2010-05-03

「枯れ葉剤使用を命じたのは誰」の続き

今回のコラムは、4月25日付けのコラムに続くものです。ツムウォルトJr.提督(当時)が枯れ葉剤撒布の命令者の一人であることは間違いありませんが、彼が1994年という早い時点で、ベトナムに対して、枯れ葉剤の共同研究を呼びかけていたことを示す記事です。

そして、そのことはベトナム側もきちんと評価をしています。
ここに載せるのは、1995年1月8日付けのオレゴン州の「レジスター・ガード」という地元紙の記事です。翻訳のまずさで読みにくい点はご海容の程をお願いします。
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提督は、今エージェント・オレンジの研究を促進

ヴェトナム発:エルモ・ツムウォルトJr.は旧敵とも会うために、最近ヴェトナムを訪問した。エルモ・ツムウォルトJr.は、化学物質を使っての枯れ葉作戦を命じた人の一人だが、部下の息子が死んだののも、枯れ葉剤のせいであると、彼は信じている。

ハノイ/ヴェトナム:1968年から1970年までベトナム戦争でアメリカ海軍の指揮官として、ツムウォルト提督は、毎日の犠牲者リストを一番下から上まで常に目を通したのだった。それは、長男エルモ・ツムウォルト3世が、部下として同じ時期にベトナムで従軍していたからだ。なぜ、下から上に?

なぜなら、犠牲者はアルファベット順に掲載されるので、私は犠牲者が出れば、リストに載れば、名字がツムウォルトでZなので下の方にあると分かっていたから」と、退役提督は思い出すように話した。
 ツムウォルト氏の長男は、戦争そのものは生き抜いたが、1988年に42歳で、ガンため亡くなった。父エルモ・ツムウォルトJr.は、ガンは自分がジャングルを枯らせるために使用を命じたエージェント・オレンジで引き起こされたと思っている。

 アメリカ軍は、ツムウォルト赴任の前に、すでにヴェトナムのあちこちで、エージェント・オレンジを使用していた。しかし、彼は、共産軍に有利な天蓋を枯らそうと、息子が警備艇に乗って従軍していたメコンデルタで散布するよう命じたのだった。

 74才のツムウォルトは、四半世紀ぶりに、9月(註:1994年)に、アメリカの最高位の将校としては初めて、ヴェトナムを再訪した。彼は、ヴァージニア州のアーリントンに住んでおり、数社の役員と公益法人の責任者として勤務している。

 息子の死が、彼をしてエージェント・オレンジ問題で米越共同研究の提唱者になる決断をさせた。その犠牲者ヴェトナムの人々にも利益になると主張した。

 「私がエージェント・オレンジと、全米脊髄提供計画議長として私がしていることは、ともに、レンガと迫撃砲で攻撃するのではなく、むしろ、息子を弔う方法だ」と、ツムウォルトは言った。

 今年(註:1995年のこと)、彼はエージェント・オレンジ共同研究のための資金割り当てに関する聴問会開催のために、新議会に働きかける。彼は、ヴェトナムは支持を約束したと言った。

 1970年から1974年までワシントンの海軍作戦部長として、ツムウォルトは海軍の改革と近代化を狙いとした「Z-グラムズ」指令で有名となった。彼は、1976年にヴァージニア州から民主党上院議員として立候補したが、失敗した。

 ヴェトナム再訪時にツムウォルトに同行したのは、次男のジムだった。彼もまた、ベトナム退役軍人だった。 あの戦争の多くのアメリカ復員軍人は、元の戦場に戻り、かつての敵と握手をし、抱きあっている。
             父子で著した本
 ツムウォルトは初めてヴォー・グエン・ザップ将軍に会って、テキサス州のテキサスクリスチャン大学の分校のラボック校で1996年4月に開かれるヴェトナム・セミナーに参加してくれるようにアメリカへの招待を呼びかけた。

 ザップ将軍は「私は、あなたのご家族に起こったことをわかっています」と言って、自分が失った人たち、手を組んだ同志、友人、親戚の話をした。将軍の夫人は抗仏活動を理由に逮捕され、刑務所で獄死したのであった。

