2011-06-30

おなじみのPhoですが・・

先日、韓国の仁川空港に飛びました。大きな空港です。窮屈な成田と比べれば、素晴らしく広いです。私が驚いたのは、飛行機でも空港でもなく、機内食です。おいしいお粥が出るから・・・と知人に聞いていたのですが、なんと機内食で出たのはビビンパブです。
そして、それも、プラスチックの器ではなく、陶器でした。すげぇ!韓国伝統の青磁ではありませんでしたが、やはり本物はうれしいです。洋食と韓国食の選択でしたが、すかさず韓国食を選びました。どしっとした気持ちで食べることができました。
 
さて、もう一つ、同じ機内食の話です。ベトナム航空では、ベトナム伝統のPHO(うどん)を機内食で出しているようです。PHOは汁うどんです。ベトナム中部のミークアンや北部のブンチャーと違って、完全な汁うどんです。
ハノイのノイバイ空港のケイタリング・サービス社が智慧を絞って機内食用のPHOを開発したそうです。いまのところ牛肉入りのPHOで、これをフォー・ボーといいます。
地上にいれば、PHOをつくることはいとも簡単です。が、揺れる機内で汁うどんをサーブするとなると、一捻り、ふたひねり必要でしょう。機内食の安全基準と質を満たすには、なかなか難しいものがあるそうです。まして伝統の味を保つのは、かなり骨でしょう。ケイタリングの会社が考えたのは、圧縮したビーフボールだったようです。それに、パクチのような野菜をいれて、ハノイのPHOの味を出すんだそうです。できれば、やすっぽい器は避けていただきたいですが・・・。
ベトナム航空の全国際便で出るのではなく、今のことろ、ハノイ発、日本、フランス、ドイツ行きの便だけだそうです。私のように、オーストラリアにいる者には、言ってみれば復路に当たるので恩恵は及びませんが、もし機内ででたら、「フォー・ボー1丁っ」と楽しんでください。注文したは、ベルト着用のスイッチ押されたのでは食べられませんから。気流が安定することを祈っています。
ベトナム航空では、鶏肉入りのPHOをフォー・ガーと言いますが、そのうち導入するそうですよ。
シン・カムーン!!! では、又次回に。
北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊
Love & Support Vietnam Since 1990
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2011-06-29

蓮の花奨学生からの便り(35)

35回目は、やはりヴィン・フック省の グエン・ティ・フオン・リンさんからです。明るい笑顔の女性でした。

拝啓
愛のベトナムさわやか支援隊の皆様へ

皆様、お元気ですか?仕事は順調に行っていますか?

東日本大震災や津波の影響で、心が痛んでいます。日本の皆様には、この災害を乗り越えて、なんらかの困難があっても「頑張ってください」と言う応援の言葉を伝えたいと思います。いつでも日本の皆様に「健康・幸せ・成功」となるように祈っています。
私はおかげさまで、元気にしています。支援隊の皆様にお世話になって、私の勉強は順調に行っています。現在、両親は頑張って仕事して、お金を貯めて、来年大学に進学する兄の為にすごく苦労していますが、私達の将来に期待していると言ってくれました。

皆様に学習面や生活面等で援助して頂いたり、応援して頂いたりする事は何より有り難く、心に留めています。ですから、自分自身は勉強を精一杯頑張り、成人として頑張って行きたいと思っています。皆様の期待通りに、一人前の成人として社会に貢献したいと考えています。
 
最後に、愛のベトナムさわやか支援隊の皆様、どうかお元気で、お体を大切にして下さい。
近日中に皆様にお会い出来ればいいですね。日本の文化や習慣や生活等についての話しを皆様と一緒に色々楽しんで聞きたいなと思います。                                 かしこ
NGUYEN THI PHUONG LINHより
お花

