2010-05-20

平成21年の豚支援報告5(完)

豚支援報告の最終回です。
豚は育ったものの、お子さんの病気で薬に消えてしまった豚・・なかなか思うようにはいきませんが、豚がいたからこそ、緊急時の薬を買えたのですね。
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クアンガイ省ドックフォー郡フォーニン村に住むファン・ヴァン・チンさんご一家です。チンさんは、 1952年生まれ。ご一家は 5人家族です。 
奥さんはグエン・ティ・キム・ホンさん(右から2人目)。ご主人より1歳若い1953年生まれです。
お2人とも戦場に出ています。

ご主人は、クアンガイ省で、1968年~1975年まで。戦場の7年は、ほんとうに長かったと思います。

奥さんは、クアンガイ省で、1971年から1975年まで。クアンガイ省は、旧南ベトナム領です。よくぞ、お二人とも戦争を生き抜かれたと思います。
稲村三千代さんからのご寄付で買わせて戴いた「さんちゃん」と、北村修治さんから渡して頂いた「とんじ」(豚の「トン」に、修治さんの「冶」をつけました。本当は、『トン爺」という愛称の意味もあったのですが)

枯れ葉剤被害者協会の報告では、「2頭の豚はそろそろ繁殖期にはいった」そうです。もしかしたら、もう、うまれているかもしれませんね。

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クアンガイ省ドックフォーにお住まいのゴー・ヴァン・チャンさんご一家、チャンさんは1954年生まれ。

奥さんのゴ・ティ・トゥアンさんは、1958年生まれです。51歳です。

チャンさんは、現在は公務員ですが、戦争中は、1970年から1975年まで、クアンガイ省からクアンナム省にかけて、野戦病院で従軍。軍医付きの医療補助員でした。チャンさんは内科専門に医療補助したそうです。16歳で戦場ですから・・・医者の資格は持っていません。

「負傷兵はものすごく多く、薬が足りませんでした。特に消毒液の不足は目に余りました」と、当時を振り返りました。
ご家族は5人で、男の子は二人とも元気だそうです。

長女ゴ・ティ・キム・ダインさん(写真下 ギターを持っている)は、1993年生まれで、神経障害があります。
豚支援は、岩浅洋子さんからのご寄付で買わせて頂いた「がんちゃん」と、三田村真希さんから渡して頂いた「まきちゃん」の2頭です。

枯れ葉剤被害者協会の報告では、「2頭の豚は大きく育ちましたが、子供(キム・ダインさん)が病気になったので薬を買うため、2頭を売りました。後で2頭を買い戻します」と、なっています。

豚は育ったけど・・・お子さんが病気になって・・豚が薬に消えました。でも、豚が救ってくれたからよかったと思います。こういう結果になって残念ですが、岩浅さん、お許しください。

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豚支援報告はこれで終わります。今年のツアーでも、数軒の豚支援を検討してみようと思っています。
ご支援下さった皆様に厚くお礼を申し上げます。(完)Posted by Picasa

2010-05-19

平成21年の豚支援報告4

今回も、豚支援のご報告が続きます。
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グエン・ティ・ホアさん(写真左)のお宅です。ホアさんは、1942年生まれ。4人家族です。農家として野菜を栽培していますし、豚を飼育する環境があるというので、2頭贈呈しました。

贈呈したのは、①鷹箸 多恵子(たかのはし たえこ)のご支援で「たえちゃん」と、②川津 康代(かわづ やすよ)ご支援の「せんちゃん」です。枯れ葉剤被害者協会からの連絡では、この2頭の豚は、半年ちょっとで60~70kgまでに成長したということです。そろそろ、繁殖させるそうです。
楽しみにしてますよ。
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レ・ヴァン・タンさんご夫妻は、1961年生まれで、クアンガイ省ドックフォー郡フォーニン村に住んでいます。国道1号沿いの家です。ご家族は3人で、奥さんは子ども生めない体になっており、養女をひとりとっています。 

