(この記事は、シドニーの週刊ジェンタ紙の2005年6月17日号に掲載したものに加筆したものです)
アメリカはこの戦争をベトナム戦争と呼ぶが、北ベトナムは、この戦争でベトナムに入って来たアメリカ軍を祖国から追い出すことにつきるという点で、救国抗米戦争と名づけた。
この戦争は空間的にはベトナム全土で行われ、かつ2種類の戦いが同時に行われた。一つは、南部での地上戦であり、北部では空軍が参加して空域が戦場になった。北部の空軍戦争でも、アメリカは60種類以上の戦闘機を使って計り知れない量の爆弾を落とした。
この北部での空軍戦に、北朝鮮空軍が参加していたことは知られていない。ほとんど、アメリカに撃墜されている。
アメリカは、ベトナム戦争を起こした時までに作られた軍事産業の一番近代的な武器をすべて駆使した。軍用機だけでも60種類も使用した。核兵器の原水爆を使用しなかっただけである。海軍については、第7艦隊と地中海の第6艦隊の一部を投入した。歩兵については、一九六九年の4月までに64万人も派遣した。
爆弾は、原爆を除いてCBU-55型爆弾をも使用した(註:CBU-55B 1回の爆発で半径五〇〇メートル以内の酸素を消滅させる威力をもつ。終戦に近い1975年4月9日、ドンナイ省で使用された)。
戦闘機については、B-52のA,B,C,D,H,G型まで使用した。 アメリカは気象戦争も起こした。それは、チュオンソン山脈の中に道路を作っていた北ベトナム軍の進軍を阻止し、妨害するために、雲を作り、雨を降らせ、道路条件を悪化させ、進軍に支障を与えるようにした。もちろん普通の雨ではなくて、酸性雨を降らせ、武器弾薬を錆びつかせた。この気象戦争の遂行に、アメリカは2000万米ドルを費やしたといわれる。
アメリカの戦死者は5万8000人を超える。しかし、帰還者の自殺は10万以上にも達している。 ここオーストラリア兵の参戦は、7600名。そのうち戦死者は700人だ。参戦兵士の1割弱に達している。上の写真は、バーリア・ヴンタウ省の旧フックトゥイ郡のヌイ・ダットで、戦死したと思われる従軍兵士のそばに付きそうオーストラリア兵だ。生きて帰ってきた復員兵のうち、自殺者はその3倍を越えていると言われる。心の中の病を救ってくれる人がいなかったのだ。
左の写真は、歌手ローレー・デズモンドさんが、オーストラリア軍の本拠があるバーリア・ヴンタウ省の旧フックトゥイ郡のヌイダットの兵士を慰問した時の写真である。一時の癒しにはなるが、戦争で受けた心の傷を癒すまでになりえない。
ベトナム戦争は特異だった。戦っている途中から、世界の世論があの戦争を悪とした。帰還したオーストラリア兵は歓迎もされず、自宅に帰ってもこっそり裏口から入ったという人も多い。
私が、ある州のベトナム戦争退役兵事務所で話を聞いていた時に、私に話をしてくれていた退役兵士に電話がかかってきた。その退役兵の戦友が、最近交通事故で死んだことの報告だった。しばらく、話は中断した。ようやく感情を抑えて言ったことは・・・・「形は交通事故だけどね・・・・・、俺にはちゃんとみえてるんだ、あいつ、やった(自殺した)な、ってね。自殺扱いにはならないけど、そういうのが一杯あるよ」
戦争は、人の心を確実に病んでいく。
2006-06-01
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