2005-12-28
初体験朝市!ご協力を多謝
★★★★★★ ★★★★★★★ ★★★★★★ ★
2005年12月25日。
(写真1 )
午前9時開店のため全員朝6時起き。
25日の気温はこの冬一番の冷え込みで三島はマイナス 4.8度でした。身の引き締まる気温の中で、朝8時から準備を始めました。
わが愛のベトナム支援隊から、大釜芙美子さん、桜井恵美子さん 清水京子さん、小野寺洋子さん、大釜寿恵子さんの強力婦人部隊。大釜一男会長、宮尾事務局長、大釜義久隊員の重厚青・壮年部隊、それにベトナム人留学生の助っ人レ・タイン・トゥン君の9人が出動。
(写真3 )
テントの外のお客さんより、中のスタッフのほうが多い時間もあり一時心配しました。だが、時間とともにお客さんの出足は好調。開店の9時から12時までの3時間で、来場者数は約600人。
主催者 遠藤正次園長のご挨拶です。
「この朝市は入園者とその家族の方、地域住民との交流の場と位置付けています。餅つき、野菜、衣類や日用品等の販売を通じて来場の皆さんに喜んで頂ければ目的は達成です」
(写真4)
わが支援隊のメニューは、「味噌おでん」に「山菜おこわ」。 頭にはちまき 腕に縒りをかけました。現在、おでんといえば、こんにゃく・里芋・はんぺん・がんもどきなどを煮込みにした煮込みおでんをさすのが普通です。煮込みおでんはいつ頃からのものでしょうか。
いま、そんなことはどうでもいいことです。味噌おでん なのです。
来場者の声です。
*「家族が施設に入居しており入居者の家族の会「すみれ会」の関係で催し物が有る時は何時もきます。今日は朝市が楽しみできました」
*「今日は抽選会を楽しみに来ました」
「おでんの味は如何ですか」と宮尾事務局長が突っ込みインタビュー。
*「安くて大変美味しいです」
いや正直な方です。安くておいしいんですよ、ホントに。もっと来場者に知って頂きたかった・・のであります。
「あんた、ベトナム人なのに、私の日本語わかるの?たいしたもんやねぇ」
「わかりますよ、ばっちり日本語勉強してますから。時々大釜さんに叱られますが・・」
「誰? おおがまさんて?
「私の親です」
「親ならしかたないわ、しっかり勉強するんだよ。ちゃんとお釣りちょうだいね」
「は・・はい・・・・・・」
ご婦人の人情にはホロリときます。
お昼近くには建物の日陰になり寒くなりました。
売り上げ金の発表です。
売上金 44,100円、 寄付金 4,721円、 材料費等約20,000円を引いて、28,800円が純益です。
残念ながら、目標は下方修正。しかし、この寒い中、皆様の暖かいご協力には、感謝感激です。
反省はいくつかあります。
全員が初めての経験で、なかなか要領を得ず戸惑いが多かったことです。
しかし、こんなことでめげる私たちではありません。最後は大釜会長の大英断で見事『完売御礼』。
来年は、売上げ倍増をめざして、ガンバルゾォ ガンバルゾォ ガンバルゾォ
地域の皆さまの
ご協力 ありがとうございました。
☆☆☆ ★★★★★ ☆☆☆☆☆☆☆
さわやか隊員 募集中!!!
「愛のベトナムさわやか支援隊」は、ベトナムで2006年に活動する隊員を募集しています。 9月ごろ ベトナムの支援活動に行きます。
連絡先は?????
★411-0801 三島市 谷田夏梅木764-22
ベトナム枯れ葉剤被害者支援の会 大釜 一男
055-971-0881
★411-0802 三島市 東大場1-19-15
宮尾和宏
055-976-8822
2005年の活動内容は、ここを(支援隊の活動内容)クリックして下さい。
2005-12-23
河内点描 1 ◎学生喫茶◎
日本での学生時代の自分と重ね合わせるためにぶらぶらと歩いてみた。
レーニン公園の向かい、線路のすぐそばにある”San Ga"。
スーツケースや鞄を販売している店の2階にある”13 Dinh Tien Hoan”。ここは、バルコニーからホアン・キエム湖を見下ろせる。
そして、豚の屠殺場からVan Donの坂道から上がった堤防べりの”Huong Dau Mua"
ここのコーヒーは、20世紀初頭の作家であるThach Lam, Nguyen Tuan,Vu Bangたちの口にはあわないだろう。
しかし、サイゴンの安喫茶で飲んでいるコーヒーや、炒ったトウモロコシや干したビンロウを入れたり、ヌックマムやバター、バニラをたらした創作コーヒーよりは美味いと言える。それにずっとのんでいると、癖になりそうな気がする。
学生喫茶というのは、どこもごちゃごちゃしており、またほんとうに騒々しい。
”Huong Dau Mua”だけは、大衆的な野外喫茶という雰囲気を醸し出しており、家庭生活と外という両方の感じを受けさせる。
ここにいる学生は、コーヒーを飲みつつ、洗濯をしている人を眺めたり、経を読んでいる85,6歳の老人が、傍らでそれに聞き入っていたり・・といった具合だ。
それぞれが好き勝手なことをしつつ、同じ空間を分かち合うということは、学生喫茶でこそ出来るのだろう。
私は、それとなく煉瓦塀を通り過ぎて店の中に入ろうとした。
色あせたピンクの壁を見た。
そこには、学生の筆跡がぎっしりと詰まっているのだ。
愛情を込めた詩、誰かに宛てた言葉、住所、名前、英語の文句・・・I Love You はもちろん、それにいくつものいたずら書き。 矢で射抜かれたハートや学生時代の夢想的な形象が描かれている。
北村 元(元テレビ朝日ハノイ支局長)
2005-12-19
枯れ葉剤被害者在宅訪問物語(2)
ハタイ省ホアン・ヴァン・フエさん一家