私たちは、タンさんのお宅に、原 政枝(はら まさえ)さんのご支援で「まさちゃん」と金原 昇さんの名前を借りて「きんちゃん」と名付けた2頭の子豚を支援しました。2頭の豚は健康ですが、いまだ子作りには至らず、そろそろ繁殖の時期だそうです。Please wait a while・・・です。
奥さんのタムさんのクアンガイでの軍事活動は、1972年から75年までです。「この間は、散布を見ていない」と言いました。これはほぼ正しいと思います。軍務に従事する前の話だとしたら、十分ありうる話です。「水を飲んだこともあります」とも、言いました。
アメリカ軍の散布は1971年に終わっています。しかし、旧南ベトナム政府軍も散布を終えたというわけではありません。アメリカ軍は、自分で撒かない代わりに、南ベトナム政府軍に撒かせています。


その後79年から1984年まで、奥さんはラオスに派遣されました。婦人にとってはかなり長期間です。アメリカ軍が枯れ葉剤を撒かなくなったといっても、ダイオキシンまでが活動を停止したわけではありません。


タムさんは妊娠したけど、1回流産したそうです。1989年のこと。
「流産した赤ちゃんは、ほんとうに小さかったです。本当に悲しいです」
「以後何回も病院で検査しましたが、お医者さんからは、『子供はできない』と言われました」  彼女の目に、涙がにじみ出ました。

チュオンソンなどの山に入っていった女性は、多くの人が子どもを産めない体で戻ってきています。母になれる夢が、あの戦争によって壊された可能性は非常に高いです。戦争が終わったら、皆自分の幸せをつかもうと考えていたわけですから。
 
2頭の豚が早く子どもを生んで、金銭的な余裕を作ってあげて欲しいです。このタンさんの家は、枯れ葉剤被害者協会からの支援で新築されたものです。Posted by Picasa

2010-05-18

平成21年の豚支援報告3

豚支援報告の3です。
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ダナンの南、クアンガイ省ドゥックフォー郡フォータインは南支那海に面するサー・フインの入江に囲まれた集落です。そこの2軒に豚支援しました。
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北村修治さん(左)から豚の贈呈書を受け取るのは、グエン・チュン・フォンさん。1954年生まれの、今年56歳。一見お元気そうですが、糖尿病Ⅱ型の、枯れ葉剤関連の疾病を持っています。家族は 5人。下は、家族と写真に収まるフォンさん一家です。ここからは、塩作りをする塩田が見渡せます。今頃は、塩作りの最盛期です。

ここには、澤谷 和子(さわや かずこ)さんご支援の「かずちゃん」という豚と、山本 邦子さんご支援の「そんちゃん」という名の豚を贈りました。
うれしいことに、2頭の豚の内の1頭が6頭の子豚を産みました。 「かずちゃん」が産んだのか、「そんちゃん」が産んだのか・・・・?


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同じフォータイン村の、フイン・タップさんの家にも2頭の豚を支援しました。
ご主人のタップさんは、漁師でこの日は不在でした。奥さんのドゥックさんに豚の贈呈書を贈りました。タップさんの家は6人家族です。子供ふたりが精神障害をもっています。写真(下)の右の男の子が健常で、もう一人高校を中退して、やはり漁師をしている子がいます。かなりの貧困家庭です。漁師をしているお父さんも、船は持っていません。雇われの漁船員です。

そういうことで、ここの2頭の子豚、田村栄子さんからのご支援の「えいちゃん」と奥井さんが贈った「トン・ウック」ちゃんは大きく育ちましたが、家を直すため、2頭は売られてしまいました。でも、買値の倍で売れました。3,600,000VNDもらいました。いまどき、半年で100ドルが倍になる投資物件はなかなかありません。家ができたら、また2頭を買って飼うそうです。タネ豚は売らないようにとお願いはしてありますが、田村さん、こういう事情もご勘案ください。経済的余裕を作ってあげることが支援の基本になりますので。ご支援ありがとうございました。
貧しい漁村の一角にたつタップさんの家の前で、支援隊ツアーの一行とご家族で。
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2010-05-17

