2007-09-21

燃える女性グエン・ティ・ゴク・トアン博士(4)

(ホテルまで来てくださったトアン先生と。2006年)
愛と結婚

 私がカオ・ヴァン・カインに2度目に会ったのは、1951年チエム・ホア(現ティエン・クアン省ヴィン・ロック)のヴィエト・バクの村でした。私が21歳。彼は12歳年上でした。私たちが初めて会ったのは、フエでした。実際、私が15歳で軍に入った時に、私の名前を記入したのは彼でした。

 彼が私を見初めた時は、軍の幹部でした。彼はあまりにも厳格で年がいっていると、私は感じていました。彼はいつも支配的だと私自身に言い聞かせていました。しかし、人はみな、彼に会いなさいと勧めてくれ、彼のことを褒め称えていました。

 やがて、彼から手紙が来ました。「あなたは進歩的な女性です。あなたは家を飛び出て革命に参加したのですね。愛情が私たちの間に道を見つけると信じます。私たちは同じ根っこの出です。一緒に幸せになることができます。あなたにお会いしたいです」

 私たちは、お互いに知り合うために病院の急患室で会いました。彼はいかめしく、また物静かでした。彼が話しているときは、彼は私を対等の人間と考えてくれているのを知りました。彼は非常に率直でした。そして、私は彼を信頼しました。

 2回目に会う頃には、私はすでに婚約にイエスを言うことを決めていました。彼は、戦線に戻っていきました。私たちはいつ再び会えるかわかりませんでした。私には、彼を愛する気持ちがとても強くなっていきました。

 1954年には、私は、激戦地ディエン・ビエン・フーに行き、戦場の地下を掘った塹壕の中の野戦病院の手術室で、看護婦として働きました。私の婚約者も、第308旅団司令官としてその戦場にいました。

 私たちは、ほとんど薬も底をついて、囲いをした場所で手術をしなくてはなりませんでした。外科医の手元がはっきりと見えるように、私たちは自転車で発電をしました。私たちに十分な麻酔薬がない時は、負傷兵たちは歌を歌って痛みを忘れようとしました。手術中に、蛭が足をはい上がったりした時も何回かありました。しかし、私たちの手を清潔に保つために、追い払うこともできませんでした。

 55昼夜に及ぶディエン・ビエン・フー作戦は、1954年5月7日に終わりました。その10日後、私はカインと結婚しました。母親の承諾もないままで私は躊躇しました。しかし、将校たちは、「戦争は続くので、何が起きるか誰もわからない。待っている時間はないよ」と言って、応援してくれました。私たちは、ドゥ・カストリ将軍が降伏した壕の中のまさにディエン・ビエン・フーのど真ん中で、結婚式を挙げました。ワインと歌と、フランス軍機が落としていった飴で祝ったのです。(了)
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トアン先生は、今年71歳にして、今も枯れ葉剤被害者の先頭グループにたって、正義を求める活動をされています。Posted by Picasa

2007-09-20

燃える女性グエン・ティ・ゴク・トアン博士(3)

この写真は2006年熊本県で行われた熊本学園大学水俣学研究センター主催の国際会議に出席されてトアン先生がご提供くださったものです)
 2回目の逮捕の後、母は、私をサイゴンのマリー・キュリー高校に送りました。それは、フランス人とベトナム人の高級官吏の子弟のための高校でした。フエの友人から私を引き離せば、私が革命活動に参加しないと、母は考えたのでした。それは1948年で、18歳の時でした。
私は、白い円錐形の帽子に白いアオザイを着て、サイゴンに飛行機で行きました。まるで、立派な淑女のようでした。しかしながら、到着するやいなや、ベトミンの地下活動の連絡先を探そうと考え始めました。

 数ヶ月後、私は、フエで会ったことのある一人の学生に会いました。彼は革命側でした。私が彼に、自分は革命側に立っていると告げると、フエとサイゴンの学生運動の組織作りで力を貸してほしいと彼は言いました。
私の行動が、母に漏れ伝わりました。フエの革命幹部が、もし母が私を引き続きサイゴンに滞在させれば、私は早晩逮捕されると言い、母は私にフエにもどるように命じたのです。

 私は、母と1週間一緒にいました。それから、永久に家を出て、友人と教師と一緒に革命軍に参加したのでした。私たちは、ヴィエット・バクの抵抗地区に向かって北へ歩きました。これが、戦争という真の苦痛に遭遇した初めてのことです。
私のわがままな人生は、抵抗戦士の人生になりました。私たちは、竹の子とご飯以外に食べるものはありませんでした。そして足は膨れあがりました。しかし、私たちには誇りがあり、幸せでした。
野獣の襲撃をまもるために、テントの中で友人と一緒になって安心して眠りました。私は、虎に襲われた兵士の遺体をこの目で目撃しました。

