2008-02-16

ベトナム人とテット

家族という考えは、ベトナム文化の中心です。ベトナム人の精神性は、家族という概念の上に成り立っているといえます。家族という概念は、生きている人のことだけではありません。没した人も含めた家族を指します。それ故、家族とは、過去と現在をつなぐ形をなすのです。ベトナム人からみたテットの話をしましょう。
古代ギリシャ人が神に近い存在と感じていたように、ベトナム人の大多数を構成するキン族は、神話の龍の子どもと考え、龍仙神話を信じています。母アウコが、100個の卵をうみ、そこからベトナム国が誕生したという話です。

中国の三皇伝説に出てくる炎帝神農民からはじまる。その三代日の子孫の帝王には、二人の子供があり、弟を禄続(ロクトク)といった。帝王はできのよい禄続に自分の位を譲ろうとしたが、禄続が兄をたてたため、結局帝王は兄を北方の王とし、禄続を南方の王とした。禄続は洞庭君の娘神龍(タンロン)と結ばれ、二人の間には絡龍君(ラクロンクワン)という息子が生まれた。この貉龍君は長じて山人の仙女である堰姫(アウコ)と結ばれ、二人の間には一〇〇の卵が生まれ、その中から一〇〇人の男子が出てきた。やがて子供たちが大きくなると、貉龍君と堰姫は、「水と火は相和しがたい」と考えて別れて暮らすことになり、五〇人の子供は父の貉龍君に従って海岸の平野におもむき、残りの五〇人は母の姫姫に従って山地に行った。この父に従って平野にいった息子の中から雄王(フンヴオン)という王が出現して、ベトナム最初の国家・文郎(ヴアンラン)国を建てた。

それぞれのベトナム人家族は、生者と死者が共に住む“寺”とみることも出来ます。同じ屋根の下で生まれた人たちを神聖なる糸が結んでいるのです。死は、これらの糸をほどくのではなく、むしろ強めているといえます。先祖は、生きている人の運命に大きな役割を果たすと見られています。家族が死ぬと、その人の魂は祭壇に宿ると、ベトナム人は信じています。そして、死者の魂は、犠牲の時代には特に、生きている人に強い感情を与えると考えます。

同じ家系の家族は、死者の命日に、死者に語りかけるために追悼の供養をします。その他の重要な日にも、大家族は、祖先を祀る祭壇の前に集まって線香をあげます。男性は祭壇の前に立ち、女性はゴザの上に座ります。一族の長が線香、花、お菓子、酒を先祖に供え時、他の人たちはひざまづいて祈ります。誰もが、祭壇に死者の存在を感じると言います。大晦日、そして元日には、子どもたちからの供え物を受けるために、そこにいると言うのです。


ベトナム民族の中で最大のキン族にとって、年間の最大の祭りは、陰暦の正月、つまり旧正月です。それをテットという。自然と、生きとし生けるものすべての復活を祝うのである。この時が、まさにベトナム人が生命を信じ、幸福と満足を願う時なです。

テットは、まさに一族が一同に集う機会です。準備は2週間前から始まります。ですから、ベトナム人は、その頃から浮き足立ってきます。「この時期、ベトナム人には物を頼めない」と人がよく言うのは、そういうことがあるからです。中には、ベトナム人には、テットの前2週間、後2週間は物が頼めない、という人もいますし、テットの後2ヶ月はだめだよという人もいます。まさに、民族最大の行事です。

ともあれ、通常2週間前から始まり、祭壇に細心の手入れをし、家を飾り綺麗にします。字を書いたピンクの紙を吊し花瓶に色とりどりの花をいけ、花の咲いた枝振りのいい桃も生けます。ご馳走を作って祭壇にも供え、生きている人ももちろん食べます。彼らは、3日間は、死者もやってきて末裔と一緒に過ごすと考えています。誰もが、神聖に先祖を迎えたいと思っています。

ベトナム家族の伝統では、父、母、子ども、祖父母、叔父、叔母が、同じ屋根の下で住むことを意味します。いつもは各地にばらばらに住んでいる家族が、この旧正月に一同に集います、祖先が見守る中で。賑やかに飾られた祭壇の上に、先祖の位牌が置かれます。祭壇には、日夜蝋燭が灯り、線香が焚かれます。家族が、そこに偽の金や銀の棒を重ねていきます。米ドル札もあれば、ベトナムドンのオモチャのお札もあります。次の世で先祖が必要と思われる物を満たすために、贈り物のシンボルとして供えるのです。

