2006-07-12

支援隊ツアー参加者募集中!

募集
愛のベトナムさわやか支援隊
2006年度ツアー
 実績をつんで今年は12年目です

日程:
9月19日(火) 
成田11:00→VN955→14:30ハノイ(泊)

9月20日(水)
平和村(新谷文子のさわやか音楽療法)→友好村一日(新谷文子のさわやか音楽療法)

9月21日(木) ハイフォン市 ブー・ヴァン・グエンさん医療在宅訪問→ハノイ医科大学で車いすの贈呈式

9月22日(金) フート省旧女性兵士と交流 日帰り

9月23日(土) タインホア(清化)省孤児院(新谷文子の"シンチャオ”音楽療法+カレー夕食会)→ニンビン(泊)

9月24日(日) ニンビン省在宅訪問(ハイ君の冥福を祈る)→昼食交流会→幼稚園訪問(音楽療法=交渉中)or ビンさんの希望する施設(音楽療法=交渉中)を訪問→ハノイ (泊)

9月25日(月)  観光の日(バッチャン陶芸村 ホーチミン廟 女性博物館 旧市街(36通りなどから2ー3箇所) ハノイ(泊)

9月26日(火) 枯れ葉剤被害者協会副会長 グエン・チョン・ニャン副会長との懇談(被害者協会へ援助)→バクザン省施設訪問

9月27日(水) タイビン省の在宅訪問 マイ・フー・ホアット退役中佐宅 or 平和村の在宅訪問車に同行(交渉中) →ハノイ(泊)

9月28日(木) 出発までショッピング 23:10 ハノイ→VN958 →

9月29日(金) 早朝06:45 成田着 解散
申し込み締め切りは 8月10日 ベトナムの枯れ葉剤被害者の日です。

この料金でこれだけ回れる!!
Posted by Picasa ツアー料金: 180,000円/1人
   ▲ツアー代金に含まれるもの:28食中26食(機内食を除く) 観光代 交通・移動費 通訳代 外務省職員への交渉費  空港往復のバス送迎。
  ▲ツアー代金に含まれないもの:アルコール代・清涼飲料代・洗濯代・電話代など個人に関わるもの。 旅行中の障害疾病保険。 ハノイ空港の出国税14米ドル。食費2食分。

■上記予定は、訪問先の 被害者の体調などにより変更することがあります。
■申し込み先:下記のいずれでも結構です。御連絡を下さい。
連絡先:
★ベトナム枯れ葉剤被害者支援の会(会長:大釜 一男) 
所在地:〒411-0801 三島市 谷田夏梅木 764-22
電話:055-971-0881
★支援隊事務局(事務局長:宮尾和宏) 
所在地:〒411-0802 三島市 東大場 1-19-5 
電話:055-976-8822

2006年の支援隊目標::
無形の援助 ☆大好評の音楽療法を1カ所増やして最低4カ所の施設で実施する

         ☆在宅訪問による患者の直接援助。
         ☆旧婦人部隊兵士との激励交流会の開催を予定。

有形の支援 ★30台を目標に車いすの贈呈 
         ★補聴器を必要とする子どもたちに30個の補聴器と電池半年分の贈呈   
         ★枯れ葉剤被害者5人-10人を目標に整形手術
         ★古着や生理用品などの生活用品支援 などを中心に考えています。 
    上記の車いすや補聴器などは、ベトナム国内で販売されているものを購入していま
    す。故障の場合に、あまりに高級なもの、外国でしか販売されていないものは援助に
    適しません。

愛のベトナム支援隊の決意
    どんなに崇高な理念を心に抱いても、その実現に行動しなければ、現実には何も実を結ばない。世界の平和と人々の幸福への道を開き、今日も生き生きと行動する一人ひとりでありたい。
    生命尊厳の哲理を、一人ひとりの心の中に打ち立てていきたい。
    本当の幸福とは、善行がもたらす喜びである。
    自分の満足、痛みには敏感だが、他者の喜怒哀楽には無表情、無感覚の現代社会を変え、一人の人間をどこまでも敬う人間社会の根本を再確認したい。
    人情とは自分の知っている人に対して情けをかけること。人道とは見知らぬ地域の見知らぬ人々にたいして思いやりを持つこと。(地雷廃絶日本キャンペーン運動委員 長(おさ) 有紀枝さん)の精神を発揮していく。
    「『思いやり』とは、つまり思いを他の人まで差し向けること。思いを遠くに遣った分だけ、わが心は広がる。心が大きく広がれば、たくさんの幸福が入ってくる」
    「感傷的な悲しみに耽り、心ひそかに悲歎や空しい思い出に浸り、行動もしないで苦しい倦怠のうちに青春を空費し、何もしないでただ老いてゆくのは軽蔑すべきことだ」(イギリスの女性作家シャーロット・ブロンテ)の言葉を胸に、我々個々人の”青春”を飾りたい。
    「人生は、情熱によってでなければ勝負出来ないことばかり」(イギリスの文人ハズリット:中川誠訳) ベトナムの枯れ葉剤被害者援助は、まさに情熱によってこそ実行可能である。


