2007-06-30

ホイアン(会安)を語る

今回から何回かにわたり、ベトナム中部の町ホアインをご紹介してみよう。枯葉剤とは関係ないが、ベトナム文化の背景をしるには、欠かせない町である。
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 韓国の有名な詩人の詩『まだ待つものがある人は幸せだ』には、聖人君子のような白檀の香りの品性を褒め称えた句がある。
「白檀の香りがどれだけ濃厚な香りかと言えば、それを切る斧にまで香りを留めるほどだ。人についても、ほんとうに美しい人は、白檀の香りのような人だ。控えで密かに香りが漂い、その人を悪く思っている人までその人の人格に同化させてしまう」と。

 白檀香木は、ベトナム、インド、インドネシア、マレーシア、オーストラリアで自生したり、栽培されている。白檀香木は、白檀科に属する常緑樹で、成長すると高さ12メートルから15メートルになる。

 白檀香木は、昔から折り詰め、香炉、扇子、仏像などの最高級木工芸品の材料として使われただけでなく、王や貴族は、棺の最高材料として白檀香木を好んだ。また、漢方医学では、吐き気、陣痛、腹痛、下痢などの芳香性の胃・整腸剤としても重宝され、鬱病の治療薬としても使用された。白檀香は、古今東西を問わず、香水の材料としても脚光を浴びた。
フランスの有名な香水製造会社が、白檀香を入れて、マリー・アントワネットが愛用した香水を復元して、良い値段でうる計画をしているという。白檀香は、様々な分野で、人を気高くし、あるいは人の健康をみとってきた。
 近世ベトナムで、白檀香が活発に取り引きされてきた港が、ベトナム中部のホイアンだった。1999年に、ユネスコの世界文化遺産に登録された町である。約8万6000人(20006年調査)の人口を擁するホイアンに、毎年その10倍の80万人の観光客が訪れる。

 小さな港町ホアインが所有している遺跡は、194箇所と言われる。寺、神社などが87箇所、歴史ある家屋が82軒、昔の井戸が24箇所、橋に併設された神社が1箇所となっており、これらの遺跡群が、2平方キロの狭い地域に密集している。
 観光客のいないホイアンは、静かな雰囲気を讃えた町だ。そこに2000年の悠久の歴史が凝縮されている。
 ホアインが、国際貿易港として最も栄えた時代は、16世紀後半から18世紀後半までのおよそ200年間だ。しかし、ホイアンは、交通運輸に有利な立地条件を備えていたために、それより以前からクアン・ナム(広南)とその周辺を結ぶ港の役目を果たしてきた。

 最近発見された約2200年前のサ・フイン文化後期に属する土器は、ホイアンの歴史の古さを証明する考古学的証拠である。サ・フイン文化は、ホアイン周辺で繁栄し、紀元後2世紀から2200年前まで続いたと言われる。
 ホイアン周辺でサ・フイン文化が栄えていた証拠は、タイン・チエム(Thanh Chiem)や、コムハ(Com Ha)で発見された中国銭や後漢時代の小銭である五銖銭と王莽銭にも探すことが出来る。

 ホイアン周辺地域は、サ・フイン文化以後もずっとチャムパ王国の外港として大きく栄えてきた。チャムパ王国は、紀元後2世紀、「ラム・アップ(林邑Lam Ap)と言う名で、中国の歴史書に登場する。
 ホイアン周辺地域が、本格的にチャムパ王国の外港的役目を果たし始めたのは、4世紀頃と推定される。この4世紀頃に、チャムパ文化を代表する遺跡地、ミソン(My Son美山)が造成され始めたし、ほぼ同じ時期にチャムパ王国の首都(正確な場所は不明)が、シムハプラ(Shimhapura 獅子城 今日のチャ・キエウ(Tra Kieu))に遷都した。

 中国・北魏の道元が著した『水経注』(Thuy Kinh Chu)や、唐の杜佑が書いた『通典』(Thong Dien)には、ホイアン周辺地域のことを「ラム・アップ・ポ・ (林邑浦Lam Ap Pho)」と表記されているという。

