、削減規模が大き過ぎ、低所得層に打撃を与えるとして反対した。
 法案は上院では81対19で可決された。共和党議員15人、民主党議員3人、独立系議員1人が反対票を投じた。法案は今後オバマ大統領の署名を経て、正式に立法化される。
ここで、アメリカ予算に組み込まれたベトナム・枯れ葉剤被害関係の予算をみてみたい。
アメリカで「戦争遺産」プロジェクトの会長をしているスーザン・ハモンドさんの記事を送って頂いたので、翻訳して掲載した。
オバマ大統領上下両院での、2011会計年度の予算案可決にともない署名した。この予算案には、ベトナムにおけるエージェント・オレンジ被害のための支出1850万ドルを含まれている。 その予算のうち、1550万ドル分は、ダナンのダイオキシン浄化のための予算である。このプロジェクトは、予算が変更されない限り、浄化作業が開始されれば、改善プロジェクトのために必要とされる資金提供をこの点で完了する このプロジェクトのための主体者は、来月かその辺にはUSAIDから派遣され、その後今年中に作業を開始する予定だ。
さらに300万ドルは、枯れ葉剤関連の医療計画に割り当てられている。 USAIDは、セイヴ・ザ・チルドレン、イースト・ミーツ・ウェスト、VNAHがこれまで行っていた資金供給を受けた3プロジェクトの見直しを進めている。この見直し作業と、ベトナム政府側から意見を受けたあと、さらなる資金提供どのように健康・医療関連事業使用するかをUSAIDは決定をする。
 この予算獲得は、バーモント州出身の上院議員、パトリック・レーヒー議員、特に予算委員会のティム・リースター議員とそのスタッフの労苦に負うところが大きい。そして、また、ベトナムでエージェント・オレンジ・ダイオキシン被害のためにアメリカ政府からより多くの資金提供を受けるために活動をしているたアメリカ人の活動によるところも大きい。もちろん、しなければならないことは遙かに多い。しかし、過去からみれば、年々資金提供は増加の一途をたどっていることを示している。2007会計年度300万ドル; 2009会計年度300万ドル; 2010会計年度1500万ドル;そして、2011会計年度1850万ドル)。政府の支出削減努力によって、予算の中で1850万ドルを保つすら挑戦である。よって、表面で見えるより、大きな勝利なのだ。

多くの人が、これでは進行中のエージェント・オレンジ/ダイオキシンの健康と環境面での影響に注意を向けるにはまったく十分でないと考えるかもしれないが、しかしながら、一方で、われわれは、ちょうど5年前の状態からは遠く離れたということを思い出さなくてはならないという点で、私は同意する。 我々は、いま、予算増額を確実とするために、12会計年度の予算に現在集中しなければならない。 「新しいワ政府の中で、これは容易な仕事ではない。

+++++
オバマ大統領が、14日に議会に提出した2012年度の予算教書では、予算総額は3兆7000億ドル。今後10年で1兆1000億ドルの財政赤字削減を目指し、3分の2を歳出削減で、残る3分の1を増税でまかなう。

国防費を除く政策的経費は今後5年間据え置きとし、低所得層向けの一部補助金削減、住宅ローン金利や寄付金に対する控除の新たな制限などを盛り込む一方、メディケア(高齢者医療保険制度)や社会保障といった政治的人気につながる制度にはほとんど手を付けなかった。

こういう状況の中での予算獲得は大変である。ベトナム支援予算の獲得には、一方ならぬ苦労があったことが推察される。

北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊 Since 1990
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2011-04-16

蓮の花奨学生からの便り(27)

27回目は、ニンビン省出身のグエン・ティ・ホアさんです。
初めての手紙ですね。今、ハノイで勉強しています。それでは、ご紹介しましょう。

ハノイ 2011年3月5日
拝啓、愛のベトナムさわやか支援隊の皆様とKITAMURAさんへ

手紙を書くのが遅くなって、すみません。愛のベトナムさわやか支援隊の皆様と北村さんとご家族と皆さんは、お元気ですか?仕事は順調に行っていますか?

