2008-07-31

8月10日枯れ葉剤被害者の日 近づく

ベトナム枯れ葉剤被害者協会(VAVA)は、8月10日エージェント・オレンジダイオキシン被害者の日を前にして、全国で10億ベトナムドン(約670万円相当)の募金を集めた。
同協会のチャン・スアン・トゥ副会長兼事務局長(写真下)は、7月29日、ハタイ省北部の被害者たちへの訪問を皮切りに、8月10日の被害者の日の激励行事を開始した。
同協会では、ハタイ省友好村(写真下)、ハノイ市の平和村の他、ハ・ナム省ナム・ディン省の枯れ葉剤被害者施設などベトナム北部の施設の訪問を計画していた。

              ハノイの平和村で、ゲームをする子ら(上)

一方、南部のホーチミン市では、同協会のグエン・ゴック・フオン副議長による平和村やトゥー・ズー病院(写真下)、ティエン・フック枯れ葉剤子ども被害者センターの訪問が予定されている。
さらに、被害者への募金を集めるために、慈善芸術展や慈善スポーツ競技会の開催も計画されている。

この中には、8月9日にハノイオペラ・ハウスで開かれる“正義と真心”をテーマにした芸術祭も含まれ、ベトナム・テレビでの放送が予定されている。

また、8月9日には、慈善ゴルフ・トーナメントが行われる他、同日にはハノイの友好文化宮では、芸術交流の夕べが開かれ、ヴェトナム・テレビで放送される。

同協会ハノイ支部は、8月10日の被害者の日を祈念して会議を開催し、地方自治体や担当省庁の幹部や、実業界からもトップクラスが出席する。

中国に隣接する北部のハザン省では、“枯れ葉剤被害者支援”の慈善宝くじを発行する他、省内の被害者を支援するため資金集めのために慈善ナイトショーを予定している。

8月10日の祈念行事は、全国で開催され、南部のバーリア・ヴンタウ省では215人の枯れ葉剤被害者に30万ドン(約2000円)相当の激励の品物が贈呈される。
ベンチェ省でも、1000被害世帯に、車椅子、成績優秀な17人のこどもに奨学金を贈るなど、激励の品物が贈呈される。

メコンデルタビンロン省でも、被害者の生活改善のために600万ドンから800万ドンの募金集めを計画しており、省都ニャチャンのある中部のカイン・ホア省で300人以上いる被害者に無料診断と治療を行うことになっている。
われわれ、愛のベトナムさわやか支援隊のツアーは8月19日から。車椅子などの激励の品々や奨学金も贈呈し、眼科診断、音楽療法も行う予定で、盛りだくさんだ。来年、皆さん 参加してみませんか?(了)Posted by Picasa

2008-07-30

戦争で破滅した人生(下)

もう一つの側面は、ベトナム人に関連したものだ。オーストラリア人は、ベトナム語を話さない。オーストラリア人の周辺で何が起きているのかわからなかった。オーストラリア人は、アメリカ人同様に、完全な人道主義的使命を果たしていると思われた。しかし、自分たちが助けてあげていると思われていたまさにそういう人々が、実は敵と通じ合っていたのではないかという疑問だ。

「われわれは地元のベトナム人を軽蔑していた。大嫌いだった。人々の支持を得ようなどという戯言はクソ食らえだ。どのベトナム人もベトコン・シンパであったり、スリを働いたり、娘や妻に売春させる下劣な奴らと思っていた。一部の共産主義の脅威から、地元の人や南ベトナム人を守るという~こんなことは滅多に口に出すことはなかったが~漠然とした考えは吹っ飛んでしまった。この地方の住民から明らかに人間性を奪うのも、その場所で、だった。

アメリカとその同盟軍の火力で致命的な攻撃を与えても、敵は反撃を続けた。どんなに爆弾、ジェット機、砲弾、或いは嫌がらせを注ぎ込んでも、彼らが阻止されているようにはみえなかった。彼らの供給網と支援網は、例えわれわれが破壊しようとしても、機能していたようにみえた」と、ハードは言った。