昨年亡くなったハイフォン市のグエン・ヴァン・クイさんのお宅は、こういう祭壇に置く物を販売していました。

テットの3日間の間、先祖は、生きている人と話をすると言われます。1916年に撮られたベトナムの写真では、一族の長が、先祖へのメッセージを書いた紙を、祭壇の前で読んでいる姿を示しています。大晦日、家族は祖先を迎えるためにお供えを作ります。昼食と夕食は、お茶と果物、ケーキを一緒に食べるために呼ばれます。

3日目と4日目の夜には、祖先とお別れするための儀式を行う。テットで会った親せきの希望や夢をたくさんもって、子どもたちを見守り続けるといいます。

ベトナム人にとって、テットに精神的な意味を与えるのが、死者と生者の会話だと言います。テットは、家族の継承、人種の継承、世代間のつながりを確認する時でもあります。先祖は、子どもたちの疑問や苦悩を理解します。先祖の前世で何であったにせよ、彼らはより精神世界にいきて、生者との話し合いをすることが出来るのだというのです。先祖は、時に子どもたちの痛みを感じ、時に子どもたちの喜びに歓喜します。生者が先祖から遠く離れていても、先祖の足音に付いていくと言います。

ベトナム人は、真面目で、勤勉であり、人生の困難にも忍耐強いことを誇りにしています。「人生とは、何かにもてあそばれるものでもない。人生とは、先祖から引き継いだ道によって支配されている。それを、今生きているわれわれが、今度は次の世代へと譲り渡していくのだ」と、ベトナム人は考えています。

この“道”と呼ばれる原理原則の中で最高のものが、先祖崇拝であり、それがベトナム民族の血の中に色濃く流れているのだ、と彼らは思っています。ベトナム人にとってテットとは、そういう意味合いを持ったものなのです。

話が難しくなりました。この辺で終わります。(北村 記)Posted by Picasa

2008-02-13

またまたの「蓮」

蓮の花の白とピンクの花びらの美しさが、やはり民話の中に登場することも前回書きました。次の詩もその例です。

蓮は、
その色合いを、いかに保つかを知っている
蓮は、
太陽の光に褪せることはない
雨に色が解けることもない

蓮は、時に若い女性そのものとして謳われます。

あなたは何をなさっていますか?
蓮の花は成長しました
あなたは蓮をみに一度も池に来てくれません。
通りすがりに蓮の花をみると、
摘みたくなってしまう。
でも、その家の方とはなじみがありません

また、時には、相手を女性の心境を謳います。

蓮の花が、池一面に香りを漂わす
花を摘もうと思って手を伸ばすが
寺の坊さんが気になる
お坊さんを一人にしておいて、出来るだけ長く
手を伸ばしているから
そうすれば、手で花が摘める
蓮に傷をつけるかもしれないけど、
私はあなたに持っていってあげる

無名の詩人が、若い女性の屈託のない笑顔を蓮に例えました。

あなたの笑う唇を一目見て
蓮の蕾が開く
燦然たる朝日が昇る

女性の頭に巻いたターバンに蓮の花を重ねる詩人もいます。

あなたの笑顔の口はガウの花(註)に似ている。
あなたの頭に巻くターバンは蓮の花に似る

上の詩に出てきたガウの花(ホア・ガウ)は、下の写真です。黄色い小さな花です。7月、8月に咲きます。お茶にも使われる他、薬にも使われています。高血圧、酒酔いに効果があるといいます。

ホーチミン市在住の高橋和泉さんが、早速教えてくれました。「日本名はおそらく樹蘭(じゅらん)です。センダン科の低木で、アグライアという通称もあります。学名のAglaia Odorataは、香りが良いことを意味 するもので、原産の中国では、この木の花を集めてお茶の葉に混ぜ、香りを楽しむそうです。ベトナムの花の辞典にも“花の香りをお茶に入れて楽しむ”と説明があります」と。

蓮は、当然愛のテーマにもなります。

昨日、公民館で水をくみ出しているとき
私は、チョッキを蓮の花の上にかけておいた
恋人よ、それを返しておくれ
私のチョッキは前がすり切れている
私にはまだ妻がいない
それを繕ってくれる人は誰もいない
年老いた母以外には。
だから、私のチョッキは長い間すりきれたままなのだ。

若い男性が自分のチョッキを繕ってくれれば何か御礼をしたいと申し出て、この詩は、まだ続いていきます。彼は、繕ってくれた女性の結婚式には、「餅米とあんこをバスケットに入れて、太った豚、ポット一杯の地酒、休む時のマット、あなたを包む毛布、そしてお金をお祝いに差し上げます・・」といいます。