日本は世界一の長寿国になり、高齢化も急速に進んできた。2050年には、3人に1人が65歳以上になる。医療技術が発達する一方、心身ともに健康に生きることが難しい時代に入った。高度に発達した日本社会が閉塞している。その一方で、人間の体は約60兆個の細胞で成り立ち蘇生する力はあると言われるが、発達した医療技術でも手に負えない遺伝子の損傷が、ベトナムの枯れ葉剤被害者にみられる。これほど悲しいことはない。蘇生の力を奪い取られた先天的に障害の子どもを、健康の弱ったベトナム人被害者の親が育てていくことは、気が遠くなるほどの大変さである。何年待てば直るという見通しもない。 貧しさの中で、耐えるしかない人たちを助けていきたい。「言わずんばあるべからず」・・・言わずにいられない人たちのことを、多くの人に語っていこうではないか。それが、共同社会に住むわれわれの役目であると思うのだ。
フエは夫婦と子供一男三女の六人家族である。私が一番早くから、親しく向き合っていた家族であった。この家族も、拙著『アメリカの化学戦争犯罪』(梨の木舎)に、載らなかった家族だ。
夫のホアン・ヴァン・フエは一九四八年生まれ。妻は、ウ?ン・ティ・タイン・タ?ムといい、今年51歳ころと思われる。長男はホアン・ディン・ラップといい、ハノイの施設平和村に寄宿している。いな、預けられていると言う方が正しい。現在25歳くらいである。後は女の子で、長女はホアン・ティ・ミン・フエ、(15才)、次女ホアン・ティ・ミン・ハ?(13才)三女ホアン・ティ・フオン・タ?オ(6才)である。現在ハタイ省在住である。
夫は一九六八年から一九七三年まで、サイゴン・ザディン、タイニン省とソンベ省で戦闘に歩兵として従軍。フエは、戦闘従事中に、化学兵器(枯れ葉剤)を浴びた他、砲弾の爆風で神経をやられた。
南ベトナム軍の捕虜となり、捕虜交換で釈放された。「わが家に帰れるという気持ちでうれしかったです。戦闘に参加したのは、どこでもそうでしたが、地元には従軍運動があって、誰かがやらなければなりませんでした。青年突撃隊などがありました。自分だけ抜けるのは恥ずかしいことです。ですから、青年たちはすべて軍隊に入りました。戦闘に参加したことで悔いなどはありません」と、当時を思い返す。
二人はサイゴンが陥落した一九七五年末に結婚した。一九七六年に第一子が生まれた。一九七五年の終戦以降に生まれた子がすべて障害をもっている。
退役後、夫自身の体調はすぐれない。精神的にも不安定で、ハタイ省傷病兵センタ?に入退院し、毎日治療を受けに通院していたこともある。政府の負担で無料であるが、現在もまだ精神病治療の薬を毎日服用している。妻は42歳で、農作業の出来ない夫を支え、田植えから稲刈りまで農業に従事し、その間に家事、育児も担当し一家の大黒柱的な存在となる。稲刈りのシ?ズンになると、妻が水田に行って自宅で子供をみる人がいなくなるので、夫が入院中で特別に傷病兵センターから里帰りしたこともあった。
ホアン・ディン・ラップ(長男17才)は、平和村に入所して寄宿生活を送っている。
「この子は3才まで元気でした。障害に気づいたのは4才の時です。4才になっても歩けないし、話せません。ほとんど胡座をかいて、体を二つ折りにして曲げたままにしています。寝る時にもその形のままです」とフエは言う。平和村で見たラップは、あぐらをかきながら、唸るような声を出しつつ、前屈みになって前後に揺れを繰り返していた。
妻のタムに聞いても、妊娠・分娩の経過には異状は無かったという。
「首が座ったのは生後三ヵ月目です。這い這いは五ヵ月になってからようやく出来始めました」
以後、歩行も発語も遅れが顕著となった。痙攣の既往症はなく、脳炎他中枢神経系に影響を及ぼす可能性のある疾患の既往症もない。長男ラップは、あぐらを組んで上体を二つ折りにやや前屈みになり、両手指を組み合わせて常時屈伸し、時に口に入れたりしている。頭は小頭症の傾向がみられる。顔貌、四肢、体幹他に奇形性はない。胡座の状態からの立ち上がりは手を添えても不可能で、大人が両脇に手を入れて引き揚げないと立ち上がれない。自力歩行は困難であるが、立ち上がった後は、手を添えれば、股関節を内側に曲げ、膝関節も屈曲させ、足関節は外反させた異常な歩行で前に進むのである。自分の意志で止まったりは出来ない。手を添えた者が止まらない限り、前進を続ける。日本から来た大学教員・幼稚園の先生による発達診断では“九ヵ月レベルで、重度の発達遅滞と考えられる”という。このような状態なので、彼は保育園も学校も一切行っていない。二〇〇二年四月現在、ハノイ平和村に入所中である。
ホアン・ティ・ミン・ハー(HoangThiMinhHa)12歳次女。
次女ハーは座ったまま、ゆっくりと向きを変えて回転している。この子も、首が据わったのは生後三ヵ月。おすわり七ヵ月目。以後は長男と同様発達の遅れが目立ち、未だに歩行は不可能である。「ウーウー」と声を出すが、発語は見られない。妊娠中、分娩の経過に異常はなく、脳炎など中枢神経系に影響を及ぼしうる疾患の既往症もない。痙攣もない。顔の特徴も長男に似ており、下顎が軽く突き出し、舌を突き出す傾向がある。頭は小頭症である。ちょっとした刺激でよく笑い、笑顔が多い。また、長男同様、手指を頻繁に口に入れている。なお睡眠薬を使わないと夜間眠られないとことで、この年でほぼ連日内服を続けている。 次女は三歳から六歳まで保育園に通ったが、その後就学はしていない。
上記日本の診断チームの発達診断では、5?6ヵ月レベルだという。常時手指を口に入れるなどの行動をくり返している。また、「周期的に反応性が乏しくなり、欠神発作を疑わせる」との指摘もあった。欠神発作は定型と非定型とがあるが、非定型の場合に全身の痙攣が伴うと、小児の場合精神発達の遅滞が出る恐れがあるという。次女の大脳の中で、何が起きているのか? ダイオキシンは何を起こさせたのか?