 唐玄宗以降、ユーラシア大陸内部の「シルクロード」が役目を失い、海洋交通の東西貿易が活発になった。「海のシルクロード」と言われる海洋ルートによる東西貿易で、アラブの商人が中心的な役割を果たすようになった。9世紀頃には、アラブの商人たちは、中国までの遠い航海の途中に、「ラム・アップ・ポ」に寄港して、食糧、水などを補給し、薪の供給を受けた他、現地の人たちと交易もしたのである。

 トゥボン河は、もともと20世紀までは、「チョ・クイ(ChoCui)」とか、ただ「クイ」とだけ呼ばれた。「クイ」とは薪のことで、その名前だけでも、当時の船舶が必要とした薪がどのくらい取り引きされたのか容易に想像できる。

 1306年、チャムパ王国のジャヤ・シムハーバルマン3世(Jaya ShmhavarmanⅢ制旻)と、チャン・アイン・トン(Tran Anh Tong 陳英宗)の妹フエン・チャン(Huyen Tran 玄珍)との結婚により、今日のフエに近いオ・チャウ(O Chau鳥州)とリー・チャウ(Ly Chau里州)が、ダイ・ビエット(大越)王国に編入された。

 このこともあって、ホアイン周辺は、14世紀になって暫く衰退の一途をたどった。ホイアンに近いタイン・チエム(前出)やコム・ハなどでチャムパ王国の遺跡の建造物が発見されたが、チャムパで崇拝した偶像だけではなく、チャムパ時代の井戸も発見された。
トゥボン河河口に今でもあるクア・ダイ(Cua Dai)という地名は、クア・ダイ・チエム(Cua DaiChiem=偉大なるチャムパへのドアとか広大なチャムパの潟、という意味)から来ている。

 1558年にグエン・ホアン(Nguyen Hoang阮さんずいに黄色の黄)が、トゥアン・ホア(Thuan Hoa 順化)の鎮守として赴任したことはおハインの誕生を知らせる序曲となった。 
 ハウ・レ(Hau Le後黎)王朝の復興を成し遂げた後、チン(Trinh 鄭)家とグエン(Nguyen阮)家の権力争いが起こった。グエン・ホアンは、義弟と同時に政敵でもあるチン・キエム(Trinh Kiem鄭検)と正面対決をすると実力で負けると判断した。
 
 そこで、グエン・ホアンはチン・キエムの領域をでて、自分の勢力範囲を固めるために、軍隊を率いて僻地へと都落ちした。北のチン家に対抗するためには、何としても領土の拡張が急務だった。1570年に、広大なクアンナム地域を手中にした。当時のクアンナムは、こんにちのクアンナム省にとどまらず、クアンガイ(広義)省とビン・ディン(平定)省を含んだ広大な地域だった。グエン・ホアンはうまく統治して、17世紀初めには、チンに対抗する勢力にまで成長した。

 チンが支配する地域は、ダン・ゴアイ(Dang Ngoai,Tonkin)、グエンが支配する地域はダン・チョン(Dang Trong, Cochin-China)と称した。

 チンとグエンの対立は、1627年に武力衝突に発展。チン家とグエン家は、武器を初め戦争物資を確保するために、外国との貿易に積極的な立場をとった。特に、北のグエン・ゴアイに比べて、人口、農地、軍隊などすべてに劣勢をかこっていたダン・チョンは、外国商人たちを積極誘致することで、徴税を通じて財政不足を補うことができた。(つづく)
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2007-06-14

完璧なるスパイ(下)

下の写真は、戦争の泥沼にはまり、疲労をみせるジョンソン大統領とマクナマラ国防長官。

 2003年、彼は重い病にかかった。肺気腫だった。5日間、人工肺で過ごした。妻は、ベトナムの慣習にこだわって、夫が秘密裏に埋葬できるようにと、夫が関わった書類、ノート、写真などを金庫にしまった。

だが、アンさんは死なかった。35%しか肺が機能していないなか、自宅に戻ってきた。以後は酸素のタンクをそばに置いていた。
 

多くの知己を得たアンさんの本には、多くの人が言葉を書き添えていた。「ファム・スアン・アンさんへージャーナリズムの大義と名誉と気品の高さをもって自国の大義に仕えた私の友人へ・・・最大の敬意をこめて」と書いたのは、ニール・シーハン

