2010-04-28

第4回支援隊写真展(下)

今回は、前回の続きで、写真展のまとめです。
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3.来客数とアンケート(全来客数  512人  アンケート 30
4月12日 来客数  35人  アンケート  4
   アンケート

①初めて写真を見てビックリしました。
②少しでもお力になりたいと云う気持ちがわきました。残念ながらツアーに参加することは事情が有り参加できませんが、素晴らしい活動と感動しました。子供達の明るい希望に満ちた笑顔に頑張る力が出ました。

③先ず大変素晴らしい事をされている事に感謝します。写真を拝見しまして可愛そうで涙が出ました。これからも頑張って下さい。

④広島の原爆の被害者を思い出しました。
4月13日 来客数  27人  アンケート  2 (沼津朝日取材)

   アンケート

①写真を見て本当に驚きました。

②・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  
4月14日  来客数  42人  アンケート 6 (静岡新聞取材)

①悲しい悲惨な姿の写真の一枚一枚、目に涙が出る思い。枯れ葉剤の恐ろしさ全世界が一日でも早く幸福と夢のある生活が出来るのを願ってやみません。

②一部の報道でのみしか見た事が無かったのですが、実際に足を運ばれている方の話や現状を聞くことが出来てとても驚きの連続でした。

③健康であることが当たり前でないんだな・・・と改めて実感させられました。

④健康である事は凄く有難い事だと思います。もっと笑顔の写真が沢山有るといいなと思います。

⑤これからの子供達にも戦争の恐ろしさをこれからもずっと教えて行くべきだと思います。

⑥・・・・・・・   

4月15日  来客数  37人  アンケート  1
①辛く目をそむけてしまう光景です。

4月16日  来客数  39人  アンケート  2
①・・・・・・
②こうした支援をされている方に感謝いたします。

4月17日  来客数  41人  アンケート  1
①・・・・・・・

4月18日  来客数  80人  アンケート  6 (この日名古先生の講演会が行われた。)
①こんな活動をしている事を一人でも多くの人に伝えたい。何か自分に出来ることを協力したい。
②・・・・・・
アーには参加したいと思いますが参加できません。御免なさい。もっと沢山の支援が必要だと思います。多くの人に伝えたいと思いました。

④活動を皆さんに知って頂けるよう、大変でしょうが頑張って下さい。
④痛ましく直視しがたい写真も有りますが、これが現実なのですね。何か支援に協力出来れば・・・・と思っています。
と現状を見たとは大違いだと思います。是非機会が有れば参加したいと強く思いました。

4月19日  休館日
4月20日  来客数  35人  アンケート  0
4月21日  来客数  29人  アンケート  1
後も頑張って下さい。
4月22日  来客数  24人  アンケート  4
①日本に生まれて幸せです。ベトナムの事は次世代にも知らせるべきです。戦争はやはりいけないものです。
・・・・・・
度とこんな事が有ってはならない。
年の展示は涙が出ました。今年は覚悟して来ましたので大丈夫でした。笑顔の写真を拝見して、素晴らしい活動が有る事を知り安心しました。感謝している気持ちを活動されている方にお伝え下さい。ツアーは興味が有ります。
4月23日  来客数  30人  アンケート  0
4月24日  来客数  70人  アンケート  2
どい、このような事が起こらないで欲しい。
語道断、こんな事が二度と起きてはならない。
4月25日  来客数  23人  アンケート  1
①戦争と云うのはとてもひどい。もっとアメリカ人が心配すれば良いと思う。我々も同じだが、人間として・・・・(???) 

講師:名古良輔医師
4.寄付金

  開催日から全期間での寄付金の合計は、24、018円でした。 『グループ・しみず』様からのご寄付は別途、ご報告致します。
ご来場の皆様、今年もほんとうにありがとうございました。
(記:宮尾和宏 4月26日)Posted by Picasa

第4回支援隊写真展(上)

今回のコラムは、先日開催した第4回支援隊写真展の結果についてのご報告です。
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ベトナム枯れ葉剤被害者写真展

実施日時 2010年4月12日(月曜日)~4月25日(日曜日)