 私は愛国者でした。しかし、共産主義者になりたいかどうかは確信がありませんでした。共産党の人が、私に聞きました。「あなたはほんとうにフランスと戦いたいのですか?ヴィエト・バクで、ほんとうにホー叔父さんに会いたいのですか?それなら、党員になる必要があります」 なぜなら、父は高級官吏でしたから。そして、私には皇室の血が流れています。最初は共産主義者には距離を置きました。しかし、党員になったからには、信義の誓いを守りました。私は、善良な市民の大切さを教えられていたからでした。(つづく)
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2007-09-19

燃える女性グエン・ティ・ゴク・トアン博士(2)

(上の写真は、2006年に水俣で開かれた国際会議「水俣50年の教訓はいかされたか」に出席されたトアン先生(中央アオザイの方)。写真は先生のご提供によるものです)
 母の言いつけに反して、私は、1945年9月に、フエで軍隊に入隊しました。私には怖い物無しでした。苦難も餓えも。私の級友と同じように、共産主義も革命のことも、ほとんど知識がありませんでした。独立と自由というホーチミンさんの言葉しか考えていませんでした。

 正面に黄色の星がついた帽子をかぶるのが誇りでした。私は、チュン姉妹のように、歴史を綴っていると思っていました。私の部隊で、銃の撃ち方、救急処置の方法をならって、戦争の備えをしました。その時、歩兵大隊が、フランスと戦うために南部へ出発しました。

 私の部隊の二人の友人が、男性の友人と同じように、私が動員されて南部に行くことになるので心配しました。私たちはもうこれ以上待てなくなった時に、「なぜ私たちは南部の戦線に行かないの?弟が入っている大隊を、私たちで見つける。」と私は友達に言いました。着替えのズボン、歯ブラシと、軍の食堂で食事が無料になり、列車も無料で乗れる軍のカードだけを持って、部隊を飛び出して駅に向かったのです。自分が英雄になったつもりでした。

 ところが、列車の中で、弟の部隊はサイゴンではなくて、フエから200キロ南のクアンガイに駐屯していることが分かりました。私たちはそこで下車し、弟の部隊の居場所を求めて町中を訪ね歩きました。私は、弟の友人の家に駆け込みました。そこで私たちがしてきた行動を告げると、彼は私を叱りとばしたのです。
「あなたは気違いか? ここにいて、わが大隊について聞き回るなら、人はあなた達をスパイと思うぞ。いますぐにでも、友人を家に連れて帰りなさい」
 
 私たちはがっかりしました。後になって、私はどんなにうぶだったかに気づきました。

 1946年の初めごろ、「ベトナムはフランス同盟下で自由の国であり、われわれは平和を希望する」と、フランスは表明しました。しかし、1946年11月23日、フランスは、ハイフォンで戦火の口火を切りました。12月に、ホーチミン主席は、全国民に向けて決起をよびかけました。そして、ホーチミン政府は、ヴィエト・バクのジャングルに引っ込みました。フランス植民地軍への戦争は、正式に始まったのです。そして、私は革命軍に参加しました。

 逮  捕

 それから2年後、1947年―48年にかけて、私は友人と地下活動に参加しました。この友人たちもまた革命に心酔していました。夜間になると、私はしのび出て、ベトミン(ベトナム独立同盟会)支持とフランスへの反対を訴えるパンフレットを配り歩きました。ある晩、私たちは、手りゅう弾をフランス軍基地に投げ込み、町には多くのベトミン兵がいるのだということを知らせようとしました。時々、私は木によじ登って、赤旗を掲げたり、山の中の革命基地から町中の連絡先まで手紙を運んだりしました。
 勇気さえあれば、人は何でも実現することが出来ると思っていました。尊敬を集めている家族の子どもがどうしてそのようなことができるのか・・と、誰も私のことを疑っていませんでした。(つづく)
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2007-09-18

燃える女性グエン・ティ・ゴク・トアン博士(1)

ベトナムのれ葉剤被害者協会(VAVA)の化学担当常務理事をされているグエン・ティ・ゴク・トアン先生のお話をしておこう。ご主人と息子さんを枯れ葉剤で亡くされたトアン先生。71歳にして、枯れ葉剤被害者のために、正義を求める闘いをしている。私たちは昨年、協会本部でお会いしているが、私も個人的に別の機会におめにかかってお話を聞かせて頂いたことがあった。 (上の写真:前列一番右の方)              
                    
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 私は、ベトナムで、二つの戦争を生き抜いてきました。1945年から1954年までの抗仏戦争です。そして、1960年から1975年までの抗米戦争です。終戦の1975年は、4人の子持ちの主婦でした。抗米戦争では、私の夫と4人の子どものうち2人が取られました。この長い年月、私を精神的に強く支えた物は、わが国の独立戦争に私自身が戦っているということでした。

 それが、ベトナム人民軍の大将であった私の夫と共通に持っていた理論でした。ホーチミン主席は言いました。「自由と独立ほど尊いものはない」と。誰もがベトナムの解放のために戦っていたので、その言葉に若かった私は深い衝撃を受けました。