フオン・リンさんへ
東日本大震災へのお見舞いの言葉をありがとうございました。
東北3県の中でも、福島県の復興は相当おくれるのではないかと本当に心配になります。東京電力による人災の部分も多く、かなりの県民が怒っています。しっかりと、国民全体で寄り添い、支えていく必要があります。
ご両親に期待される子供ほど幸せなことはありません。力を蓄えて、学校で勉強するのも、結婚するのも、社会へ出て貢献するのも、皆幸せになることが目的です。
ご両親への恩返しも含めて、自分の人生目標をしっかりと立ててください。
また、8月にはお会いしましょうね。去年ヴィンフックで行った懇談会は、一番ユニークで楽しかったです。またいろいろな話をしましょう。質問もしてください。それまで、勉強に精を出し、元気でいてください。
お手紙ありがとうございました。

北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊
Love & Support Vietnam
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蓮の花奨学生からの便り(34)

久しぶりに、奨学生からの手紙です。ヴィン・フック省のグエン・ティ・ホアさんの手紙です。ホアさんの家の近くの風景はどんなでしょうか? ヴィンフック省の省都は、ヴィン・イエンです。そこから、どのくらい遠いのでしょうか?
風景画イラスト素材
拝啓 愛のベトナムさわやか支援隊の皆様へ

皆様、お元気ですか?仕事は順調に行っていますか?

私はグエン・ティ・ホアです。現在、チェウ・タイ・スアン・ホア–ラップ タック – ヴィン・フック高等学校で勉強し、今年は最終学年です。卒業試験を受ける為に毎日復習しなければなりませんので、手紙を書くのが遅くなってすみません。
今年の成績結果は6.4(可)になりました。この結果は皆様の期待に沿えていないと思います。本当にすみませんでした。後2週間、高校3年の最終試験に入り、この試験の結果が出たら、皆様に知らせしたいと思います。

高校を卒業できたら、また機会があれば、もっと勉強続けたいと思います。将来の為に、頑張って勉強して、良い仕事に就ければ、家族のこの困難な生活を乗り越える手伝をしたいと思います。

皆様、どうかお元気で、お体を大切になさって下さい。今まで色々お世話になりまして、真にありがとうございます。     かしこ

NGUYEN THI HOAより
ホアさま

ご丁寧なお手紙をありがとうございました。
上級学校への進学の気持ちが強いなら、ぜひ進学を目指して下さい。ベトナムが学歴社会になっているということを踏まえて大学へ進学し、家庭の手助けしようというホアさんの気持ちはよくわかります。その一方で、それとは別に一生学び続けるという姿勢も忘れないでください。まずは、家族を助けたいというその尊い希望を実現するために、脇目もふらずに勉強を続けることは、とっても大事なことかと思います。
オアさんの希望が実現できるように・・・頑張ってください。そのためには、自分はこれだけは他人に負けないというものを作ることです。その分野でベトナムの第一人者を目指してください。
また、お会いしましょうね。
お元気で。
北村 元

北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊
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2011-06-28

42の生命の誕生だぞぉ!

今回は、明るいニュースです。

昨年、さわやか支援隊は、フート省の3世帯に豚を贈呈しました。1世帯2頭づつです。その結果がでました。どんな結果になったでしょうか?

上の手紙がフート省からの報告の手紙です。上の緑色の線を引いた所の意味は、6頭が42頭の豚を生んだということを表しており、体重が8キロになった時に、キロ当たり4万2000ドンで売却したということを示しています。
そして、二つ目の緑の線は、売却の結果、587万ドン余り(日本円で約3万円)の利益をうんだということで、二重の喜びです。

42頭を生んだと聞いて、拍手喝采、よくやった、嬉しい・・・と涙が出るやら・・大変でした。

この支援には、千葉県の川津康代さん、東京都の山本邦子さん、北村美帆子の3人が購入資金を寄付して下さいました。

すでに3人には連絡済みです。

山本邦子さんは、「わあ、すごい! うれしいですねぇ~」と、電話の前で大歓喜のご様子。川津さんもありがとうございました。
しっかり者のこのお母さんが付いているからね・・・ありがとうね。やはり結果が出るのはうれしいです。
ぶた イラスト1