 ザップ将軍は、1954年にディエン・ビエン・フーでフランス軍を破った。10年後には、彼は50万のアメリカ軍を寄せつけず、実質上第2次インドシナ戦争に勝利した。現在83才の老戦士は、退役海軍提督を抱きしめた。心に強く訴えるものを感じた瞬間だった。

 「あなたはあなた時代の語り草の方です。そして、われわれの傷を癒す時が来たという私の考えをあなたは分かち合ってくれると思います」と、ツムウォルト退役提督は言った。
 ツムウォルトの最も忘れがたい瞬間は、ハノイ・ヒルトン訪問だった。捕獲されたアメリカ軍武器やB-52爆撃機の残骸を展示してあるハノイ軍博物館の訪問ではなかった。

 ハノイ・ヒルトンは刑務所としては長い間囚人のいないままではあったが、彼は刑務所の中に入ることは許されなかった。しかし、四角い石を積んだ石塀と鉄のドアの周りを涙を流しながら歩き回った。そして、彼はかつての配下の飛行士がいた刑務所に敬礼した。

 ツムウォルトは、非凡なアメリカ兵囚人が拷問を受けていた”恐ろしき時代”に思いを馳せて泣いた。とはいっても、旧アメリカ兵の中には、待遇はよかったと主張している者もいる。

 「彼らが帰還した後の素晴らしい青年たちの多くを、私は知っている。私は直接に彼らの経験を知った。しかし、ハノイヒルトンの恐ろしき周囲をみれば、何が何でも本国のことを思わざるをえない」と、言った。

 ハノイ軍事博物館では、ツムウォルトは捕捉されたアメリカ軍武器に敬礼をした。「ほとんどどれもが、戦死した勇敢なるアメリカ兵を象徴している」と、彼は言った。

 そして、滞在中の毎日、息子のエルモのことが彼の脳裏から消えることはなかった。父子二人とも、エルモの死の日まで、エルモは終戦の1975年を越えて13年間、戦争を生き延びたと信じていた。それは、枯れ葉作戦によって死傷者が大幅に減ったからだ・・と、ツムウォルトは言った。
 
 
脊椎が湾曲しているグエン・ティ・ミー・マイさん(クアンガイ省で2009年)

 「エルモと私は、息子が常に危険な状況で献身的な行動していたので、息子は戦争を生き延びられないのではないかと思っていた。おそらく、それは彼は休んでなんかいられない、特別休暇など取っていないことを示すためではなかったかと思う。息子が行っていた枯れ葉作戦は、死傷者の減少には極めて重大だったと、父親は言った。

彼も私にも罪の意識はなかったけど、息子の末期には私が救いいだったという絶望感しかなかった

 エージェント・オレンジは、また、エルモの息子、ラッセル(17)の重度の学習障害を引き起こしたと見られる。

 ツムウォルトは言った。「私が同じような状況に置かれれば、今日再びエージェント・オレンジを使うだろう。我々がカンボジア国境沿いの狭い川や運河に入って行った時の死傷率は、月6%の割合で起きていた。海軍の平均的な死傷率は70%の可能性があった。我が軍の負傷者が身体障害者になる率は、1ヵ月で6%から1%未満までになっていた

 ツムウォルトと息子は、戦争中4~5回一緒に行動したことがあった。エルモはサイゴンに来たこともあったが、ほとんどはジャングルにいた。そして、元海軍提督は、ボートに乗って彼に会いに行ったこともある。彼らは、戦争の状況などを話しあった。

息子は、私のために常に良いアドバイスをたくさんしてくれた」と、ツムウォルトは感謝の気持ちを隠さなかった。

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4月25日付けの当コラムに載せたアメリカの記事がいかに中途半端なものかがお分かりいただけたと思います。肩書きや軍の位に関係なく、枯れ葉剤は命を蝕んだのです。そして、1995年という早い時点で、枯れ葉剤の共同研究のために、ツムウォルト氏が議会でのロビー活動を行ってきたことも注目すべきです。(完)Posted by Picasa 
 

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