1967年の終わりまで、戦闘地域で2年間も駐屯したアメリカ陸軍砲兵隊軍曹であり、ある意味でアメリカ軍の輝かしい戦争英雄でもある。だが、マイゾー氏の心の中に、ベトナムに介入したアメリカの姿勢へのわずかな疑問が持ち上がり始めたのは、このころだった。
マイゾー氏の心の中の疑問が一気に大きく火を噴いたのが、1968年のテト攻勢で、彼の小隊が全滅したと分かった時だった。そして、実に、彼は、自分の小隊の唯一の生存者になったのだ。
軍病院で治療中に、「この戦争に生き残れたら・・人生の残りは戦争反対を叫び平和に捧げよう」と自分に誓った。
彼は、戦争とは欺瞞と非道徳性の結晶だと結論づけた。その瞬間から、ジョージの人生は、もはや戦争にではなく、平和と和解に注がれ始めた。
これが、これが彼の終生を支える座右の銘になった。
負傷回復後、彼は軍隊に戻ることを拒否し、軍事基地で抗議行動をした結果、軍刑務所で合計2年半の刑務所生活を送った。そして1970年に不名誉な除隊となった。それが理由で、彼には年金も補償の支払いも認められなかったのだ。
「戦争という恐怖を直接見たわれわれは、人の命がいかに儚いものであるかを知ったのです。そして、人の命がいかに貴重なものであるかを分かったのです。そして、戦争は、問題の答えではなくして、問題の一部に過ぎないと言うことをわかったのです」と。
1990年、パリのベトナム大使館で、ジョージ・マイゾー氏や各国から参加した“平和のための復員兵士”の一行は、ベトナムに平和パゴダを建設する目的でベトナムの大使館員と話し合に入った。
ベトナム側は彼らの気持ちに謝意を表したが、パゴダ建設の善意の費用は、戦争を生き抜いたベトナム人のための食料と医薬品に使ってもらえないかと提案した。
ジョージは、椅子に座り、だまって聞いていた。その時・・・・・・・。友好村の構想が、彼の頭に浮かんだのだ。
戦争の恐怖を目の前にした者は、特に勇気をもって戦争反対を声に出す。復員兵が戦争反対を態度で示し、声に出して言うことだけが大事でなのではなくて、われわれに何が出来るかの範を示すことが大事なのだと、彼は考えた。
そして、友好村は、その一つの歴史的な例である。いまここに、かつての敵が一緒になって働く6カ国からの復員兵と面倒を見る一般市民がいるのだ。
2002年3月18日、マイゾー氏は、ドイツのベニングハイムで不帰の人となった。56歳だった。それは戦争の結果による死だった。より正確に言うなら、エージェント・オレンジの影響だった。彼の夢がたくさん詰められた友好村は、彼が建てた時よりも、さらに大きくなっている。
ジョージ・ミゾーが寄せた手紙がある。
皆様
われわれは、過去を変えることはできません。われわれは、友人を、息子を、父を、兄弟を戻すことはできません。たとえどちら側で戦ったにせよ、ベトナム人を戻すこともできません・・・・子ども、あるいは戦争で罪のない他の犠牲者を呼び戻すこともできません・・・しかし、われわれは、現在と将来を変えることはできます。
ベトナム友好村事業は、すでにひと味違った物をすでに現出している。ほんのちょっと前は夢にしか過ぎなかったものが、いま現実となりつつあるのです。
友好村事業は、癒しと希望です。そして、国際協力です。この事業は、多くの人の心を惹いてきました。復員兵であれ、元兵士ではない人でも、若いひとであれ、若くない人であれ、多くの違った国の、多くの違った国籍と背景をもった人々の心を。差異を脇に置き、前向きな何かのために一緒に作業することは可能と考える人たちの心を。
平和と友好
ジョージ
彼は、こんな詩も残した。
貴重なる教訓
あなたと私の両親は教えてくれた 人殺しは間違いだと 但し 戦争は別だと。
あなたと私の教会は教えてくれた 人殺しは間違いだと 但し 戦争は別だと。
あなたと私の先生は教えてくれた 人殺しは間違いだと 但し 戦争は別だと。
あなたと私の政府は教えてくれた 人殺しは間違いだと 但し 戦争は別だと。
そして、あなたは私を戦争に送った。
そして、殺す以外に・・・私に選択肢がなくなった時に、
あなたは言った、お前は間違っていると。
そして、今、私は言いたい・・・・・私の両親に、
・・・・・・私の教会に
・・・・・・私の先生に
・・・・・・私の政府に
人を殺してはならないんだ・・・戦争は別にして・・。
いや、いついかなる時でも人を殺してはならないのだ。
そして、このことを、皆が学ばなくてはならないのだ。
ちょうど私も学ばなくてはならなかったように。
ジョージ・ミゾー
次にハノイの友好村を訪問する時に、このジョージ。ミゾー氏の詩をあらためて噛みしめながら、子ども達に、旧兵士に接してみたい。(北村 元記)
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