平成21年の豚支援報告2

お待たせしました。豚支援報告の2回目です。
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ここは、グエン・チ・ティエンさん・グエン・ティ・タイン・トゥンさんのお宅です。お父さんとお嬢さんの2人が枯れ葉剤の被害者です。
おばあちゃんが御健在です。クアンガイ省南部のドゥック・フォーにお住まいです。お父さんの右隣のニーナーさんに障害があります。
このお宅には、西山 房子(にしやま ふさこ)のご支援で「たいちゃん」という豚と、金原理絵子さんの名前を付けた「りえちゃん」の2頭を贈呈しました。何頭生まれたでしょうか?
それでは、発表します。パンパカパ~ン。
なんと、なんと、なんと、何頭・・・10頭です。
おめでとうございました!! やりましたね。
ただ、生んだのは、「たいちゃん」 か「りえちゃん」なのかわかりません。そして、もう1頭は、繁殖期に入るそうです。

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下は、グエン・ティ・ミー・マイさんを抱くファン・ティ・タインさんです。クアンガイ省ドゥック・フォーに住んでいます。
私たちが訪問した日、南部から後長女も帰ってきていました。

ここには古瀬 壬生子(ふるせ みぶこ)さんのご支援で「み~ちゃん」と大石昌子さんのご支援で「だいちゃん」の2頭を贈呈しました。古瀬さん、大石さんご支援感謝しています。
被害者協会からの連絡では、「1頭が4頭の子豚を生みました。そして、もう1頭は4頭の子豚を育つ費用として売りました」となっています。つまり、飼育の餌代にしたという意味です。
少しでも豊かになればいいです。少しでも、心の余裕ができれば、支援の目的を達せます。
また、この夏に、できれば訪問したいですが、今年は、期間が短いために、無理かもしれませんね。Posted by Picasa

2010-05-14

平成21年の豚支援報告1

昨年の私たち支援隊の豚支援では、10世帯の枯れ葉剤被害者家族に20頭の豚支援をベトナム中部のクアンガイ省で行いました。いろいろな方からの支援金を集めて子豚支援を致しました。あれから、10ヶ月近く。豚のその後報告が、クアンガイ省枯れ葉剤被害者協会から、届きました。レ・タイン・トゥン君が翻訳してくれました。

今回から5回にわたって、「トンちゃんたちのその後」を掲載します。ここまで、きちんと報告して下さったクアンガイ省の被害者協会に、厚くお礼を申し上げます。


liil liil li _  ̄ ○ ○  ̄_ il liil liil li/

最初は、ブイ・ティ・タムさんのお宅です。タムさんは、下の写真の右から二人目です。

タムさんは、1940年生まれ、日本風にいえば、昭和15年生まれです。ご家族は、左から二人目の息子さんの奥さんも含めて6人家族です。自宅は、クアンガイ省クアンフーにあります。

タムさん、お元気ですか? ご家族の皆さんも? カイロプラクティックの三田村さんをまた、連れていきましょうか? 
お会いしたいですね。
枯れ葉剤被害者協会からの報告は、2頭の豚の内、1頭はそろそろ繁殖期に入ったとのことです。

このお宅には、遠藤 信利(えんどう のぶとし)ご支援の「しんちゃん」と、名古良輔(なご りょうすけ)さんのお名前を使って、「なごちゃん」の2頭をお贈りしました。いずれにしても、この2頭に頑張ってもらうしかありません。「しんちゃん」 「なごちゃん」ももたもたしないで・・速く家族を福をふやしてね!
私たち支援隊がご家族に贈る言葉は、
「(´'c_,'`) がんばっていこう!!(´'c_,'`)」 です。
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次は、クアンガイ省ギア・チャインにお住まいのチャン・ティ・ビックさんのご家族の豚です。

チャン・ティ・ビックさん(写真下中央)は、 1971年生まれ。ご家族はご夫婦と子供二人の合計4人で、寝たきりの長女がいたお宅ですね。ご主人のお母さんが写真に入っていますが、4人の中には入っていません。