二つ目の話題です。先日、拙宅のドアをノックする音が聞こえました。ブザーが付いているのに・・・と思いつつ、ドアを開けると、2軒先の向かい側の家のおばあちゃんです。「ベトナムに持って行きなさい」と、テディベアを5つ・・・袋に入れて来てくれました。もう80歳位です。ジュディ・ワイマールさん。ドイツ系の由緒ある家系のようです。せっせと作ってくれました。感謝しつつ・・8月のベトナム行きの荷物に入れさせてもらいました。
今日、道路で会ったら、「又作るから、ベトナムに行くときは言って・・」と、言ってくれました。これ以上作ってもらって、ベトナムに運べるかな???
我が家に勢揃いのテディベア
さてさて、5匹のテディベアをどこにもっていこうかな・・・と、今から楽しみです。ダナンの小学校3年のリーちゃんに一つあげようかな・・・。リーちゃんは枯れ葉剤被害者・・・の第3世代。貧しい家に育ちました。家は、枯れ葉剤被害者協会が建ててくれましたが、屋根はトタン屋根。昼間は、暑くて木陰に逃げるそうです。
でも、ブログでは初めてではないんですよ。今年のユニセフのカレンダーガールになった後、今年1月18日付の本ブログで写真付きでご紹介してあります。でも、改めて、近々ご紹介しますね。先日会った時に英語で歌を歌ってくれました。とっても素晴らしい子でした。
北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊
Love & Support Vietnam Since 1990
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2011-06-27

枯れ葉剤散布50周年 サイゴン解放紙から

枯れ葉剤散布50周年を迎えて、6月20日付のサイゴンの新聞『サイゴン解放』紙の記事をお送りします。

責任回避を貫く致死のエージェント・オレンジ製造会社
製品としてのエージェント・オレンジがベトナム戦争以降ベトナムで何百万もの生命を危機に陥れてきたアメリカの枯れ葉剤メーカーは、責任回避を避け続け、代わってアメリカ政府を非難し責任をなすり付けている。

 2008年2月に、ニューヨークで、オレンジ剤被害者に正義を求めるパレードが行われた。
 『サイゴン解放』紙が、この5月、モンサント・タイランド社(本社アメリカ)とホーチミン市にあるダウ・ケミカル・インターナショナル社に連絡した時に、同社は、トップは海外出張に出かけていると言った。そして、質問は担当者に回すので会社宛に送ってほしいと答えた。

の後、アメリカ政府部分的に責任を認めたので、企業がベトナムにおけるエージェント・オレンジ被害者の痛みを緩和する措置をとったかどうかを尋ねようと、『サイゴン解放』紙は質問を各企業に送った。

それでも、6月中旬に、ダウ・ケミカル社から1つだけ反応があった。同社の言い分は、"参戦したことは、アメリカ政府による間違った、遺憾な選択であった。そして、ダウ社は、米国の防衛生産法の下で、アメリカ政府から戦争に使用する除草剤を生産するよう命じられた数企業の内の一社にすぎない”というものであった。
オルディス会長と被害者2世たち 
モンサント社からも、似たような回答が、2009年に、英越友好協会のレン・オルディス会長に送られている。
 
ダウ社が回答する前に『サイゴン解放』紙への電子メールでは、オルディス会長は、「アメリカの化学企業は責任を決して認めず、常にアメリカ政府に責任転嫁している」と、言った。

熱心な反エージェント・オレンジ活動家のレン・オルディス氏の主張はこうだ。

「それらは化学企業が製造した致死の化学剤をめぐる対立を避ける策略である。エージェント・オレンジが製造されたときに、メーカーは、製造過程で致命的な化学剤ダイオキシンが生産されることに気づいていたが、彼らはその情報を故意に隠したる。だから、モンサントとダウ・ケミカルなどのメーカーは、エージェント・オレンジがベトナムの人々に残した被害に無責任ではありえない。

何百万ものベトナム人を多くの悲惨な状態に置いた後、メーカーが現在責任を拒否しいていることは受け入れがたい。製造企業は、真実を一般国民から隠蔽している。メーカーは、エージェント・オレンジがベトナム人に残した被害を補償するすために、メ-カーは、現在アメリカ政府と足並みを揃えなければならない」