2006-07-08

蓮 蓮華 れんげ

Posted by Picasa 開いた開いた
なんの花が開いた
れんげの花が開いた
開いたと思ったら
いつのまにかつぼんだ

つぼんだつぼんだ
なんの花がつぼんだ
れんげの花がつぼんだ
つぼんだと思ったら
いつのまにか開いた

幼いころ口ずさんだ童(わらべ)歌。 まさに、この「蓮華」が蓮です。

ベトナムに行き、朝早くホテルを出て、枯れ葉剤の被害者のお宅に伺い、沈痛な話しをきかせて頂き、こんな人生もあるのかと打ちのめされながらその家を辞して、ふと見ると、しぼみかけた蓮の花に出会う。そんな光景を、私は何回みてきたことでしょうか。往きに蓮の花に気づいていながら、帰りに撮ろうと思って、出てみると、もうしぼんでしまった花がそこにある・・そんなことも実に多かったのです。足が釘付けにされるほど、きれいな色ですね。この写真は、忘れもしないハナム省キムバン郡で撮ったものです。

インド原産。蓮は「蜂巣(はちす)」の略と言われています。実の入った中央の黄色い花床にたくさんの穴があいていて蜂の巣に似ていることから、そういわれたようです。漢字の「蓮」は漢名から、種子が連なってつくことと聞きました。

古代ハスの研究者、東京大学農学部教授大賀一郎さんが、千葉市の東大厚生農場 (現、東大検見川総合運動場)で、1951年に、弥生時代の地層から2000年も前のこの蓮の実を発見した話は、感動ものでした。

しかも、それにとどまらず、発芽、開花に成功したのですから、古代の夢が現代に咲いたわけです。発掘スケジュールの最終日の最後の瞬間に蓮の実を発見し、それが弥生時代のものだったのですから、その根気と執念のエネルギーに敬服するのみです。地元検見川では、毎年の「ハス祭り」には毎年多くの人が訪れるそうですが、一度見てみたいと・・・。でも私は、ベトナムの蓮でしばらくは我慢するしかない・・と思っています。千葉は、「千葉(せんよう)の蓮華」に由来するといわれていますが、ほんとうにそうだったのだと思います。

朝5時過ぎから開き初めて、朝早く開き午後3時頃には閉じてしまう。店じまいは早いのです。 蓮華はこの開閉を2-3回繰り返し、大体4日目には花びらが散ってしまうほんとうに不思議な植物です。

しかも花が咲いた時に実が生じるという不思議な花です。仏法でいわれる因果倶時の比喩に引用され、花(華=因華)と実(菓=菓台)、因華と菓台を同時に生ずるので、不思議の法たる「妙法蓮華」に似ています。

従って、ハスも「蓮華」と名づけられております。 「妙法蓮華経と申すは蓮に譬えられて候、天上には摩訶曼陀羅華・人間には櫻の花・此等にはめでたき花なれども・此れ等の花をば法華経の譬えには佛取り給う事なし、一切の花の中に取分けて此の花を法華経に譬へさせ給う事は其の故候なり<中略>蓮華と申す花は菓(み)と花と同時なり」とあります。

日本で最古のハスの出現は、河内国(かわちのくに=大阪)です。『古事記』には、「日下江の 入江の蓮(はちす) 花蓮 身の盛り人 ともしきろかも」とあります。大昔は、いっぱい咲いていたのです。中国の『詩経』ではハスを尊び、「君子の花」としてされています。

古代エジプトのピラミッドや王家のミイラからハスの種子がでたり、王家の紋章にハスを使用されていましたが、エジプトの蓮は睡蓮だそうです。

インドになるとハスの歴史は更に古くなり、約五千年前のものと思われるハスの女神像が発見されています。インドの釈尊は、人間生命の哲学的な表現をハス(蓮華)に譬えました。

