医師団は、彼女の脊椎を閉じた。その後、脳髄液を出すために、シャントが脳に入れられた。しかし、エマは終生、下半身マヒになることが明らかになった。
最初、エマは特殊学校に通った。ダイアンは、残りは普通の学校で教育を受けさせようと決心した。子どもの障害は、ベトナムで従軍した男性兵士に枯れ葉剤が起こした損傷が原因であるという証拠が強くなっていった。しかし、1985年に開催された王立委員会では、退役兵士への長期健康障害を否定した。そして、父親が化学物質に曝露したことで、子どもの先天障害を引き起こしたという想定は“奇抜“であるとされたのだった。
デイヴィッドとダイアンの孤独な闘いが始まった。娘のエマに医療保護を受けさせるようにし、障害者手当獲得のために書類を整えたりした。やがて、ノースコット・ソサエティから期間の延長が可能で、カウンセリングと器具付きのできる援助を申し出が来た。病院の予想通り、心身共に大変な労苦がやってきた。「デイヴィッドは、レストランでオーナーシェフとして働いていたが、大酒を飲むようになった」と、ダイアンは言う。デイヴィッドは、エージェント・オレンジがエンマの障害を引き起こしたと信じて疑わず、自分を責め続ける。
1983年に、家族は、ワガワガに近いロックハートに引っ越して、新たな生活を始めた。エマはそこが好きになった。「誰もが、受け入れてくれた。娘の障害を、好奇の目でみる人は誰もいなかった。学校も受け入れてくれた」と、ダイアン。
デイヴィッドは、依然休み無しで働き続けた。そして、3人はワッガに引っ越す前には、ウィンガムとアルストンヴィラでも暮らした。
エマは、5歳の時から助け無しで車椅子を使えるようになった。6歳で、彼女は、普通の学校に行った。手助け無しにカテーテルを変えることも出来た。他の子どもたちがしたことを、一生懸命自分もした。車椅子のテニスもマスターした。水泳も学んだ。
デイヴィッドの長兄ドンが水泳の手ほどきをした。「水に潜れるように、1ドル硬貨を投げました。でも数週間後、金欠になりそうだったので止めましたよ」
エマは、成長するに従って、あちこちの学校へ転校した。そして、遠足やキャンピングは一度も欠かしたことはなかった。彼女は、車椅子のバスケット競技に出場しては、州内を旅した。エマが高校を卒業するまで、車で全ての送り迎えをしたのは、母ダイアンであった。
デイヴィッドは依然としてベトナムの経験をどうしていいか分からなかった。「25年間、砂の中に自分の頭を突っ込んだままでした。(私は25年間現実を直視しませんでした)。」と、彼は言った。しかし、1992年、蛮勇を奮い起こした。キャンベラで開かれた当時の第3大隊の再会に出席したのである。そこで、改めて見つけたもの・・・それは新しい物ではなかった。「友情は死なず」であった。
戦友が自分のところにやってきては、かつてのニックネーム「お袋」と呼んでくれた。思い出が次々と蘇った。コックとして、デイヴィッドは、兵士たちに果物、野菜をたべろと小うるさく言っていた。彼は、オーヴンから食事を取り出しては、小走りで調理台へ行き調理した。だから戦友がパトロールに出る時でも、まだ食事は熱かった。
「同じ部隊で、訓練、規律を教えられ帰国し、その後の人生もすべてが同じプレシャーを受けて来た仲間だったと気づきました」と、彼は言った。彼がカウンセリングを受けるようになったのは、それからだった。
セミナーで他の復員軍人の妻と一緒になったダイアンは、多くの人たちが、それぞれの家庭の中の病気や障害はエージェント・オレンジのせいだと信じて、同じような辛い生活を送っていることを知った。ガンによる死、自殺が、多くの家庭を直撃していた。そして、飲酒に浸る気分、陰鬱な気分に関して、彼らは貴重なアドバイスをしてくれた。「私は、これまで家の中で起きていたことは、すべて自分のせいではない、ましてデイヴィッドのせいでもないのだ、と気づいたのです」
2006年に、デイヴィッドは、ロング・タン(ベトナム南部の戦闘地域)の戦闘40周年でベトナムを再訪したが、これでまたいくつかの煩わしいことから吹っ切れることになった。彼は、ベトナムの国民が先天性欠損症で傷ついていることを展示した博物館を訪れた。彼は、あの戦争で闘ったベトナムの兵士と冷えたビールを酌み交わしたのだった。
最初、エマは特殊学校に通った。ダイアンは、残りは普通の学校で教育を受けさせようと決心した。子どもの障害は、ベトナムで従軍した男性兵士に枯れ葉剤が起こした損傷が原因であるという証拠が強くなっていった。しかし、1985年に開催された王立委員会では、退役兵士への長期健康障害を否定した。そして、父親が化学物質に曝露したことで、子どもの先天障害を引き起こしたという想定は“奇抜“であるとされたのだった。
デイヴィッドとダイアンの孤独な闘いが始まった。娘のエマに医療保護を受けさせるようにし、障害者手当獲得のために書類を整えたりした。やがて、ノースコット・ソサエティから期間の延長が可能で、カウンセリングと器具付きのできる援助を申し出が来た。病院の予想通り、心身共に大変な労苦がやってきた。「デイヴィッドは、レストランでオーナーシェフとして働いていたが、大酒を飲むようになった」と、ダイアンは言う。デイヴィッドは、エージェント・オレンジがエンマの障害を引き起こしたと信じて疑わず、自分を責め続ける。
1983年に、家族は、ワガワガに近いロックハートに引っ越して、新たな生活を始めた。エマはそこが好きになった。「誰もが、受け入れてくれた。娘の障害を、好奇の目でみる人は誰もいなかった。学校も受け入れてくれた」と、ダイアン。