敵の復元力の一部は、南ベトナムの端から端までいた革命軍シンパの支援にあった、彼は見る。
敵の反撃でハードが仲間を失うと、バードが受けた影響は消すことの出来ないほど大きなものだ。ハードの戦友の一人が重傷を負った。バードは彼に言った。何もないから、救出の順番を待たなくてはならないと。重傷の戦友は答えた。「俺もいくよ。君」と。ハードが彼の所に戻ってきた時は、彼は息絶えていた。
戦友から頭を刈ってもらうハードさん
ハードにとどめを刺したのは、バララット作戦だった。1967年8月6日の激戦だ。彼のA中隊6人が死亡し、16人が負傷した時だった。敵はあちこちで小さな勝利をしてきたかもしれないが、自分の隊は無敵だという考えは崩壊した。

「こんなに正確に砲撃してこなければ、われわれはどこにいたろうかなんて考えたくもなかった。ベトコンが持っていないものは、大砲だった。そうだ、われわれには、大砲、ジェット機、戦車、B52等がある。ベトコンは、自分たちの体がすべてだ。・・なのに、彼らはわれわれをやっつける・・・・」

ベトナムにいるアメリカ同盟軍への究極的なとどめは、やがて来るテト攻勢だった。1968年1月30日~31日にかけてテト攻勢が起きた時、それはアメリカ国民のモラルを破壊した。その時から、アメリカは出撃はするが、屈辱的な敗北が表面化するのを避けるのに執着した。

その頃には、バードは本国に帰還していたが、トラウマと記憶を葬り去ることに苦しみ、うまくいかなかった。定職にも就けず、30年後の1997年には、精神科の病院の世話になった。

戦後、彼は結婚し、3人の子どもをもうけた。そして自身はリハビリに専念した。ジョギングで体を鍛え、勤勉に働き、写真、教育、デザイン、技術など多くの勉学のためのコースも受けた。

しかし、“ベトナム”が肉体から離れていくことはなかった。股間に出てきた発疹も、おそらくエージェント・オレンジのせいだった。他の戦友たちは、自殺の縁に立つなどもっと悶々とした日々を過ごしていた。ベトナムで彼の部下となっていた人たちの話を聞いた。

その頃には、軍の戦略計画は変わっていた。自分の連隊はいつもゲリラとしてジャングルの中で戦争していた。その後は、ヴン・タウの基地内でより時間を過ごすことが多くなった。そして、もっと休暇も寛大に取れるようになった。それは、おそらく長期戦に備えて死傷者を最小限にしながら、アメリカの同盟国を支えていくという軍部の作戦だった。

「我々の大隊は常に打ち負かされて、無理強いをさせられているという見解だった」と、彼は言った。

今日、バードは復員兵の仲間に会う。そのうちの20人は、ヴィクトリア州ベアンズデールでの月例会に出席している。彼は、大隊長に軍の義兄弟として再会した。彼は、ベトナムでかつての大隊長に対して「くたばれ、この野郎」と罵声を浴びせかけたために、抗命罪に問われた。

精神科の病院にいる間に、彼は、ヴィクトリアの田舎にいた青年時代のことを短編に書いた。それを復員兵のエッセー・コンテストに応募した。結果は、5回連続で1等賞を獲得した。それらの話を、彼は自分の本に収めた。

「ベトナムに関する私の本を、全国の30から40の学校で取り上げてくれた。学校での講演も頼まれた。子どもたちは、あそこで何がおきていたか、全く知らされていない。子どもたちから800通の手紙をもらった。オーストラリア人が兵士たちに行った振る舞いを信じられないのだ」と、彼は言った。(
シドニー・モーニング・ヘラルド紙2007年4月14日―15日付けより。著者マルコム・ブラウン氏)(おわり)
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戦争で破滅した人生(上)

彼が戦争から戻って30年。一人のベトナム戦争復員兵の人生はもつれた糸のようにほどけない。今も、何千という人々が、未だ自分の人生の話を披瀝することができないでいる。
バリー・ハード氏。62歳。(写真)最後のオーストラリア軍がベトナムから撤退して30年以上も経つのに、自分のベトナムでの経験を書こうという気にはどうしてもなれなかった。

戦闘の話―軍の悲惨な話は種々の形で、何千回となく伝えられてきた。しかし、ハードの話・・戦前にも、戦後にも何の権利も主張したことがなく、最悪の大虐殺を一部経験したつつましやかな男の話が、やっと心の底からさらけ出された。