バラモンの根本聖典『ウパニシャッド』の中にも「浄化せる者たりとも、未だ浄化せざる者たりとも、聖典を恒に念誦する者は、罪悪に染まらざること、しかも蓮華の汚れにおけるが如し」と説かれています。法華経の『涌出品』に、「不染世間法 如蓮華在水」ということが説かれております。「世間の法に染まざること蓮華の水に在るが如し」と読みますが、蓮の花は、濁った池や泥沼に生息しながらも、本当に清らかな花を咲かせるのです。

ベトナム外務省のレ・ドゥック・タインさんが、いつも「あそこのお茶じゃなくちゃだめだ」と知りあいのところから買ってきてくれる蓮の実が入った「ロータス・ティー」の妙なる味を賞味しながら、枯れ葉剤の被害者全員が、泥沼にあっても蓮のようにすくっと立ち上がってほしいといつも思うのです。でも、ダイオキシン2378-TCDDは、自分の足で立ち上がれないほどのダメージを多くの人に与えてしまったのです。だから、蓮の花を見ると、私の心境は複雑です。(文責:在シドニー、フリーランス・ジャーナリスト 北村 元)

2006-07-07

越枯れ葉剤被害者 集団訴訟に望み託す(下)

(この記事は、2004年8月17日付けの公明新聞に掲載した記事に写真を新たに加え、加筆したものです)
ベトナム政府の援助対象はごく少数
原告に入っていない被害者をご紹介しよう。


女性ボランティア兵士として、ホーチミン・ルート作りのため山岳地帯に入ったマイ・ティ・トーさん(フー・ト省在住=写真左)は、健康な子供がほしいという主人と別れて、歯を食いしばって、女手一人で障害児を育ててきた。

可愛い盛りの長女を4歳の時白血病で失った。いままた、手術不可能、余命幾ばくもなしと病院から宣告された4男を肝臓ガンで失おうとしている。(息子さんは、2004年3月に亡くなった)

一人の女性が一生のうちに生んだ子供が3人であれ、5人であれ、すべて障害児、奇形児、虚弱者であれば、一生つきっきりで介護しなくてはならない。それが、どのくらい両親、家族、地域に苦しみを与えるか想像がつくであろう。ましてや、夫と別れて女手一つで育ててきた子どもとの別れが母親に与える苦痛は、筆では表せない。

ヴー・ヴァン・グエンさん(写真左)は、ハイフォン(海防)市在住だ。

枯れ葉剤が多量に撒かれた中部のクアン・チ省などで歩兵として従軍し、身体にイボイボが全身に多量に発生して除隊した。神経繊維腫だった。イボの一つ一つが腫瘍である。幸いなことに良性腫瘍だ。だが、イボが痛む。深い眠りについたことがない。

さらに、娘二人に異常が出た。下の娘はグエンさんと同じイボイボの症状。最近増えつつある。「伝染する」と言って、友人はすべて遠ざかっていった。野菜を売りに行っても買ってくれない。

上の娘は視力が極端に弱い。私が同行を頼んだ医者の初期診断によると、イボが身体の中に出来て、視神経を邪魔している可能性があるという。

被害者救済の援助も、ベトナム政府はかなり積極的に行っているが、手当を受けている被害者は、被害者全体からみればほんのわずかである。ベトナム政府は、30万人に毎月平均10万ドン(1米ドル=1万5千ドン)の手当を支給している。つまり、ベトナム政府は毎月300億ドンを支給しており、これを米ドルに換算すると、毎月200万ドルとなる。(註:この手当は、2005年に改定された)

受給対象者は戦争に参加した北ベトナム側の兵士とその子息で、孫は対象ではない。被害者であるにもかかわらず、軍人出身でない人は対象外だ。10万ドンといっても、6米ドル少々。インフレ化の中で、この金額は障害者家族の生活の足しになるものではない。

最初の子供が障害児・奇形児とわかったのに、なぜ2番目を作らないようにしなかったのか、と農民に質問したアメリカ人ジャーナリストがいた。

枯れ葉剤の知識に詳しい農民になら、その質問は適切である。農民は、「自分の家系の過去の罪を背負って生まれてきたので、恐らく神が罰を与えたのだと思いました。神に元気な子を授けてくださいと祈りました」と答えた。彼ら農民は、自分たちがダイオキシンに曝露したという事実すら知らなかった。出産しても、障害児や奇形児が生まれる可能性が高いという知識もなかったのである。
化学戦争の責任に半減期は無い
      世界の大義の声集める意義も