  午前9時 ~ 午後5時

実施場所  ぬまづ健康福祉プラザ・サンウエルぬまづ

開門前の様子
          ご  挨  拶

本日は、ご来場下さり、ほんとうにありがとうございました。

また、枯れ葉剤被害にご関心をお持ち下さったことに厚くお礼を申し上げます。

ベトナム戦争が1975年4月30日に終り、今年で35年もたちました。

1961年から1971年までのランチ・ハンド作戦で、アメリカ軍は、合計で8000万リットルのダイオキシンなどに汚染された大量の除草剤を旧南ベトナムに撒布しましたが、それはイタリアのセベソで起きた産業事故で放出された数百倍の量でした。

大量の枯れ葉剤撒布で、ベトナムの人々も、旧南ベトナムの国土も、未だに汚染されたままです。
それは、人類が作り出した最強の人工の毒である『2-3-7-8TCDD』というダイオキシンがその中に含まれていたからです。この化学物質は、意図して作られたものではないという1点しか、アメリカに同情の余地はありません。製造過程でこの最強の毒が生成されることを承知のうえで製造し、最強の毒が入っていることを承知で、主として空中散布したからです。そして、散布後も、つい最近に到るまで何らの浄化作業もせずに放置を続けた責任は大きく、ダイオキシンが遅効性と言う点でも、この長期放置は許せません。

ベトナムの被害者は現在も300万人超。アメリカからは、ビタ一文の補償も受けていません。座して死んでいくだけです。危険な汚染地区は28箇所に及んでいます。「愛のベトナムさわやか支援隊」の活動でベトナムの被害者を救うには数が多すぎます。

ベトナム戦争は、まだ終わっていないのです。

本日、ここに展示された写真は、被害のごく一部です。ご理解のうえ、私どもの運動に、少しでもご協力頂きたいと存じます。
2010年4月
テレビ朝日元ハノイ支局長
『アメリカの化学戦争犯罪』著者 北村 元
1.開催期間中に・・

第四回写真展を前回同様ぬまづ健康福祉プラザ・サンウェル沼津で実施しました。当会場では今回で三回目、第一回から毎回ご来場下さっている方もいました。

また、初めて見て枯れ葉剤の恐ろしさ、戦争の恐ろしさ、裏返しの平和の有難さを実感されてお帰りになる方が沢山いらっしゃいました。

アンケートの記入をお願いしましたが、なかなかご記入頂けなく、14日間を通して30通のアンケートしか回収出来なくとても残念でした。

今回は写真展の丁度中日の4月18日に、昨年一昨年ツアーに参加下さった眼科医の名古医師による「ベトナム枯れ葉剤被害者を訪ねて」と題する講演会を開催することが出来ました。

とても好評でした。

一番遠くから来て下さった方は 掛川からでした。


報道  1.沼津朝日 4月14日 枯れ葉剤による被害の様子 ベトナム支援の団体が写真展と題して写真展が紹介された。

     2.静岡新聞 4月15日朝刊 枯れ葉剤被害の現状伝える80点 沼津で写真展   と題して報道された。

また  3.沼津朝日 4月21日  困窮する枯れ葉剤被害者 支援組織会員がベトナムの様子を伝える  の見出しで名古先生の講演が報道された。

(前回の報道関係は 毎日新聞、中日新聞の二紙でした。)
2.アンケートの集計

設問 1.あなたはベトナム戦争で撒かれた枯れ葉剤を知っていますか?

   (1) 知っている      (2)知らない

   2.現在ベトナムに枯れ葉剤被害者が300万人もいる事を知っていますか?

   (1) 知っている      (2)知らない

   3.写真展を何でお知りになりましたか?

   (1) チラシ  (2)新聞  (3)友人  (4)その他

   4.あなたの性別

   (1)男           (2)女

   5.あなたの年齢は

   (1) 10代  (2)20代  (3)30代  (4)40代  

   (5) 50代  (6)60代  (7)70代以上

   6.毎年夏ツアーに、参加したいと思いますか?
   (1) 思う          (2)思わない

   7.その他 感想を!


