2006-06-30

枯れ葉剤 悲劇の連鎖(上)

( この記事は2003年5月2日付けの河北新報に載った記事に加筆したものです)

第3世代 
孫の姿に言葉を失う

渇きに勝てず・・・


ベトナムの枯れ葉剤被害は、間違いなく第三世代に入った。

この時期にしては凌ぎやすい2月のある日、のどかな田植え風景を見ながら、ハノイ郊外のドン・アイン県を目指して車を走らせた。

第三世代の疑いが濃いトー・タイン・ナム君に会うためだった。ナム君は6歳(当時)。両足がないまま生まれた先天性のアザラシ支症だ。父親は1974年生まれ、母親も77年生まれだから、アメリカとのベトナム戦争には直接関係ない。両家に奇形の系譜はないという。

祖父のトー・ティエン・ホアさん(写真左)は、68年に結婚してすぐ歩兵324師団に配属され、激戦地となった中部のトゥア・ティエン・フエ省(現)に送られた。枯れ葉剤が多量に撒かれた頃、同省のチュオンソン山脈の山岳地帯を従軍した。

「飛行機が山の西側のジャングルに撒いていました。これは化学兵器だとわかりました。でも・・植物だけに影響を与えると思っていました。撒かれてから3?4日して葉が落ちました。そこへ、ナパーム弾が落とされ、山は火の海となりました。数日燃え続けたところもあります」

 軍事作戦中ですら水も充分確保出来ていないので、ホアさんは泉や水たまりの水を飲んだ。飲まざるを得なかった。ホアさんだけがそうしたのではない、兵士が皆そうした。

右足と脳に影響

主力部隊に配属されていたホアさんは、中国製、ロシア製の防毒マスクが支給されたので、いくらか防御できるはずだったが、重くて作戦中は使用できなかったのと、すぐ壊れてしまったので、効果はほとんどなかった。

あとは、撒かれると、布で鼻と口を覆い、あるいは水があれば布を濡らして口に当て、戦況にもよるが風と逆方向に逃げるのが精一杯だった。中には、自分の尿でタオルを濡らして口を塞いだ兵士もいた、という。

それでも焼け石に水。ホアさんはたっぷり枯れ葉剤を浴び、飲み水や食事を経由してダイオキシンを摂取したとみるのは当然である。

その影響が、74年生まれの長男ホアップさんに出たと考えられる。つまり第二世代だ。右足の指が4本という奇形性だけではなく、精神障害も出ている。

小学校は辛うじて卒業したが、上級学校には進学出来なかった。

Posted by Picasa そして、ホアップさんに、第1子(第三世代)のナム君(左)が誕生した。

恵まれている

祖父のホアさんは語る。
「この子が生まれるというので、病院に行きました。夜8時ごろでした。先に病院に行っていた妻が、男の子が生まれたというので喜んだのも束の間、涙を流していました。孫の姿を見たら、渡しも何も言えませんでした。自分の両足をもぎ取られた気がしました。枯れ葉剤調査委員会の人が来て、写真を撮っていきました」

影響は、第二世代のホアップさんから第三世代のナム君に引き継がれてしまった。

ナム君は幼稚園でも先生がびっくりするほど頭がいいのに、両足は欠損、右手の指(2枚目の写真のナム君の右手指をご覧下さい)4本と左手は合指症で、中指薬指が結合している。

「2人の精神障害児を持っている近所の戦友よりも、うちは恵まれていますよ」と口では言うが、ホアさんは寂しそうな表情を見せる。(つづく)

2006-06-28

キッシンジャーという人間

 アメリカによる全面的な北爆が再会されたのは、1972年の春だった。 72年5月8日、ハノイーハイフォン地域に対する機雷封鎖と爆撃を発表したニクソン大統領は、5月25日、ベトナム民主共和国(北ベトナム)に対する機雷封鎖と新たな爆撃目標に対する空爆強化を命令した。 機雷封鎖は、ソ連と中国からの物資の流入を阻止するのが狙いだった。これに対して、北ベトナムはハノイ住民を疎開させ、攻撃目標となっている堤防の強化に乗り出した。



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2006-06-19

Agent Orange,Dioxin and, and Agony 1

Before I retired from TV-Asahi in 2001, I worked in Asia as a Bureau Chief in Bangkok and as a Bureau Chief in Hanoi for many years. Here is a cross-section of the Vietnam War .