日本から来た医師団・教育関係者の全員の診断結果は以下の通りである。
【十七歳長男は、原因不明(おそらく胎内因が予測される)の重度発達遅滞が主体で、脳性マヒなどの運動障害ではないと思われる。十二歳次女は、行動特徴、身体所見などから、エンジェルマン症候群(別名ハッピ?パペット症候群)と思われる。】
エンジェルマン症候群ということになれば、染色体の部分欠損が関係している可能性も否定できない。
夫のフエさんがポツポツと語り始めた。
「自分は傷病兵センタ?で面倒をみてもらっているので多少とも救われますが、子供のことがいつも心配です。長女と三女はなんとか治療が出来るようになり、元気に育ってほしいです。長男と次女はもうよくならないでしょう。ここの農村は貧しく、生活苦でどうしようもありません。三〇〇万ドンくらいあれば、物を売って、利子も考えて、妻となんとかやっていけるのでは・・・と考えたりもします。しかし、戦闘に参加したことで自分の子供にこういう影響が出るとは思ってもいませんでした。受けた被害が子供に伝わるということがわかれば、私は結婚しなかったと思います。私は間違ったことをしてしまったのではないかとつくづく思っています。子供を生まなければよかったと。このことは、生涯、そして人生で一番苦しいことです。いつでもつきまとって思い出してしまいます・・・寝る時にも・・・心が痛みます。隣の人や友人がやってきて、『お気の毒さま』とか『大変ですね』と同情してくれますが、慰められるとかえって苦しくなります。子供と遊びたいけど、子供がわかってくれません。子供と話をしたいのですが、子供が理解してくれません。辛いです。昔は健康な子供をもった人を見ると、憎らしいと思うこともしばしばありました。子供の立派な成長を願うのは、父母として誰しも同じことでしょう。しかし、私は、そう育てたくてもそれが出来ません、この子たちでは。そして、これから面倒をみるのに手とカネがかかる・・・のもつらいことです」
丁度稲刈りのシーズンだった。ベトナムの稲作社会の習慣で、刈り取った稲は、道路でも空き地でもどこにでも干す。その刈り取った稲の水蒸気が村中に広がり、ものすごい湿度を提供している。村中の人々が、収穫に精を出している時だ。夫のフエは、もはや稲刈りという重労働をこなせるほど体は強くない。妻のタムと障害の軽い長女が村人の助けを借りて黙々と稲刈りをしていた。助けたり、助けられたりの田舎社会では、借りたら返さなくてはならない。夫のフエにはそれも出来ない。前後にひたすら揺れを繰り返す子どもの面倒をみるのが背一杯である。
「戦争の夢はほぼ毎日見るんです。高所で倒れた夢とか・・・戦場で戦って進んでいるけど、うまくいかなくなって走って撤退する夢。起き上がって、銃をとって叫んで・・はっと我にかえることとか、戦闘しあっている恐ろしい夢とか・・爆弾が落ちてきて人が死ぬ夢とか・・自分の子供が死んでしまう夢。泣けて泣けてしかたなく、大声で泣いてベッドから落ちたこともあります。目が覚めて、ああ、夢だったんだなと、気づくんです・・・・起きた時にボーっとしていて、夢から醒めた時も、家内が夢だったんでしょ、と言って区別して起こしてもらわなければならないこともあります。子供の状態を思い出し、自分の目の前に浮かんできて眠れなくなり、睡眠剤を使用して寝ることも多いです・・・今でも精神安定剤は離せません。家の中に一度も笑いはありません・・・家の中には苦しみしかありません・・・愉快なことは全くありません・・・・」
ある時日本のベテラン看護婦を案内して、このフエの家に行ったことがあった。彼女は、「顔色が茶色になったり、体が固くなったりするので、出来るだけ薬に依存しない生活を心がけてください」と、フエにアドバイスしていた。しかし、現実を考えると、精神安定剤を放すことは、本人には難しい。
「ハーは、18歳になりましたが、相変わらず重い症状です。視力はあります。耳も聞こえます。でも一日中すわったきりで、親のどちらかが面倒見ていないとだめです。手を伸ばしたりしていますが、良くなる兆しを感じさせる程の大きな変化ではありません。テレビにも関心を示しません。トイレの排泄、気持ちの悪い時、空腹の時、意思表示をするくらいです。夫婦二人でいる時には、出来るだけ体を動かすようにしたり、衛生面に気をつけています。村の医者が検診に来ることもありません。私は傷病兵ですから治療に行く時に、ハ?を一人にしておかなくてはなりません、辛いです。国からは、現在月50万ドンの手当と薬代を支給されています。ラップは24歳になりました」
傷病兵として、重度4級(給付金50万ドン=家族の扶養能力なし)に認定されている。
現金の援助は人をだめにする。では、何がいいのか?