「歴代政府が誕生しては消えていったが、友人として永久に変わらないことを知っている私の親愛なるアンさんへ。あなたは、偉大なる教師でした、しかし、常に将来も私の心の一部であろう巨大な友人でもありました。愛を込めて、そして今後とも貴兄にお会いするときには喜びを見いだして。ローラ・パーマー

「戦争中われわれが分かち合った困難な時代の真の友人、ファム・スアン・アンさんへ。私の最大の敬意を表して。ジェラルド・ヒッキー」(ジェラルド・ヒッキーが1956年に人類学で博士号をとるためにベトナムに行った時に、彼はまさか次の18年間という全ベトナム戦争の機関をベトナムで過ごすとは思ってもいなかった。数年をメコンデルタで過ごした後、1963年にヒッキーは、ベトナム・ハイランド地方の少数民族を研究し報告するためにアメリカ政府と契約しているランド・コーポレーションに採用された)

「勇気ある愛国者、偉大なる友人であり教師のファム・スアン・アンさんへ、感謝の気持ちを込めて。ナヤン・チャンダ」(1946年、インド生まれ。ファー・イースタン・エコノミック・レビュー誌の元特派員。アジアの政治、国防、外交政策で多くの共著がある。カナダのエール大学に報ずる前の30年間、香港を拠点に活動。グローバリゼーションを研究するエール・センター発行のエール・ゴローバル・オンライン・マガジンの発行責任者兼編集長)

 「ファム・スアン・アンさんへ。現在はついに過去に追いついた!分かち合い、あのころのなつかしい記憶。しかし、何はともあれ長い友情を。ロバート・シャプレン」(『ザ・ニュー・ヨーカー』誌の編集員。一定期間一つの場所や地域に留まる外国特派員。世界の片隅から深い洞察のレポートを送る)

 「ファム・スアン・アンさんへ。長年ベトナムの理解のために助けてくれた可愛い弟よ。暖かい敬意をこめて。スタンリー・カーノウ」(1925年、ニューヨーク市生まれ。1959年からタイム誌やライフ誌の特派員としてアジアをカバーしたピューリッツァー賞受賞作家。ピューリツァ賞受賞作は『我々に似せて』(1989)。他に『ヴェトナム/ある歴史』(1983)などがある)。太字

 「私にベトナムのことと友情の本当の意味を教えてくれたファム・スアン・アンさんへ。アンさん、あなたは、私がこれまでに会った中で一番勇気ある方でした。決してお返しすることのできない莫大な借金を私はあなたに負って・・平和を。ロバート・サム・アンソン」(ジャーナリスト)
 彼は、常にこう言っていた。「共産党がベトナムで多くの支持をえているわけは、外国の植民、外国の影響と長年戦ってきた唯一の勢力だからです。第2次大戦中の日本と、その後の10年のフランスと、そしてアメリカと。20年、それ以上に建国のために戦ってきたのです」と。

 アンさんは、第2次対戦の直後に精神的に大成長した。そして、サイゴンのあらゆる種類の人々を惹きつけ、彼の後ろ盾になった。

それは、CIAのエドワード・ランズデール(アンさんがジャーナリズムの勉強のためにカリフォルニアのオレンジ・コースト・カレッジに留学ための骨を折った張本人)から、ムオイ・フオン(彼はベトナムに戻った後ケース・オフィサーになった)に至るまで。

 しかし、深い意味でいうなら、そういう彼を取り巻く連中のほとんどは、彼をよく理解していなかったことになる。
 彼は、ジャーナリズムよりも何にもまして民族主義者であった。そして、何にも増して、ベトナムを愛した。

 彼は、自分の知っているフランス人もアメリカ人も好きだった。そしてそれぞれの言語を流暢に話した。しかし、彼は、ベトナムがフランスの植民地になるのもアメリカの植民地になるのも好きではなかった。


スタンリー・クラウドは、「その点で言えば、彼は、ベトナムが共産かするのも好まなかったのではないか。それが、おそらく戦後、彼が自宅軟禁され、再教育を受けた理由ではないか」と書く。