彼は、ねじ曲がった遺体がそこにあるのをみた。非常に若く、とても小柄だった。遺体がつけていた黒いパジャマとは裏腹に肌は色白だった。彼は、ベトコンが激しく反撃した後、戦友の遺体を運んだ。

これは、どこかで聞き覚えのある話だった。2005年に出版された彼の本「あっぱれ、仲間よ」への読者の反響に、彼は圧倒された。およそ1万もの人が、著者に接触してきたのだ。学校は、この本を取り上げた。子どもたちは、もっと事実を知りたがった。国営放送で彼の本が放送されると、何千というメールが彼に送られ、ハードディスクがぶっ飛んだ。本は2版出され、いま、著者の後書きも入れた新版が出た。

10年にわたるオーストラリアの参戦でベトナム戦場に行った5万の豪兵士の誰もが、こういう話を書くことができたであろう。しかし、ハードは、実際それをやり遂げた。仲間からの渾名は“タード”だった。ハードがベトナムから戻ってきて自分たちの努力が感謝されていないのを知った時に、生の神経がえぐり取られた。通りは反戦のポスターで溢れ、世界中が、ベトナムに参戦すべきかどうかの苦々しい議論が沸騰していた。1987年に帰国歓迎パレードを含めて、それ以来和解が行われてきた。しかし、歴史における“忘れられた戦争”から戻った兵士へぶつけられた最初の威圧感は失せていない。素直になるのに、12年もかかった。

ハードは、1945年1月にメルボルンに生まれ、ヴィクトリア州の片田舎で育った。彼は、最初の招集で徴兵猶予をうけて、第3回の招集で軍隊に入った。彼は、NSW州のパッカプンヤル、シングルトンで訓練を受け、その後クインズランドカヌングラ密林訓練センターとショールウォター・ベイに移った。ロイヤル・オーストラリア連隊第7大隊に配属され、ベトナムに派遣された。

大隊が着いたとき、兵士たちは元気づいた。ロング・タンの戦闘を経験し、完全勝利を収めていた。敵は大砲もなく、航空機も武器も持っていなかったから、先ず決然とした反撃の姿勢を示せば退却すると見られていた。ハードは言った。「われわれの待ち伏せは成功した。その結果、敵との遭遇でもうまくいき敵を殺した」と。それから、負傷した獲物のように彼らを追跡した。「点々とした血の跡、阿鼻叫喚、泥の中の逃げた足跡を、軍は追った。行方をくらましたベトコンの居場所をつきとめるために、可能な場合には訓練された探知犬と調教者を大至急呼んだ」と、彼は文章に綴った。「やがて、探知犬が敵を発見すると、軍が追い討ちをかけ、殺した。」

 負傷したベトコンの一人は、下草の中に身を潜めた武器をもたない若い女性だった。彼女は殺された。ハードの戦友の一人で、“ナッカーズ”というニックネームの人は、特に彼女の殺戮に大きな精神的動揺を受けた。ハードは、こう書いている。「例え戦争とはいえ、哀れっぽく泣くその若い女性の姿と、射殺された彼女の記憶は、何が正しいかという内部規則に合致するものではなかった」

ハードは、「われわれがしたこと・・われわれは人間的ではなかった。目が覚めて、自分の仕事が人々を殺すことだと分かったことは、恐ろしいことだ。これは、私が読んだ手紙に書いてあったことだが、ほんとうに自分の心を傷つけ、精神も傷つけたことは、間違いだった。わかるでしょ。最後には、自分がほんとうにいやになるのだ。そして、そこから心配が起き、鬱状態になる。いろんな奴が俺に言った。それはお前の役だよ。タード、お前が俺の本を書いてくれよ、と」と、ヘラルド紙に語った。

兵士の人生を食いちぎったものは、政治色の強い戦争と、多くの政治論議が、兵隊の行為を無視してきた事実だった。探知犬のラブラドールがあきらかに高温で死んだ時に、新聞の第1面に載った。当時のマルコム・フレーザー国防相は、それを調べると約束をした。(つづく)Posted by Picasa