私は、1996年に、少しでも経済的な自立ができるようにするには、どうしたらいいのかと思案し、患者の収容施設であるNGOの平和村に相談した。精米機はどうだ・・と言うのが平和村の結論だった。精米機の導入によって、妻の体が少しでも楽になること、村人に安い料金で貸して、現金収入を得られるようになること、が実現出来ると言う。
しかし、村社会に嫉妬はつきものだ。新しい機械が入って、フエの家が村八分になれば、それは私の意図するところではない。そうなれば、援助は意味をなさない。平和村のヒエン理事長から村長に掛け合って頂いた。理解してくれた村長から村人にも伝えてもらった。日本人の私が前面に出ることは控えた。そして外国製の機械もやめた。私の友人が工面してくれた資金と私の分を足して、まずは、メード・イン・ベトナムの一番安い精米機を買い、替え刃などの部品を付けて贈呈したのである。それでも、近所と多少の軋轢があったと聞いた。甲斐あって年々少しずつ、フエの家が経済的に向上していることは訪問するたびに感じていた。私たちが行った小さな実験だった。
妻「自分の所で収穫する米で食べてはいけますが、野菜や肉を食べるとなると、経済的にはやはり苦しいです。日本の方の援助で購入した精米機の貸し出しも、現在村には8台まで増えて、競争相手が多くなって大変です。当時より生活はましになりましたが、苦しさは変わりません。精米機の貸出料で1ヵ月40万?50万ドンの収入がありますが、農業が一番効率が悪いです。養豚・養鶏も両方やっていますが、これも大変です。自宅には、いま精米機、肥料を作る機械、子供用にポップコ?ンを作る機械を置いています。主人も石の文鎮を作る仕事を始めました」(このフレーズこ: 2002・08・26取材 )
二〇〇二年八月に訪問した時に、自宅にあった備品は、自分で買ったテレビ(二〇〇万ドン)。首都安寧新聞の寄贈による時計。国から配給を受けたテ?ブル、扇風機(天井)が、主なものだった。電気代は、月6万5千ドン(自宅分)他に、精米機など3台の機械に40万?50万ドンかかると言っていた。
その時、長女がハノイの人文社会科学大学に入学したことを聞いて、初めて長女が大きな障害を持っていたのではないことがわかったし、月10ドル分の学費とハノイで月10万ドンの下宿代を払っているということも聞いて、少しは経済的に貢献できたことの感触を得た。援助を初めて6年目だった。そして、三女は8年生になっていた。
辛労の汗を流して築いた信頼は、崩れない。汗を流して、助けて行こう。
自分たちが動き、結果を出していこう。それが、自分の勝利でもあり、相手の勝利につながる。人任せはやめよう。
(愛のベトナムさわやか支援隊顧問:北村 元 記)
2005-11-29
★御寿園朝市 出店 予告
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
12月25日:(09:00・・からだよぉ)
場所:三島市 御園 580番地
大乗会 御寿園老人ホーム
電話番号:055-977-6200
わが支援隊が出店することになりました。
お赤飯とおでんです。
腕によりをかけ心で作るので「おいしいっすよ」
売上げは、すべてベトナム枯れ葉剤被害者に!!!
ご友人をお誘いのうえ、いらして下さい。
皆さんのご協力をおねがいします。
ベトナム枯れ葉剤被害者の会
(愛のベトナムさわやか支援隊)
会長(隊長) 大釜 一男
2005-11-25
支援隊員之手記
二年ぶりのベトナムだった。
今回は、航空会社の都合で、その日だけあいにくハノイ直行便がなくなり、ホーチーミン経由となった。ホーチミン市のタンソンニャット空港は初めてである。空からホーチミン市を見下ろした。10月とはいえ、まだ暑そうだ。滑走路に降りた。周りは、軍用機などの格納庫が並ぶ軍民共用の飛行場のようだ。
乗り継ぎの間、空港からは出られない。ホーチミンから目的地ハノイまでは2時間ほどのフライトだから、この2時間ほどの待ち時間はもったいなく感じる。
ハノイのノイバイ空港で、すでに前日到着の先発隊4名、中村さん、山口さん、北村顧問夫妻の出迎えを受け、これで支援隊全員が揃った。静岡県の三島で行動を開始したのが、午前4時。その日の夕方の7時にやっとハノイへ。日本よりやはり暑かった。ただ、一昨年八月の訪越よりは、気温は低く快適であった。
まず驚いたのは、自動車のクラクションの騒音が無くなったことだった。しかし、相変わらずのオートバイの洪水だ。荷物をこれ以上積めないくらいに積んだバイク。二人乗り、三人乗りのバイク。信号のない交差点。よくもまあ事故も起こさず通過していくものだ。かなりの技術が必要だ。日本人は運転しない方が、自分のため、人のためだ。車窓の風景にそういう思いを抱きながら、ホテルに到着した。
私物よりも支援物資をしっかり詰めたスーツケースの重さを改めて実感した。全員が、25キロの制限一杯の荷物だ。翌日からの訪問先毎に荷物を整理して、早めに就寝した。
二日目は、友好村と平和村の訪問だった。最初は、友好村に。枯れ葉剤の被害を受けた旧軍人、身体障害の子どもや精神障害の子どもたちが、大歓迎してくれた。ふと2年前の顔ぶれを思い出した。元気な声が溢れていた。
早速、新谷文子さんの音楽療法が始まった。子どもたちはもちろん、大人もだんだんボルテージが上がっていった。われわれも汗だくになった。身体障害の子どもも精神障害の子ども、そして大人も、われを忘れてて、心を通い合わせるひとときを過ごすことが出来た。
名残惜しいが、別れの時間が刻々と迫ってきた。
最後に、一昨年の訪問時に「成長したら皆で食べよう」を合い言葉に記念植樹したマンゴの成長を確認し、再会を約して友好村を後にした。
次は、平和村へ。到着したらすぐ音楽療法の始まりだった。訪問する前に日本で参加者と作った手作りの楽器も役にたった。時間が経つほどに、やはりここでも熱気があがった。子どもたちが目を輝かせ精一杯楽しんでくれたので、われわれもほんとうにうれしかった。
三日目は、タインホア省孤児センターの訪問だった。着くなり大歓迎だ。ここでの一番人気は、われわれの会長の大釜さんだった。前回の訪問の時のことをしっかりと覚えていてくれたからだ。「オオガマ、オオガマ」の大歓迎である。子どもたちのリーダー格のカイン君が、大釜さんの手をとって離さない。
