2009-06-30

パリで開かれた良心の裁判(3)

ニャンザン紙の記事3回目は、3人目の証言者、元南ベトナム政府軍のマイ・ザン・ヴーさんの証言からです。
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マイ・ザン・ヴー(1937年生まれ)さんは、1974年と1975年に産まれた2人の息子は、健康で、普通に学校に通っていたと言った。
しかし、1980年に、長男が、異常な徴候を見せ始めました。
その後、子どもたちは、長男に続いて、10歳になると、次々と同じ症状を見せ始めました。最初は、彼らは歩けなくなり、そして普通のことも出来なくなって学校をやめました。そして、彼らの四肢は衰えて、徐々に曲がっていきました。最後に、子ども達全員は這ってしか動けなくなり、18歳で寝たきりになりました。
マイ・ザン・ヴーさん(撮影:北村)

息子たちは、すべて23歳か25歳で亡くなりました

長い間、ヴーさんは、この最悪の状態になった理由をしらなかった。ある時医者が診断をして初めて、本当の理由が分かった

南ベトナム政府軍時代のヴーさん
ヴーさんは、ヴェトナムには、これまでにも類似した悲劇で苦しむ家族がいくつかあり、財政援助も含めてあらゆる可能な機関・団体からの援助を必要としている、と参加者に訴えた。
体が曲がり始めたヴーサンの息子さん
ベトナムの被害者は、アメリカ政府と化学企業に対して、参戦と撒布に参加した責任を認め、ヴェトナムと共に、汚染された人々の治療、汚染地域の蘇生、重度のケースの手当、輸送や多の基本的な必需品の提供などを要求して、声を挙げている。
ヴーさんの3人の息子と母親
このほか、アメリカ、大韓民国とフランスの証人が、ヴェトナムの被害者がエージェント・オレンジの恐怖の結果からどのような苦しみを味わっているかを、映像を交えて紹介した。証人全員は、エージェント・オレンジ剤の恐ろしい結果は、痛みを目で感じるだけでは計り知れないと異口同音に話した。

エージェント・オレンジのベトナム被害者を支持する国際人による良心の裁判は、世論と国際良心の名において、民主弁護士国際協会(IADL)のイニシアティブで開かれている。この法廷は、国内や世界中の国々で正義を支持するすべての人々にその記録を提供する。

ニャンザン紙フランス特派員(カイ・ホアン記者 フイ・タン記者)
                          
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ニャンザン紙の記事はこれで終わるが、次回からは良心の裁判(4)として、引き続きお送りする。(続く)Posted by Picasa

パリで開かれた良心の裁判(2)

それでは、前回のニャンザン紙の記事の続きですが、いくらかつけたしたりしています。
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その後、法廷では、エージェント・オレンジに苦しむヴェトナム被害者3人が証言した。ハイフォン市アン・ハイ郡アン・ズオン町ファム・テ・ミン(1975年12月16日に生まれ)さんの話を聞いた。ミンさんは、両親がDMZ(非武装地帯)の南側で、枯れ葉剤の撒布が最も強烈だったクアンチ省の戦場で従軍している時に、どのようにして枯れ葉剤を浴びたかを話した。
枯れ葉剤の被害者

私の妹と私は、戦後に生まれました。私は、先天性の下肢の奇形と病弱で生まれました。私の妹は外見は普通にみえます。しかし、彼女は早産で生まれました。先天性の心臓疾患と肺疾患を持っています。

私の奇形の原因であるダイオキシンに私が曝露していることについては、事実、両親がエージェント・オレンジに直接曝露したことを両親から聞き、またあちこちの病院で私の病気をみてもらって検査の結果知りました。私の家族のケースは、しっかりと認知されたために、ベトナム政府から毎月の手当を受けています。

エージェント・オレンジの影響で、私の妹、母、父、私たち一家は、他の人ほど快適に暮らすことは出来ません。私たちは一生懸命に働くことができないうえに、絶えず病気の治療費としてお金が出来ていきます。父は、従って2005年に亡くなりました。私は、短い時間の中では、私の家族と私自身が受けたすべての苦しみや、ヴェトナムにいるエージェント・オレンジの他の被害者の悲劇のありさまも詳しく話すことはできません