実は、今年の学期の結果が出た時に手紙を書こうと思いますが、まだ全科目の結果が出ていません。

私にとって、去年の学期の結果が良くありませんでした。成績が下がったように思っています。7科目の中で3科目はB、2科目はC、残っている2科目は良い点数を得るように頑張って勉強していますけど、恥ずかしい結果を知らせて本当に申し訳ない気持ち
です。
 学校以外に、アルバイトしながら学校でのいくつかの活動を参加しています。喫茶店でアルバイトあまり大変ではないですが、かなりの時間を占めるので、学習成績が良くなくなりました。でも、自分がまだ頑張っていないのではないかと思っています。しかし、私は、これからはそのアルバイトを止めて、学習時間を優先にして努力したいと思います。


皆さんにいした時から、私はなんとなく日本語を勉強したいなぁと思っていました。最初は日本語に関する知識への好奇心ですが、勉強すればするほど面白く感じています。でも、やはり日本語とても難しくて、ある時も止めようかなと思いましたが、奨学金を渡してくださった時の北村さんの言葉は「苦労なくして手に入れた物には価値がない」または、「忍耐力なしに何でも行われない」とおっしゃったのを覚えています。この言葉を頂いたのだから、日本語の勉強続ける決心をしました。また皆様がベトナムに来る時、皆さまのお話しが、少しでも理解できるように頑張りたいと願っています。この選んだ道からには、日本企業で仕事できるように、自分の希望するものを得たいという私の最初のステップです。

上に書いたことは、去年の学期のすべて出来事でした。私は結果があまり出来なく、本当に申し訳ないとっており、今学期はもっともっと頑張りたいと思っています。
very goodの字が見える 
最後ですが、愛のベトナムさわやか支援隊の皆様と北村さんとご家族もお元気で、幸福になりますようにお祈りしています。
またお会いできたらいいですね!!
※初めての日本語のテストの結果も、一緒に送りました。(笑)
NGUYEN HOAより。
お手紙ありがとうございました。大きな紙に書いてくれましたね。私たちは、元気です、ご心配ありがとうございました。私たちよりも、いま東北の方々が、地震、津波、そして原子力発電所の事故で大きな不安を抱えています。困ったことです。日本人の智慧でなんとか解決したいですが、できるかどうか。たくさんの学生、生徒も、被害に遭っています。勉強をしたいけど、まずは自分の地域を住める環境にと一所懸命ボランティアに励む大学生もいますし、お年寄りや障害をもった方々の面倒を見ている人もいます。豊かになった日本も、一瞬にして戦後の焼け跡のような光景になりましたが、日本人は、このままで終わりません。必ずや、昔以上に住みよい町にすると思います。被災地の復興が一日も早く進み、原発の暴走が止まって、安心して住める国土になるように、毎日祈っています。
日本語の勉強を始めたのですね。日本語の仲間が増えることはとっても嬉しいです。「なんとなく・・・」始めたにしても、ぜひ、ものにしてください。私は、日本語で飯を食ってきた人間です。いつか、何かご協力出来れば、これもまた新しい貢献につながります。「竹の節を一つ破(わり)ぬれば余の節亦(また)破るるが如し」という言葉があります。いろいろの意味にとれますが、ホアさんが日本語を始めれば、それにならう人が一杯出てくる・・という風にもとれます。それには、完璧にならうことです。せっかくやるんだもの・・・頑張りましょう。人ではない。自分です。自分が勇気を出して壁を破ることです。
そこから、日本企業に務めるという目標も悪くありませんが、越ー日の友好に大きな橋をかけるような大きな夢も持ってください。
今年8月また、お会いしましょうね。お母さんに宜しくお伝え下さい。
勉強・・頑張って、リベンジしてください。お元気で。
これ、許都の西陣織です。⇒西陣織のイラスト
北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊 Since1990
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蓮の花奨学生からの便り(26)

蓮の花奨学生からの便り・・・今日は、ホーチミン市の経済大学で勉強するグエン・タイン・チ君からのものです。ホーチミンの大学はどういうキャンパスでしょうかね。
 校舎 無料イラスト