2008-07-24

疲れ知らずのチ博士~ビン・ディン省~下

(上)よりお読み下さい。
延々と続く影響

エージェント・オレンジの犠牲者について話す時、白髪混じりののチ博士は涙なしでは語れない。

「ビン・ディン省は、エージェント・オレンジの影響を最も酷く受けた省の一つです。どのくらい多くの障害児がうまれ、どのくらい多くの障害児が今後生まれるか、誰にもわかりません」

フイン・タイ・ビン君は、クイ・ニョンで生まれたが、先天性の心臓疾患だった。14歳で、同年齢の子どもより遙かに虚弱だった。母親のフイン・ティ・フオンさんには、治療に必要な6千万ドン(約3750米ドル)を出せる当てなど、まるでなかった。

「ビンには手術しかないと分かっていました。でも、わが家は貧しすぎて・・・チ博士の努力と親切心がなかったなら、今日まで生きていなかったでしょう。博士に会えたことが、私たちにとって最上のことでした。生きていけるという希望を息子にくれた日を、決して忘れることはありません」と、フオンさんは感謝する。

チ博士は、ビン君を真心協会会長のフイン・タン・マム博士に紹介した。2006年に、マムと真心協会は、心臓病をもったビンの手術費用を捻出するための慈善音楽会を開催した。真心協会とその支援者らが、ホーチミン市チョー・ライ病院で受けるビンの手術のスポンサーになった。

「私を含めてチ先生のおかげで直った子どもの母親らは、先生を、チお父さんと呼んでいます」と、フオンさんは明かした。

チ博士は、「心臓病をもった新生児を探知することが、全国的に所定の作業にならなければなりません。心臓欠陥を持って生まれた子供の大半は、異常がみつかって初めて医者にいくのですが、その時には、既に手遅れになっていることが多いです」と、言う。

長期の治療を受けて、ビン君の状態は安定してきた。他の10代の子どもと同じようにあそび、勉強もできるようになった。

将来の夢を、ビン君はこう語る。「マム先生とチ先生の援助に感激しました。大きくなったら、心臓病をもった貧しい子どもたちを治療できるようにお医者さんになりたいです」

チ博士は、患者を病気を治しただけではない。患者に、明るい未来と、困難な状況に立ち向かう自信を与えたのだ。

ビン・ディン省ダオ・ドゥック・ドンは、両親の受けたエージェント・オレンジの影響が出た。腫瘍が尻に出来て、彼は学校に通うことができなかった。チ博士は、ドンを助けるための資金作りの運動を起こした。そして、ホーチミン市のリ・トゥ・リンと他の人のスポンサーの援助で、ドンは手術を受けて、腫瘍を切除した。

チ博士は、何年もかけて、エージェント・オレンジの被害者の写真を撮りづけてきた。エージェント・オレンジ日本支部の西村よういち(漢字不詳)さんによって、世に出されることになった。

西村さんと奥さんのくるみさんは、ベトナムで多くの慈善行事に参加し、チ博士と親しくなった。

「彼らは、心の底からベトナムの犠牲者を心配してくれる日本人です。彼らは、私と一緒にダイオキシンの患者を訪問してくれました。世界に真実を知らしめるために、ダイオキシンの被害者の写真集を出版してくれることになりました」と、チ博士は喜ぶ。

チ博士は、年を重ねているにもかかわらず、今も遠くに、広範に旅をして、患者を助けている。「エージェントオレンジの被害者にとって、誰かが助けてあげない限り、奇形や苦痛は決して和らぐ物ではありません」
写真は、ビン・ディン省トゥイ・フック郡にドアン・カイン・ズオン君を訪問したチャン・スアン・チ博士。(ベトナム・ニュース通信7月19日付けより)Posted by Picasa

疲れ知らずのチ博士~ビン・ディン省~上

チャン・スアン・チ博士は、貧しい患者とエージェント・オレンジの患者を探し、慈善で募金集めをしては、命を救おうと朝から晩まで疲れ知らずで働く。ベトナムの赤髭先生なる所以である。
チ医師は、1936年にベトナム中部のクアン・ナム省で生まれた。軍に入隊して14歳で軍医になったという経歴の持ち主だ。
「困難な子ども時代と軍隊に入隊中の厳しい時代があったおかげで、他人の苦しみがわかるようになりました」という。