このような思いを込めた寛大の愛を、誰が拒むことができるだろうか? もちろん、蓮の花には枝はありません。この若い男性は、自分のチョッキを忘れていません。蓮の茎にぶら下げたチョッキは、恋人に近づくための口実に過ぎません。でも、ちょっと遠慮がちな、それでいて必死なひたむきさとシャイがそこにあります。

蓮の花を男性に、女性を水に例えた詩人もいます。

これまでは、縁もゆかりもありませんでした。
ああ、池よ、あなたには蓮の花がありますか?
池には、満面にきれいな水をたたえて、
ずっと、蓮の花が咲くのを待ちこがれています。

ロマンティックな愛に謳いこまれる以外に、蓮の花は人類愛の象徴としても謳われます。

蓮の花ほど美しいものはない。
緑の葉、白い花、黄色い雌しべ
黄色い花びら、白い花、緑の葉
泥水に浸かって一緒になって、
それでも泥水の臭いをつけることはない。                
                          
3回に渡ってお送りしたベトナムと「蓮」の話は、これでひとまず終わりにします。(北村記)Posted by Picasa

2008-02-10

また蓮のお話~ベトナム民話~

昔々、ある年寄りが、二人のみなし児を育てていました。二人とも女の子です。
お爺さんは、二人に歌とダンスを教えました。二人が16歳と14歳になった頃には、美しさと才能で、あちこちに知られるようになりました。

二人には血のつながりはありませんでしたが、姉妹として仲良くしていました。
ある日、妹が病気になりました。
村で一番の医者を呼び、治療を受けました。しかし、何も出来ませんでした。

「お父さん、どうか、私に助けさせてください」と、姉が頼みました。彼女は、ポケットからある薬草を取り出しました。「これはお婆ちゃんからもらったもの。これを燃やして、灰を水と一緒にまぜます。この薬を飲めば、妹は治ります」

この薬を飲むと、妹は治りました。「お姉さんが救ってくれたのね。でも、お姉さんが病気になったら、誰が救ってくれるのでしょう」と、妹は言いました。

高級官吏の息子が、それほど遠くないところに住んでいました。彼は、癖の悪いことで知られていました。この悪人は、自分の用兵に美しい女性をさらってくるように命じました。この美人の姉妹の話を聞いて、どら息子は、この美人姉妹を捕まえるために兵を送りました。

そんな危険のことなど知るすべもないお爺さんは、大きな町まで旅をする計画しました。
「何を持って帰ってもらいたいかな?」と、老人は姉妹に聞きました。
姉は、「金の糸で刺繍した白のスリッパがいい」と、言いました。
「私は金の糸で刺繍したピンクのスリッパがいい」と、妹はおねだりしました。

老人が家を出るとすぐ、兵士が家に入ってきて二人の姉妹を捕まえました。
姉妹は小舟に乗せられ、官吏の家まで連れて行かれました。園家は、湖の中央にある島にありました。妹は、首からぶらさがっている小さな袋をとって、姉に渡しました。「これは、私の母からもらったものよ。危険から守ってくれるの。貰っておいてください」

官吏の家に着くと、姉は、どら息子の部屋に連れて行かれました。どら息子が姉の体に触れようとしたときに、どら息子の足の力がなくなり、倒れて意識を失いました。彼が起きあがって、妹を捜そうとしましたが、何回も同じ事がおきました。
逃げ場が無くなった妹は、川に飛び込んで溺れました。

妹が飛び込んで死んだのをみて、姉は哀しみと罪の意識で悲嘆に暮れ、彼女も又川に飛び込みました。
兵士が、二人の遺体を探しましたが、みつかりませんでした。

娘がさらわれたと聞いて、その年寄りは、湖に急ぎました。そこで、二人とも死んだことを知りました。
老人は、娘達のために買ってきたスリッパを土手において、祈りのために跪きました。湖の畔にすわると、素晴らしい香りに気づきました。

月明かりの中に、湖面から出てきた二つの不思議な花をみました。一つの花はピンク、もう一つは白でした。その花びらは、シルクのスリッパの形をしていました。
そして、雌しべは、娘たちのあたらしいスリッパを飾る糸と同じような金色でした。葉は、娘たちがいつもかぶっていた平らなシュロの葉に似ていました。二人の娘が姿を変えて美しい花になって、自分をなぐさめているのだと、老人は思いました。
老人は、あの世の贈り物として受けて貰いたいと願った。「小俣地よ、私の祈りの声が聞こえるなら、どうか私の前にあらわれてくれないか、二人がいなくなって淋しいよ」と、言いました。

