ファム・スアン・アンさん
タイム誌記者を務めながら解放戦線スパイとして活躍
アンさんもそれに違わず、別の名を持っていた。実は。ファム・スアン・アン(Pham Xuan An)も本名ではない。本名は、チャン・ヴァン・チュン(Trang Van Trung)である。そして、アンさんは、ハイ・チュン(Hai Trung)とも呼ばれていた。
アンさんは、1927年にドンナイ省ビエンホア市に生まれた。1945年10月、バクリエウ省タインチ市で軍事訓練を受けた後、サイゴンにおける抗仏の学生活動に参加した。そして、1952年の旧正月に、ビエンホアに戻った彼は、ベトナムの有名なファム・ゴック・タック医師からスパイの任務を与えられた。
再び、サイゴンに戻ると、彼はファム・スアン・アンという新たな名前で、過去のすべての関係を断ち切り。北ベトナム政府からの任務を遂行した。
1953年、ファム・スアン・アンは、クチで共産党員となったが、翌年、フランス軍の計画局に勤務。その後、フランスに代わり、アメリカが南ベトナム政府を管理下においた時に、彼は、米―仏―越の戦争計画部の連絡士官を務め、また、アメリカの軍人訓練にも参加した。まさに、スパイとして“敵の中で”最初の第一歩を踏み出したのである。共産党は、アンさんをX6というスパイとして採用した。これは、クチのH63諜報網の単独の諜報員となった。
北ベトナム共産党は、ジャーナリズムにおける経歴を最高のカムフラージュとして選んだ。そして、十分に慎重に検討して書き上げた人生史を作り上げていった。その手始めとして、アン氏を、ジャーナリズム専攻として大学にアメリカに送り込んだのである。1957年のことだ。その後の20年間は、彼は虚構の人生を送った。しかし、仕事を見事にこなしていたので、誰びとも彼のことを疑う人はいなかった。
さらに、1957年、ムオイ・フオン(Muoi Huong)氏の指導の下、「アメリカ軍と戦うために、アメリカ文化を探求する」という真の目的を胸に秘め、アメリカへと旅立った。
アンさんは、ジャーナリズムを自らの専門としたが、彼によると、「報道記者という仕事は危険も多いが、広い人間関係を持つことができるためにスパイ活動には最も適した仕事である」という。
やがて、さらに深い人間関係を構築するために、優秀なジャンーナリストに留まらず、“政治家”になる必要もあると考えた彼は、様々な研究を重ねた。
彼の交友は、ジャーナリズムの域を越え、CIAのルー・コネイン、エドワード・ランズデール、ウィリアム・コルビーらも入り、そのほか、南ベトナムの著名な政治家、将軍までも含まれていた。
1960年から1975年までの間、サイゴンで最も優秀な政治・軍事アナリストとしてもその名が知られ、南ベトナム政府のチャン・キム・トゥエン、チャン・ヴァン・ドン、グエン・カオ・キー、トン・タット・ディン、ドー・カオ・チ、グエン・ヒュー・コ、カオ・ヴァン・ヴィエン、グエン・チャイン・ティ、ドー・マウなどの政治家とアメリカの軍事コンサルタントは、しばしば彼に意見を求めたという。
当時の南ベトナム政府は、クーデターのたびに大統領が変わり政権は不安定だったがゆえに、南ベトナムにとって彼は信頼に値する人物であった。
1961年の初め、アメリカ留学から帰国した彼(スパイコード:X6)は、南ベトナム政府大統領官邸付きの政治研究情報機関の仕事をした。ここで、ジャーナリズムに関する専門家として、さまざまな重要資料に接する機会が生まれた。
ライオネル・マクガー氏の『Technics and Tactics of Coutner-Insurgency』を初め、早い段階から南ベトナム政府の作戦情報を入手すると同時に、ロイターやタイム誌の記者として、アメリカのCIA、軍部、警察関係者とのコネクションを構築し、さまざまな重要情報を収集する力を得た。
彼が得た各種情報と敵側の戦略分析は、内密に北ベトナムの軍事司令部に送られた。その情報は極めて詳細かつ正確で、敵側の動きが手に取るようにわかる生の物であった。
それ故に、それらの情報に触れたホーチミン主席やサップ将軍は、「まるでアメリカの軍司令室にいるかのようだ」と呟いたという。
例えば、「特殊戦争戦略」「ベトナムのジャングルにおける兵士の対応策」「M113-114戦車戦術」などの資料や中部高原におけるアメリカの軍事活動、南ベトナム政府とアメリカの関係、南ベトナム政府内閣の内部状況などといった具体的な情報を提供していた。
それらの機密情報が、1963年1月2日のベトナム人民軍アプバックでの戦闘大勝利に貢献したと言われている。
そして、「Staley Taylor特殊戦争戦略」で掲げられた「ベトナム人を利用して金品や武器を援助し、北ベトナム人民軍と戦う」といった情報を把握することにより、北ベトナム政府は軍事及び政治の両面から敵側を攻撃するという政策を採った。
さらに、アメリカの対北ベトナム共産党対策のほとんどが、アンさんによって北ベトナム政府に伝えられたが、皮肉なことに対北ベトナム戦略にかかわったアメリカの軍事専門家たちは、アンさんの意見を参考にしていた。
サイゴンの中心部、コンティネンタルホテルの向かい側にある「ジブラル・カフェ」。国会から声が聞こえて来そうな至近距離だ。戦争中、ジブラルは、ジャーナリストや特派員、警察、政府役人のたまり場だった。だから、そこは、噂が生まれる所でもあった。権力に居る者が試された場所でもあり、多くの者がその日の最高のストーリーを求めて集まってきた所だった。アンは、そこで“ジブラル将軍”という異名を取っていた。それは、彼があまりにもタイムリーに調整役を果たしていたので、彼はCIA職員に違いないと噂されていたのも、ここでのことだった。
北ベトナムのマイ・チ・トー氏は、「アンさんは、本当に天才的な人だった。彼に任務を任せたのは、われわれの政府にとって大成功であった。彼の北ベトナムへの貢献は極めて大きかったといえる」と讃えた。
アメリカ“The New Yorker”のThomas A. Bass氏は、「ファム・スアン・アン氏は、穏やかなベトナム人だった。彼の心の中は、純粋な革命の理想とベトナムへの献身的な愛国心に満ち溢れている一方、アメリカの発展やその文化にも尊敬の念を抱いていた。彼はスパイだが、誠実な人物であり、ホーチミン主席に提供した政治分析と同じ物をタイム誌にも送っている。虚構の世界にいたのかもしれないが、常に事実を伝えていた実直な人だった」と、述べている。 (続く)
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