訴訟に備えて、枯れ葉剤被害者協会が昨年(2003年)暮れに設立された。会長に就任したのは、ダン・ブー・ヒエップさんという人だ。日本では無名に等しい。とりあげたマスコミも102冊を除いて皆無に等しい。

1965年11月に、初めてアメリカと北ベトナムの正規軍同士が地上で戦った”イア・ドラングの戦い”があったが、この時指揮をとった人が、ダン・ブー・ヒエップさんで、後の中部方面軍司令官になった人だ。 ベトちゃん、ドクちゃんが生まれたコントゥム省サタイに陣を構えて10年。中西部を解放しながら10数年ぶりにニャチャンの海をみて涙を流した。

Posted by Picasa「部下に枯れ葉剤の被害者がたくさんいるので、私が選ばれたのでしょう。アメリカと初めて戦ったのも私、集団訴訟で初めてアメリカと対峙するのも私、不思議な因縁を感じます」と言う。枯れ葉剤の被害者の痛みを最も理解できる人の一人だ。「原告で南北の区別をしてはいけません。被害者の証明をするために、全力で訴訟の手伝いをします。南北融和の絶好のチャンスです。証拠をそろえるのも大事ですが、世界の大義の声を集めるのも、同じくらいに大事です」と言う。

無関心のままの問題放置は許されず
ベトナムの中興の祖と言われるレ・タイン・トン王が採択したホン・ドゥックという法典第2条で、人に毒を盛った行為を道義的犯罪と明記している。この種の犯罪は10大犯罪の5番目に列挙されており、断頭の刑に処された。命をたわめる者、かけがえのない命を奪う者は厳罰を受けなくてはならない。われわれは地上最強のダイオキシンを長期にわたって撒いたアメリカの行為はとうてい容認出来るものではない。

この集団訴訟を通じて、われわれは全人類的視野から、今なお苦しむ第1世代から第3世代(第3世代で終わるという意味ではない)までのベトナムの被害者はもちろんのこと、枯れ葉剤禍にあった各国の復員軍人とその子供たちと連帯し、さらに世界の正義と共戦のスクラムを組むことを呼びかけようではないか。最新の情報では、第3世代の被害者の数は、20万にも達している。

ベトナムでは、南北で300万もの被害者が苦しんでいる。無関心であってはならない。他人事であってはならない。ベトナムには、「一人の風を加えると嵐になる」という諺がある。集団訴訟の反響はスローではあるが広がっている。イギリスの国会議員32名も連帯の支援を表明した。人命を奪い環境破壊を行ったアメリカの蛮行と、ダイオキシンの脅威を一人でも多くの人が知ること自体が、必ず人類益・人類の平和につながっていく。

裁判は長期化するだろう。こういう直近の過去の戦争の後遺症に苦しむ人々の問題を未解決のまま、われわれがのほほんと21世紀を過ごすことは許されない。化学戦争を行ったアメリカの責任に半減期はないと考える。(おわり)
**フリー・ランス・ジャーナリスト 北村  元

2006-07-06

越枯れ葉剤被害者 集団訴訟に望み託す(中)

(この記事は、2004年8月17日付けの公明新聞に掲載したものを、修正加筆したものです)
  証拠能力高い資料作成が大きな負担に
では、いまなぜ集団訴訟なのか。アメリカの法律には、当然訴訟期限についての規定がある。
ベトナムの場合、戦争終了の1975年4月30日から10年以内となる。だが、特例が適用される。アメリカが、長い間ベトナムに対して課してきた経済制裁を解除したのが、1994年2月3日だった。制裁発動中は、訴訟できないので、訴訟期限は、そこから10年後の2004年2月3日までとなる。そして、期限切れぎりぎりの今年1月31日に訴状を提出したのである。


しかし、これを戦争犯罪として訴えるなら、期限はないんである。

なぜ、ベトナムはぎりぎりまで待ったのか? それは、ベトナム人の文化とも深く関係している。ベトナム人には、もともと訴訟ではなくて、話し合いでものごとを解決する国民性がある。アメリカ高官が訪問するたびに、人道的解決を訴えてきたのも、その故である。クリントン大統領が国内で認めた枯れ葉剤被害による責任も、ベトナムには言及しなかった。しかし、法律で規定する期限もあり、アメリカの誠意をこれ以上期待できなかったのだ。