音楽療法が始まった。前回にも劣らない賑やかさだ。その時ふと庭をみると、たくさんの赤ちゃんの洗濯物が干してある。前回も赤ちゃんがいたということだったが、私の記憶にはない。聞いてみると、親に捨てられた子どもだという。上の写真をご覧頂きたい。大きな子どもが、捨て子の赤ちゃんの面倒をみているのだ。実に素直にそれが出来ることに、驚いてしまう。
ここでのメイン・イベントは、音楽療法とその後に控えたスペシャル・ディナーである。各テーブルに我が隊員が一人ずつ着席し、数人の子どもとテーブルを囲むのである。そのテーブルの一番年長の子が、全員のご飯をよそうのだ。しっかりと身に付いた面倒見に感心する。われわれの食器に、わざわざ子どもたちがおかずを取ってくれる。たくさん食べてほしいと一生懸命だ。たくさん食べてほしいと思うのはこちらの方だが、そういう人の心を思いやるやさしい心を持った彼らをみると、胸が詰まってくる。
こんな楽しいひと時を過ごすうちに、お別れの時間が迫ってきた。本当に名残惜しかった。
マイクロバスの所まで、全員が見送りに出てくれた。別れは辛い。目頭が熱くなった。秋の日暮れは速い。薄暗い電球の下で、来年の再会を約束して、握手し、抱き合い、そしてちぎれんばかりに手を振った。 われわれは、子どもたちを励ましに行ったのである。しかしながら、われわれも、彼らから励ましと元気をたくさん頂いたことを感謝したい。(一級建築士)
相澤 暢子 さま 寄付金(2005/9-1)
2005-11-24
枯れ葉剤被害者在宅訪問物語(1)
「お尻に腫瘍が出来ている」と本人は言った。しかし、実は銃弾が残っていたのだ。「ヴィエッチ市に戻ってから治療を受けたい」と、友好村の先生にだだをこねていた。「ハノイで手術を受けると面倒を見てくれる親戚も誰もいないので・・」
「とりあえず、103軍病院で診察しましょう」と言って、友好村の先生はなだめた。
リエンさんは、1951年1月26日に、タインホアで生まれた。リエンさんが559部隊に入隊したのは、1971年1月1日。アメリカ軍による枯れ葉剤撒布作戦が中止された年である。リエンさんが派遣された戦場は、国道9号線とラオスの南部で、派遣された多くの女性がそうであるように、彼女も工兵として道路工事に従事した。道路工事中の住まいは、山中の洞窟だった。一度トンネルが崩壊したために、手を骨折し、体にも負傷したので、炊事係になり、 1974年まで戦場で従軍した。
実はこの6行の話をするのが、相当に大儀そうだった。当時52歳だから、本来なら、元気はつらつとして話が出来るはずである。すでに耳も少し遠くなり、口の周囲の筋肉が硬直化しているために、話しにくそうに話す。だから、話が聞き取りにくい。友好村では、口腔ガンの疑いもあるという。
昼間の道路工事で、汗をかいたり体が汚れたりするので、アメリカ軍の爆弾で出来たクレーターに溜まっている水を探しに行って、体をきれいにした。実は、汗は流れるかもしれないが、体を汚染しているようなものなのである。ただ、爆弾のクレーターを探しに行って、爆撃された経験があるので、出来るだけ安全なジャングルの中の泉を探した。
リエンさんは、今、多くの健康の問題を抱えている。睡眠が少ない。体がだるい。友好村からは、内臓にも問題があると言われている。右の肘がまっすぐ伸ばせない。右手で重い物はもてない。そして、聴力も落ちて、人の話が聞こえにくい。「少し前までは、こんなに話しにくいことはありませんでした」と本人も言う。
この時から、丁度2年近く。今回、私たちの愛の支援隊は、フー・ト省のリエンさん宅をを訪問した。ヴィエッチ市の少し小高いところに、彼女の家はあった。
わずか2年の歳月が、人をこれほど衰弱させるのかと驚きを禁じ得なかった。夫のトーさんが、妻の手を支えて出てきた。 辛うじて人の手を借りずに歩けるが、そばにいれば手を貸してあげたくなるほどおぼつかない。上の写真(前列左から3人目)では、彼女の右側の旧友が腕を支えてくれている。 下の写真は2年前のリエンさんだ。
夫のトーさんは、サイゴンへ向かう時に、チュオンソン山脈を南下中に、リエンさんのいる地域に、1週間滞在して、71年にリエンさんと知り合った。「やさしそうで、おとなしそうで・・」 トーさんが一目惚れし住所を交換した。終戦になり、生きて帰ってきたので、1977年にハノイ西方のソンタイで結婚した。
リエンさんは、1971-1974年まで、クアンチ省のチュオンソン山脈で工兵として従軍し、道路造りに励んだ。当時の話をリエンさんに聞いたが、全く思い出せない状態だった。
リエンさんは、記憶力が富に衰え始めた。障害度としては75%という。友好村から帰ってからは、さらに声が出にくくなった。全身が痛む。食欲がない。食事の量は少量となっている。この女性も、枯れ葉剤被害の手当を受けていない。ヴィエッチ市で枯れ葉剤被害の手当を受けているのは、トーさん家族だけだ。
3人の子ども(長男、次男、長女)が全員健康であることが救いだ。年金暮らしのこの夫婦2人が、自立して会社を興している子どもから、経済的に支援をしてもらっていることだ。
今は、何も出来ない。シャワーを浴びるのも、夫が手伝う。戦争にいく前は56キロあった体重が、今では36キロ。写真でもわかるように、全身がやせ細っている。病院に行って診察を受けても、病名が確定できない。現在は体内に腫瘍ができているらしいが、部位は話してくれなかった。臀部に受けた銃弾は、除去手術を終えた。
2005-11-17
支援隊の活動内容
私たちがベトナムの枯れ葉剤被害者や盲人・孤児の支援活動を始めて10年になりました。まだまだ小さな団体です。たくさんの枯れ葉剤患者を支援してきましたが、まだその数はとても満足と言えるものではありません。われわれのような小規模団体では、とても支援しきれないほどの被害者がベトナムにはいます。
2005年の第10次支援隊は、10月9日に出発しました。ハノイ周辺は、収穫の秋でした。(*写真をクリックして下さい。大きくなります)
8日間かけて、首都のハノイ市、ハノイ医科大学、ニンビン省ニンビン市、タインホア省立孤児院、フート省ヴィエト・チ市、ハイフォン市を訪問して、被害者の在宅訪問、車いすの贈呈、施設での音楽療法、古着の贈呈、診断費用の負担、手術費用の負担を決めて、有形、無形の援助をして参りました。来年も、再来年も続けるつもりです。私たちと共に援助活動に加わりませんか。1回限りでも結構です。
ベトナムには、どのくらいの枯れ葉剤の被害者がいるのですか?