 ホーチミン市、2011年2月27日

拝啓 宮尾和宏さま 愛のベトナムさわやか支援隊の皆さまへ

私は1991年4月6日に生まれ、グェン・タイン・チです。現在、ホーチミンの経済大学で勉強しています。

時間が早く過ぎて、新年がもう始まりましたが、皆さんはお元気ですか?皆さんと家族はどんなお正月を過ごされたでしょうか?私はお正月、家族と一緒に新年を迎えるため一週間くらい故郷へ帰りました。家族と過ごす時間が短かったけど、全員の兄弟が集まり、両親と一緒にお正月を迎えるのが、何より本当に一番幸せと楽しく感じました。そして、新年のため、皆さんと家族は、健康、幸福、金運が良い一年になりますように祈っています。
ところで、私は大学の一年を留年したため、今年は大学で勉強続け、一つ年下の友達と一緒に勉強していますけど、私たちが仲良く頑張って、色々な活動に精いっぱい参加して、サポート情報交換のために、私はグループのリーダーとして選ばれました。病気の影響で、いつも頭がすごく痛いし、集中力欠ける時がありますが、両親と皆さんが失望されないように出来る限りで頑張って勉強していました。しかし、今年の成績がC位になりました。本当に寂しい結果で、皆さんに「ごめんなさい」とお詫びしたいです。でも、皆さんに心配をかけないように、一生懸命に勉強して来年には良い結果をお知らせできるようにしたいと思います。
現在、大学での学習以外、英語レッスンを受けたり、アルバイトもしたりしています。アルバイトの稼ぐお金が少ないけど、両親はもちろん自分にも一部助かります。
最後になりますが、皆さまはお体を大切にしてください。今年の夏に皆さんとお会い出来たらいいですね!!

NGUYEN THANH TRI より

お手紙ありがとうございました。
今、日本は、大震災から1ヶ月。復興が大変です。原子力発電所の暴走が止まらず、まだ完全にコントロールできていません。そういう中で、被災した大学生も多く、新学年が普通ならもう始まっていますが、まだまだ授業を開始できない大学あります。ほんとうに、悲しい事です。被災地の日本の大学生も、ボランティア活動をしたり、苦しい中でも各自が復興の努力をしています。

チ君も1年留年しましたが、クラブ活動で責任者になったことは人に尽くす勉強をする絶好のチャンスと思います。いろいろと経験を積んでください。何がきっかけになるかわかりません。
 アルゼンチンの医学者のホセ・インヘニエロスは、「青年が夢を抱く時、新しい歴史は生まれる。自らの手で未開拓の大地に恵みの種を蒔くことは、青年の特権だ」と、言っています。
8月にまた、元気で会いましょう。

北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊 Since 1990
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2011-04-15

蓮の花奨学生からの便り(25)

少し、ブログの時間が空いてしまいました。3月11日の東日本大震災が起き、そのために日本に行っていました。個人的ですが、東北の私の友が元気であるのを知り、安心しましたが、死者・行方不明者が3万人を超えるのは間違いなく、ほんとうに日本にいても心穏やかではありませんでした。犠牲になられた方々に心よりご冥福をお祈りし、被災された方々が一日も早く立ち上がれる環境が整うことを祈りたいと思います。お見舞い申し上げます。瓦礫と放射能の中から立ち上がることはよういなことではなく、なおかつ生きた瓦礫(菅直人)の撤去も容易なことではありません。

今回の手紙は、クアンガイ省のトークエンさんと思われる方からのお手紙です。名前が書かれていませんでした。住所もなく、辛うじて、ダクラク省のバンメ・トゥオットからのものであることがわかり、トー・クエンさんと判断しました。ダクラク省は、中部高原地帯の省です。
イメージ 1
コーヒー、ゴム、カカオ、コショウなど農林産品の生産・加工などが盛んなところで、コーヒー取り引きセンター、もありますね。

BUON ME THUOT-DAKLAK, ベトナム2011年1月20日

前略ごめんください。

 まず、皆さまに「健康と新年おめどとう」と伝えたいです。今年もお元気で、幸福で、幸運と成功の一年になりまようにお祈りしています。皆さんのお仕事は順調にいっていますか?皆さんのご好意は、私とベトナム人達に多くの喜びをもたらして下さいました。このご好意は皆さんの人生にも、同じように多くの喜びをもたらす様になると信じております。

昨日、私は最後の科目の試験を受けました。テストの結果は期待通りではありませんでしたが、自分自身は全力を尽くしたので、満足しました。現在のテストが終わったばかりなので、テストの結果が出ましたら、皆さんに成績表をお送りするつもりです。
日本はベトナムのお正月のように迎えるでしょうか?私の住んでいる所の周りの人々はお正月を迎えるために、大掃除したり、色々なことを準備したりしているように誰でも忙しそうです。お正月は家族のメンバーが集まって、一緒に新年を迎える季節ですが、今年は兄が家族と一緒に迎春できませんので、本当に寂しいです。兄は来年の大学の研修をするために、アルバイトしてお金を貯金しなければなりません。学費のために、普段勉強しながらアルバイトしますが、大学の研修はすごくお金がかかるそうですから、ずっと仕事をしなければならないのです。ですから、今年のお正月を家族と一緒に迎えられません。父が居ないので、兄が家族を背負っています。年に一週間しか休めず、次の学年の学費のために、アルバイトしています。兄の成績の結果が良く、いつもクラスのトップ10の中に位置しています。私は家族の一員として誇りがあり、そういう家族を愛しています。
家族はたくさん困難な問題を抱えていますが、良い母と良い兄と日本人の皆さんから支援していただき、自分は他の人に比べて幸運と思っています。そのために、自分自身が選択した道で前向きに歩いてゆけます。日本の皆さんのご期待に応えて一生懸命に頑張りたいと思います。まだ先の人生は分かりませんが、皆さんからの熱意のあるお手伝いを戴き、自分自身が成功できるように頑張ります。