クアンガイ省枯れ葉剤被害者協会の報告は、「2頭の豚の内、1頭がそろそろ繁殖期に入る」とのことです。

ここには、幅 匡子(はば きょうこ)からのご支援の「きおちゃん」と若竹 愛さんの名前をとって「あいちゃん」を差し上げました。のんびりしてるんですね・・・。速く大家族にしてあげてくださいよ。「きおちゃん」「あいちゃん」 よろしく頼むよ。

支援隊が贈る言葉は、
やはり、「'c_,'`) がんばっていこう!!(´'c_,'`)」 
つづくPosted by Picasa

2010-05-04

ご寄付を頂きました

先日の写真展に関連して、寄付を2件いただきました。その話をさせてもらいます。
(´・ω・`)  ( ´,_ゝ`)  (*・c_,・*)

下の写真、左の二人を見てあげてください。donorsです。ドネーションをして下さったお嬢さんです。
山下 真礼(まひろ)さん(小学校5年生)と山下 真歩(まほ)ちゃん(小学校2年生)です。新谷音楽療法士のお孫さんです。真歩ちゃんが、講演者の名古先生に「花束をあげたいな」と言ったそうです。夕食中に、新谷さんが、お嬢さんに小声で「お花はベトナムまでには枯れちゃうし・・・ホントは支援金だね」とコソコソ話。

そのヒソヒソ話が、真礼さんには聞こえていたようで、一円貯金箱を開けて持ってきてくれたそうです。それで、花は名古先生に、寄付は支援隊にとなったのです。ありがとうございました。櫻井さんと宮尾さんで、一所懸命,数えてくれたそうです。

名古先生と宮尾会長が、きちんとお礼しますから・・・待っていてください。

真礼さんは、夏休みの自由研究をもう決めているそうです。テーマは「ベトナム」だそうです。何を書くのかな? 歴史 戦争 文化・・何か一つくらい私が協力しますよ。
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もう1件は、グループ・しみず(代表:田中宜子さん)から頂戴しました。わが支援隊の写真展とほぼ同じ時期に、グループ・しみず10周年記念行事として、北村修治写真展を清水区で主催されました。

 一部 報告会 (北村修治さん)
 二部 チャリティーコンサート
チャリティー・コンサートで集まった浄財を、わが支援隊に先日ご寄付下さいましたことを本当にありがたく、感謝申し上げます。
北村修治さんがさりげなく指をさしているのは、実は私・北村 元の名刺です。お気遣いありがとうございました。「頑張れよ」というメッセージが伝わってきます。猛暑の中を走りまわって撮った修治さんの愛と汗の滲んだ写真が多数紹介されました。親戚でもない同姓の北村修治さんですが、どこかでDNAがつながっているのでは・・・と確信するこの頃です。
グループ・しみず」の田中宜子(たかこ)代表のお手紙をご紹介します。

北村修治さんの「愛は行動」との強い思いが、たくさんの方々のお心にしっかりメッセージとなって届いた結果として、11万円の寄附を、「愛のベトナムさわやか支援隊」へお届けすることができますこと、スタッフ一同たいへん嬉しく思っております。私共の力はまことに小さいのですが、このように、愛の心を持って動く方がいてくださるおかげで、たくさんの方に共感して頂く機会をつくるお手伝いができましたこと、感謝しております。それも、もとはといえば、長年ベトナムの支援をして下さっている貴会の皆さまのおかげ、会長としてご苦労をしてくださっている宮尾様のおかげでございます。ありがとうございます。
私は、中島みゆきの「」を歌いましたが、まさしく、当日会場にお見えくださった方々すべてが、見えないご縁の糸で、北村修治さん、貴会の皆さま、そしてベトナムの被害者の皆さまと、糸でむすばれているのだと思います。今後もこのを大事にさせていただき、私共にできるやり方で、ささやかな支援が続けていければと思っております。北村修治さんのお話はとってもわかりやすく、いいたいことはしっかりお伝えくださり、皆さんのお心にしっかり平和への思いが伝わったことと確信しております。

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田中さん初め、グループしみずの皆様方に、ブログ上で、深甚なるお礼を申し上げます。有効に使わせて頂きます。ありがとうございました。皆様のますますのご活躍を祈っております。(北村 元:記)Posted by Picasa