まだ貧困から抜け切れていないベトナムでは、枯れ葉剤患者の正式な全国統計がありません。国家予算の中に調査費用が計上できないからです。しかし、アメリカの新聞が報じた440万人は、かなり根拠のある数字だと思います。そして、多くの人が年間の生活費200米ドル以下で暮らしています。
どのくらいの枯れ葉剤が撒かれたのでしょうか?
アメリカの公式発表では、ベトナム戦争が終わる1975年4月までに、約8千万リットルの枯れ葉剤が、主としてアメリカ空軍によりインドシナ半島に撒布されました。そのうち、98%が旧南ベトナムに撒かれています。その中に、人工物で一番強烈な2,3,7,8-TCDDというダイオキシンが約400キログラムも含まれていました。今でも、旧アメリカ軍基地の周辺では、残留ダイオキシンの高い数値が出ています。こういう重度汚染地帯がベトナム南部には30カ所ほどあるといわれます。
アメリカはベトナムの被害者に賠償したのでしょうか?
アメリカ政府はベトナムなどの被害者に賠償を認めないばかりか、被害の存在すら否定する態度です。アメリカ国内の被害者(元兵士ら)に少額の補償をしたのは、枯れ葉剤を製造した化学会社です。国内の被害者には援助するが、海外にはしないという裏腹の姿勢を見せています。2005年3月の裁判では、アメリカ政府の希望通り、ベトナム被害者の訴えを棄却しました。
ベトナムの被害は第三世代にも出ているそうですが。
その通りです。第二世代は、すでにかなりの被害者がいます。そして第三世代に出始めています。最近、ベトナムの枯れ葉剤被害者協会は、初めて第3世代の被害者の数字を20万人と発表しました。私たちは、その何人かに会っています。罪のないこれらの被害者を、一人でも救っていくのが国際社会の義務と考えます。
どういう貢献ができるのでしょうか?
2005年の活動を例にご説明しましょう。
ハノイ市の友好村と平和村、タインホア省立孤児院の3カ所で音楽療法。
タインホア省とニンビン省、ハイフォン市で古着の配布。
ニンビン省ニンビン市、フート省ヴィエト・チ市、及びハノイ医科大学遺伝子学部に車椅子の贈呈。
タインホア省立孤児院で“ディナーの夕べ”。
ニンビン省とフート省で、ベトナム戦争中に主として道路工事に携わった旧女性義勇軍の方々との懇談・交流会を開催。
ニンビン省の枯れ葉剤被害者第2世代の兄妹に、ハノイ市内の病院での診察費用の負担。
ハイフォン市在住の枯れ葉剤第1世代の成人男性に皮膚腫瘍の手術の可否を含めて、医療援助を決めております。
このほか、これまでの私たちの援助としては:
▼枯れ葉剤被害者の月額手当に見合う薬代の提供(各所で) ▼ハノイの友好村への果樹の植樹(2003年) ▼枯れ葉剤被害者家庭に生活自立のための脱穀機提供(1995年ハタイ省の一家に) ▼枯れ葉剤第2世代に1件5万円程度の整形手術費の負担(多くの家庭に) ▼児童生徒に補聴器の贈呈(1996年フー・ト省) ▼中高生用の通学用自転車の贈呈(20002年 タインホア省孤児院へ) ▼日本の家庭で不要となった児童生徒用の楽器の贈呈(1995年以来各所で) ▼未使用、使用済みの衣類の贈呈も恒例でこの12年間続けています。
日本国内では、枯れ葉剤被害第2世代が描いた絵画の展示会(三島市、沼津市、仙台市)も行いました。
また、大乗会 御寿園老人ホーム(三島市)で開催されるバザーに、昨年から出店して、資金の捻出努力もしております。
援助の形として金銭の寄付が一番便利であることに変わりはありませんが、未使用、使用済みの衣類や楽器の援助も受け付けております。
これまでご支援下さった方々には、静岡県のみならず、南は徳島市、北は仙台市にまで広がっています。すべてが一般市民の寄付です。金額の多少に関係なく、被害に苦しむ家庭に激励を贈ることができます。また、ベトナムへの支援隊活動後に、写真を添えてご報告しています。
愛のベトナムさわやか支援隊は・・
私たちは小規模団体ですが、ベトナム外務省新聞局スタッフの後押しがあります。そして、わが支援隊は、ベトナム枯れ葉剤被害者協会、ベトナム赤十字と連絡を取り合っており、常に、被害者の問題点や苦痛が私たちへ伝わってきます。
ベトナム被害者の全国統計はありませんが、全国に点在する被害者を比較的よく把握しています。小規模団体だからこそ、小回りの活動ができます。
私たちの支援には、一片の無駄も、失敗もありません。安心して、ご協力頂けます。そして、もちろん参加して頂くことも大歓迎です。下記の参加者の声をぜひお読み下さい。
少し長くなりますが、2005年の支援隊の活動の一部をご紹介します。
1. 車いすを贈呈しました。ハノイ大学遺伝子学部へ。
遺伝子学の権威で、枯れ葉剤被害者の事情に詳しいチン・ヴァン・バオ教授は、長い間、ご自分のポケットマニーで患者さんたちに車いすを提供されてきた方です。今回、私たちは、ほんの少しですが、援助させていただきました。
2.車いすを贈呈しました。ニンビン省旧559部隊幹事会へ。
戦争中、ニンビン省からは500人の女性がボランティアとして出征しました。
チャン・ティ・ビンさん(右の写真、右から2人目)は、ニンビン省の旧559部隊代表幹事です。ビンさんは、戦争中、自分の小指を切って血判状を書き、戦場へ志願しました。戦争が好きだったからではありません。祖国へのアメリカの侵略が許せなかったから、立ち上がったのです。