1984年に、アメリカのベトナム戦争退役兵士は、兵士や兵士の子弟らの健康への悪影響を引き起こすとした裁判で有罪となった(北村註:下)モンサントや他のエージェント・オレンジの製造企業から1億8400万米ドルの補償金を獲得したと発表された。
 オルディス会長は、「モンサント、ダウや他のアメリカ化学メーカーは、今のところ責任回避に成功しているが、それは永遠には続かない。遅かれ早かれ、彼らは、何百万というベトナム人に為した残忍で不道徳行為に対する責任を、取らざるをえない」と、言う。(おわり)
++++
北村註:サイゴン解放紙では、裁判で有罪となった・・と記事には出ていますが、事実は違います。悪い例としての判例を残したくないというアメリカ政府の政治的配慮も動いたのか、アメリカの裁判所は企業と被害者の退役兵に和解をよびかけ、法定外での決着となったのです。つまり裁判では、エージェント・オレンジ製造企業に有罪の判決をしたのではなく、和解金で解決しなさいと勧告したのです。企業は、一回だけの支払いを条件に解決金を払いました。しかし、解決金を払った後も、続々と被害者が発症し、社会問題となっていることは、これまで何回か述べてきました。その点で、サイゴン解放紙記者に、事実の誤認があります。

1965年にアメリカ政府と調印した契約によれば、モンサントとダウ・ケミカルは、爆弾用のナパーム(ガソリンをゼリー状にする濃化剤のこと)とエージェント・オレンジを含めて、ベトナム戦争中使用された15種類以上の化学合成物を生産していた7社の中に含まれます。なんと、この2社は、2007年にホーチミン市で合法的に企業活動を始めました。枯れ葉剤被害者以外にも、一部の市民の中に、これら企業への不満がくすぶっています。枯れ葉剤散布50周年にあたり、すっきりしない米越関係の一つです。

ベトナム戦争中、多くの企業は、市民からボイコット運動と不同意によって契約を終えた。しかし、ダウ・ケミカルだけは、1969年まで事業を続けたのです。

北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊
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越枯れ葉剤被害者協会から招待状

昨日のブログで書きましたように、今年は、枯れ葉剤散布から50周年という節目を迎えました。こういう節目の年が、歓呼の声で迎えられるのなら嬉しいですが、正直言って阿鼻叫喚の50年だったことに想いを馳せると、生きている方にはよくぞ頑張ったねと声をかけて上げたい気持ちかられ、亡くなられた方には、さぞつらいた日々だったでしょう・・・と墓の前で花を手向けたくなります。苦しみの声がアメリカに届かず、届いても聞いてくれない苦しさが必ずやあったはずです。
上は、宮尾和宏氏あての招待状全文です。先日、18日、ベトナムの枯れ葉剤被害者組織のVAVAから、愛のベトナム爽やか支援隊の北村のもとに招待状が届きました。
8月8日~10日までの3日間、ハノイを中心に全国で行われる記念集会への招待状です。学術発表も行われます。
上は、小生宛ての招待状です。
そして、下は、VAVA会長グエン・ヴァン・リン氏の署名が認(したた)められています。
米越国交正常化の前から、私が支援してきた内容は、常に焼け石に水でした。今の今もそう思っています。あまりにも微々たるもの。そういう焼け石に水と思って支援している人が増えてきたことも確かです。焼け石に水を落としても部分的には、石が冷え始めたところもあります。でも、これは継続していかなくてはなリません。力の続く限り、たとえ微小であっても、連帯の絆を細くすることは許されません被害者にとって、生きること・・・それは困難 苦痛 疎外でした。それを打ち破って生きることは、容易なことではありません。少しずつですが、アメリカも現実に目を向け始めています。でも、まだ素直ではありません。

連帯 絆 同苦 そういう言葉にふさわしい実行の伴った支援が必要とされています。どうか、今後ともご支援をお願い申し上げます。
北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊 
Love & Support Vietnam Since 1990
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2011-06-26