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ホー・ゴック・チューさん(1937年に生まれ。現在クアンガイ市在住)は、かつて南ベトナム解放軍に入隊した。そして、クアンガイ、クアンナム両省の広大な山岳地帯で活動した。そこは、アメリカ軍の撒布が恒常的にまつ強烈に行われた所である。

彼は思い出しながら、次のように話した。

アメリカ軍による枯れ葉剤の撒布

アメリカの飛行機が撒布のために飛来した時、他の人もそうだが、私は撒布が単なる除草剤であると聞いていました。だから、私には十分な科学的な知識はありませんでした。撒布が人間に有毒だったと分からなかったのです。その私でさえ、あの薬剤には毒性があると知っていました。私も他の兵士も、この汚染から逃れることはできませんでした。

なぜなら、私たちは戦わなければならなりませんでしたし、単に生き残るためだけでも、サツマイモ、トウモロコシ、米、野菜やどんな食べ物でも作らなければならなかったからです。我々は、小川の流れや爆弾のクレーターからでも水をとって飲まなければなりませんでした。

私は、私が最低4~5回直接浴びたのを思い出します。ほとんどの場合は、私はテントの中にいました。しかし、一度は、私が米を取って戻っている時に、飛行機が来て撒布しました。私の全身は化学剤で完全にびっしょり濡れました。私が持ち運んでいた米の袋も湿っていました。

私の観察の記憶から、通常撒布された数日後には、樹液の豊富な、例えばカッサヴァ、パパイヤ、ジャックフルーツなどがまず死にました。また、ジャングルの中の大きい木も、すぐに落葉しました。私たちの常食であるカッサヴァも、やられました。後になって、私たちは、これはエージェント・オレンジによるものだということが分かりました。しかし、私たちは汚染された流れからでも水を飲むことが止められなかったように、植物の根っこを食べざるをえなかったのです。

私にはすぐにいろいろな問題が起きてきました。視力が落ちてきました。歯も、通常より早く抜けました。前立腺、大腸、前庭疾患など体内の疾病と皮膚関連の疾患が出てきました。特に背中の皮膚と両足にはかゆみを伴った発疹、にきびとアクネに悩まされている。背骨と首の骨は、35才の時に変質しました。これらの病気は、ハノイとホーチミン市の病院で医学治療をうけましたが、効果はありませんでした。

クアンガイ市内

私の体内の問題に加えて、私の一人息子も、枯れ葉剤の被害者になりました。私の結婚式は1977年3月でした。11月の中ごろに、彼は早産でうまれました。とても弱かったので、当分の間ガラスの箱の中で面倒をみてもらいました。4才になっても2~3歩しか歩けず、言葉は二言三言しか話せませんでした。手足が成長しましたが、すべての機能が正常というわけではありませんでした。息子の出来ることには限度がありました。

そして、医者は彼には精神障害にかかっていると言いました。

さらに、時々、彼にひどい痙攣が襲ってきます。現在、彼は37才ですが、単純な労働ですら、自分でまだできません。最初は、私たちは息子のどこがおかしいのかわかりませんでした。

何回も病院に連れていきましたが、その中で家内が流産していたという事実を知りました、医者は、私がエージェント・オレンジに曝露したと結論づけました。これが、私の息子の悲しい運命の理由でもあります。

クアンガイ省の枯れ葉剤被害者
私の国では、エージェント・オレンジによって、同じような、いやもっと恐ろしい病気や奇形の子どもたちの姿が、エージェント・オレンジにさらされた人々が暮らしている多くの場所にいけばすぐわかります」(続く)Posted by Picasa

2009-06-29

パリで開かれた良心の裁判(1)