戦争中、主として従軍看護婦として働きました。薬のない山奥で、ビンさんらは、麻酔薬の代わりに歌を歌ったそうです。歴史が動くとき、そこには歌がありました。 ビンさんたちは、歌で勝利してきました。はつらつとした声を響かせ、負傷した戦士に聞かせる。歌は、力と勇気の源泉であり、喜びの源泉です。
戦争が終わって生還したニンビン省出身の女性兵士は450名。その後、今までに50名以上が亡くなりました。ビンさんは、激励のため仲間の戦友を一人ずつ訪問したほどの行動派です。559部隊で被害者を抱える家族の方にと、車いすをお贈りしました。
贈呈先:?Nguyen Van Dungさん、お住まい:ハイフォン市、全身麻痺20年の方です。
ビンさんが、わざわざハノイでDungさんのご家族に会って車椅子をお渡ししました。
?Nguyen Van Ngaさん、お住まい:Ninh Binh省 NhoQuan県、両足麻痺のため両手を使って移動を余儀なくされている方です。
3. 車いすを贈呈しました。フート省旧559部隊幹事会へ
マイ・ティ・トーさんは、フー・ト省の旧559部隊代表幹事です。トーさんも、志願して戦場に向かいました。戦場に向かう前の訓練中に、トーさんの母親は列車に乗って一人で迎えにきました。トーさんは、決然と母親に拒否をします。母親は泣いて、一人でまた列車に乗って帰っていったそうです。
戦後、トーさんは結婚して、4人の子どもが生まれました。ダイオキシンにむしばまれた長女を4歳の時に白血病でなくしました。2004年4月には、息子をガンで。しかし、いま、フート省の旧女性兵士のまとめ役として活躍しています。ここでも車いすを贈呈させて頂きました。
4.音楽療法をしました。ハノイ友好村 ハノイ平和村 孤児院
2005年のツアーでは、ハノイ市の友好村から音楽療法を始めました。総数70名の子どもと40名の旧軍人・・そのほとんどが枯れ葉剤の影響を受けています。ここにいる壮年は、元兵士であり、子どもたちはその第2世代です。身体障害の子も、精神障害の子どもたちもいます。友好村の広い食堂が音楽療法の会場です。この担当は、わが隊員で、張り切り屋の音楽療法士の新谷文子さんです。
2005年3月に、静岡新聞社・静岡放送の社会福祉事業「愛の都市訪問」で新谷さんに贈られた楽器を使った初の海外公演。
前半は、椅子に座ったまま手を動かす運動です。後半は、椅子を片づけて音楽広場にしました。動かしにくい体で懸命に新谷さんに合わせようとする障害児。初めてハンドドラムをもった障害の子、マレットを鳴らす精神障害の男の子と女の子たち。タンバリンを振る元兵士。スズを鳴らす組、カスタネットを初めて手に付けてもらう子。トライアングルを離さない男の子。
1曲終わる毎に、子どもたちの顔が輝いていきます。1曲始まる毎に、体が自然に動きます。そして、元兵士の顔が、子どもたちと同じになっていきます。音楽とは、すごい力です。
動けば動くほど元気が出ます。力が出てきます。音楽には、年齢の垣根も国境も壊す大きな力があるのを実感しました。そのうち、太鼓を手放さなかった少年が、人の輪の中を、少女が乗った車いす押して歩いているのです。
1時間以上かけた音楽療法。へとへとになって座り込む子も、やめようという子もいません。友好村の養護教諭が飛んできてくださった。「子どもたちのこんなに楽しい顔を見たことはありません、ありがとうございました」と。「いやー、楽しいね、毎年きてもらいたいね」と、汗でぐっしょりになった笑顔の元兵士。戦場ではついぞ見せなかった顔に違いありません。
ハノイの平和村でも、タインホア省立孤児院でも、音楽療法をしました。新しい楽器のおかげで、この3カ所に大きな感動の輪を残してきました。いずれも、養護教諭や職員が音楽の効用に高い関心を示されていました。
毎年「来年も、ここにきて、より多くの人を励ましたい・・」と誓うわれわれ支援隊ですが、実はわれわれの方が励まされているのです。子どもたちの笑顔に、ひたむきに体を動かそうとする障害の子どもに。そして固い体をとにかくほぐす努力をする旧軍人たちに・・・。今後とも、音楽を通して、ダイオキシンの影響で今も苦しめられている人たちの苦しみをわが苦悩と受け止めていこう、と、わが隊員たちは更なる決意をしています。来年も、そして、再来年も、一人でも多くの隊員の参加を得て、この万波の感動を広げていきます。
5.ニンビン省とハイフォン市で医療支援を決定しました。
☆ ニンビン省イエン・カイン郡のルオン・ティ・ビンさんの家
ビンさんは、戦後ご主人を病死でなくして、女手一人で4人の子どもを育てていましたが、10年近く前に長男はお腹が膨れて病死しました。
今、ハイ君と妹のニャンちゃんは、亡くなった長男と同じ症状です。一見10歳ほどにみえるハイ君は、実は18歳。学校にいったことがありません。きちんとした歩行が出来ないからだそうです。子ども3人とも、皮膚が黄疸症状のように黄色みがかっています。干ばつのエチオピアで、腹部の膨らんだ飢餓の子供たちを思い出しました。
ビンさんの家は、60平米の土地しかないうえ、今年は、9月に襲った台風のために収穫はほとんどありません。母親のビンさんも健康ではなく、子どもたちが病気のため、経済的に家計を圧迫しています。