2010-05-03

「枯れ葉剤使用を命じたのは誰」の続き

今回のコラムは、4月25日付けのコラムに続くものです。ツムウォルトJr.提督(当時)が枯れ葉剤撒布の命令者の一人であることは間違いありませんが、彼が1994年という早い時点で、ベトナムに対して、枯れ葉剤の共同研究を呼びかけていたことを示す記事です。

そして、そのことはベトナム側もきちんと評価をしています。
ここに載せるのは、1995年1月8日付けのオレゴン州の「レジスター・ガード」という地元紙の記事です。翻訳のまずさで読みにくい点はご海容の程をお願いします。
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提督は、今エージェント・オレンジの研究を促進

ヴェトナム発:エルモ・ツムウォルトJr.は旧敵とも会うために、最近ヴェトナムを訪問した。エルモ・ツムウォルトJr.は、化学物質を使っての枯れ葉作戦を命じた人の一人だが、部下の息子が死んだののも、枯れ葉剤のせいであると、彼は信じている。

ハノイ/ヴェトナム:1968年から1970年までベトナム戦争でアメリカ海軍の指揮官として、ツムウォルト提督は、毎日の犠牲者リストを一番下から上まで常に目を通したのだった。それは、長男エルモ・ツムウォルト3世が、部下として同じ時期にベトナムで従軍していたからだ。なぜ、下から上に?

なぜなら、犠牲者はアルファベット順に掲載されるので、私は犠牲者が出れば、リストに載れば、名字がツムウォルトでZなので下の方にあると分かっていたから」と、退役提督は思い出すように話した。
 ツムウォルト氏の長男は、戦争そのものは生き抜いたが、1988年に42歳で、ガンため亡くなった。父エルモ・ツムウォルトJr.は、ガンは自分がジャングルを枯らせるために使用を命じたエージェント・オレンジで引き起こされたと思っている。

 アメリカ軍は、ツムウォルト赴任の前に、すでにヴェトナムのあちこちで、エージェント・オレンジを使用していた。しかし、彼は、共産軍に有利な天蓋を枯らそうと、息子が警備艇に乗って従軍していたメコンデルタで散布するよう命じたのだった。

 74才のツムウォルトは、四半世紀ぶりに、9月(註:1994年)に、アメリカの最高位の将校としては初めて、ヴェトナムを再訪した。彼は、ヴァージニア州のアーリントンに住んでおり、数社の役員と公益法人の責任者として勤務している。

 息子の死が、彼をしてエージェント・オレンジ問題で米越共同研究の提唱者になる決断をさせた。その犠牲者ヴェトナムの人々にも利益になると主張した。

 「私がエージェント・オレンジと、全米脊髄提供計画議長として私がしていることは、ともに、レンガと迫撃砲で攻撃するのではなく、むしろ、息子を弔う方法だ」と、ツムウォルトは言った。

 今年(註:1995年のこと)、彼はエージェント・オレンジ共同研究のための資金割り当てに関する聴問会開催のために、新議会に働きかける。彼は、ヴェトナムは支持を約束したと言った。

 1970年から1974年までワシントンの海軍作戦部長として、ツムウォルトは海軍の改革と近代化を狙いとした「Z-グラムズ」指令で有名となった。彼は、1976年にヴァージニア州から民主党上院議員として立候補したが、失敗した。

 ヴェトナム再訪時にツムウォルトに同行したのは、次男のジムだった。彼もまた、ベトナム退役軍人だった。 あの戦争の多くのアメリカ復員軍人は、元の戦場に戻り、かつての敵と握手をし、抱きあっている。
             父子で著した本
 ツムウォルトは初めてヴォー・グエン・ザップ将軍に会って、テキサス州のテキサスクリスチャン大学の分校のラボック校で1996年4月に開かれるヴェトナム・セミナーに参加してくれるようにアメリカへの招待を呼びかけた。

 ザップ将軍は「私は、あなたのご家族に起こったことをわかっています」と言って、自分が失った人たち、手を組んだ同志、友人、親戚の話をした。将軍の夫人は抗仏活動を理由に逮捕され、刑務所で獄死したのであった。