民主弁護士国際協会(IADL)は、パリ(フランス)で、5月15日から2日間の日程で、エージェント・オレンジ・ベトナム被害者を支持する国際人による良心の裁判を開廷(写真下)した。
ベトナムの新聞、ニャンザン紙をもとに報告する。
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ジテンドラ・シャーマ裁判長は、開廷の冒頭で次のように述べた。
「1961年から1971年までエージェント・オレンジ及びダイオキシン入りの他の化学剤を使用したベトナムに対するアメリカの化学戦争は、環境、生態系、ヴェトナムの人々の健康に重度で、大量、長期の種々の結果を引き起こした。

その時から現在に至るまで、アメリカ政権は、これらの化学剤使用の結果の責任を認めていない。エージェント・オレンジ被害者ベトナム全国協会が起こしたエージェント・オレンジ製造企業に対する責任も認めない立場をとった。

世論と国際的良心の名において、民主弁護士国際協会(IADL)が主導して、エージェント・オレンジベトナム人被害者を支持する国際人による良心の裁判は、次の事項を検討し、結論をだす。
1)1961年から1971年までアメリカ合衆国軍隊によるエージェント・オレンジの使用により引き起こされた、ヴェトナムの環境と生態系、及び、ベトナムの人々の健康に与えた結果を示す事実。
 
2)1961年~1971年まで期間国際慣習法の下でヴェトナムで行った化学戦争行為におけるアメリカ合衆国政権の責任。
3)ヴェトナムの環境と生態環境、及び、ベトナム人の健康に与えた結果の改善において、エージェント・オレンジをヴェトナム領土に撒布したことに対するアメリカ合衆国及び化学剤提供企業の責任。」
枯れ葉剤被害者ベトナム全国協会(VAVA)を代表して、グエン・ヴァン・リン会長は、1960年代と1970年代にアメリカが展開したヴェトナム戦争の遺産が環境に巨大な損害を引き起こし、480万人以上のヴェトナムが毒にさらされたという事実を指摘した上で、次のように挨拶した。
その被害者となったおよそ300万のうち、多くの人々が死んでいき、その他の多くの人は怪奇な重い疾病と障害により苦しんで生き残っている。多くの子ども達が恐ろしくて忍びない奇形の姿で生まれた。ほぼ40年経って、他の戦争の傷跡が消えたが、これらの戦争の影響が消えていく兆候はない。それどころか、その戦争の影響は、人の予想を超えてはるかに悲惨さと長期の症状をみせている。
一方、直接この悲劇を引き起こしたアメリカは、これまでその道徳的、法的責任を逃れようと努めてきた。
その結果、ベトナムの被害者は、2004年1月30日にブルックリン(ニューヨーク)地方裁判所で訴訟を起こすことを決めた。被害者がアメリカの法廷で起こした訴訟は5年かかった。
しかし、アメリカ政府は、ヴェトナムにおける化学戦争で撒布したエージェント・オレンジの被害者となったアメリカ旧軍人への補償に何十億ドルを使っておきながら、ベトナム人の裁判は連邦裁判所の地方、高等、最高裁のいずれの段階でも拒否された。
アメリカの法廷は、エージェント・オレンジ/ダイオキシンは、単なる除草剤にすぎず、毒性ではない、その有害な結果は意図した物ではないという単純な理由で、ベトナム人被害者が起こした裁判に異議を唱えた。アメリカの法廷によって行われたこの不合理な断定は、分析し、世界に広く知らしめる必要がある
リン会長は、こう述べた後、さらに次のように語った。
ベトナムの被害者が苦しむ痛みは、全人類の痛みだ。正義のための被害者の闘いは、彼らの利益のためだけではない。アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国とカナダなど他国の被害者のためでもある。エージェント・オレンジ/ダイオキシンの被害者だけのためではなく、他の全ての残忍な大量破壊兵器の犠牲者のためでもある。今の世代のためだけでなく、将来の世代のための闘いでもある。ベトナムのエージェント・オレンジの被害者は、正義と人権(すなわち、生きる権利、自由と幸せの追求)の概念における基本的で神聖な権利を、毎日奪われている
リン会長は、こう強調した。
そして、同会長は、この機会に、世界中の平和と正義を愛するすべての人々に、この裁判とに思いを彼らの考えを馳せて、正義を求める共通の命令を遂行するために、ここのすべての参加者と共に行動を共にするように訴えた。(続く)Posted by Picasa

