(この記事は、2005年8月5日付けの週刊ジェンタに掲載したものに加筆したものです)
左の写真は、連合軍としてベトナムに進駐したヌイ・ダットのオーストラリア軍105野戦砲中隊の基地である)
この8月10日は、ベトナム戦争を研究してきた私には特別の日である。今年の8月10日は、ベトナムで苦しむ枯れ葉剤被害の患者にとって、ベトナム政府が制定した初めての犠牲者の日となるからだ。ベトナム各地で、あの戦争でアメリカが撒き続けた強度のダイオキシンによる被害を国民がともに記憶の中にとどめる行事が開催されるであろう。
多少我田引水をご容赦願うなら、この日に、拙著「アメリカの化学戦争犯罪・ベトナム戦争枯れ葉剤被害者の証言」(梨の木舎)が出版される。微力ながら一緒に患者たちを援助してきた静岡県三島の友人とともに、たとえ九牛の一毛にすぎなくとも、被害者の証言を残せたことは、うれしいの一言に尽きる。
左の写真は、105ミリ砲を、支援基地に運ぶオーストラリア軍のヘリである。ご存じの通り、オーストラリアもベトナム戦争に参戦した。決して正しい選択ではなかった。
7600人が戦場に行って、700人が死亡した。だが、戦場に行って無事に帰ってきた元兵士のうち、二倍以上が自殺した。正確な数はわからない。
私は、ベトナム戦争に参加したオーストラリア兵士との語らいを続けてきた。
私が、ある復員兵士と話をしているときに、その人の友人が自動車事故でなくなったという訃報がはいってきたことは、前回に書いた。
ある兵士は、こうも言う。「今から振り返ってみれば、ベトナム戦争は無益な戦いでした。オーストラリアから出かけて行って、多くの兵士を死なせた揚げ句に、何の成果もなしにベトナムからひきあげたのです。何一つ達成しませんでした」
別の兵士に聞いた。時間が来れば心の傷は癒えますか?
「時間が傷を癒してくれるとは思いますが、ほんとうに癒すことはできないでしょう。なぜなら、戦争の記憶は心に深く焼き付いているからです。現実に、戦場で仲間に起きたことで、いつまでたっても事実としてそこにあるからです。それを解放することができないことが、問題の原因です。私たちは、戦友とだけは話し合うことができますが、一般市民は、私たちがどんなことを体験したかを決して理解することはないでしょう」
また、召集兵を部下にもったある兵士は、こう話した。
「今存在する問題の99%は、召集兵の若い人たちが戻ってきた時に、誰も彼らのことを認めなかったこと、誰も彼らと話したがらず、誰も彼らが兵士だったことに触れたがらなかったこと、彼らは女殺しと呼ばれ、子ども殺し罵られていました」
インタビューをしながら、多くの元兵士が、そしてその家族が傷ついていることが、手に取るようにわかった。
あの戦争とはいったい何だったのか。
上の写真は、オーストラリア軍105野戦連隊の大砲である。砲身は確実に敵に向けられているのだが、実は砲弾は発砲した兵士の心の中を確実に射抜いて腐敗させていくのだ。
イギリスの雑誌「エコロジスト」誌は、2006年5月号で、8月8日を国連が”化学兵器犠牲者の日”として制定するように提案している。この提案に私は大賛成したい。
今、広島の8月6日、長崎の8月9日、そして8月10日を迎えるにあたり、「永遠の傷は忘却の中で癒されてはならないのだ」(ナチスに虐殺されたユダヤ人の詩人カツェネルソン 飛鳥井雅友・細見和之訳)ということを、私は声を限りに叫び続けていきたい。
2006-06-03
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