その後の45年以上にわたって、チ医師は、貧しい患者、特に山岳地帯に住むエージェント・オレンジの患者に尽くしてきた。

前ビン・ディン省赤十字協会会長ヴー・ヴァン・ボン博士が、1992年に定年退職すると同時にチ医師を担ぎ出し、エージェント・オレンジの患者にボランティアで助け始めたのが、1992年のこと。

「我が国が統一されて30年が過ぎました。しかし、戦争の後遺症はまだ残っています。エージェント・オレンジの影響は、ここでは遺伝性であり、世代から世代へと引き継がれています」と、チ医師は言う。

熱意あるチ医師は、経歴の中で数え切れないほどの人々を助けてきた。そして、貧しい人と、国内外の慈善事業家とを結ぶ懸け橋になってきた。

「医者である以上、医学倫理が最も重要だと思います」と、チ医師は語る。

エージェント・オレンジの影響で、体が衰弱していく影響を受け継いだ子供たちの統計をとったのは、チ博士が初めてだったという。ビン・ディン省、コン・トゥム省、ザー・ライ省、クアン・ナム省、ダナン省、フー・イエン省といった省の山岳地帯にいる障害児や孤児たちの艱難辛苦を、もくもくと、潔癖なまでに年代順に記録をとったのだ。

仲間の医師にも助けを求めて、チ医師は、極貧で病気の子どもたちを助けるために、カネや医薬品の提供を駆りたてた。

「こういう状況のもとで、私は安眠している場合じゃありません。彼らを助ける以外に選択肢はありませんでした。孤独な子どもたちに缶ミルクをあげようが、パン一切れあげようが、何をあげようが、それらの贈り物は意味のあるものです。なぜなら、彼らは、面倒を見てくれていると思うからです」

チ博士は、努力が認められて、2002年の最優秀医師の称号を受けた。ビン・ディン省赤十字協会のダオ・ズイ・チャップ会長には、優良医師に対して最高の賛嘆する以外に手はなかった。

「チ博士が成し遂げてきたことは、真に他の模範となるものです。過去15年以上にわたって、数え切れないほどの患者の痛みを分かち合い、治療し、少しでも安堵できるように助けてきました」
写真は、ビン・ディン省トゥイ・フック郡にドアン・カイン・ズオン君を訪問したチャン・スアン・チ博士。(下に続く)Posted by Picasa

2008-07-22

2008年下半期のご寄付(1)

前回、ご寄付のまとめを発表させて頂いた後、さらにご寄付を頂戴しました。
下半期の(1)として、掲載させて頂きます。

7月11日 古瀬 壬生子さん 三島市 寄付金

7月11日 古瀬 壬生子さん 三島市 衣類

7月12日 上島 喜代美さん 沼津市 寄付金

7月16日 山口 敬子さん 松戸市 衣類

7月22日 山本 邦子さん 文京区 寄付金

7月22日 名古 良輔さん 沼津市 寄付金

(病院開院20周年記念として頂戴しました)

ここに御報告し、一層有効に使用させて頂くことを誓い、後日報告をさせて頂きます。

愛のベトナムさわやか支援隊 会長 大釜 一男 他一同 2008年7月22日

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2008-07-17

ある一家の闘争史~豪復員家族~下

医師団は、彼女の脊椎を閉じた。その後、脳髄液を出すために、シャントが脳に入れられた。しかし、エマは終生、下半身マヒになることが明らかになった。

最初、エマは特殊学校に通った。ダイアンは、残りは普通の学校で教育を受けさせようと決心した。子どもの障害は、ベトナムで従軍した男性兵士に枯れ葉剤が起こした損傷が原因であるという証拠が強くなっていった。しかし、1985年に開催された王立委員会では、退役兵士への長期健康障害を否定した。そして、父親が化学物質に曝露したことで、子どもの先天障害を引き起こしたという想定は“奇抜“であるとされたのだった。

