30年前のオーストラリア政府の公文書が、規定によって、昨年暮れに公開されました。ベトナムから来たボート・ピープルの部分をご紹介しておきましょう。
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オーストラリア国立公文書館が、30年保管規則により1978年の内閣公文書を公開し、当時のマルコム・フレイザー連合政権は、2000人以上の難民を乗せた船が到達し、オーストラリアにとって負担になるのではないかと懸念していたことが明らかになった。
殺到する難民の波が止まる目途はほとんどなかったようだ。
ベトナム当局が社会事業の一環として、国内の華僑人口を減らすため、難民の大量流出を助長している証拠は十分に揃っている、と当時のマイケル・マックケラー移民相は述べていた。
合衆国も協力的とは言えなかった。ベトナム戦争で屈辱を味わったアメリカは、ベトナムからの出国者はみな難民であり、しかるべく対処すべきとの見解だった。
オーストラリアは最終的には相当数のボート難民を抱えることになり、とりわけ一隻に数多くの難民が乗り到達した場合、その対処に窮するとの長期展望があった。
唯一の選択肢は、可能であれば国連の管理下に置き、オーストラリア領土内に設けた収容所一箇所に難民全員を収容するというものだった。
政府は迅速に対応し、難民受入数を1500人から10500人に引き上げ、臨時財源として170万ドルを拠出した。
サイゴン政府は1975年4月30日に公式に、北の共産主義政府に敗北した。そのほぼ一年後に5人の亡命者を乗せたボートが初めてダーウィンに到達した。
それから一年も経たない内に、ほぼ連日おびただしい数のボート難民が押し寄せた。これは、より多くの難民が国外により良い生活を求めて共産主義新政府から脱出したからだ。
1975年4月から1978年11月までに、オーストラリアは14476名のベトナム、ラオス人難民を受け入れ定住させた、とマックケラー大臣は述べた。最終的にオーストラリアは13万7000人のベトナム人難民を受け入れた。ベトナムで市場改革が起こり、比較的自由な環境になったため、難民の大量流出は次第に落ち着いた。
フレイザー政権時の大臣、フレッド・チェニー氏は、後にハワード政権の亡命希望者への処遇について公に批判し、1978年の政府声明は常に前向きで、オーストラリアの難民受け入れ条件を再保証するものであった、と述べた。
「誰もが認める人道的惨事に対処する際、政府は政治的に明瞭で、道徳に基づいて国民を率先した。私はそれを当時の政府の最良の政策だと思う。」
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