だが、これは私に言わせれば、彼の誤解だと思う。それはスパイという外国と接触していた者の宿命である。本当に、彼は“転向”していなかったかどうか、審査を受けるのである。それは、厳しい掟である。「北ベトナムが勝った、いやあ、アンさん、ご苦労様」とはいかないのである。

 2006年9月、ファム・スアン・アン氏は、79歳の生涯を終えた。アンさんの成功は、少将に昇進し人民軍英雄の称号に輝いた。戦争に貢献し、少将と英雄の位に昇った二人の諜報員のうちの一人である。

サイゴン解放、ベトナム勝利をもたらしたその功績は、これからも語り継がれてゆくだろう。左上の本は、ラムニー・バーマンが書いた完璧なるスパイの本である。

 なお、同氏の生涯を追ったドキュメンタリーが、HTV(ホーチミンTV)のTFSより制作されており、本年中に放映される予定だ。(了)

【註:ケースオフィサー】現代にあてはめれば、一般に、法律で取り締まりの対象になるスパイは内部情報を持ち出す関係者で、その情報を買い取る外国政府の情報機関員(大使館に所属し外交特権を持つ書記官駐在武官をしていたりする)は「ケースオフィサー」という。ケースオフィサーの任務と、スパイの任務は異なる。ケースオフィサーが行うのは、主に敵側の情報に近づきやすい人間や、有用な人間をスパイとして獲得する獲得工作と、自らの下にいるスパイの管理、情報の取りまとめと本国への報告である。敵側の暗号担当者であったり、電信員であったり、あるいはマスメディアの人間、軍人に近づいて友好的に接し、次第にスパイとして育てあげていくのである。場合によっては自らが外国のスパイとして働いていると自覚すらさせないケースもある。スパイの任務は、まさにその立場や能力を活かし、ケースオフィサーの望む情報や人間、暗号機、暗号書や重要な機密文書などを直接獲得してくることである。多くの場合、海外に赴任したケースオフィサーは赴任国の現地人を使ってスパイ網を作り上げることに邁進する。また、ケースオフィサーの管理を経ずに直接、単独で目標国に潜入するスパイもいる。こうしたスパイは、完全な地下活動や秘密の拠点に長期間潜伏する者もいるが、堂々と偽の経歴を利用して該当国で一定の社会的地位を占めることもある。このような潜入の場合は、しばしば情報収集だけでなくプロパガンダの流布など、積極的な工作活動を行う場合もある。
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完璧なるスパイ(上)

この記事は、枯れ葉剤とは直接関係はない。ベトナム戦争に勝てると思っていたアメリカ。ベトナム戦争に何が何でも勝って国土を統一しようとした北ベトナム。そこには、表に登場しながら裏の仕事をしていた人たちが数多くいる。だから、ベトナム戦争の複雑性・特異性は目を見張るものがある。この記事に登場するスパイもまた、完璧なる役目を遂行した人である。記述は完全ではないが、お読み頂ければ、ベトナム戦争の一端が見えると思うのである。

ファム・スアン・アンさん
タイム誌記者を務めながら解放戦線スパイとして活躍

スパイだから当然いくつかの名前をもっていることは、クチの解放戦線兵士カオさん(5月28日のブログ参照のこと)のところで話した通りある。カオさんもいくつかの名前をもって活動した一人である。

アンさんもそれに違わず、別の名を持っていた。実は。ファム・スアン・アン(Pham Xuan An)も本名ではない。本名は、チャン・ヴァン・チュン(Trang Van Trung)である。そして、アンさんは、ハイ・チュン(Hai Trung)とも呼ばれていた。

アンさんは、1927年にドンナイ省ビエンホア市に生まれた。1945年10月、バクリエウ省タインチ市で軍事訓練を受けた後、サイゴンにおける抗仏の学生活動に参加した。そして、1952年の旧正月に、ビエンホアに戻った彼は、ベトナムの有名なファム・ゴック・タック医師からスパイの任務を与えられた。