2009-06-27

ニンビン省奨学生からの報告(3)


「愛のベトナムさわやか支援隊」の皆さんへ、


先ず初めに、皆さまのご健康とご多幸をお祈りいたします。

去年、皆さんは色々な所を訪問されて、おそらく色々な思い出ができたことと思います。もし、機会がありましたら、是非、皆さんの思い出や旅の話を聞かせてください。

私のことですが、2008年~2009年の学年では色々な厳しいことがありましたが、皆さんのご支援のおかげで、そして、両親や友達の応援のおかげで、1学期の成績で 「良」 を修める事ができました。
この成績ではまだ皆さんのご期待に応えられていないかもしれませんが、これはこの学年で私が努力した結果です。

2009年には、将来のこと考えて、予定が色々あります。
今年は大学を受験します。人生の中の大きな出来事になります。
私はツアーガイドになりたいと思います。色々な所に行きたい、色々な外国を勉強したい、特に日本語は勉強したいと思っています。たくさんの人にベトナムのこと、そして、ベトナム人の優しい心を紹介したいからです。

そのために、勉強を頑張ります。皆さまのご期待に応えられるように、自分の夢を頑張って実現させます。
今年も皆さんのご支援をまた頂戴できるようにと願っています。

本当にありがとうございます。
ニンビン市、2008年3月18日

Trang
La Thi Thu Trang (ラ・ティ・トゥー・チャン)   
翻訳:レ・タイン・トゥン (3/3完)

トゥー・チャン・さんと母親ビンさん(左の2人)
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ニンビン省奨学生からの報告(2)

「愛のベトナムさわやか支援隊」の皆さんへ、
私はファム・ティ・ニャムと申します。
母はファム・ティ・ティンと申し、ニンビン省の元女兵士です。

現在、私はニンビン省イエンカイン郡イエンカインB高校2年生です。
2008年8月に、愛のベトナムさわやか支援隊の皆さんから、勉強のために奨学金を受け取りました。そのおかげで、2008年~2009年の学年に勉強に頑張る事ができ、1学期に成績が 「良」 でした。

「愛のベトナムさわやか支援隊」の皆さんに成績を報告したいと思って、この手紙を書きました。来年も、日本の皆さんに関心をもって頂き、ご支援を受けられるようにと思っています。
来学年、2009年~2010年は、私は皆さんのご期待に応えられるように、大学受験を目指して、もっともっと勉強に努力していきます。

支援隊の皆さんには、いつもご健康で過ごせますように心から祈っています。

本当にありがとうございます。

イエンカイン郡にて 2009年3月15日 Nham
Pham Thi Nham (ファム・ティ・ニャム)  
(翻訳:レ・タイン・トゥン)
ニャムさんと母親のティンさん
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ニンビン省奨学生からの報告(1)

2008年のニンビン省訪問で、4人の生徒・学生に蓮の花奨学金を贈呈しました。既に、クエンさんからの報告の手紙は子のブログに掲載しましたが、残りの3人の手紙がこのほど届きましたので、ご紹介します。
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愛のベトナムさわやか支援隊の皆さんへ、


私はグエン・ティ・ホアと申します。
母がディン・ティ・セー、元ニンビンの女兵士です。

以前、私はグエン・タット・タイン銀行大学で勉強していましたが、事情があったため、ハノイ工科大学を受験し、受かりました。
2008年8月に、日本のボランティアグループ「愛のベトナムさわやか支援隊」の皆さんからご支援をいただき、学費のための奨学金を受け取りました。
その支援のおかげで、2008年~2009年の学年にわたって、勉強する事ができました。少しずつ自分の夢に近づいてきました。

この手紙を書いて、北村さんと皆さんに成績を報告いたします。今年もボランティアの皆さんのご支援をまたいただけるようにと思います。次の学年はまた色々なことを学ぶことができ、いい成績を取得できるようにと思います。