甘い香りの波が老人を押し流して、二人の娘が現れました。姉が言いました。
「湖の女王が救ってくれたのです。女王は私たちを非常に可愛がってくれました。あなたが悲しんでいる姿をみて、女王はあなたの元に帰してくれました。私たちのことを忘れないように、女王は湖面一杯にこの花を敷き詰めたいといいまいた」

家路につく前に、老人と二人の姉妹は、湖の女王に感謝の気持ち表しました。
3人が祈っていると、湖面には、厚いピンクと白をした絨毯が敷かれました。以後、この湖は香湖として知られるようになりました。この花は蓮と命名され、純粋さの象徴となりました。Posted by Picasa

2008-02-08

蓮のお話

ベトナムはいま、旧正月のテットです。蓮のお話をしましょう。

他のアジア諸国と同じように、ベトナム人は蓮に高い尊敬の念を払います。この熱帯の国ベトナムで、蓮は竹と同じほど親しみのあるものです。

北部では、蓮の開花は夏を告げます。南部の平原地帯では、蓮は一年中咲いています。濃い緑の葉にピンクの点を織り交ぜたような蓮のカーペットがびっしり敷き詰められた池の中でボートを漕ぐのは至難の技です。

蓮の花は、それはそれは絶妙な美しさを見せますが、その美しさだけでなく、極めて有益な花です。ベトナムでは、種は鎮静剤としても使われ、塊茎や茎は生でサラダの材料となり、あるいはお粥に入れたりします。葉は物を包むのによく使われ、特に総菜やケーキを包むと、その芳香がみごとに移ります。

蓮の花が豊富で有名なのは、中部ゲアン省です。その省都ヴィンから西へ30キロほどいったところに、キム・リエン村があります。つまり、金の蓮という意味です。キム・リエンと言う言葉は、ベトナム人にとって特別な名前です。それは、1890年5月19日に、この名の村でホーチミンさんが生まれたからです。

キム・リエン村は、ホーチミンさんの生地としてだけではなくて、蓮村として有名です。村の小川や池には、一杯の蓮が咲きます。

ホーチミンさんは、自分自身のこと、自分のルーツ、家族のことを話したことはほとんどありません。しかし、キム・リエン博物館にいけば詳しいことがわかります。

藁葺きの屋根、竹で出来た壁・・・そこにホーチミンさんは生まれ、11歳まで住みました。ホーチミンさんの父親は、儒教や文学の中に登場した愛国心の強い学者といわれ、中国漢字で息子に読み書きを教えました。その後、ホーチミンさんは、キム・リエン村から数キロ離れた母親の出身の村であるホアン・チュ村に移り、祖父からしっかりと教育を受けたのです。

ホーチミンさんが生まれた家は東向きに作られ、さわやかな海風が入ってきたそうです。この海風は、一日2食にしても十分な米がとれない内陸の過酷さに安らぎを与えたに違いありません。厳しいゲアンの経済状態。暑い夏の夜、グエン・シン・クン(ホーチミンの幼名)が、ハンモックに揺られ、夜風に乗ってくる蓮の香りをかぎながら寝たことが想像できます。

蓮の価値は、実用的な面と象徴的な面があります。ベトナム人の目には、蓮は、魂の純粋さ、高貴な心、忠実さを示し、そして先祖との強い絆で結ばれています。親や祖父・祖母の命日には、必ずといっていいほど蓮の花束が仏壇に供えられます。

実用的な使用という点では、蓮は、見事なお茶を作り出します。蓮の雌しべから出る芳香は、お茶通を唸らすような風味を添えます。

蓮の花の香りを添える技術は、決して簡単ではありません。夜遅く、お茶の葉を細かくして、柔らかい紙に包んで蓮の花の中に置いておきます。次の朝早く、朝露や雨の雫で湿ったお茶の葉を回収します。そして最後、露や雨水でお茶の葉を茹でて、それを急須に入れます。

恐らく、ホーチミンさんも、そうやって準備されたお茶の入れ方を小さい時から見ていたに違いありませんし、そういう香りを十分楽しんだと思います。

やがて、ホーチミンさんは、フエに家族で引っ越しました。そこで、彼は、流れを見下ろす小さな家に住んだ。毎朝毎朝、フエの学校までの土手の道を歩きましたが、その道沿いには蓮池がたくさんあったといいます。

蓮の花びらの色には、ピンク、白が中心ですが、すみれ色もあるという。私はまだ見たことがありません。フエでは、ある池でしか咲かない蓮の種類もあると言われます。

今日、フエの故宮を取り巻く堀にはぎっしりと蓮の絨毯が敷き詰められ、トゥー・ドゥック帝が死ぬ前に建てた自分の墓の近くにもぎっしりと蓮絨毯が浮かんでいます。トゥー・ドゥック帝も、夏の日々、のどかな庭で香りを楽しみながら過ごしているのかもしれません。