Vietnam War was a peculiar war. We don’t know exactly when it started, let’s say around 1959 or 1960. Yet we all know when it ended; the 30th of April 1975.

Fifty-eight thousand American soldiers were killed in the war and one hundred thousand veterans have committed suicide. Over three million Vietnamese, including both the North and the South, were killed. Seven-thousand six-hundred Australian soldiers fought in Vietnam. Seven hundred of them were killed. However, over one and half thousand of those who returned alive have committed suicide. This is twice as many as those killed in action. They died because nobody knew how to save them from their sufferings.


It is now thirty-one years since the end of the war.

The Vietnam War involved chemical warfare beyond anyone’s imagination. Massive amounts of defoliants were sprayed in order to defoliate trees and remove cover for the enemy. The most infamous of all is Agent Orange. There are also Agent-Blue, Agent-White, Agent-Purple, Agent-Green and so on.  We call them “Rainbow herbicides”

98% of spraying of the defoliants was done by aircraft. Did you notice that trees were already half defoliated? (top photo=unknown place)

During World War Two, the U.S. planned to spray defoliants on two separate occasions in Japan. Both times, the plan was abandoned. Instead, as we all know, they dropped two atomic bombs. The U.S. continued with their research on the use of defoliants for military purposes and they used them in Vietnam.

When were the defoliants first sprayed in Vietnam? The Kennedy Administration first OK’ed its use on the 10th of August 1961. It was sprayed in Central Vietnam. For two years now, people in Vietnam have commemorated August the 10th as the “Day for Agent Orange Victims”. Since then the US Government, the Military, and South Vietnamese Government Troops continued to spray them until the end of the war in 1975. Therefore, South Vietnam became the site of the world’s longest chemical warfare from 1961 to 1975. 

This map(above) represents the former South Vietna(the former North Vietnam not included ) and is representation of where the defoliants were sprayed.  

How much defoliant did the US Military spray in Vietnam?
Posted by Picasa The answer is about eighty million liters over fourteen years. What we must not forget is that eighty million liters of that defoliants contained about four hundred kilograms of dioxin, known as the Toxin of the Century. In other word, this dioxin is the most poisonous of all chemicals ever produced on earth. So we can say the South Vietnam is the huge reservoir of dioxin.

I (Mr. Kitamura)took this picture (above) in 2002 at the Aluoi area in Thua Tien Hue Province where these mountains were used to covered with thick jungles. (continued)
Text by Hajime Kitamura(based in Sydney, the former Bangkok, Hanoi and Sydney Bureau Chief of TV-Asahi)

2006-06-14

サパの愛情市場 1

1年の中で、白い雲と霧に覆われることの多いPhan Xi Pang(ベトナム最高峰の山)山。その麓の小さな町・・それがサパだ。山々の青く茂った森にかずさるようにして、濡れたような雲の帯がたたずむ。

すっきりと晴れたに日には、Hoang Lien Son山脈と高く聳えるPhan Xi Pang山の頂を仰ぎ見ることが出来る。この写真は、朝霧に煙るサパの風景だ。
サパについては、4回くらいにわけて書いてみたいと思う。

 サパは、7つの少数民族が共存するところだ。その中で、山の山腹に住む少数民族が2つある。それがフモン族とザオ族だ。彼らには、情緒豊かな生活様式と長く続いた風俗習慣がある。それは、何か? それは、“愛の市場”だ。愛情市場というタイトルをつけると、昨今の日本では、淫猥な印象を受ける人もいるかも知れない。そう思うなら、それは全く勘違いである。そんなものとは質を異にする、遙かに精神的、遙かに古典的、遙かに詩的なのである。


左の写真は、サパの市場を歩く黒フモン族の女性である。

“愛情市場”は、若い男女が出会い、約束を交わす場所、そしてすでに夫となり妻となった者に、少しばかりの自由を与える場所である。以前、この2愛情市場”は、通常の市場と同時に開かれていた。
収穫の季節が過ぎると大変に賑わうのが普通である。米、とうもろこし、スモモ、桃、リンゴ、しいたけなどの産物が市場に並ぶ。他に錦織の布製品も目立つ。


現在、サパの市は、土曜日と日曜日に開かれるようになった。週末には、それぞれの民族が遊びにやってきて、違った民族の者同士が馴染みになる。

時には、遠く離れた村同士の男女が、1日かけてこの市に出向き、夜になって初めて出会い、仲良くなることもある。夫婦が二人で市場に行き、何らかの理由で結婚できなかったかつての恋人と、その日の夜に出会うこともよくあるらしい。かつての恋人同士は自分の気持ちをうち明け、また理解し会うのである。