支援隊の皆さん いつまでもお元気で、そして人生にいいことがいっぱいありますように。

本当にありがとうございました。
イエンモー郡2009年3月15日  Hoa
Nguyen Thi Hoa (グエン・ティ・ホア)  
(翻訳:レ・タイン・トゥン)
奨学金を受けるホアさんと母親セイさん
もう少し具体的な学校生活が知りたかったところですが、今年も刻苦勉励して夢を実現して頂きましょう。
(北村註)ハノイ工科大学は、ベトナムハノイにある国立大学。ベトナムで最初の技術系総合大学。日本の東海大学とも交流協定を結んでいる。ハノイ工科大学は教育訓練省が定める重点14大学の一つ。工学系高等教育の拠点機関と位置づけられている。また、同国ソフトウェア産業発展5ヵ年計画(2006ー2010年)において、2010年までにソフトウェア年間売上高10億米ドル、そのうち日本市場への輸出で4億米ドルの売り上げが目標とされているが、IT分野における日本語のできる人材の不足といった問題が持ち上がっている
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2009-06-25

マイ・アインさん 祝 ご卒業

去年の支援隊ツアーで通訳を務めてくれたマイ・アインさんから、今朝、メールが入っていました。
マイ・アインさんは、下の写真右端の方です。ハノイ国家大学の学生さんでした。
苦闘しながら、通訳を果たしてくれました。途中、某省では、心ない役人の暴言とも言うべき発言に涙しながらの大健闘。メールの文中に小生の名前がでていますが、一応何をしたかを分かって頂くために、カットせずそのまま掲載しました。
まずは、卒論満点を獲得しての卒業 おめでとうございました。
とっても、うれしいです。当時支援隊ツアーに参加した皆さんにも、最高のニュースでしょう。
北村様

ご家族、皆、お元気ですか。
長い時間連絡しない、申し訳ありません。

私は卒業しました。卒業論文は「
国家神道の国民教化思想」について書きました。10点をもらいました。北村様が送ってくれた資料はすごく役に立ちました。ありがとうございました。

今、大学院に進むつもりです。日本で留学するために、奨学金を請求しています。結果がまだわかりませんが、留学できなかったら、ベトナムで働きながら勉強しようと思います。

今年、ベトナムへ行きますか。ベトナムへ行ったら、皆さんに会いたいです。
じゃ、またれんらくします。
マイ・アインPosted by Picasa

アメリカ議会人の鋭い指摘

ヴェトナムの人々とアメリカのヴェトナム戦争復員軍人の苦しみが無視される一方で、どうして何十億ドルものカネがどこかよその再建に充てられるのかと、元ベトナム戦争兵士のイーニ・ファレオマヴァエガ(共和党)連邦議会議員が疑問を呈しています。その議員は、写真の方です。今回は、彼の主張をご紹介しましょう。

われわれの努力がヴェトナムの人々の役に立つことができて、役に立たなければならないのだが、米国はヴェトナムでエージェント・オレンジの環境の被害について述べるだけの最小の努力しかしてこなかった」と、アメリカの一議員が語った。

今日まで、あいも変わらず、アメリカは、エージェント・オレンジが与えた被害を否定してきた。その被害は戦争の被害を超えたものであり、無実の一般市民の生命に影響を与えてきた。アメリカはまた、南太平洋での行為に対する責任を認めることも拒否してきた。行ったのは、環境汚染に対する洗浄の最小限の行為であり、不公平にも何世代にもわたってエージェント・オレンジによって致命的な病気にさらされてきた人々に補償する努力も怠ってきた

と、イーニー・ファレオマヴァエガ議員(アジア・太平洋及び世界環境問題上院外交問題小委員会委員長)は語った。

小委員会でのイーニー・ファレオマヴァエガ証言は、6月初めにウェブサイトにアップされた。これはアメリカ議会がエージェント・オレンジについて開いた2回目の聴問会だった。第1回の聴聞会は、2008年3月に開催された。エージェント・オレンジとは、ベトナムでアメリカ軍が撒布した毒性枯れ葉剤である。