訴訟の書類作成がどのくらい大変なのかを簡単に説明しておこう。
まず、本人が枯れ葉剤散布地域を通過したか、居住したかを証明しなくてはならない。その証明をした後、アメリカ軍が公表した枯れ葉剤散布の実行を示す文書と照合する。次は、本人が持っている疾病は、ダイオキシンによるものかどうかを確認しなくてはならない。3世代分を表す家系図も作らなくてはならない。


しかし、家系図ができても十分ではない。その夫婦の兄弟姉妹の子供が元気かどうかを調べる必要がある。もし、兄弟姉妹の子供に障害児・奇形児がいなければ、説得力は高くなる。逆に、障害児・奇形児がいれば証拠能力としては極端になくなったり低くなるので、その場合は原告からはずす可能性も出てくる。

ベトナムには、枯れ葉剤被害者の全体像を示す全国統計はない。証拠能力の高い書類を作らなくてはならないので、時間もかかるし、費用もかかる。ベトナム政府は財政的に大きな負担を強いられるのである。

枯れ葉剤の被害による奇形を見せる子どもの特徴は、身体の各部分に複数の奇形性をみせ、いずれもが深刻な状態であることだ。

一番上の写真をみて頂きたい。この子はハタイ省に住む子である。足はご覧の通り、膝下で直角に曲がっていて、完全に歩行不可能である。一見膝に見えるが、そうでなない。その上に、精神障害を抱えている。さらに、家庭環境を言うなら、一緒に写っている人は、父母ではない。祖父と祖母である。両親は、この子を祖父母の元に預けたまま、姿をくらましたのだ。今でも、祖父母は、娘夫婦の帰りを待っている。

さて、集団訴訟の原告の1組に、左の写真にみるグエン・ヴァン・クイさん親子がいる。

クイさんは、北部のハイ・ズオン省出身だ。1972年から、枯れ葉剤が散布されたクアン・ガイ省やクアン・ナム省の南部戦場で従軍し生活した。

Posted by Picasaクイさんは、コントゥム省で、アメリカ軍が落としていった枯れ葉剤のドラム缶を発見している。彼は、ナイフでドラム缶に穴をあけた。白い粉末だったという。

除隊後、クイさんは、1984年に結婚した。最初の子は、早産で、胎児は奇形だった。これが理由で、奥さんは別れた。

1987年、クイさんは再婚した。生まれた第1子グエン・クアン・チュン君は、脊椎、手足に奇形・障害をもって生まれた。そして、第2子、グエン・ティ・トゥイ・ガーちゃんが生まれた。先天的盲目と先天的聾唖であった。真ん中の写真で、父親の隣で立っている子だ。

二人とも自立は出来ない。加えて、父親のクイさんは、胃ガン、肝臓ガン、肺ガンと診断された。衰弱して仕事の出来ないクイさんと自立できない二人の子。この一家を、妻が市場に売りに出て家計を支えている状態だ。何回訪問しても、奥さんに会えたことはない。朝早くから夜まで、休み無しに働いて家計を支えている。だから、私はせめて額の中に入った奥さんをいれて写真を撮った。クイさんは、この働き者の妻に、いつも感謝の言葉を忘れない。

昼間だけでも、クイさんがなんとか子供の面倒をみることができる。

こういうケースを「それでもましな方だ」、とわれわれは言っていいのだろうか。(つづく)

2006-07-05

越枯れ葉剤被害者 集団訴訟に望み託す(上)

(この記事は、2004年8月17日付け公明新聞に掲載した記事に、加筆修正したものです)

枯れ葉剤製造の米化学会社37社を相手取り提訴

アメリカは、ベトナム戦争(ベトナムは抗米救国戦争と呼ぶ)で、原水爆を除く当時の最新鋭の武器を惜しげもなくつぎ込んだ。枯れ葉剤もそのうちの一つである。

当時の南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領(左の写真。コーナーにいる白い背広の人)も、アメリカに枯れ葉剤の散布を強く要請した。勝たんがために。そして、限定的とは言え、1961年に枯れ葉剤散布を許可したのはケネディ大統領(下の写真)だった。