以上の設問に対して 30名からアンケートを頂きました。
以下にパーセンテージで表示します。


アンケート結果

  1.(1)90%  (2)10%

  2.(1)73%  (2)30%

  3.(1) 3%  (2)20%  (3)27%  (4)50%

  4.(1)27%  (2)73%

  5.(1) 7%  (2) 7%  (3) 7%  (4)21%  (5)21%  (6)24%  (7)13% 

  6.(1)47%  (2)53%


  7.に付いては日毎の来場者数とその日のアンケートの感想を記します。
つづく(記:宮尾 和宏)Posted by Picasa

2010-04-25

「枯れ葉剤使用を命じたのは誰」の記事

沼津市で開催した支援隊の第4回写真展は、本日25日午後3時で終了しました。今頃は、片付けです。ご来場下さった方、ありがとうございました。片付けの方、本当にご苦労様です。

さて、今日のコラムは、3月4日に、アメリカのヴェテランズ・トゥデーに掲載された記事の訳文を掲載します。しかし、記者の意図がどうしてもわかりません。その理由は、このコラムに書きます。まずは、訳文を、読んで下さい。若干意訳しました。
????????????????????
オレンジ剤の使用を命じたのは、誰か?

エージェント・オレンジから来るすべての疾病、奇形の赤ちゃんに苦しみは続いているわけだが、一体その使用を命じたのは誰だったのかと、人は不思議に思う。東南アジアの米海軍の司令官として、南ベトナムの天蓋を剥ぎ取るために、旧南ベトナムの田舎に化学製品の枯れ葉剤の撒布を命じたのは、エルモ・ツムウォルト・ジュニア(写真下)だった。

エルモ・ラッセル・ツムウォルト・ジュニア(1920年11月29日 – 2000年1月2日)は、海軍将校であり、史上最年少で海軍作戦部長に就任した人だ。海軍大将から,その後第19代海軍作戦部長として、特にヴェトナム戦争中、ツムウォルトは米軍史に大きな役割を演じた。
少将へ昇格後、ツムウォルトは、1965年7月に巡洋駆逐艦『フロティラ・セブン』の艦長になった。1968年9月にベトナムの艦隊司令官、駐ベトナム・アメリカ軍事援助司令部、海軍軍事顧問首席となった。

 ツムウォルト艦隊は、第七艦隊のように青い水に浮かぶ艦隊ではなかった。メコン流域の茶色の水を行く艦隊だった。彼は、ヴェトナムの沿岸、港湾、河川をパトロールする船艇の小艦隊を指揮した。船艇の艇長の中には、自分の息子がいた。息子の名は、エルモ・ラッセル・ツムウォルト3世だ。もう一人、帰還後上院議員となるジョン・ケリー(註)もいた。この間、ツムウォルト・ジュニアには、ジャングルに隠れ、自由にアメリカ軍およびARVN(旧南ベトナム政府軍)のパトロール隊を待伏せするベトコンから、彼の配下の兵士を保護する機会があった。

ベトコンが効果的に天然利用していた森林の天蓋を剥ぐために、エージェント・オレンジエージェント・ホワイトや他の多彩なカラーコードのついた一連の新しい枯れ葉剤を葉に散布したのだった。エージェント・オレンジに長期的に暴露した人間への副作用はまだわかっていないと当時言われていた。それは、ダウ社やモンサント社のメーカーがその安全性を潜在的使用者を安心させたがっていたからだ。

ツムウォルト提督は自分の息子だけでなく、彼の多くの仲間を「眼前の明らかな危険」から守るために行動した。しかし、その際、彼は、今となってガン誘発剤として知られている化学製品に彼らをさらすことになった。すべての指揮官と同じように、ツムウォルト提督も迅速に、利用できる情報に従って決断力をもって行動した。この場合、彼は偏向した信頼できない情報に依存したのだ。その後の展開でそれは明白にはなったのだが。

結局、個人的には彼自身の決断は大きなツケを払うことになった。息子のエルモ・ツムウォルト3世は、1988年に42歳で亡くなったのだ。

ツムウォルト・ジュニアの孫は、1977年に生まれた。男の子だった。孫は、身体的感覚を混同する先天性機能障害だった。ツムウォルトの息子は、死の2年前の1986年に、こう言った。

自分は弁護士だ。そして、既存の科学的な重い証拠によって、私が裁判所でエージェント・オレンジが、神経障害、ガンと皮膚疾患など、ベトナム退役軍人から、或いは彼らの子供たちの高度の先天性欠損症について報告されている すべての医学問題の元凶であるということを証明することができたと思わない。しかし、私は(元凶は枯れ葉剤)であることを確信している」。

彼はまた、自分の病気を父親のせいにしたことは一度も無いと、語った。

ツムウォルト提督も、息子の癌はほとんど間違いなくエージェント・オレンジのせいだと思うと言った。また、非常に高度の学習障害で苦しむ孫のラッセルの原因も、突き詰めれば枯れ葉剤に帰結することができると、言った。しかし、ツムウォルトは、敵に隠れ場所と食料の発見を困難にさせたことで、わが方の犠牲者を減らしたので、エージェント・オレンジの使用を命じたことを後悔していないと述べた。