1940年代と1950年代、抗仏戦争中、蓮に魅せられた詩人がいました。広大なリーズ高原の抵抗基地で蓮の花が咲き始めた時、その詩人は、ホーチミンを讃える詩を作りました。手書きの秘密の新聞に、その詩は掲載されました。しかし、いまその新聞は一部も残されていません。フランス当局にみつかったら、たいへんなことになっていたかもしれません。
そこに2行の詩がかかれていたといいます。

リーズ高原で最も美しい花 それは蓮
ベトナムで最も美しい名前 それはホーチミンPosted by Picasa

2008-02-01

写真展 開催のお知らせ

皆様に写真展開催のお知らせです
このたび、関係者のご協力を頂きながら、愛のベトナムさわやか支援隊は、沼津市で、2月19日から、ベトナム枯れ葉剤被害者の写真展を行うことになりました。
会場はサンウエル沼津。沼津市日の出町1-15 沼津健康福祉プラザ1F。
期間は2月19日(火)~3月3日(月)
期間中は、休み無く開館しております。展示開催時間は午前9時30分より午後9時半まで。
最終日のみ、開催は午後3時で終了です。
お誘い合わせのうえ、ご来場をお待ちしております。惨状をご覧になってください。
去年から今年にかけて、また、多くのベトナム人被害者が亡くなっていきました。枯れ葉剤による死は、なにもベトナムに限ったことではありません。アメリカでも、オーストラリアでも、またニュージーランドでも、そして韓国でも起きていることです。しかし、ベトナムにおいては、アメリカ軍が撒いた枯れ葉剤の被害者の数は、アメリカやその他の国の元兵士とは比べものになりません。人間として死は避けられませんが、尊厳をもって亡くなっていったかどうかが問題です。

ベトナム戦争後33年が経とうとしている今でも、戦争中の被害をひきずっており、ほんとうに恐ろしい戦争被害です。

私たちは、そのベトナムで被害者支援活動を行ってきました。それも、日本や他国の支援団体がほとんど入ってこない所で、です。

ある時、こういうことを言う日本人がいました。
「こういうことは、ベトナム政府のやることではないのですか?」と。

私たちのしていることは、ベトナム政府のやることでもあり、もっといえばアメリカ政府のやるべきことでもあります。そのどちらもがやらないなら、世界市民の私たちがやることです。

死を待つ人のみならず、病気で困っている人がいれば、ここから先は政府の役目と線引きする人がいるでしょうか?
路上に倒れた人をみて、笑っていく人がいるでしょうか?

1971年、ガンジス川中流の都市ベナレスにある「死を待つ人の家」で、「キリスト教徒は出ていけ」と、ヒンズー教徒が押し掛けてきてひと騒動が起きました。その時、マザー・テレサは、住民と市役所の職員に集まってもらい、こう訴えました。「人間を中心に考えてください。宗教のことは考えないで」

マザー・テレサはこうも言いました。
「最も不幸なことは、貧しいことそれ自体ではなく、誰からも必要とされていないと感じる孤独にあるのです」

これは、マザー・テレサが半世紀に渡って訴え続けてきたことです。

マザー・テレサは、路上で死にかけた病人を引き取っては、最後を看取りました。彼女の行為の特徴は、貧しい人を、死に行く人を「抱きしめること」でした。

一体、そこにどんな意味があるのか。甘やかすだけではないのか? という批判を投げる人もいました。
「金持ちは、いつもちやほやされています。私たちくらい貧しい人を甘やかせてもいいではありませんか」 これが彼女の答えでした。

私たちさわやか支援隊は、心からの対話を繰り返しながら、激励し寄り添い、できるだけ自立の道を探ります。

世界がベトナムの枯れ葉剤被害者を面倒をみないなら、せめて私たちが貧者の一灯でもともしてあげたい・・そんな気持ちでベトナム人を援助してきました。

生活援助、医療援助、学費援助、車椅子、補聴器、井戸掘り、音楽療法と幅広くおこなっている私たちの援助にご理解を頂きたいと存知ます。わずかな支援金でも結構です、古着の応援でも結構です。応援してください。
                           
そして、さらに理解を深めて頂くためにも、ボランティアーとして毎年8月の支援ツアー(日程は前号のブログに掲載)に参加なさいませんか?(朝日新聞参考)(北村 元記)Posted by Picasa