以降、約8千万リットルという途方もない量の枯れ葉剤、特に「エージェント・オレンジ」を高濃度で旧南ベトナムの領土にまき散らした。不幸にして、生成の過程で意図せず誕生した不純物、人工物では地上最強の猛毒TCDDというダイオキシン約370キログラムがその中に含まれていた。アメリカ軍は1971年1月に散布を終了したが、ベトナム戦争のベトナム化政策によって、南ベトナム政府軍はその後も残った枯れ葉剤の散布を継続したという。よって、旧南ベトナムは史上最長の化学戦争の戦場となったのである。

大量破壊兵器であり使用は戦争犯罪
ダイオキシン1ppt(濃度:1兆分の1グラム)でも、遺伝子を壊すことが出来る。計算上では、1グラムで10万人近くの成人が死ぬとも言われている。


では、なぜベトナム国民が、いま生きているのか。それは、一義的にはダイオキシンが雨で大量に流されて行くからであり、また二義的には長い間の半減期で、ダイオキシンの効力も減っていくからだ。

ベトナム戦争にアメリカ兵はのべ250万人が派遣された。ベトナムに2回派遣され、2004年に前立腺ガンの手術をうけたパウェル前国務長官もその中の一人である。原則として一年しか駐屯しないアメリカ兵ですら、公称30万人以上もの被害者が出ている。撒かれた領土に住むしかない当時の南ベトナムの国民や長く駐屯していた北ベトナム兵士のことを考えれば、被害がいかに重いかは簡単に想像がつくであろう。

体脂肪が好きな猛毒ダイオキシンは、人体や動物の体脂肪に入り込み隙を伺ってきた。ベトナムのダイオキシン被害は、20年30年経って、初めて本当の姿を現してきた。これは大量破壊兵器であり、その使用行為は戦争犯罪である。

証拠能力高い資料作成が大きな負担
では、いまなぜ集団訴訟なのか。アメリカの法律には、訴訟期限についての規定が当然ある。ベトナムの場合、戦争終了の1975年4月30日から10年以内となる。ここに特例が適用される。アメリカは、ベトナムに対して長い間課していた経済制裁を、1994年2月3日に解除した。制裁発動中は、訴訟できないので、訴訟期限は2004年2月3日までとなる。そして、ぎりぎりの今年1月31日に訴状を提出したのである。しかし、これを戦争犯罪として訴えるなら、期限はない。
Posted by Picasa
なぜ、ベトナムはぎりぎりまで待ったのか?それは、ベトナム人の文化とも深く関係している。ベトナム人には、もともと訴訟ではなくて、話し合いでものごとを解決する国民性がある。アメリカ高官が訪問するたびに、人道的解決を訴えてきたのも、その故である。クリントン大統領が国内で認めた枯れ葉剤被害による責任も、ベトナムには言及しなかった。しかし、法律で規定する期限もあり、アメリカの誠意をこれ以上期待できなかったのだ。(つづく)

2006-07-03

枯れ葉剤 悲劇の連鎖(下)

(この記事は、2003年5月4日付けの河北新報に掲載した記事に加筆修正したものです)

負の精神性 未だ減らぬ捨て子

募金集めに奔走
ベト君、ドク君をご存じの方も多いだろう。 結合性双生児、枯れ葉剤という言葉を身を以て日本人に広めた双子である。

彼ら二人は、中部高原のコン・トゥム省サタイで生まれた。こん・トゥム省には、枯れ葉剤が百万ガロン撒かれたとされている。

生後18日目。生命力もまだ十分でないうちに、二人は、この中部からハノイの越独友好病院に車で送られてきた。1981年のことである。

二人の名前はバー(3)とボン(4)と付けられていたが、この病院の名にちなんで命名されなおした。ベトは本当は越を意味し、ヴィエトと発音する。ドクは、ドイツの独で、ドゥックと発音する。

ベトちゃん、ドクちゃんが入院した当時の看護婦ディエンさんは、今看護婦長になっていた。
「二人が運ばれてきたのは、私の当直の日でした。外が暗くなりかけていた時です。小さくて、薄汚れていて、でも、二人ともハンサムでした。すぐ体を拭いてあげたら、どなたか分かりませんが、服を下さったんです」と、当時を振り返る。

枯れ葉剤被害研究の先駆者となったこの病院のトン・タット。トゥン教授が、看護の方法と治療法を指示し、勝つ募金集めにも奔走したという。

「奇形児は祟り」
久しぶりにドク君に会った。今は、毎日、百人の新生児が産声をあげるベトナム最大の産婦人科病院トゥーヅー病院の中にあるトゥーヅー病院平和村の職員として、上司である女性理事長を支えている。