ツムウォルト提督は、彼の息子との共著「我が父 我が息子」(My Father, My Son)(写真上)を、1986年9月にマクミラン社から出版した。その中で、息子の癌の闘病という家族の悲劇を論じている。

いくつかの病院で治療を受けた後、ツムウォルト3世は、シアトルのフレッド・ハッチンソン癌研究センターに入院し、妹のモウゼッタから骨髄移植を受けた。幸いにも妹の組織が、この処置を十分に可能にするほどにマッチしていたからだ。結果に明るい望みをもったのだが、結局、彼は1988年に亡くなった。

 悲しいことに、ツムウォルト家も、エージェント・オレンジに苦しめられた。それは、「行ったものが戻ってくる」自業自得という東洋の思想によったものだったのか?」(完)


【註】ベトナム戦争中には危険なメコン・デルタ地帯で小型艇に乗った。銀星章(戦闘でベトコン・ゲリラを殺した功績で受賞)、青銅星章、3つのパープル・ハート勲章(戦闘で負傷した将兵に与えられる)を授与された(3回負傷したが、いずれも軽微な傷か?)。しかし、ベトナムから帰還後、ベトナム戦争に疑問を抱いた彼は、アメリカ・ベトナム帰還兵の会(VVA)を作り、さらにベトナム帰還兵戦争反対の会(VVAW)の広報担当になった。
++++++++++++++++++++++++
中途半端な記事です。そして、この記事の終わり方では、ツムウォルト・ジュニアの人となりは出てきません。命令したのは確かですが、命令したのは彼だけではありません。そして、枯れ葉剤の撒布は、海軍よりも空軍が主体です。彼は退役後、なぜベトナムを訪問したか、それが書かれていないのは残念です。次回か次々回のコラムに書いてみたいと思います。(北村 記)Posted by Picasa

2010-04-22

写真展開催中に感動の講演会

愛のベトナムさわやか支援隊は、現在、サンウエルぬまづで、「第4回枯れ葉剤被害者写真展」を25日まで同施設一階で開催しているが、18日(日)に、08年09年と2年連続で支援隊ツアーに参加した眼科医の名古良輔さんが「ベトナム枯れ葉剤被害者を訪ねて」と題して講演をされました。
その模様を「沼津朝日新聞」が報じて下さいましたので、ご許可を得て、転載させて頂きます。
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「「 困窮する枯葉剤被害者 」」

----- 支援組織会員がベトナムの様子を伝える

愛のべ卜ナムさわやか支援隊〈ベトナム枯葉剤被害者支援の会)は18日、講演会をサンウエルぬまづで開き、同支援隊会員で眼科医の名古良輔さんが「ベトナム枯れ葉剤被害者を訪ねて」と題して話した。

----- 経済発展の陰で取り残された人達に「同苦の心」を

名古さんは冒頭、最近のベトナムの様子を映像で紹介。都市部の雑踏や高速鉄道計画が持ち上がっている統一鉄道のほか、笑顔にあふれた子ども達の姿がスクリーンに映し出された。

場面が変わると、同支援隊が訪問した被害者家族の姿が映され、ベトナムが近年の経済発展で沸く陰で、障害児、障害者らを抱えた多くの被害者が困窮している事実を伝えた。

続いて同支援隊の現地での活動をスライドを交えながら報告。補聴器や衣料品、繁殖用子豚などの贈呈風景や、名古さんによる診察の様子が紹介された。
        施設で検診する眼科医の名古先生 08年 バックザン省にて

また、現地支援組織との間で行った意見交換の様子にも言及しながら、日本側から一方的に支援を行っだけでなく、被害者が将来自立できるようなことまで考えた、より効果的な方法を探っていきたい、という思いが語られた。

さらに、枯れ葉剤の成分であるダイオキシンの毒性と、自然状態では分解されないという特徴について説明するとともに当事者である米国が枯れ葉剤の被害因果関係を認めず被害に対して公的に謝罪や補償をしていない現状についても語った。