聴聞会で、イーニー・ファレオマヴァエガ小委員長は議会調査局(CRS)の資料を取り上げた。

3200人以上のベトナム国民を対象に行った1995年の研究論文では、平均TEQ血中濃度は、非撒布地域の人々と比較して撒布地域の人々はほぼ6倍高いことが明らかになった。母乳の中にしめるダイオキシンの平均レベルは、ほぼ4倍高かい。そして、脂肪組織の中に占める平均レベルは、24倍高い。ダナンの住民のダイオキシンの血中濃度に関する別の研究論文では、世界の許容基準の100倍以上のダイオキシン(TCDD)が含まれていると報告されている。高濃度のTCDDに関しては、ビエン・ホア在住者の血液サンプルからも見つかっている

ファレオマヴァエガ小委員長は、ベトナムにおけるダイオキシンの環境結果の評価が進行中であり、ビエンホアダナンフーカットニャチャンアールオイなどの旧米軍基地など、いわゆる重度汚染地域では、特に深刻であるとの認識も示した。

北村註:最も毒性の強い2,3,7,8-TCDDを1とし、他の化合物の量はそれと同じ毒性を示す2,3,7,8--TCDDの量に換算する毒性等価係数(TEF: Toxic Equivalency Factor)を乗じて、その総和を毒性等量TEQ (Toxic Equivalent)として表示する。

しかし、同小委員長は、この問題に関して、他の補助金と比較すると、米国がヴェトナムに予定した財政援助が最小限のものでしかないことを指摘した。

アメリカ国務省とアメリカ国際開発庁(USAID)はダナン空港の内外での汚染封じ込めと環境改善への技術協力と財政援助を提供しているにすぎない。その援助も、環境改善と医療手当援助に割り当てられたのは、600万米ドル足らずという最小限ものだ」と、彼は主張した。

翻って、2003年から2006年まで、アメリカは357億ドルをイラク再建に充てた。議会調査局(CRS)によれば、ドイツには、2005年のドル換算で、1946年-1952年の援助において合計293億ドルを提供したこと。それは、経済補助金のほぼ60%に相当し、経済ローンの30%に当たるものだ。残りは軍事援助だった

1946ー1952年度の日本への総援助額は2005年のドル換算で、およそ152億ドルだった。そのうちの77%は補助金であり、23%がローンであったと、彼は付け加えた。

どうして、われわれは米国の旧軍人とヴェトナム人のためにもっと役立つことはできないのか? われわれはそうすることができるし、そうすべきだ。そして、だから、この問題に注目を払い、正しい方向に向けるために、自分の出来ることをしていこうと私が完全に約束する理由だ。ぞっとするような多数の病気にさらされてきたとするなら、同じ太平洋の島民(この議員はアメリカン・サモアの出身です)として、私はヴェトナム人に特別の親近感を覚える

と、同小委員長は言った。

最近では、5月15~16日パリで開かれた良心の国際人法廷では、エージェント・オレンジを製造したその企業とその使用を許したその国の政府は、エコサイド(環境汚染による生態系破壊)の罪を犯し、エージェント・オレンジの被害者とその家族に完全補償しなければならないと判決を下した。
死のエージェント・オレンジについて

ベトナム戦争中にアメリカ軍によって撒布された枯れ葉剤が入っていたドラム缶の色に因んでエージェント・オレンジと名が付けられたが、エージェント・オレンジには、TCDDとして知られるテトラクロロディベンゾー(tetrachlorodibenzop)という猛毒のダイオキシンが入っていた。
これは、人類が作った人工の毒としては最も猛毒の化学剤の一つだ。エージェント・オレンジは、1961年から1971年の間にベトナム戦争をしている南北両方の人々に影響を与え、先天性欠損症、ガンや他の疾病を引き起こしてきた。

アメリカ軍は、旧南ベトナムの領土の3万平方マイル以上の広さに、猛毒のダイオキシンを366キログラムの入った8000万リットルの化学剤を撒布した。
1975年ベトナム戦争終了までに、ほぼ480万人のベトナムの人々がエージェント・オレンジにさらされ、直接的には40万人の死を引き起こした。そして、その後も数百万の人が、ガンや遺伝子障害を含む破壊的ともいえる長期の健康障害に喘いでいる。
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同議員の主張をどう思われましたか?
指摘はすべて当たっています。
こういう声は、白人議員からはもっと出てこないものでしょうか?
オバマさんにも期待してるんですが・・・Posted by Picasa