この市場では、嫉妬によるいがみあいは起こらない。皆が夫婦の愛情や誠実さを大切にし、また自分たちの民族の風俗・習慣を尊重しているからである。

市場に行く日に、女性たちは美しく着飾る。フモン族の女性がはくゆったりとしたスカートには、ひだがたくさんついており、それが足取りに合わせてしなやかに揺れる。スカートの裾から真ん中あたりまで、紺地に赤や白を主体とした紋様がちりばめられており、大変あでやかである。少女たちの中には、黄色や緑色をあしらう子もいる。このフモン族の衣装は他の民族に比べて、4?倍の布地を使う。男性たちの衣服はもっと単純で、同色の黒の上下である。ケンベー(筏のように組んだ竹製の笛)を手に、元気そうな馬に乗ってやってくる。

赤ザオ族の少女たちの目を引く衣装は、頭の上で器用に折り重ねられた、鮮やかな赤色の広いカン(帯状の長い布)である。そして、腰にも、同色の布を巻く。もっとこだわる人なら、胸のところに赤い房飾りを付け、肩に錦織のポーチをさげる。

 赤ザオ族の女性は、フモン族の女性のようにスカートははかない。藍色や黒に染めたズボンをはき、足の部分には赤や白の模様がついている。ふくらはぎの部分にたくさんの色を織り込んだ布を巻き付けた人もいる。

 また、赤ザオ族の男性の衣服はもっと豊富である。色とりどりの衣装を紺や黒の服に変えてしまった人もいるが、そんな時はすれちがっても自分たちの民族とは気づかないほどだ。

 市場に出かけてゆく日は、喜びに満ちた日である。若い男女が小さな群れになってやってくる。皆民族の歌を歌うのだが、それは自分の気持ちを伝えるため、自分の機知を知らせるためなのだ。

 市が開かれるの夜で、街は静けさの中に沈み込んでいる。女も男も、たいてい夜通しひそひそとおしゃべりをしている。時には心が通じ合えば、誓いの印としてカンやポーチと交換する。そして、その次の日まで一緒に過ごし、次の市の時にまら合う約束をする。
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 ある土曜日の夜。サパの愛情市場に出かけてみた。すでに夜中で、冷たい雨が降っていた。心を探り合い、恋に落ちる男女にとって、この気候は実にすばらしいといえる。

 私たちは、17歳くらいのザオ族のグループで、女が2人、男2人であった。皆は売り場の平台に座って、楽しそうにおしゃべりしていた。女の子に歌ってよと、リクエストすると、男の子たちは大喜びした。可愛い顔をした女の子が歌い始めた。初めは小さく、次第に大きくなり、美しく澄んだ愛情を込めた歌声と聞こえた。

すると、突然、一人の男の子が、謳っている女の子にラジカセを近づけた。自分の友達の歌声を吹き込んでいるのだ。翌日の朝早く、偶然にも、その彼がうっとりとしてラジカセを抱えて、一人で歩いているのに出会った。彼は恋をしているようだった。

ハノイに戻る時、冷たい雨の中、甘い少女の歌声とケンの響きの余韻が、心に残っていた。

2006-06-03

ある豪州兵士との語らい

(この記事は、2005年8月5日付けの週刊ジェンタに掲載したものに加筆したものです)

 左の写真は、連合軍としてベトナムに進駐したヌイ・ダットのオーストラリア軍105野戦砲中隊の基地である)

 この8月10日は、ベトナム戦争を研究してきた私には特別の日である。今年の8月10日は、ベトナムで苦しむ枯れ葉剤被害の患者にとって、ベトナム政府が制定した初めての犠牲者の日となるからだ。ベトナム各地で、あの戦争でアメリカが撒き続けた強度のダイオキシンによる被害を国民がともに記憶の中にとどめる行事が開催されるであろう。

 多少我田引水をご容赦願うなら、この日に、拙著「アメリカの化学戦争犯罪・ベトナム戦争枯れ葉剤被害者の証言」(梨の木舎)が出版される。微力ながら一緒に患者たちを援助してきた静岡県三島の友人とともに、たとえ九牛の一毛にすぎなくとも、被害者の証言を残せたことは、うれしいの一言に尽きる。

