2011-04-29

養父(やぶ)医者

もう、大分前になるが、養父医者を求めて・・・枯れ葉剤の被害者の状況を出版するために、ベトナムに頻繁に通った時代が続いた。
その時にお世話になった方々の中に、現地のお医者さんがいた。中に、なかなか立派なお医者さんがいて、大変心強く感じたものだ。初期のころ、エージェント・オレンジの研究に奔走した故レ・カオ・ダイ教授。越独友好病院の故トン・タット・トゥン院長と故トン・タット・バック副院長の親子医師。もう一人、ホーチミン市のグエン・ティ・ゴック・フォン先生。グエン・ブイ・ダイ108軍病院元院長。ハノイのバックマイ病院女医のディエップ先生らのお名前がすっとあがってくる。 こういった多くの先生方から、精神の啓発と心の滋養を頂いてきた。
樹齢千年を超える樽見大櫻(養父市)
 私の父は医療関係者でもなんでもなかったが、小説『城の崎にて』を書いた志賀直哉さんらが愛した兵庫県但馬の出身である。城崎温泉とはちょっと離れた温泉町の出である。
 妙見山、氷ノ山など1000メートルを超す山を臨む。その近くに、但馬牛で有名な兵庫県養父(やぶ)市がある。そこは、「藪医者」の語源の一つだ。
 松尾芭蕉の高弟、森川許六(きょりく)がいる。江戸時代前期から中期にかけての俳人で、近江国彦根藩の藩士。 蕉門十哲の一人。彼の『風俗文選』によると、やぶ医者とは元々、養父にいた名医のことだという。

 死者を蘇らすほどの腕を持ったその名医の噂は京の都にも届いた。その名医を慕って、各地から医術を学びにくる人が多かったというのだ。
 ところがやがて、大した腕もないのに、「自分は養父医者の弟子だ」「養父から来た」と、口先だけの医者が続出し始めた。いつの時代も変わらない社会現象だ。

 当然、養父医者の名声は地に落ち、いつしか「藪」の字があてられ、ヘボな田舎医者を意味するようになったらしい。名医を「養父医者」と、いい加減な医者を「藪医者」と、字に表せば違っても、口で言えば同じに響く。

 昨今は、売名行為に熱心だったり、似非養父医者を標榜するモラルの低い医者が数の上でも増えつつあるのは非常に残念だ。その一方で、この1000年に一度の大震災に立ち向かい、医道の使命を背負って、行動するお医者さんも目立つ。
 (1)ジャーナリストの先輩、西牟田耕治さんからの手紙の中に入っていた情報を披露しよう。

 3・11の大災害を知るや、3日後には仲間と共に宮城県名取市に入り、クリニックを拠点に避難所を巡回しながら被災者の診療に当たっていた医師がいる。NPO法人「ロシナンテス」理事長の川原尚行さん。

 川原尚行さんは、福岡県立小倉高校時代、ラグビー部のキャプテンを務めた方。九州大学医学部を卒業後、外務省に入り、医務官としてアフリカに赴任したが、2005年に退官して、スーダンに診療所を解説した。宮城県での診療の後は、スーダンへ戻った。
ラグビーの格言『ONE FOR ALL, ALL FOR ONE』・・・ひとりは皆のために、皆はひとりのために・・・を地で行く人だ。
本当の養父医者なんだと思う。

 (2)昨日、徳島から手紙が来たので、ご了解をえて一部をそのままご紹介する。
 「徳島の友人(53歳の医師)が、東北の被災地に入り、病気になった方々の診察に当たってきました。一月程前でした。徳島からバスで行って、夜の11時頃着いて、翌朝6時起床。朝食後、車で一時間かけて避難所に着いて、それから昼食の時間もなく、ずっと診察や手当て。夕方4時頃まで、誰もトイレに行ってないこと気づいたそうです。更に宿に戻るのが夜11時頃。夜中の零時頃、晩ご飯。翌朝も6時起床・・・と、1週間滞在して、徳島にバスで戻ってきてから、二日間寝込んだそうです。でも、被災地の方々に、却って元気を頂いた・・・年齢を重ねてきた方ほど、明るく丁寧で穏やかであったそうです。

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大変な医療行為だったことは、容易に想像できる。迅速な行動に最大の敬意を表したい。迅速な治療が必要な時の遠路はるばるの往診に、現地の被災者は安堵されたと思う。まさに「道の遠さに、志が表れるものである。

沖縄の人びとが使う「チムグルサン」という言葉。胸が痛むという意味だ。
我が師は、「沖縄には、”かわいそう”という相手を下に見た同情の表現はない」と仰った。捨ててはおけぬという「同苦」の精神があってこそ、現地にかけつける行動に結びつく。上のお二人のお医者さんの行動に拍手を贈りたい。
 私たちの今年のベトナムでの活動も、また、養父医者や誠意の看護師の力を借りて行動しようと思っている。
北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊・Love & Support Vietnam(since 1990)
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