 旅に出る・・・

 私がなぜ革命の道に加わったかを説明するために、私の若き時代と私の家族について触れたいと思います。私は、1930年にフエで生まれました。美しい家で私の両親と14人の一族の愛情に育まれました。父は、私が6歳の時になくなりましたが、カイディン帝の元で首相を務めていました。皇帝とつながりのある多くの王族と同じように、私たちも愛国者でした。故国に忠誠なることが、わが家族の美徳でした。

 フランスの学校で先生達は好きでしたが、我が国を占領しているフランスには憤りを感じていました。それから、第2次世界大戦が終わった時に、我が国は、日本軍の植民地になっただけでなく、フランス軍が戻ってきそうな雰囲気でした。しかしながら、われわれベトナム人は、フランスにも日本にも、我が国を委ねる積もりはありませんでした。

 私は15歳でした。私の唯一の夢は、ベトナム軍に参加することでした。私の級友と私は、歌を歌いました。「ペンをおいて、旅に出よう・・・・」と。しかし、母は言いました。「戦闘は、男の仕事よ。女の人は家にいるものよ」と。
私はすぐさま、噛みつきました。
「お母さん、もし私のことを気にかけてくれるなら、私を行かせてくれない? 私は変なことはしないって約束するから」

 私は、革命に参加したかったのです。なぜなら、私は生まれつき好奇心の強い女性でしたので。波瀾万丈な人生を、私は希望していました。家から学校に行って戻るという毎日の決まった生活とは違った生活を望んでいました。私の家族は厳しかったです。非常に厳格だったと思います。そして、私は何より自由を切望していました。 (つづく)
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2007-09-13

戦場に死した若き女医の日記と和解

ベトナムでの枯れ葉剤被害者支援活動から戻ってきたばかりだ。ベトナムでは、いま、ベトナム戦争中の激戦地の一つ、クアンガイ省の野戦病院でアメリカ軍と戦って死亡したダン・トゥイ・チャムというわずか27歳の女医の日記(上)がアメリカや故国ベトナムで出版され、今、旋風を巻き起こしている。

 「私は、十分な薬もないのに虫垂炎の手術をしなければならなかった。しかし、その若い負傷兵は一度も泣いたこともうめき声を上げたこともなかった。彼は、笑みを絶やさず私を励まし続けた」 ダン・トゥイ・チャムの日記は、こういう書き出しで始まっている。

ダン・トゥイ・チャム(下)とは、ベトナム戦争でアメリカ軍と戦い、アメリカ軍の攻撃から自分の担当する野戦病院を守ろうとして死んだ北ベトナム軍医のことだ。

元アメリカ情報士官の手元で35年間眠っていた彼女の日記が2005年に世に出てから、ベトナムでは40万部という部数を売って一大旋風を起こしている。ベトナムの若人にも、愛国的ノスタルジアの波紋を広げている。今年の9・11にはアメリカで英語版も出た。

 医者一家の出身のチャム医師は、1967年に、中部ベトナムのクアンガイ省のキリング・フィールドの野戦病院に自ら希望して勤務についた。日記は、その翌年の4月から始まっている。その年のテト攻勢を受けたニクソン大統領は、史上最大の空爆を計画、実行したのである。 仲間の治療に疲労困憊した彼女は、1970年5月の日記に、激しい言葉でニクソンを批判している。

 チャム医師は、患者とスタッフを安全な場所に移動させた後、アメリカ地上軍アメリカルと戦った。彼女は、患者と看護婦を守りながら、中国の旧式のSKSという単発式のライフル銃で、重装備のアメリカ軍に応戦し殺された。  当時22歳の情報士官だったフレデリック・ホワイトハースト氏は、医師の所持品から回収されたチャムの日記を火にくべようとしていた。その時、彼の通訳から「フレッド、それは燃やさない方がいい、その中には、炎があるから」とストップをかけられた。ホワイトハースト氏は、「私は彼が敵のことを尊敬したので感動したから、私はずっと保管していた」と話す。  それから35年後の2005年、その日記は、ハノイの母親の元に戻された。

2005年8月に、日記を保管していた2兄弟がハノイにやってきた。

ハノイでの歓迎に感激した。「許してくれた」と。

チャム医師の墓まで行って、フレッドはひざまづいて子どものように激しく泣いてこう言った。「どうしてこういう人が殺されなくてはならなかったか? 私はいても立ってもいられない」

2人の兄弟は、「チャムさんの家族の一員として、チャムさんの弟にさせてもらいたい」と、チャムさんの母に頼んだ。

最初は腰が重かったフレデリック・ホワイトハースト氏は、ハノイでの歓迎振りに腰を抜かした。

「われわれは、第2次世界大戦で、ドイツロンドンでやったようなことをハノイにしたのだ。理由はともあれ、われわれは侵略者だ。しかし、国民は私たちを抱きしめてくれた。ベトナムの首相ですら会ってくれた。父親は娘の死のあとショックで亡くなられた。それが、ご家族に多くの重荷を背負わせた。ご家族は、娘のことを大変愛していた。それでも、私を息子として迎えてくれた。その愛・・。我が国で私が迎えられた時よりも、ハノイで寛大に扱ってくれた」

一つの和解ができたように思う。Posted by Picasa