 再び、サイゴンに戻ると、彼はファム・スアン・アンという新たな名前で、過去のすべての関係を断ち切り。北ベトナム政府からの任務を遂行した。

 1953年、ファム・スアン・アンは、クチで共産党員となったが、翌年、フランス軍の計画局に勤務。その後、フランスに代わり、アメリカが南ベトナム政府を管理下においた時に、彼は、米―仏―越の戦争計画部の連絡士官を務め、また、アメリカの軍人訓練にも参加した。まさに、スパイとして“敵の中で”最初の第一歩を踏み出したのである。共産党は、アンさんをX6というスパイとして採用した。これは、クチのH63諜報網の単独の諜報員となった。

 北ベトナム共産党は、ジャーナリズムにおける経歴を最高のカムフラージュとして選んだ。そして、十分に慎重に検討して書き上げた人生史を作り上げていった。その手始めとして、アン氏を、ジャーナリズム専攻として大学にアメリカに送り込んだのである。1957年のことだ。その後の20年間は、彼は虚構の人生を送った。しかし、仕事を見事にこなしていたので、誰びとも彼のことを疑う人はいなかった。

 さらに、1957年、ムオイ・フオン(Muoi Huong)氏の指導の下、「アメリカ軍と戦うために、アメリカ文化を探求する」という真の目的を胸に秘め、アメリカへと旅立った。
 アンさんは、ジャーナリズムを自らの専門としたが、彼によると、「報道記者という仕事は危険も多いが、広い人間関係を持つことができるためにスパイ活動には最も適した仕事である」という。


 やがて、さらに深い人間関係を構築するために、優秀なジャンーナリストに留まらず、“政治家”になる必要もあると考えた彼は、様々な研究を重ねた。

 彼の交友は、ジャーナリズムの域を越え、CIAのルー・コネイン、エドワード・ランズデール、ウィリアム・コルビーらも入り、そのほか、南ベトナムの著名な政治家、将軍までも含まれていた。

 1960年から1975年までの間、サイゴンで最も優秀な政治・軍事アナリストとしてもその名が知られ、南ベトナム政府のチャン・キム・トゥエン、チャン・ヴァン・ドン、グエン・カオ・キー、トン・タット・ディン、ドー・カオ・チ、グエン・ヒュー・コ、カオ・ヴァン・ヴィエン、グエン・チャイン・ティ、ドー・マウなどの政治家とアメリカの軍事コンサルタントは、しばしば彼に意見を求めたという。

 当時の南ベトナム政府は、クーデターのたびに大統領が変わり政権は不安定だったがゆえに、南ベトナムにとって彼は信頼に値する人物であった。

 1961年の初め、アメリカ留学から帰国した彼(スパイコード:X6)は、南ベトナム政府大統領官邸付きの政治研究情報機関の仕事をした。ここで、ジャーナリズムに関する専門家として、さまざまな重要資料に接する機会が生まれた。

 ライオネル・マクガー氏の『Technics and Tactics of Coutner-Insurgency』を初め、早い段階から南ベトナム政府の作戦情報を入手すると同時に、ロイターやタイム誌の記者として、アメリカのCIA、軍部、警察関係者とのコネクションを構築し、さまざまな重要情報を収集する力を得た。

 彼が得た各種情報と敵側の戦略分析は、内密に北ベトナムの軍事司令部に送られた。その情報は極めて詳細かつ正確で、敵側の動きが手に取るようにわかる生の物であった。
 それ故に、それらの情報に触れたホーチミン主席やサップ将軍は、「まるでアメリカの軍司令室にいるかのようだ」と呟いたという。

 例えば、「特殊戦争戦略」「ベトナムのジャングルにおける兵士の対応策」「M113-114戦車戦術」などの資料や中部高原におけるアメリカの軍事活動、南ベトナム政府とアメリカの関係、南ベトナム政府内閣の内部状況などといった具体的な情報を提供していた。

 それらの機密情報が、1963年1月2日のベトナム人民軍アプバックでの戦闘大勝利に貢献したと言われている。

 そして、「Staley Taylor特殊戦争戦略」で掲げられた「ベトナム人を利用して金品や武器を援助し、北ベトナム人民軍と戦う」といった情報を把握することにより、北ベトナム政府は軍事及び政治の両面から敵側を攻撃するという政策を採った。