デイヴィッドとダイアンの孤独な闘いが始まった。娘のエマに医療保護を受けさせるようにし、障害者手当獲得のために書類を整えたりした。やがて、ノースコット・ソサエティから期間の延長が可能で、カウンセリングと器具付きのできる援助を申し出が来た。病院の予想通り、心身共に大変な労苦がやってきた。「デイヴィッドは、レストランでオーナーシェフとして働いていたが、大酒を飲むようになった」と、ダイアンは言う。デイヴィッドは、エージェント・オレンジがエンマの障害を引き起こしたと信じて疑わず、自分を責め続ける。

1983年に、家族は、ワガワガに近いロックハートに引っ越して、新たな生活を始めた。エマはそこが好きになった。「誰もが、受け入れてくれた。娘の障害を、好奇の目でみる人は誰もいなかった。学校も受け入れてくれた」と、ダイアン。

デイヴィッドは、依然休み無しで働き続けた。そして、3人はワッガに引っ越す前には、ウィンガムとアルストンヴィラでも暮らした。

 エマは、5歳の時から助け無しで車椅子を使えるようになった。6歳で、彼女は、普通の学校に行った。手助け無しにカテーテルを変えることも出来た。他の子どもたちがしたことを、一生懸命自分もした。車椅子のテニスもマスターした。水泳も学んだ。

デイヴィッドの長兄ドンが水泳の手ほどきをした。「水に潜れるように、1ドル硬貨を投げました。でも数週間後、金欠になりそうだったので止めましたよ」

エマは、成長するに従って、あちこちの学校へ転校した。そして、遠足やキャンピングは一度も欠かしたことはなかった。彼女は、車椅子のバスケット競技に出場しては、州内を旅した。エマが高校を卒業するまで、車で全ての送り迎えをしたのは、母ダイアンであった。

デイヴィッドは依然としてベトナムの経験をどうしていいか分からなかった。「25年間、砂の中に自分の頭を突っ込んだままでした。(私は25年間現実を直視しませんでした)。」と、彼は言った。しかし、1992年、蛮勇を奮い起こした。キャンベラで開かれた当時の第3大隊の再会に出席したのである。そこで、改めて見つけたもの・・・それは新しい物ではなかった。「友情は死なず」であった。

戦友が自分のところにやってきては、かつてのニックネーム「お袋」と呼んでくれた。思い出が次々と蘇った。コックとして、デイヴィッドは、兵士たちに果物、野菜をたべろと小うるさく言っていた。彼は、オーヴンから食事を取り出しては、小走りで調理台へ行き調理した。だから戦友がパトロールに出る時でも、まだ食事は熱かった。

「同じ部隊で、訓練、規律を教えられ帰国し、その後の人生もすべてが同じプレシャーを受けて来た仲間だったと気づきました」と、彼は言った。彼がカウンセリングを受けるようになったのは、それからだった。

セミナーで他の復員軍人の妻と一緒になったダイアンは、多くの人たちが、それぞれの家庭の中の病気や障害はエージェント・オレンジのせいだと信じて、同じような辛い生活を送っていることを知った。ガンによる死、自殺が、多くの家庭を直撃していた。そして、飲酒に浸る気分、陰鬱な気分に関して、彼らは貴重なアドバイスをしてくれた。「私は、これまで家の中で起きていたことは、すべて自分のせいではない、ましてデイヴィッドのせいでもないのだ、と気づいたのです」

2006年に、デイヴィッドは、ロング・タン(ベトナム南部の戦闘地域)の戦闘40周年でベトナムを再訪したが、これでまたいくつかの煩わしいことから吹っ切れることになった。彼は、ベトナムの国民が先天性欠損症で傷ついていることを展示した博物館を訪れた。彼は、あの戦争で闘ったベトナムの兵士と冷えたビールを酌み交わしたのだった。
オーストラリアは、今頃になって、ベトナム戦争復員軍人の第二世代に起きているスピナ・ビフィダ、口蓋裂、副腎ガン、急性骨髄性白血病の可能性ある原因として、エージェント・オレンジの散布を認めた。各種の医療面、病院などを含めて援助が受けられるようになった。これは、アメリカの前例に呼応した物だ。しかし、それらはほんの一部に過ぎない。復員軍人の第二世代の障害や疾病に対して特別手当を支給するという決定は、実施されなかった。

