「白檀の香りがどれだけ濃厚な香りかと言えば、それを切る斧にまで香りを留めるほどだ。人についても、ほんとうに美しい人は、白檀の香りのような人だ。控えで密かに香りが漂い、その人を悪く思っている人までその人の人格に同化させてしまう」と。
白檀香木は、ベトナム、インド、インドネシア、マレーシア、オーストラリアで自生したり、栽培されている。白檀香木は、白檀科に属する常緑樹で、成長すると高さ12メートルから15メートルになる。
白檀香木は、昔から折り詰め、香炉、扇子、仏像などの最高級木工芸品の材料として使われただけでなく、王や貴族は、棺の最高材料として白檀香木を好んだ。また、漢方医学では、吐き気、陣痛、腹痛、下痢などの芳香性の胃・整腸剤としても重宝され、鬱病の治療薬としても使用された。白檀香は、古今東西を問わず、香水の材料としても脚光を浴びた。
小さな港町ホアインが所有している遺跡は、194箇所と言われる。寺、神社などが87箇所、歴史ある家屋が82軒、昔の井戸が24箇所、橋に併設された神社が1箇所となっており、これらの遺跡群が、2平方キロの狭い地域に密集している。
観光客のいないホイアンは、静かな雰囲気を讃えた町だ。そこに2000年の悠久の歴史が凝縮されている。
最近発見された約2200年前のサ・フイン文化後期に属する土器は、ホイアンの歴史の古さを証明する考古学的証拠である。サ・フイン文化は、ホアイン周辺で繁栄し、紀元後2世紀から2200年前まで続いたと言われる。
ホイアン周辺地域は、サ・フイン文化以後もずっとチャムパ王国の外港として大きく栄えてきた。チャムパ王国は、紀元後2世紀、「ラム・アップ(林邑Lam Ap)と言う名で、中国の歴史書に登場する。
中国・北魏の道元が著した『水経注』(Thuy Kinh Chu)や、唐の杜佑が書いた『通典』(Thong Dien)には、ホイアン周辺地域のことを「ラム・アップ・ポ・ (林邑浦Lam Ap Pho)」と表記されているという。
唐玄宗以降、ユーラシア大陸内部の「シルクロード」が役目を失い、海洋交通の東西貿易が活発になった。「海のシルクロード」と言われる海洋ルートによる東西貿易で、アラブの商人が中心的な役割を果たすようになった。9世紀頃には、アラブの商人たちは、中国までの遠い航海の途中に、「ラム・アップ・ポ」に寄港して、食糧、水などを補給し、薪の供給を受けた他、現地の人たちと交易もしたのである。
トゥボン河は、もともと20世紀までは、「チョ・クイ(ChoCui)」とか、ただ「クイ」とだけ呼ばれた。「クイ」とは薪のことで、その名前だけでも、当時の船舶が必要とした薪がどのくらい取り引きされたのか容易に想像できる。
1306年、チャムパ王国のジャヤ・シムハーバルマン3世(Jaya ShmhavarmanⅢ制旻)と、チャン・アイン・トン(Tran Anh Tong 陳英宗)の妹フエン・チャン(Huyen Tran 玄珍)との結婚により、今日のフエに近いオ・チャウ(O Chau鳥州)とリー・チャウ(Ly Chau里州)が、ダイ・ビエット(大越)王国に編入された。
このこともあって、ホアイン周辺は、14世紀になって暫く衰退の一途をたどった。ホイアンに近いタイン・チエム(前出)やコム・ハなどでチャムパ王国の遺跡の建造物が発見されたが、チャムパで崇拝した偶像だけではなく、チャムパ時代の井戸も発見された。
トゥボン河河口に今でもあるクア・ダイ(Cua Dai)という地名は、クア・ダイ・チエム(Cua DaiChiem=偉大なるチャムパへのドアとか広大なチャムパの潟、という意味)から来ている。
チンが支配する地域は、ダン・ゴアイ(Dang Ngoai,Tonkin)、グエンが支配する地域はダン・チョン(Dang Trong, Cochin-China)と称した。
チンとグエンの対立は、1627年に武力衝突に発展。チン家とグエン家は、武器を初め戦争物資を確保するために、外国との貿易に積極的な立場をとった。特に、北のグエン・ゴアイに比べて、人口、農地、軍隊などすべてに劣勢をかこっていたダン・チョンは、外国商人たちを積極誘致することで、徴税を通じて財政不足を補うことができた。(つづく)