 ザップ将軍は、1954年にディエン・ビエン・フーでフランス軍を破った。10年後には、彼は50万のアメリカ軍を寄せつけず、実質上第2次インドシナ戦争に勝利した。現在83才の老戦士は、退役海軍提督を抱きしめた。心に強く訴えるものを感じた瞬間だった。

 「あなたはあなた時代の語り草の方です。そして、われわれの傷を癒す時が来たという私の考えをあなたは分かち合ってくれると思います」と、ツムウォルト退役提督は言った。
 ツムウォルトの最も忘れがたい瞬間は、ハノイ・ヒルトン訪問だった。捕獲されたアメリカ軍武器やB-52爆撃機の残骸を展示してあるハノイ軍博物館の訪問ではなかった。

 ハノイ・ヒルトンは刑務所としては長い間囚人のいないままではあったが、彼は刑務所の中に入ることは許されなかった。しかし、四角い石を積んだ石塀と鉄のドアの周りを涙を流しながら歩き回った。そして、彼はかつての配下の飛行士がいた刑務所に敬礼した。

 ツムウォルトは、非凡なアメリカ兵囚人が拷問を受けていた”恐ろしき時代”に思いを馳せて泣いた。とはいっても、旧アメリカ兵の中には、待遇はよかったと主張している者もいる。

 「彼らが帰還した後の素晴らしい青年たちの多くを、私は知っている。私は直接に彼らの経験を知った。しかし、ハノイヒルトンの恐ろしき周囲をみれば、何が何でも本国のことを思わざるをえない」と、言った。

 ハノイ軍事博物館では、ツムウォルトは捕捉されたアメリカ軍武器に敬礼をした。「ほとんどどれもが、戦死した勇敢なるアメリカ兵を象徴している」と、彼は言った。

 そして、滞在中の毎日、息子のエルモのことが彼の脳裏から消えることはなかった。父子二人とも、エルモの死の日まで、エルモは終戦の1975年を越えて13年間、戦争を生き延びたと信じていた。それは、枯れ葉作戦によって死傷者が大幅に減ったからだ・・と、ツムウォルトは言った。
 
 
脊椎が湾曲しているグエン・ティ・ミー・マイさん(クアンガイ省で2009年)

 「エルモと私は、息子が常に危険な状況で献身的な行動していたので、息子は戦争を生き延びられないのではないかと思っていた。おそらく、それは彼は休んでなんかいられない、特別休暇など取っていないことを示すためではなかったかと思う。息子が行っていた枯れ葉作戦は、死傷者の減少には極めて重大だったと、父親は言った。

彼も私にも罪の意識はなかったけど、息子の末期には私が救いいだったという絶望感しかなかった

 エージェント・オレンジは、また、エルモの息子、ラッセル(17)の重度の学習障害を引き起こしたと見られる。

 ツムウォルトは言った。「私が同じような状況に置かれれば、今日再びエージェント・オレンジを使うだろう。我々がカンボジア国境沿いの狭い川や運河に入って行った時の死傷率は、月6%の割合で起きていた。海軍の平均的な死傷率は70%の可能性があった。我が軍の負傷者が身体障害者になる率は、1ヵ月で6%から1%未満までになっていた

 ツムウォルトと息子は、戦争中4~5回一緒に行動したことがあった。エルモはサイゴンに来たこともあったが、ほとんどはジャングルにいた。そして、元海軍提督は、ボートに乗って彼に会いに行ったこともある。彼らは、戦争の状況などを話しあった。

息子は、私のために常に良いアドバイスをたくさんしてくれた」と、ツムウォルトは感謝の気持ちを隠さなかった。

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4月25日付けの当コラムに載せたアメリカの記事がいかに中途半端なものかがお分かりいただけたと思います。肩書きや軍の位に関係なく、枯れ葉剤は命を蝕んだのです。そして、1995年という早い時点で、枯れ葉剤の共同研究のために、ツムウォルト氏が議会でのロビー活動を行ってきたことも注目すべきです。(完)Posted by Picasa