2001年、デイヴィッドとダイアンは、シドニーのテレビ制作会社に勤める長男アダム(33歳)と、カメラ・コンピューター専門会社の営業をする次男ブラッド(30歳)が住む近くのセントラル・コーストに引っ越した。「かつては、息子たちは二の次に置かれていました。でも、息子たちはよくやりました」と、デイヴィッドは言う。

エマは、TAFEで保育と事務職としてのコースを終了した。彼女は、障害者グループと一緒に、保育園や養老院でのボランティア活動もやり遂げた。6月から、フィットネス・クラブでの受付として就職し仕事を始めた。

両親がセントラル・コーストへの引越を決めた時、彼女は、ワガワガに残ることを選択した。「社会の一員として、独立してやっていきたい・・・他人と違った人として面倒見られたくないんです」彼女は、きっぱり語った。

1994年にエマがキャンプに行った時に、マーク・ハスウェートと出会った。彼もスピナ・ビヒダの患者だった。しかし、症状はエマより軽い。

二人は9月6日土曜日に結婚する。この日は、1983年に亡くなったデイヴィッドの母親の誕生日である。(了)
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ある一家の闘争史~豪復員家族~上

ベトナムだけではありません。ベトナム戦争に参戦したどこの国にも見られる苦悩の姿。今回は、これを取り上げました。読んで下さい。
Done and Dusted 空中散布の果ては・・

家族の絆を求めて、ベトナム参戦兵士とその家族の辛い、そして孤独な闘いは、近年の紛争に派遣されているオーストラリア兵にとっても、貴重な教訓を与えるものであろう。マックス・プリスク記者。

エマ・ファーガソンが生まれた時、余命は数時間、数日、せいぜい3週間と告げられた。しかし、今、その娘は31歳になった。この9月に結婚式を挙げる。両親のダイアンとデイヴィッドは娘の手伝いに、今週(5月最後の週)ワガワガに行った。

その前、二人は、ロイヤル・オーストラリア連隊第3歩兵大隊のベトナム初駐屯以来40年ぶりの再会のため、キャンベラに行った。

ファーガソンにとって、それは、終わりのない戦争だった。

1962年から1975年までベトナムに派遣された5万のオーストラリア兵の中で数百人の復員兵士たちは、大なり小なり似たような話を持っていた。戦死者520人と負傷兵2400人は別として、多くの復員軍人は、ガンや他の病気で早くに死亡している。自殺した人も、決して少なくはない。健康問題の一部は、エージェント・オレンジを含む枯れ葉剤と関連していた。

5月下旬から2万人のベトナム復員軍人の自宅宛に手紙が発送されている。それは、ベトナム戦争時の経験を生かして、ベトナム後のイラク、アフガニスタン、東チモール、ソロモンの各紛争に派遣された男女の兵士を助けるために、予算規模1150万豪ドルで、8年間の健康調査を行うことになったからだ。調査担当の部局は、復員兵とその家族(継子、甥、姪、元のパートナーら)ら最高で20万人の調査が出来ればと期待する。

アラン・グリフィン復員兵問題担当相は、「復員家族の回復力を手助けするために、健康問題だけでなく、性格やどうすれば防止できるか、その要因も探ってみたい」と話す。

退役後40年のほとんどを孤独の生活を送り、或いは慈善団体の援助で暮らしているファーガソンさんのような家族にとって、如何なる結論がでようと、それは学術的なものになろう。妻のダイアンは言う。「夫婦二人で卵殻の上を、終生歩いているような人生を送ってきました」と。

デイヴィッドは、1968年12月5日に復員帰還した時、デイヴィッドは、ヘラルド紙のカメラマンジョージ・リップマン氏(退役兵)が撮ったベトナム戦争での“幸せな写真”の中で取り上げられた人だ。[HMASシドニー]がガーデン島について、バリケードが上がったときに、帰還兵がどっと流れ出た。母親のメイ・ファーガソンは、一番下の息子デイヴィッドを見つけると、まっしぐらに進んだ。止まることなく・・・。母親は60代だったが、力強くかき分けながら一目散に息子の元に進んだ。そして、息も詰まるのでは、というくらいにデイヴィッドの首に抱きついた。(写真)母はそれをするので精一杯だった。そして、ドックでは、ガールフレンドのダイアン・ハイランドが静かに待っていた。
ダイヴィッドは、学校を卒業後、ペストリー職人として資格を得られるケータリング・コースに入った。だが、第3大隊の兵員を補充するために、それから半年もしないうちに招集がかかり、彼はベトナムに飛んだ。