枯葉剤被害を巡る一連の報告と説明が終わると、ベトナムが枯葉剤で苦しむ理由を過去の歴史にさかのぼって説明。
            小学校での眼下検診 08年 ニンビン省の田舎で
英仏をはじめとする西欧列強諸国の植民地政策によりアジアが犠牲になったこと、その根底にはアジア人に対する蔑視があったことなどを踏まえたうえで、ベトナム独立からベトナム戦争に至る近現代史が語られた。

名古さんは、最も印象的な光景とLて訪問先のとある家族を挙げた。そこでは兄妹達のうち一人を除いて全員が知的障害や視覚障害に苦しんでおり、唯一健康な子も家事や介護に忙殺されて学校へ通えないでいる。

名古さんの講演後、同支援隊創設者の一人である櫻井恵美子さんが主催者側あいさつ。

障害を抱える我が子を巡る家庭内の問題に悩んでいる時に、テレビ局社員当時から枯れ葉剤問題を研究し退職後は海外で活躍中の北村元さんに誘われてベトナムを訪問し、困窮の中で必死に生きる人達を見て勇気を与えられたという体験や、支援を受けて被害者家族の生活状況が改善されていく様子を語り、今後も地道な活動を通して平和を後世に伝えていきたいと決意を述べた。

     
  子どもたちと風船工芸をする櫻井さん (右) 09年

来場者からは「身近でこんな活動をしている人がいるとは知らなかった」「自分には何ができるか考える良いきっかけとなった」などの感想があがった。
 
障害の子やベトナムのボランティアの大学生らと輪を作る名古さん

同支援隊は、「第4回枯れ葉剤被害者写真展」を二十五日まで同施設一階で開催している。

問い合わせは、同支援隊の宮尾和宏会長(電話 976-8822)か、金原昇事務局長 電話971-0848)Posted by Picasa

2010-04-21

トリビューン紙パート5(下・完)

前回に続いて、パート5の(下)です。
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トリビューン紙からの質問に、ダウ社は、1964年までは財産権のある技術情報を購入したことはなく、1965年までそれを使っていなかったと答えた。種々の記録は、同社が、アメリカ軍が1967年に除草剤を作る軍独自の化学プラントの建設を計画し始めるまで、他の企業又は政府に、技術情報を知らせなかったことを示している。
その頃には、ダウ社も2,4,5-Tのダイオキシンレベルをテストするための手順を開発していた。同社は、「1965年に他社にその技術を提供したが、1967年まではアメリカ軍にその技術を提供していなかった」と述べた。

それより以前の1963年4月に、2,4-Dと2,4,5-Tの健康有害情報について、「一般情報」を出すために、20人以上の軍当局者と化学産業界の科学者が会合を開いた。会議の議事録によれば、ヴェトナムでの化学物質使用に関して懸念を表明した者はいなかった。

例えヴェトナムで使用される化学物質の仕様が高濃度に濃縮され、より多くのダイオキシンを含有していたとしても、証拠は主として、1947年以降3億ガロン以上の化合物が国内で使用されたという事実に基づいたのである。

「委員会は、これらの化学物質が、前述の演習で使用された量と方法で、人体や動物の健康に有害なものは含まれないか、含まれていなかったと結論づけた」と、議事録にはなっている。

それにもかかわらず、ダウ社は、アメリカ軍と健康問題に関する情報を共有していたとトリビューン紙に語った。「事実、ダウを初め化学会社は、1949年という早い時期から、1960年代に至るまで、生産労働者の塩素ざ瘡の潜在的危険に関して、アメリカ政府と対話を重ねていた」と、ダウ社広報担当のピーター・ポール・ファン・デ・ウィジス氏が書面で答えた。

1965年に、枯れ葉剤生産に関与していた一連の化学会社は、ミシガン州ミッドランドのダウ本社で会合し、消費者に対する汚染物質の脅威を議論している。

「この物質(ダイオキシン)は、別格の有毒物質だ;それには、塩素ざ瘡と全身性障害をもたらす相当の潜在性を有している」と、1965年6月24日に他社宛の書簡に書いたのは、ダウ社の首席毒物学者のV.K.ロー氏だった。