枯れ葉剤初散布から50周年

前にも書きましたように、今年は、アメリカ軍が旧南ベトナムのコントゥム省に枯れ葉剤を散布してから50周年です。
アメリカ軍の飛行機に、南ベトナム政府軍のマークをつけて、さも南ベトナム政府軍機が撒いたように偽装したいやらしい試験散布から50年を迎えます。1961年8月10日のことでした。以後、1971年まで巻き続けた枯れ葉剤散布作戦は、今日見られるように、未曽有の被害者を出し続け、環境をも当然破壊したのでした。

この事実を風化させないためにも、全国各地で「ベトナムは枯れ葉剤被害者を抱えているのだ」という意識向上運動をおこなっています。
6月13日付け新聞
私たちがさだやかな支援をしているダナンでも、6月12日の日曜日に、行事が開催され、その模様をダナンの新聞が伝えています。

下の写真は、壇上に上がった枯れ葉剤被害者に贈り物を贈呈して・・同苦を分かち合い、激励しているところです。
下の写真は、5000人が参加して、被害者とともに、歩け歩け運動を展開し、市内を歩いたそうですが、その表彰式です。この歩け歩け運動でも、義援金は集まったそうです。

これから8月10日に向けて、全国で枯れ葉剤被害者を激励する各種の行事が展開されるようです。

ちなみに、8月10日の枯れ葉剤散布50周年には、全国組織である枯れ葉剤被害者本部から、私たちも招待されています。当日は、基調講演も予定されています。
マラソン, 子供, レース
 北村 元 愛のさわやかベトナム支援隊
Love & Support Vietnam Since 1990
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2011-06-02

新しい”ハノイ36通り”論

ハノイの旧市街 36通りmap of Vietnam and Vietnamese flag stock photography
ハノイの旧市街を、人は36通りと呼びます。お江戸八百八町にも似た表現ですね。その昔、ベトナム北部紅河デルタ地帯に定住する村々の職人がタンロン城に品々を収めていたように、ベトナムの首都ハノイのそれぞれの通りが専門業者の集まりでした。

多くのベトナム人に耳なじみの詩があります。

タンロン城にいってみよう

36通りを回ろう

ハン・ボー、ハンバック、ハンガイ、

ハンブオム、ハンティエック、ハンバイ、ハンカイ・・・
 
このハンとは・・商品 品物のことです。
 
今日、36通りの職人通りがあったかつてとは、ハノイは大きな都市になりました。多くの通りでは、苔むしたレンガ色の屋根の家は、コンクリートの高いビルにとって変わりました。広告掲示板や看板がいっぱいです。にもかかわらず、古いものも残っています。
細い路地をはいったところのパゴダや、ハンバックやホーニャイとかキム・リエンの通りでは守護神の石にかかれたご利益などに、タンロンの精神がみられると、人は言います。古いハノイの精神は、何世代もハノイに住んできた家族の振る舞いや態度にも息づいています。

ハノイの人たちは、旧市街を今でも”36通り”という呼び方で呼んでいます。この旧市街というのは、ホアンキエム湖の北端の噴水から始まって、ハンダオ、ハンガン通り、そしてさらにハンブオム、ルオン・ヴァン・カン、ル・オン・ゴック・クエン、そしてマーマイに至り、ハン・ダウ公園で終わりとなる。

かつて、ハンダオ通りではシルクを売っていましたし、ハンドゥオン通りでは駄菓子を売っていました。ハン・ブオムは麻などの繊維や生地の専門店街でした。しかし、こんにち、すべてが変わってしまいました。ハンダオでは、ターバンを巻いたインド人がボンベイ・シルクを売り、ハンガン通りでも大きく様変わりしています。

通りの店先は華やかですが、表通りから狭い路地を入っていくとそこはまた別世界が展開します。常に薄暗く狭い場所に、昔の生活を楽しむ大家族が住み、何十年と改装もしていない佇まいの中で、昔のままの生活風景が見られることも結構あります。
ラン・オン道路に行ってみましょう。中国風の薬草の匂いがしてきます。それも何世紀も前からの匂いのようにも思えます。ここでは、薬草なら何でもこいという感じですね。安っぽい風邪薬から、珍しい薬草を入れた高価な輸入品まで。さて、ハン・ティエック(錫・ブリキ町)は、賑やかです。金槌で叩く金属音が響いてきます。