彼には、はっきりした記憶がある。南ベトナムのフック・トゥイ省(現バーリア・ヴンタウ省)のヌイ・ダットの豪軍基地周辺で日常作業になっていた唸るような音を出して行われる農薬散布だ。「まず、偵察機が高い高度で飛んできて、チェックします。それから大型の散布機が木のちょっと上の高さで飛んで来ます」

農薬散布の目的は、敵の天蓋を取り去るために、ジャングルの成長を抑えることにあった。その農薬は、どこにも漂った。兵士の体に、兵員のトラックに、テントに降った。水のタンクの中に。「われわれは、その水で料理したんです。毎日その水でシャワーを浴び、それを飲料水として飲んだのです」デイヴィッドは言った。

デイヴィッドは、今セントラル・コーストのサラトガにダイアンと住んでいる。「その後、汗疹(あせも)のような物が出てきました。皮膚がやられました。やがて医者からは、スコティッシュ・スキンだと言われました。しかし、弟をみると、弟にはでていませんでした」

デイヴィッドは、西オーストラリア州のウッドサイドで兵役を終えた。1970年に、ダイアンと結婚した。デイヴィッドには、ベトナムのことが離れなかった。戦友は、死亡したり、重傷を負っていた。彼は悪夢を見続け、アルコールにも浸っていた。そして、彼の皮膚はその時まだピンクで、農薬に晒された部分からはイボのようなできものが出ていた。

夫婦には、アダム、エマ、ブラッドという3人の子どもが出来た。1977年3月2日に、オーバーンでエマが誕生した後すぐ、キャンパーダウンのロイヤル子ども病院に運ばれた。専門員の検診で、重症のスピナ・ビヒダ(二分脊椎症)だった。

外見の異常さを、妻のダイアンは思い出す。「エマは植物人間になる、結婚は破局するだろう、他の子にも迷惑がかかるし、政府におんぶしなくてはならないだろうと言われました」と。

デイヴィッドは、「これは、エージェント・オレンジのせいだと私が言った時に、妻が驚いたのを思い出した」と言った。妻は、「馬鹿なことをいっちゃいけない」と言った。スピナ・ビヒダは、希有な病気ではない。妻は、その証拠は、古代エジプトのミイラになった子どもからも見つかっているという文章を読んでいた。しかし、デイヴィッドには、確信があった。夫婦は、エマが乳児の時代を生きていけるかどうかを医者に診てもらうことを決めた。
2ヶ月後の母の日、エマは力強く闘っていた。そして、笑顔をみせた。そして、夫妻は、病院に治療を依頼した。(つづく)
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2008-07-11

2008年上半期のご寄付(1)

年のベトナム・ツアーは8月21日からです。
今年前半で支援物資と支援金を下さった方のお名前を掲載して、感謝の意を表させて頂きます。

真心の支援金を枯れ葉剤被害で苦しんでいる方々に有効に使わせて頂き、御報告をさせて頂きます。
今年は、ベトナムのハノイ市内、タイビン省、ニンビン省、クアンガイ省を対象に、支援を考えています。

ほんとうにありがとうございました

愛のさわやかベトナム支援隊 会長 大釜 一男

テキストの色

2月13日 笠井 照子 さま 東京・練馬区 支援金

2月20日 柴田由紀子 さま 沼津市 支援金と衣類

2月20日 加藤 正明 さま 沼津市 支援金

3月01日 岩浅 洋子 さま 東海市 支援金

4月09日 河口 しのぶさま 沼津市 衣類

5月07日 横田 淳平 さま 南伊豆町 支援金と衣類

5月14日 桑田 弘一郎さま 東京・大田区 支援金

5月21日 上崎 直子 さま 徳島市 衣類

5月21日 芦沢 恵子 さま 三島市 衣類

6月11日 西山 房子 さま 沼津市 支援金

6月25日 北村 修治 さま 静岡・清水区 支援金

7月06日 宮路 瑞枝 さま 豪州 支援金

皆様のご健勝を心よりお祈り申し上げます。

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