しかし、訴訟の宣誓証言によれば、いずれの会社も、1967年後半までは、安全懸念のある枯れ葉剤契約の監督責任のある軍当局者には知らせていなかった。

複数の会社の内部文書は、彼らは法規の厳格化という亡霊を恐れていたことを示している。

アメリカ国立衛生研究所の研究で、2,4,5-Tが動物実験で先天性欠損症を引き起すと分かった後になって初めて、1970年に、アメリカ軍は,エージェント・オレンジの使用を停止したのだ。
アメリカのヴェトナム退役軍人会でエージェント・オレンジ委員会議長を務めるアランオーツ氏は、「退役軍人には1984年の和解以来、補償を求める法的闘争にほとんど幸運はなかった」と言った。

退役軍人グループは、すべての和解金が底をつく前に疾病が発症しなかった何千という人々には、和解は早すぎたので、あの和解は不十分だったと法廷で主張したが、これは成功しなかった。

オーツ氏は言う。「未解決の問題が1つある。ベトナム退役軍人の子供たちの中に認められる先天性欠損症関連の保健医療費に対して、化学会社に責任ありとみなすことができるかどうかだ。そのことが、将来の世代に影響があるということを示し始めている今、それらの人々にとって、遡求権とは一体何なのか?と言いたい」(完)

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連載の翻訳を終えるにあたって、一言書きます。

ご一読戴いたように、アメリカの化学会社は、毒性を減らすために、データに基づいた行動はとっていなかったということです。国家、企業といっても、その基本は人間です。人間の行動を決めるのは、思想です。企業が,何を規範とし、何を求めて社会貢献していくのか。あるいは社会貢献しないのか。それによって、当然、企業の姿は大きく異なってきます。

ただ、がむしゃらに利潤をあげるだけなら、それほど難しいことではないでしょう。しかし、これでは、企業としての品格はありません。志を高く掲げ、遠くまで保っていくのか。 卓越したものを追求していく企業なのか。 真実を求めたら、それを実践する強い意志があるのか。

いかなる企業といえども、人の幸福に結びつくものでなくてはなりません。ドイツの化学会社が生産を一時中止したのも、ある規範が底で働いたからでしょう。自社の従業員だけでなく、他国の一般市民もないがしろにしたまま、利潤を上げ続けた企業に、社会的責任が無いはずがありません。まして、化学兵器禁止の中で戦争を遂行したなら、時の政府も。

この5回に及ぶシカゴ・トリビューン紙の連載は、かつてないほどの力作でした。訳しながら、感動を覚えたものです。隠れた真実を掘り起こす。まさにジャーナリストの使命を発揮したと言えます。その力作に応える訳ではありませんが、未知の事実に光を照射し、何がしかのアピールができたなら、幸甚この上ない気持ちです。(記:北村)Posted by Picasa

トリビューン紙パート5(上)

トリビューン紙調査のパート5(最終回)では、アメリカ軍とヴェトナムで使用された枯れ葉剤を製造した化学会社による決定によって、撒布が予想を超える危険を伴った事を示す文書を掘り起こしています。

なかなか素晴らしい記事と思います。最終回の記事を、上下2回にわたって、ご報告したいと思います。

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アメリカ軍が1965年に南ベトナムへのエージェント・オレンジの噴霧を積極的に徐々に増やしていくにつれ、アメリカ政府と枯れ葉剤を製造した化学会社は、曝露した兵士や他の人への健康障害をもたらすということを知っていた。

その年、ダウケミカル社のメモは、エージェント・オレンジの中の汚染物質を、「皮膚障害だけでなく、肝障害も引き起こすと知られている最も有毒物質の1つ」と指摘していたのだ。

その化学物質が健康障害になるという証拠が募っているにもかかわらず、曝露の危険性は軽視された、と法廷文書と国立公文書館の記録を調査したトリビューン紙は書いた。
 
そして、撒布作戦は、さらに6年間続いた。

この俯瞰図は、戦争中にヴェトナムで散布された枯れ葉剤の持つ影響をしめるものだ。使用前使用後の状態が明確にわかる。左は、撒布される前のマングローブ林(撮影日不明)。そして、右は、1970年の同じ地域の上空からの撮影だ。この地域は1965年に散布されたもの。

種々の記録も、枯れ葉剤の製造企業がダイオキシン汚染を減らすために利用できる技術を駆使し、アメリカ軍が化合物の中の毒素の濃度をより監視していれば、枯れ葉剤を囲む論争の多くが避けられた可能性があることを示している。退役兵士側の弁護士が掘り出した文書によると、ダウケミカル社は、製造プロセスを遅延させることによって、枯れ葉剤のダイオキシンの除去を可能ならしめる技術を、1957年という早い時点で知っていたのだ。