昔ながらの商売を続ける通りがある一方で、中国薬草を売っていたトゥオク・バック通りのように、金属製品の販売専門に変わってしまったところもあります。


銅製品専門街だったハンドンは、青銅職人が作った仏壇、祭壇用品や、線香、葬祭用品を販売しています。ハンチオ通りは、昔のままで、い草のマットや木製のビーズマット、中国から輸入した竹のマットを販売しています。ハンマー通りも言ってみれば紙屋町で、普通のカラフルな各種の紙だけでなく、身内の人が亡くなった場合に棺に入れたりするニセのお札を初めとして、あの世で住めるようにと紙製の家、足に困らないようにと車、飛行機で移動できるようにと紙飛行機まで揃えてあります。


人々の住む集落は、特に首都では、城下に成立したものが、世界のあちこちに見られます。ベトナム人も徐々に農地を離れ、都会らしき所に集まり始め、そこに定住していきました。時代を経て、これら村社会の集団が都市を形成することになりました。

中越国境のランソン、ラオカイ、カオバンのような町を形成したのは、言ってみれば国境貿易の商人です。ナムディン、フン・イエン、ハイフォン、ソンタイ、タイビンなどの都市の形成には、宮廷やフランス植民地政府が背後にあります。
水路沿いの交易で都市が形成されたのは、ダナン、ホイアン、ビエンホア、カントーなどがあります。
 都市生活は文明の影響を受けます。「世界を見ても、都市は、偉大な人間と知識人を生み出す。都市では、有能な人々は、古きしきたりと習慣から自由になり、それが刷新につながっていく」と、ベトナム人は言います。

中部ベトナムでは、ホイアンという古い街が見事に保存されています。原型を保った建物とその魅力のおかげで、この川沿いの街は大勢の旅行者を引きつけてきました。観光地としての成功が成長を促進し、今では「町」から「市」に昇格しました。もちろん、小都市としての古い佇まいを失えば、観光客は来なくなるので、保存と経済発展とのバランスをとるのが難しいでしょう。祭りのシーズンには、市民は集い、ホアイ川近くでバイチョイ(中部の地域にある歌を使ったゲームの一種)を歌い、詩を吟じチェスをします。

一方、古都フエには、かつてのような学校やすばらしい庭園は減ってしまいました。それでも、フエ市の並木道は落ち着いた佇まいをみせ、特に故宮に隣接する地域では、王の籠より家を高くしてはいけないという規則が幅を利かせています。
フランスl植民地時代、フランス人の官吏が書いた手記は、19世紀のベトナムを垣間見せてくれます。タンロン(現ハノイ市)に着いた彼らは、竹でできた崩れかかったようなバラックの列が並び、タンロンの通りは実に不思議な様相だと著述しています。しかも、各通りとも、各家の門は夜にはしっかりとカンヌキをして他人の侵入を許さず、ちょっとした要塞の如くであったとも書いています。
1835年、阮朝2代ミンマン(明命)帝は一旦バットクワイ城を取り壊し、フエの宮城より小さなザディン城を現在のLe Thanh Ton, Dinh Tien Hoang, Nguyen Dinh Chieu, Nam Ky Kho Nghia通りに建設し直しました。しかし、これは後に、フランスによって壊されてしまいました。ミンマン帝は、自分の城跡が1千万都市(ホーチミン市)に成長するなど思いもよらなかったでしょう。
 
南部のサイゴンの町は、ハノイと同じように伝説と歴史をにじませながら、エネルギーと楽観主義に満ちている。喧騒と活気にあふれた町サイゴンは、ハノイよりも先に将来に向かって歩んでいるようですが、私は、ハノイの街並みが好きです。
 
北村 元 愛のベトナムさわやか支援隊
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