デイヴィッドは、依然休み無しで働き続けた。そして、3人はワッガに引っ越す前には、ウィンガムとアルストンヴィラでも暮らした。
エマは、5歳の時から助け無しで車椅子を使えるようになった。6歳で、彼女は、普通の学校に行った。手助け無しにカテーテルを変えることも出来た。他の子どもたちがしたことを、一生懸命自分もした。車椅子のテニスもマスターした。水泳も学んだ。
デイヴィッドの長兄ドンが水泳の手ほどきをした。「水に潜れるように、1ドル硬貨を投げました。でも数週間後、金欠になりそうだったので止めましたよ」
エマは、成長するに従って、あちこちの学校へ転校した。そして、遠足やキャンピングは一度も欠かしたことはなかった。彼女は、車椅子のバスケット競技に出場しては、州内を旅した。エマが高校を卒業するまで、車で全ての送り迎えをしたのは、母ダイアンであった。
デイヴィッドは依然としてベトナムの経験をどうしていいか分からなかった。「25年間、砂の中に自分の頭を突っ込んだままでした。(私は25年間現実を直視しませんでした)。」と、彼は言った。しかし、1992年、蛮勇を奮い起こした。キャンベラで開かれた当時の第3大隊の再会に出席したのである。そこで、改めて見つけたもの・・・それは新しい物ではなかった。「友情は死なず」であった。
戦友が自分のところにやってきては、かつてのニックネーム「お袋」と呼んでくれた。思い出が次々と蘇った。コックとして、デイヴィッドは、兵士たちに果物、野菜をたべろと小うるさく言っていた。彼は、オーヴンから食事を取り出しては、小走りで調理台へ行き調理した。だから戦友がパトロールに出る時でも、まだ食事は熱かった。
「同じ部隊で、訓練、規律を教えられ帰国し、その後の人生もすべてが同じプレシャーを受けて来た仲間だったと気づきました」と、彼は言った。彼がカウンセリングを受けるようになったのは、それからだった。
セミナーで他の復員軍人の妻と一緒になったダイアンは、多くの人たちが、それぞれの家庭の中の病気や障害はエージェント・オレンジのせいだと信じて、同じような辛い生活を送っていることを知った。ガンによる死、自殺が、多くの家庭を直撃していた。そして、飲酒に浸る気分、陰鬱な気分に関して、彼らは貴重なアドバイスをしてくれた。「私は、これまで家の中で起きていたことは、すべて自分のせいではない、ましてデイヴィッドのせいでもないのだ、と気づいたのです」
2006年に、デイヴィッドは、ロング・タン(ベトナム南部の戦闘地域)の戦闘40周年でベトナムを再訪したが、これでまたいくつかの煩わしいことから吹っ切れることになった。彼は、ベトナムの国民が先天性欠損症で傷ついていることを展示した博物館を訪れた。彼は、あの戦争で闘ったベトナムの兵士と冷えたビールを酌み交わしたのだった。
オーストラリアは、今頃になって、ベトナム戦争復員軍人の第二世代に起きているスピナ・ビフィダ、口蓋裂、副腎ガン、急性骨髄性白血病の可能性ある原因として、エージェント・オレンジの散布を認めた。各種の医療面、病院などを含めて援助が受けられるようになった。これは、アメリカの前例に呼応した物だ。しかし、それらはほんの一部に過ぎない。復員軍人の第二世代の障害や疾病に対して特別手当を支給するという決定は、実施されなかった。
2001年、デイヴィッドとダイアンは、シドニーのテレビ制作会社に勤める長男アダム(33歳)と、カメラ・コンピューター専門会社の営業をする次男ブラッド(30歳)が住む近くのセントラル・コーストに引っ越した。「かつては、息子たちは二の次に置かれていました。でも、息子たちはよくやりました」と、デイヴィッドは言う。
エマは、TAFEで保育と事務職としてのコースを終了した。彼女は、障害者グループと一緒に、保育園や養老院でのボランティア活動もやり遂げた。6月から、フィットネス・クラブでの受付として就職し仕事を始めた。
両親がセントラル・コーストへの引越を決めた時、彼女は、ワガワガに残ることを選択した。「社会の一員として、独立してやっていきたい・・・他人と違った人として面倒見られたくないんです」彼女は、きっぱり語った。
1994年にエマがキャンプに行った時に、マーク・ハスウェートと出会った。彼もスピナ・ビヒダの患者だった。しかし、症状はエマより軽い。
二人は9月6日土曜日に結婚する。この日は、1983年に亡くなったデイヴィッドの母親の誕生日である。(了)
2001年、デイヴィッドとダイアンは、シドニーのテレビ制作会社に勤める長男アダム(33歳)と、カメラ・コンピューター専門会社の営業をする次男ブラッド(30歳)が住む近くのセントラル・コーストに引っ越した。「かつては、息子たちは二の次に置かれていました。でも、息子たちはよくやりました」と、デイヴィッドは言う。
エマは、TAFEで保育と事務職としてのコースを終了した。彼女は、障害者グループと一緒に、保育園や養老院でのボランティア活動もやり遂げた。6月から、フィットネス・クラブでの受付として就職し仕事を始めた。
両親がセントラル・コーストへの引越を決めた時、彼女は、ワガワガに残ることを選択した。「社会の一員として、独立してやっていきたい・・・他人と違った人として面倒見られたくないんです」彼女は、きっぱり語った。
1994年にエマがキャンプに行った時に、マーク・ハスウェートと出会った。彼もスピナ・ビヒダの患者だった。しかし、症状はエマより軽い。
二人は9月6日土曜日に結婚する。この日は、1983年に亡くなったデイヴィッドの母親の誕生日である。(了)
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