ベトナム戦争以来、ダイオキシンは、パーキンソン病、先天性欠損症など何十という他の健康障害に関連する発癌物質であると分かった。ベトナムの一般市民と同様に、何千もの復員軍人は、アメリカ軍が使用した除草剤に、直接曝露したのだ。

旧南ベトナムで使用された枯れ葉剤関連の衰弱性疾患対策では、今や、毎年連邦政府は何10億ドルもの出費を余儀なくされており、2003年以降、復員軍人への障害手当として劇的な増大を見せている。

複数の文書は、枯れ葉剤計画が1961年に始まる前に、国防総省は予算も人員も削減し、非致死性を目的として枯れ葉剤を開発したことを示している。その代わりに、国防総省は化学会社の技術指導にたっぷりと依存した。化学企業はアメリカ軍の要求に応えるために増産の必要に迫られたのだ。

枯れ葉剤の使用は、化学会社を訴える退役軍人とベトナム市民による大型集団訴訟につながった。最初の訴訟で、1984年に、化学企業は1億8000万ドルの支払いで、アメリカ退役軍人と合意に達した。

それ以来、化学会社は、政府契約企業を保護する法律のもとで、法的措置を免れると巧みに主張してきた。法廷も、また、アメリカ軍はダイオキシン汚染に気づいていたが、化学物質がアメリカ兵の保護に役立ったので、いずれにしろ枯れ葉剤を使用したと判断した。

米復員軍人省に対する1990年の報告書では、アメリカ軍は、エージェント・オレンジは兵士には有害だが、曝露を制限するのでほとんど予防措置をとらないとしたことが明らかになった。その報告書は、空軍武器開発研究局化学兵器部の元科学者、ジェームズ・クラリー氏から、除草剤関連の疾病をもつ退役軍人を援助する法制化を進めていた当時のトム・ダシュル上院議員に宛てた1988年の手紙を引用している。

「我々が1960年代に枯れ葉剤計画を始めたとき、我々は除草剤のダイオキシン汚染により健康を損なう潜在性があることを認識していた。我々は、『軍』仕様の枯れ葉剤は、安価と製造過程の短時間化で、『一般市販』仕様よりダイオキシン濃度が高いことすら気づいていた。しかし、この化学剤は『敵』に使用されることになっていたので、誰もあまりに心配していなかった」と、クラリー氏が書いている。

軍部科学者は、1940年代から除草剤の実験をしていた。しかし、1958年に予算がカットされ、ヴェトナムでの使用のための化学物質を完全に評価できるほどの人材はほとんど残らなかった。

「私は、上記の仕事と関連してベトナムでの”調査”を行うために、およそ10日間の事前通知を与えられた」と、米国の化学部隊調査開発司令部のジェームズ・ブラウン大佐は、枯れ葉剤計画が始まったばかりの1961年10月に、上司に宛てた報告書の中で書いている。そして、「このように、非常に支持の少ない研究努力の中で、大口の注文が行われた」と。

アメリカ軍は、1962年に、47回の撒布活動を含む限定的な枯れ葉剤作戦を始めた。当時、ダイオキシンの健康障害については、相対的にはほとんど何も分かっていなかった。部分的には、ガンと他の疾病が発症するには数十年かかり、枯れ葉剤が広く使用され始めたのは1947年以降からだったからだ。

しかし、退役兵士側の弁護士が明らかにした文書は、化学会社がエージェント・オレンジと他の枯れ葉剤の中の成分が有害でありうるということを知っていたことを示している。

種々の記録によれば、1955年という早い時期に、 ドイツの化学会社ベーリンガー(Boehringer)は、2,4,5-T(ダイオキシンに汚染されたエージェント・オレンジと他の枯れ葉剤に含まれる成分)を作ったベーリンガー工場での塩素ざ瘡と肝臓障害について、ダウ社に連絡をとり始めていたのだ。

アメリカの化学会社とは異なり、ベーリンガー社は従業員が病気になっていることに気づいた後、生産を停止させて、その工場の一部を解体したのだ。同社は、2,4,5-Tの生産再開までに、ほぼ3年間費やして問題の調査をした。

その際に、同社は、元凶はダイオキシンであり、会社が低温で化学製品を処理すれば(そのことにより、生産は遅れるわけだが)汚染を制限できることを発見した。

(【下】につづく)Posted by Picasa