 さらに、アメリカの対北ベトナム共産党対策のほとんどが、アンさんによって北ベトナム政府に伝えられたが、皮肉なことに対北ベトナム戦略にかかわったアメリカの軍事専門家たちは、アンさんの意見を参考にしていた。

 サイゴンの中心部、コンティネンタルホテルの向かい側にある「ジブラル・カフェ」。国会から声が聞こえて来そうな至近距離だ。戦争中、ジブラルは、ジャーナリストや特派員、警察、政府役人のたまり場だった。だから、そこは、噂が生まれる所でもあった。権力に居る者が試された場所でもあり、多くの者がその日の最高のストーリーを求めて集まってきた所だった。アンは、そこで“ジブラル将軍”という異名を取っていた。それは、彼があまりにもタイムリーに調整役を果たしていたので、彼はCIA職員に違いないと噂されていたのも、ここでのことだった。

 北ベトナムのマイ・チ・トー氏は、「アンさんは、本当に天才的な人だった。彼に任務を任せたのは、われわれの政府にとって大成功であった。彼の北ベトナムへの貢献は極めて大きかったといえる」と讃えた。

  アメリカ“The New Yorker”のThomas A. Bass氏は、「ファム・スアン・アン氏は、穏やかなベトナム人だった。彼の心の中は、純粋な革命の理想とベトナムへの献身的な愛国心に満ち溢れている一方、アメリカの発展やその文化にも尊敬の念を抱いていた。彼はスパイだが、誠実な人物であり、ホーチミン主席に提供した政治分析と同じ物をタイム誌にも送っている。虚構の世界にいたのかもしれないが、常に事実を伝えていた実直な人だった」と、述べている。 (続く)

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2007-06-06

枯れ葉剤被害者協会 世界へ向けてアピール

ベトナム枯れ葉剤被害者協会(VAVA)は、来る6月18日に、ニューヨークの連邦裁判所で開かれる口頭弁論を前に、6月1日に、全世界に向けて協力を求めるアピールを発表した。

ベトナム枯れ葉剤被害者協会からのアピール

2007年6月1日

ベトナム戦争が終結して30年以上が経過した。しかし、数百万ものベトナム人が、依然として、アメリカが撒布したダイオキシン混入の化学剤、特にエージェント・オレンジによって生じた疾病に、肉体的に、精神的にも苦しんでいる。当然のこととして、この責任は、アメリカに帰せられるべきだ。


これらの有毒化学剤の被害者であるベトナム人が起こしている訴訟の判定をするために2007年6月18日のアメリカでの上告審第2回裁判で口頭弁論が開かれるのを機会に、われわれは、エージェント・オレンジ/ダイオキシン被害者のための協会(北村註:ここではVAVAをベトナム枯れ葉剤被害者協会とさせて頂く)を代表して、世界中の全政府、全機関、そして遠近に関係なく、われわれの友人に真剣になって呼び掛けたい。

このアメリカの法廷に、いかなる違法で不道徳な圧力をはね飛ばして、これらの有毒化学剤の製造会社と供給会社であるアメリカ企業の責任を取らせ、それによってわれわれの被害者への賠償に帰結する、真に公平で公明正大な決定を求めつつ、強力な声をあげて、あらゆる努力をして頂くこと、を。

われわれの被害者の痛みは、全人類共通の痛みである。

エージェント・オレンジ/ダイオキシンのベトナム人犠牲者に正義を求めることは、アメリカを含めた他の諸国の、同様の状況におかれた全被害者のための正義を求めることでもある。

正義を求めるこの闘争は、すべてわれわれ全員にかかっている。


私たち愛のベトナム支援隊は、昨年もVAVAを訪問し、裁判支援のための募金に協力し、今年も5月に同協会を訪問して、8月の再会を約束した。左の写真は、昨年、ダン・ヴー・ヒエップ会長やトゥー事務局長、同協会常務委員のトアンさんらを囲んで撮った時のものだ。

引き続き同協会及び被害者との連帯は最重要課題であることを改めて表明しておきたい。

なお、上記「アピール」は、北村の翻訳であって、公式の翻訳ではない。


*当支援隊の記事、写真は、無断使用することを禁じます。

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