2009-06-21

奨学金の重み

やがては、そういう時代が来ると思っていたが、意外と早く来た。5月にオーストラリアのパースにいる友人が、ベトナムの奨学金の話を伝えてくれた。
以下は、クアンドイ・ニャンザン(人民軍)紙が報じたニュースである。
ベトナムの金星紅旗をイメージしたものだが、お分かり頂けるだろうか。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
韓国のLG電子(ヴェトナム法人)と新聞「青年」紙の読者が寄付した資金からなる、「エンデヴァー」(努力)奨学金(一人当たり200万VND相当)が、150人の枯れ葉剤被害者の子息に贈呈された。

ベトナム戦争中にアメリカ軍が撒いた枯れ葉剤(エージェント・オレンジ/ダイオキシン)に影響を受けた北部沿岸の1特別市、と4省(ハイフォン市、クアンニン省、タイビン省、ナムディン省、ニンビン省)の子ども達に、奨学金が贈られた。
5月15日にハイフォン市で行われた授与式では、受賞者がそれぞれ、将来の夢を語り合った。「同じ病気に悩む仲間を治療するために医師になりたい」「ITの専門家になりたい」などなど。

グエン・ティ・ハオさん(ナムディン省8学年)は、枯れ葉剤被害者のお父さんを喜ばせたくて、学校で良い成績を取りたいと、素直な夢を語った。彼女は、クラスで常に一番の成績だ。お父さんはベッドに寝たままで、お母さんは2003年に亡くなった。お父さんと、ハオさん、2人の妹は、現在いとこと隣人から支援で暮らしている。

また授与式で、ナムディン省,チュック・ダイ中学校7年生のファム・クアン・カイ君が、IT技術者になりたいという夢を聞いたハイ・フォン・テレビの司会者、チャン・トゥ・フオンさんは、枯れ葉剤被害者のカイ君にコンピューターを送る約束をした。カイ君のお父さんも、枯れ葉剤の被害者である。カイ君は現在、13才だが、身長は80センチしかなく、体重はわずか25kg。その症状は、頭は大きく、足は短い。
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記事はここで終わっている。何と冷たい終わり方の記事だ。記者の気持ちは、どこにあるのか。もっと社会勉強をしてもらいたい。こういう子どもは、ベトナムにたくさんいるのだ。もっと奨学金を受けるに至ったいきさつなど周辺取材をしてもらいたい。記事としては、中途半端だし、激励もない。情けない記事だ。

私たち「愛のベトナムさわやか支援隊」も、昨年から、本格的に奨学金の授与を始めた。資金に限りがあるので、選択はむずかしいい、心を痛める。まずは、貧しい人たちで、向学心のある人から・・というのが基本だが、では、勉強も出来ないほど、肉体的精神的に被害を受けている子どもたちは、どうするのか・・と悩みつつ、そちらは、もっと資金のある団体や、政府機関に任せる・・という私たちの一方的な結論で、出来るところから援助しようと始めた。幸い、志ある方がいらして、資金を提供してくださった。これに優る嬉しさはない。

まずは、一人から。2人、3人とふやしていって、今年も6人の増枠を決めた。世界不況だから、渡す方も楽ではない。まして、受ける方はもっと苦しんでいるかも知れない。そういうときこそ、奨学金は生きる、と確信している。

私も、日本育英会の奨学金で、学んだ一人だ。卒業後、いち早く、全金額を返済した。われわれが昨年から本格的に始めた奨学金は「蓮の花奨学金」と名付けた。泥の中からでも、美しい華を付ける蓮に、われわれの気持ちを託した。この奨学金は返済義務がない。少しでも、心に余裕をもって勉学しながら、他人を振り返る心が出来れば、何よりのことだと思っている。

下の写真は、2008年8月に、ニンビン省で奨学金を渡した時のものだ。

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