2007-06-14

完璧なるスパイ(下)

下の写真は、戦争の泥沼にはまり、疲労をみせるジョンソン大統領とマクナマラ国防長官。

 2003年、彼は重い病にかかった。肺気腫だった。5日間、人工肺で過ごした。妻は、ベトナムの慣習にこだわって、夫が秘密裏に埋葬できるようにと、夫が関わった書類、ノート、写真などを金庫にしまった。

だが、アンさんは死なかった。35%しか肺が機能していないなか、自宅に戻ってきた。以後は酸素のタンクをそばに置いていた。
 

多くの知己を得たアンさんの本には、多くの人が言葉を書き添えていた。「ファム・スアン・アンさんへージャーナリズムの大義と名誉と気品の高さをもって自国の大義に仕えた私の友人へ・・・最大の敬意をこめて」と書いたのは、ニール・シーハン

「歴代政府が誕生しては消えていったが、友人として永久に変わらないことを知っている私の親愛なるアンさんへ。あなたは、偉大なる教師でした、しかし、常に将来も私の心の一部であろう巨大な友人でもありました。愛を込めて、そして今後とも貴兄にお会いするときには喜びを見いだして。ローラ・パーマー

「戦争中われわれが分かち合った困難な時代の真の友人、ファム・スアン・アンさんへ。私の最大の敬意を表して。ジェラルド・ヒッキー」(ジェラルド・ヒッキーが1956年に人類学で博士号をとるためにベトナムに行った時に、彼はまさか次の18年間という全ベトナム戦争の機関をベトナムで過ごすとは思ってもいなかった。数年をメコンデルタで過ごした後、1963年にヒッキーは、ベトナム・ハイランド地方の少数民族を研究し報告するためにアメリカ政府と契約しているランド・コーポレーションに採用された)

「勇気ある愛国者、偉大なる友人であり教師のファム・スアン・アンさんへ、感謝の気持ちを込めて。ナヤン・チャンダ」(1946年、インド生まれ。ファー・イースタン・エコノミック・レビュー誌の元特派員。アジアの政治、国防、外交政策で多くの共著がある。カナダのエール大学に報ずる前の30年間、香港を拠点に活動。グローバリゼーションを研究するエール・センター発行のエール・ゴローバル・オンライン・マガジンの発行責任者兼編集長)

 「ファム・スアン・アンさんへ。現在はついに過去に追いついた!分かち合い、あのころのなつかしい記憶。しかし、何はともあれ長い友情を。ロバート・シャプレン」(『ザ・ニュー・ヨーカー』誌の編集員。一定期間一つの場所や地域に留まる外国特派員。世界の片隅から深い洞察のレポートを送る)

 「ファム・スアン・アンさんへ。長年ベトナムの理解のために助けてくれた可愛い弟よ。暖かい敬意をこめて。スタンリー・カーノウ」(1925年、ニューヨーク市生まれ。1959年からタイム誌やライフ誌の特派員としてアジアをカバーしたピューリッツァー賞受賞作家。ピューリツァ賞受賞作は『我々に似せて』(1989)。他に『ヴェトナム/ある歴史』(1983)などがある)。太字

 「私にベトナムのことと友情の本当の意味を教えてくれたファム・スアン・アンさんへ。アンさん、あなたは、私がこれまでに会った中で一番勇気ある方でした。決してお返しすることのできない莫大な借金を私はあなたに負って・・平和を。ロバート・サム・アンソン」(ジャーナリスト)
 彼は、常にこう言っていた。「共産党がベトナムで多くの支持をえているわけは、外国の植民、外国の影響と長年戦ってきた唯一の勢力だからです。第2次大戦中の日本と、その後の10年のフランスと、そしてアメリカと。20年、それ以上に建国のために戦ってきたのです」と。

 アンさんは、第2次対戦の直後に精神的に大成長した。そして、サイゴンのあらゆる種類の人々を惹きつけ、彼の後ろ盾になった。

それは、CIAのエドワード・ランズデール(アンさんがジャーナリズムの勉強のためにカリフォルニアのオレンジ・コースト・カレッジに留学ための骨を折った張本人)から、ムオイ・フオン(彼はベトナムに戻った後ケース・オフィサーになった)に至るまで。

 しかし、深い意味でいうなら、そういう彼を取り巻く連中のほとんどは、彼をよく理解していなかったことになる。
 彼は、ジャーナリズムよりも何にもまして民族主義者であった。そして、何にも増して、ベトナムを愛した。

 彼は、自分の知っているフランス人もアメリカ人も好きだった。そしてそれぞれの言語を流暢に話した。しかし、彼は、ベトナムがフランスの植民地になるのもアメリカの植民地になるのも好きではなかった。


スタンリー・クラウドは、「その点で言えば、彼は、ベトナムが共産かするのも好まなかったのではないか。それが、おそらく戦後、彼が自宅軟禁され、再教育を受けた理由ではないか」と書く。

だが、これは私に言わせれば、彼の誤解だと思う。それはスパイという外国と接触していた者の宿命である。本当に、彼は“転向”していなかったかどうか、審査を受けるのである。それは、厳しい掟である。「北ベトナムが勝った、いやあ、アンさん、ご苦労様」とはいかないのである。

 2006年9月、ファム・スアン・アン氏は、79歳の生涯を終えた。アンさんの成功は、少将に昇進し人民軍英雄の称号に輝いた。戦争に貢献し、少将と英雄の位に昇った二人の諜報員のうちの一人である。

サイゴン解放、ベトナム勝利をもたらしたその功績は、これからも語り継がれてゆくだろう。左上の本は、ラムニー・バーマンが書いた完璧なるスパイの本である。

 なお、同氏の生涯を追ったドキュメンタリーが、HTV(ホーチミンTV)のTFSより制作されており、本年中に放映される予定だ。(了)

【註:ケースオフィサー】現代にあてはめれば、一般に、法律で取り締まりの対象になるスパイは内部情報を持ち出す関係者で、その情報を買い取る外国政府の情報機関員(大使館に所属し外交特権を持つ書記官駐在武官をしていたりする)は「ケースオフィサー」という。ケースオフィサーの任務と、スパイの任務は異なる。ケースオフィサーが行うのは、主に敵側の情報に近づきやすい人間や、有用な人間をスパイとして獲得する獲得工作と、自らの下にいるスパイの管理、情報の取りまとめと本国への報告である。敵側の暗号担当者であったり、電信員であったり、あるいはマスメディアの人間、軍人に近づいて友好的に接し、次第にスパイとして育てあげていくのである。場合によっては自らが外国のスパイとして働いていると自覚すらさせないケースもある。スパイの任務は、まさにその立場や能力を活かし、ケースオフィサーの望む情報や人間、暗号機、暗号書や重要な機密文書などを直接獲得してくることである。多くの場合、海外に赴任したケースオフィサーは赴任国の現地人を使ってスパイ網を作り上げることに邁進する。また、ケースオフィサーの管理を経ずに直接、単独で目標国に潜入するスパイもいる。こうしたスパイは、完全な地下活動や秘密の拠点に長期間潜伏する者もいるが、堂々と偽の経歴を利用して該当国で一定の社会的地位を占めることもある。このような潜入の場合は、しばしば情報収集だけでなくプロパガンダの流布など、積極的な工作活動を行う場合もある。
Posted by Picasa

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