2010-04-25

「枯れ葉剤使用を命じたのは誰」の記事

沼津市で開催した支援隊の第4回写真展は、本日25日午後3時で終了しました。今頃は、片付けです。ご来場下さった方、ありがとうございました。片付けの方、本当にご苦労様です。

さて、今日のコラムは、3月4日に、アメリカのヴェテランズ・トゥデーに掲載された記事の訳文を掲載します。しかし、記者の意図がどうしてもわかりません。その理由は、このコラムに書きます。まずは、訳文を、読んで下さい。若干意訳しました。
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オレンジ剤の使用を命じたのは、誰か?

エージェント・オレンジから来るすべての疾病、奇形の赤ちゃんに苦しみは続いているわけだが、一体その使用を命じたのは誰だったのかと、人は不思議に思う。東南アジアの米海軍の司令官として、南ベトナムの天蓋を剥ぎ取るために、旧南ベトナムの田舎に化学製品の枯れ葉剤の撒布を命じたのは、エルモ・ツムウォルト・ジュニア(写真下)だった。

エルモ・ラッセル・ツムウォルト・ジュニア(1920年11月29日 – 2000年1月2日)は、海軍将校であり、史上最年少で海軍作戦部長に就任した人だ。海軍大将から,その後第19代海軍作戦部長として、特にヴェトナム戦争中、ツムウォルトは米軍史に大きな役割を演じた。
少将へ昇格後、ツムウォルトは、1965年7月に巡洋駆逐艦『フロティラ・セブン』の艦長になった。1968年9月にベトナムの艦隊司令官、駐ベトナム・アメリカ軍事援助司令部、海軍軍事顧問首席となった。

 ツムウォルト艦隊は、第七艦隊のように青い水に浮かぶ艦隊ではなかった。メコン流域の茶色の水を行く艦隊だった。彼は、ヴェトナムの沿岸、港湾、河川をパトロールする船艇の小艦隊を指揮した。船艇の艇長の中には、自分の息子がいた。息子の名は、エルモ・ラッセル・ツムウォルト3世だ。もう一人、帰還後上院議員となるジョン・ケリー(註)もいた。この間、ツムウォルト・ジュニアには、ジャングルに隠れ、自由にアメリカ軍およびARVN(旧南ベトナム政府軍)のパトロール隊を待伏せするベトコンから、彼の配下の兵士を保護する機会があった。

ベトコンが効果的に天然利用していた森林の天蓋を剥ぐために、エージェント・オレンジエージェント・ホワイトや他の多彩なカラーコードのついた一連の新しい枯れ葉剤を葉に散布したのだった。エージェント・オレンジに長期的に暴露した人間への副作用はまだわかっていないと当時言われていた。それは、ダウ社やモンサント社のメーカーがその安全性を潜在的使用者を安心させたがっていたからだ。

ツムウォルト提督は自分の息子だけでなく、彼の多くの仲間を「眼前の明らかな危険」から守るために行動した。しかし、その際、彼は、今となってガン誘発剤として知られている化学製品に彼らをさらすことになった。すべての指揮官と同じように、ツムウォルト提督も迅速に、利用できる情報に従って決断力をもって行動した。この場合、彼は偏向した信頼できない情報に依存したのだ。その後の展開でそれは明白にはなったのだが。

結局、個人的には彼自身の決断は大きなツケを払うことになった。息子のエルモ・ツムウォルト3世は、1988年に42歳で亡くなったのだ。

ツムウォルト・ジュニアの孫は、1977年に生まれた。男の子だった。孫は、身体的感覚を混同する先天性機能障害だった。ツムウォルトの息子は、死の2年前の1986年に、こう言った。

自分は弁護士だ。そして、既存の科学的な重い証拠によって、私が裁判所でエージェント・オレンジが、神経障害、ガンと皮膚疾患など、ベトナム退役軍人から、或いは彼らの子供たちの高度の先天性欠損症について報告されている すべての医学問題の元凶であるということを証明することができたと思わない。しかし、私は(元凶は枯れ葉剤)であることを確信している」。

彼はまた、自分の病気を父親のせいにしたことは一度も無いと、語った。

ツムウォルト提督も、息子の癌はほとんど間違いなくエージェント・オレンジのせいだと思うと言った。また、非常に高度の学習障害で苦しむ孫のラッセルの原因も、突き詰めれば枯れ葉剤に帰結することができると、言った。しかし、ツムウォルトは、敵に隠れ場所と食料の発見を困難にさせたことで、わが方の犠牲者を減らしたので、エージェント・オレンジの使用を命じたことを後悔していないと述べた。


ツムウォルト提督は、彼の息子との共著「我が父 我が息子」(My Father, My Son)(写真上)を、1986年9月にマクミラン社から出版した。その中で、息子の癌の闘病という家族の悲劇を論じている。

いくつかの病院で治療を受けた後、ツムウォルト3世は、シアトルのフレッド・ハッチンソン癌研究センターに入院し、妹のモウゼッタから骨髄移植を受けた。幸いにも妹の組織が、この処置を十分に可能にするほどにマッチしていたからだ。結果に明るい望みをもったのだが、結局、彼は1988年に亡くなった。

 悲しいことに、ツムウォルト家も、エージェント・オレンジに苦しめられた。それは、「行ったものが戻ってくる」自業自得という東洋の思想によったものだったのか?」(完)


【註】ベトナム戦争中には危険なメコン・デルタ地帯で小型艇に乗った。銀星章(戦闘でベトコン・ゲリラを殺した功績で受賞)、青銅星章、3つのパープル・ハート勲章(戦闘で負傷した将兵に与えられる)を授与された(3回負傷したが、いずれも軽微な傷か?)。しかし、ベトナムから帰還後、ベトナム戦争に疑問を抱いた彼は、アメリカ・ベトナム帰還兵の会(VVA)を作り、さらにベトナム帰還兵戦争反対の会(VVAW)の広報担当になった。
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中途半端な記事です。そして、この記事の終わり方では、ツムウォルト・ジュニアの人となりは出てきません。命令したのは確かですが、命令したのは彼だけではありません。そして、枯れ葉剤の撒布は、海軍よりも空軍が主体です。彼は退役後、なぜベトナムを訪問したか、それが書かれていないのは残念です。次回か次々回のコラムに書いてみたいと思います。(北村 記)Posted by Picasa

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