そのため、入院も治療もさせられません。常に生活費の借金があります。そこで、私たちは、まず病名特定のための検査入院が必要と考え、そのための支援を決定しました。
最低限の栄養や生活必需品さえも得られない「絶対的貧困層」は、世界銀行の報告では、15億人もいます。この貧困撲滅こそが、地球社会の歪みの解消に役立ちます。
☆ ハイフォン市トゥイ・グエン郡 ヴー・ヴァン・グエンさんのケース
グエンさんの体中に何百というイボができています。体内には痛みがあります。イボが気持ち悪くて、せいぜい2-3時間しか寝られず、腰骨の湾曲化が始まり、3-4ヶ月前から、上向きで寝られなくなりました。
グエンさんは、57歳。もう仕事は一切出来ません。毎日の散歩は欠かさないようにしていますが、最近は、杖を使わないと歩けなくなりました。歩いている時に、痛みを感じて倒れることもある、といいます。今の夢は、歩けるようになること、だそうです。
グエンさんは、過去1回イボの除去手術をしましたが、医者への謝礼金(ベトナムはそういう制度です)が足りなくて、イボ一つ除去しただけで、その後の手術はしていません。
今後ともより深い睡眠がとれるようにと、私たちはイボの除去手術の支援を決定しました。具体的には、病院での詳しい診断が必要です。
6. 孤児院でスペシャル・ディナーを
タインホア省立孤児院では、私たちの訪問も5年を数えます。音楽療法で汗を流した後、孤児40数名に恒例の夕食をご馳走しました。たいした料理ではありません。
メインは、揚げ春巻き、卵焼き、牛肉の野菜炒め、エビ炒めです。今回の料理で圧倒的に人気があったのは、エビの油炒め。普段あまり食べることはないのでしょうか。普段は、ごはんと、実の少ないスープが定番メニューです。
ここの子どもたちは、いつもマナーの良さに感心します。れわれが食事に手を付けるまで、子どもたちが手を出しません。子どもたちは、普段滅多に食べられないエビや肉を、いそいそとおいしそうに食べていました。
食後、カイン君という年長の少年が、われわれに、お茶を配り、爪楊枝を一本ずつ運び、ミカンを切って、食べやすいように皮を少し剥いてくれ、われわれは大感激をしました。このカイン君は、皆のリーダー的存在で、絵画が大すきな少年です。
夜7時頃、お別れ・・・、盛大な見送りをしてくれました。また、来るぞ、また会おうね、われわれの皆がそう思いました。
19世紀イギリスの名宰相ディズレーリは、「逆境ほど人を育てるものはない」と叫びました。元気に育って、平和な家庭を築いてもらいたい・・・
国連によれば、いま世界で毎日およそ24,000人の人々が飢餓あるいは飢餓に関連した死因で死亡しています。実に 3.6 秒に1人の割合で子供達が飢餓で死んでいるのです。さらに世界中で約8億人の人々が飢餓と栄養失調で苦しんでいます。子どもたちにはきれいな水と十分な食糧が必要です。
7.2006年の活動に ご支援をお待ちしています。
愛のベトナムさわやか支援隊の活動も来年で11年目に入ります。来年も引き続き、他人の苦しみを我が苦しみとして受け止めることを大使命として、利他共の境涯をひきあげつつ愛のベトナムさわやか支援を続けていきます。9月を目標に、恒例の支援隊ツアーを組みます。皆さんのご参加を待っています。
三千円という価値の重さが堪えた旅だった。ヴー・ヴァン・グエンさんの体のイボ一つ取るのに必要な額だ。皆で手術費用の話をしていた時の不安そうなグエンさんの目が忘れられない。現地でベトナム語の小辞書を二冊買った。自分の土産はこれだけ。でも十分満たされた旅だった。 またベトナムに元気をもらいに行こう。周りの人達に優しさを分けてあげ られる自分になる為に。 中村 りえ子
ツアー参加者の声(2) ”生まれて初めてのベトナムの旅”
私の旅の初めから最後まで、そして三島へ帰ってからもずっと考えた!考えれば考えるほど私の心は だるま になり、だんだん闇の中でぐるぐる回る。ベトナムの旅の間中、私は何を見ても、何を聞いても、何を食べても、幼い頃の戦争のことが頭の中の半分を占めて いた。消そうとしても消えなかった。ベトナムのどの人を見ても可愛そうとか気の毒とかと思うよりも、私の心が沈み、唯一私の心を癒してくれたのが、あの子供たちの笑顔と大地をしっかり踏みしめていた足の指だった。
そして私はベトナムの大人の一人一人に聞いてみたい思いがした。「今貴方が何を望みとして生きていますか?」と。特に婦人に。
一番美しいものは人間の心、一番醜いのも人間の心、一番恐ろしいのも人間の心、そして一番不確かな人の心・・・・・・・・。もしかして明日戦争を起こすのは私の心かも・・・・・・。自分の心の軌道修正が出来るのは唯一つしか無いと。 心を見つめる旅でした。そして自分の出来る事から始めようと。 ありがとうございました。 大釜寿恵子
9.組織・連絡先
会長:大釜 一男
副会長:大釜 芙美子(渉外:国内) 櫻井 恵美子(会計)
事務局長:宮尾 和宏
顧問:北村 元(渉外:海外 元テレビ朝日[バンコク支局長、ハノイ支局長、シドニー支局長])
顧問:新谷 文子(音楽療法士)
10.寄付金・援助物資送付先:もう使わない衣類、少しでも浄財をお送り下さい。
★411-0801 三島市 谷田夏梅木764-22
ベトナム枯れ葉剤被害者支援の会 大釜 一男 055-971-0881
★411-0802 三島市 東大場1-19-15 宮尾和宏 055-976-8822