最後になりますが、皆さまのお手紙のお返事を楽しみに待っています。この前に、皆さんにお手紙を送りましたが、返事が無かったので、すごく寂しかったです。たぶん皆さんが忙しいと思いますけど、いつか皆さんにまたお会いできたらと、楽しみに待っています。
皆さん、お元気で、良い年になりますように!! かしこ

お手紙ありがとうございました。故郷を離れて、ダクラク省で勉強されていること、いろいろと心配なこともあるでしょう。素晴らしいお母さんと家計のために、一所懸命働くお兄さんのことを誇らしげにかていました。自分の家族が自慢できることは、すごいこです。お父さんが居らっしゃらない分、お兄さんが、その代わりを務めていらっしゃる・・・・いつか、お会いしたいと思います。
私たちのできることはほんのわずかなこと、そのことに感謝の気持ちを述べて下さり、私たちはとてもうれしいし、またすばらしいご家庭に育ったのだなと痛いほどわかります。
こんどの学校の成績・・・私たちは楽しみに待っています。人に見せるということは、それだけ負担がかかりますが、それだけ頑張る決意をみせるということでもあります。少しでも好成績であることを祈っていますよ。

お手紙のお返事ごめんなさい。住所がないと出せないもので・・・お許しください。8月にまた、元気でお会いしましょうね。

北村 元 愛のべとなむさわやか支援隊 since1990
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2011-04-04

ベトナムの方々からお見舞い

私は、今朝、日本から戻りました。今回の東北・関東地方太平洋沖地震に対して、国内はもとより、海外の多くの方々から支援が送られていることを肌身感じ、ほんとうに「You are not alone」を実感しています。

そして、この度、ベトナム外務省のタインさんを通じ、私たちが支援している各省・市の枯れ葉剤被害者協会からのお見舞いのご連絡を頂いたことに、さらなる感銘を受けています。

地震・津波に遭われた犠牲者・被害者、そして、ある意味で人災ともいうべき原発の暴走の被害を受けた方々に、掛ける言葉を失います。

しかし、「冬は必ず春になる」を固く信じて、東北、北関東の方々の粘り強い復興の力添えをするために、いま、多くのボランティアが支援に動いています。

ベトナム外務省のタインさんからのメールをご披露し、私たちに支援をしてくださっている方々とともに、ベトナム人の友情を分かち合いたいと思います。

北村さんへ


まず、日本の巨大な地震と津波に心からお見舞いを申し上げます。そして、クアンガイ省、ダーナン市、ニンビン省、ヴィンフック省、フート省の各省・市の枯れ葉剤被害者協会からのお見舞いの電話をいただきました。


「日本の皆さん大丈夫ですか?」 「ボランティアの皆さん無事ですか?」との電話でした。また、団・トゥイ・チャムのお母さんからのお見舞いの電話ももらいました。
 この数日、毎日、いつも日本のニュースが流されています。ベトナムの人たちもどうやって日本の皆さんを支援するのか考えています。この巨大な災害に通して、いろいろな感動な話を聞きました。日本の皆さんは本当に素晴らしいと思います。


このメールを通して、ベトナムから日本へのお見舞い言葉を送りたいと思っています。


レ・ドゥック・タイン

タインさんには、早速お礼を申し上げ、お見舞いのご連絡をくださった各省・市の枯れ葉剤被害者協会とトゥイーチャムのお母さんにくれぐれもお礼をお伝えして下さるように、お返事しました。

第二次世界大戦後の日本の復興を支えてきたのは、庶民の大きな底力でした。大震災という転載と原発の暴走という人災の影が濃い事故という厳しい挑戦に勇敢な対して、新時代を築いていくことを世界の皆さんに誓っていきたいと思います。海辺の廃墟に、新しき町を築こう・・・そんな想いは、ベトナムの人びとの逞しさからも勇気づけられます。

お見舞いのお電話をありがとうございました。

この夏、また一層庶民対話を楽しみたいと思います。

北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊 since1990
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