そのドゥック君が、コンピューターから取りだしてくれた統計に、思わずのけぞった。くれたのは、この10年間の統計だったが、2001年だけで、504人もの奇形児が生まれた。504人の奇形児のうち、85%が死亡。生き残った15%のうち3分の2は捨て子になったという。

「障害をもって生まれただけでも不幸なのに、親にも見捨てられるなんて・・・」と、障害児担当者は顔を曇らす。ベトナムには、未だに”障害児、奇形児は先祖の祟り」という強い負の精神風土が残っている。この負の精神性を若い親から解放してあげない限り、捨て子は減らない。

米からの補償なし

Posted by Picasa 奇形児の面倒をみている新生児室に入れさせてもらった。水頭症になって頭の肥大が進行し、ベッドに寝たままの子。頭の小さい小頭症の子。両足のないアザラシ肢症の子。両足の指がくっついている合指症の子。などなど典型的な先天性欠損症の子ばかりだ。

新生児室のある一室で、若い看護婦さんに聞いてみた。「
「この部屋では何人くらいが捨て子なんですか?」「全部そうです」

次の言葉が出なかった。 目は、部屋にいる子を追っていた。

ハノイの大手病院の医師が、「枯れ葉剤の被害は、ベトナム民族に落とされた精神的、肉体的大災害だ」と言った。この発言は本当に医師として、人間として深い意味を持っていると思う。

アメリカ化学企業は、自国の旧軍人には補償をしながら(それも災害からすれば微々たるものだが)、外国の患者には一切補償も援助もしない。科学的研究をしてから・・というアメリカの態度は、時間稼ぎの何物でもないと断言しておく。

枯れ葉剤の撒布終了から今年で32年。未だに何の補償を受けないまま多くの被害者が旅立っていく。韓国でも、オーストラリアでも、ニュージーランドでも、旧軍人が枯れ葉剤被害で訴訟を起こしているが、超大型世界企業となったアメリカの化学企業が耳を傾ける気など毛頭なく、厚い壁の前でうろたえるだけである。いかなる慈悲もないアメリカ政府。その身勝手さ、傲慢さ、冷徹さの前で泣く被害者を後目に、アメリカ政府は、今日もどこかで爆弾を落としている。(終わり)  在シドニー フリーランス・ジャーナリスト 北村 元(元テレビ朝日・ハノイ及びシドニー支局長)

2006-07-02

枯れ葉剤 悲劇の連鎖(中)

(この記事は、平成15年5月3日の河北新報に掲載したものに加筆修正したものです)

汚染地区
村人 次々と異常訴え

木が生えぬ山肌
 1945年まで13代にわたってグエン朝の王都となっていたベトナム中部の都市フエ。そこからラオス国境まで60キロたらず。フエから北のクアンチ省にかけてはベトナムで一番東西に狭く、それだけラオスが近く迫っている。
 夏は身を焦がすようなラオスからの熱風が容赦なく吹いてくる。

フエを出てチュオンソン山脈の懐、アールオイ県のアーソー地区を目指した。途中の山肌は、枯れ葉剤の影響で、上の写真のごとく、いまだに木が生えていない。ところどころ撒布当時の枯れ木が残っているが、それも朽ちてしまったのか、以前取材した時よりも減ってしまった。 下の写真は、米軍復員兵士が撮影のものだが、撮影場所は不明である。しかし、見覚えのある景色。フエから国道14号線上のアーソーまでの途中と見られる。

山間(やまあい)を縫って登り始めると、有名なホーチミンルート(現国道14号線)にぶつかる。そのT字路を左に折れて、さらに南下する。国境検問所で書類を提出しさらに奥へはいると、アーソー地区がある。

この狭い渓谷には、かつて3つのアメリカ軍基地があって、アメリカ軍、北ベトナム軍、解放戦線軍、南ベトナム政府軍の4つどもえの戦いが繰り広げられた。そして、周辺の山々にはたっぷりと枯れ葉剤が撒かれた。


アーシャオ(アーソーの旧名)空港は、枯れ葉剤を貯蔵していた保管基地の役目も果たした。その昔の戦場は、ひっそりと静まりかえっていた。

住民の生活奪う
空港跡地の前に立っている大きな立て看板には、こう書かれてあった。

「アメリカはこのアールオイ県に、たくさんの爆弾を投下し枯れ葉剤を撒いた。ダイオキシンが入ったエージェント・オレンジが総量の50%以上、300回以上の飛行で50万ガロンを撒布した(略)」
「現在でも、この地域には、ダイオキシンが残っている。ハット・フィールド社(カナダの環境調査会社)が、このアーシャオ空港を重度汚染地区に指定した。アーシャオ空港周辺で生活したり、耕作したり、動物を捕ったり、魚を釣ったりしてはいけない。ドン・ソン地区の魚、ニワトリ、アヒル、家畜の脂や肝臓を食べてはいけない」

身の毛もよだつほどの重大なメッセージが、この中に含まれている。にも、かかわらず、今もこの村で人々が暮らしている。NBCニュースが、人口2千人の村で、5人に1人が何らかの障害を持っているという、医師の話を紹介していた。

村人の一人、カン・ティアさんの家を訪ねて聞き取り調査をした。長女は結婚しているが、目が見えなくなりつつあるという。長男は全身麻痺を時々起こし、自転車に乗っていると、時々転倒することがある。次女は精神障害者。三女も精神障害のようで、ほとんど口をきかない。四女は全盲。水を飲むと、鼻から水が出る。ご飯を食べると、鼻からご飯が出てる。

Posted by Picasa集団疎開が必要だが・・・
この日、ご主人のクイン・ティアさんは、四女を連れて、フエの中央病院に行ったために、私とはすれ違いだった。五女は、最近歯がボロボロと突然抜けた上、視力も落ちた。

聞き取りをしていると、次から次へとひっきりなしに、患者と思える人たちが私のところにやってくる。

精神障害の人。すでに枯れ葉剤の症状が、頭皮、背中などに発症している人。盲目の人。無脳症の子どもを出産したという婦人、などなどである。

村人は、アーソーに住んではいけないことになっている。障害者を増やすだけだ。なのに、ここを去れない。ただひとえに、貧しいからである。そして、行き先が無いからである。

一刻も早く、国際援助で、貧しい村人の集団疎開を実現させるか、ダイオキシンに汚染された土壌の洗浄をするか・・を祈りつつ、村を後にした。

上の写真は、アメリカ軍の爆弾投下で出来たクレーターである。写真の場所は不明である。だが、こういうアメリカ軍の爆弾投下で出来たクレーターが、アーソーでは生々しいままほったらかしにされている。ベトナム背全国には、こういうクレーターが、1千万個から2千万個あるという。

チュオンソン山脈を抜けきらないうちに日没となり、真っ暗な中で車を止めてみた。
そこには、大きな蛍が美しく飛び交っていた。「蛍の多い所は、昔から戦死者が多かった所ですよ」・・・いつかハノイで聞き取り調査をしている時に、旧軍人が私に聞かせてくれた話を思い出した。(つづく)

2006-07-01

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平成17年

9月   山内 康子さん(三島市)  楽器+衣類

12月11日 文京ビューティーズ(東京・文京区) 衣類2箱

12月15日 幅 匡子さん(名古屋市) 寄付金 

12月18日 阿部敬子さん(小金井市) 寄付金

12月24日 文京ビューティーズ+山本真梨子ちゃん(東京・文京区) 寄付金 

平成18年
1月18日 相澤 暢子さん(オーストラリア) 衣類
2月23日 蓮池 章平さん(沼津市) 寄付金
2月24日 文京ビューティーズ(東京・文京区) 寄付金
4月06日 宮尾 和宏さん(三島市) 寄付金
5月07日 宮路 瑞枝さん(オーストラリア) 寄付金
5月10日 文京ビューティーズ(東京・文京区) 衣類+寄付金
5月15日 田中 宏幸さん(三島市) 寄付金
6月10日 新谷 文子さん(沼津市) 衣類
6月15日 阿部 敬子さん(小金井市) 衣類
6月22日 芦川 信子さん(三島市) 寄付金
6月27日 加納 きよ子さん(沼津市) 寄付金
6月28日 相澤 暢子さん(オーストラリア) 寄付金

頂いた寄付金と支援物資は、現地の実情を考慮して、ご意志を生かして有効に使用させて頂きます。
ほんとうに、ありがとうございました。
厚く御礼を申し上げます。
こんごともよろしくお願い申し上げます。

愛のベトナムさわやか支援隊 会長 大釜一男 一同