 左の写真は、105ミリ砲を、支援基地に運ぶオーストラリア軍のヘリである。ご存じの通り、オーストラリアもベトナム戦争に参戦した。決して正しい選択ではなかった。

7600人が戦場に行って、700人が死亡した。だが、戦場に行って無事に帰ってきた元兵士のうち、二倍以上が自殺した。正確な数はわからない。

私は、ベトナム戦争に参加したオーストラリア兵士との語らいを続けてきた。

私が、ある復員兵士と話をしているときに、その人の友人が自動車事故でなくなったという訃報がはいってきたことは、前回に書いた。

ある兵士は、こうも言う。「今から振り返ってみれば、ベトナム戦争は無益な戦いでした。オーストラリアから出かけて行って、多くの兵士を死なせた揚げ句に、何の成果もなしにベトナムからひきあげたのです。何一つ達成しませんでした」

 別の兵士に聞いた。時間が来れば心の傷は癒えますか?

 「時間が傷を癒してくれるとは思いますが、ほんとうに癒すことはできないでしょう。なぜなら、戦争の記憶は心に深く焼き付いているからです。現実に、戦場で仲間に起きたことで、いつまでたっても事実としてそこにあるからです。それを解放することができないことが、問題の原因です。私たちは、戦友とだけは話し合うことができますが、一般市民は、私たちがどんなことを体験したかを決して理解することはないでしょう」

Posted by Picasaまた、召集兵を部下にもったある兵士は、こう話した。

 「今存在する問題の99%は、召集兵の若い人たちが戻ってきた時に、誰も彼らのことを認めなかったこと、誰も彼らと話したがらず、誰も彼らが兵士だったことに触れたがらなかったこと、彼らは女殺しと呼ばれ、子ども殺し罵られていました」

 インタビューをしながら、多くの元兵士が、そしてその家族が傷ついていることが、手に取るようにわかった。

 あの戦争とはいったい何だったのか。

 上の写真は、オーストラリア軍105野戦連隊の大砲である。砲身は確実に敵に向けられているのだが、実は砲弾は発砲した兵士の心の中を確実に射抜いて腐敗させていくのだ。

 イギリスの雑誌「エコロジスト」誌は、2006年5月号で、8月8日を国連が”化学兵器犠牲者の日”として制定するように提案している。この提案に私は大賛成したい。

 今、広島の8月6日、長崎の8月9日、そして8月10日を迎えるにあたり、「永遠の傷は忘却の中で癒されてはならないのだ」(ナチスに虐殺されたユダヤ人の詩人カツェネルソン 飛鳥井雅友・細見和之訳)ということを、私は声を限りに叫び続けていきたい。

2006-06-01

ベトナム戦争ー負の遺産 2

(この記事は、シドニーの週刊ジェンタ紙の2005年6月17日号に掲載したものに加筆したものです) 

  アメリカはこの戦争をベトナム戦争と呼ぶが、北ベトナムは、この戦争でベトナムに入って来たアメリカ軍を祖国から追い出すことにつきるという点で、救国抗米戦争と名づけた。

 この戦争は空間的にはベトナム全土で行われ、かつ2種類の戦いが同時に行われた。一つは、南部での地上戦であり、北部では空軍が参加して空域が戦場になった。北部の空軍戦争でも、アメリカは60種類以上の戦闘機を使って計り知れない量の爆弾を落とした。

この北部での空軍戦に、北朝鮮空軍が参加していたことは知られていない。ほとんど、アメリカに撃墜されている。

 アメリカは、ベトナム戦争を起こした時までに作られた軍事産業の一番近代的な武器をすべて駆使した。軍用機だけでも60種類も使用した。核兵器の原水爆を使用しなかっただけである。海軍については、第7艦隊と地中海の第6艦隊の一部を投入した。歩兵については、一九六九年の4月までに64万人も派遣した。

 爆弾は、原爆を除いてCBU-55型爆弾をも使用した(註:CBU-55B 1回の爆発で半径五〇〇メートル以内の酸素を消滅させる威力をもつ。終戦に近い1975年4月9日、ドンナイ省で使用された)。

 戦闘機については、B-52のA,B,C,D,H,G型まで使用した。 アメリカは気象戦争も起こした。それは、チュオンソン山脈の中に道路を作っていた北ベトナム軍の進軍を阻止し、妨害するために、雲を作り、雨を降らせ、道路条件を悪化させ、進軍に支障を与えるようにした。もちろん普通の雨ではなくて、酸性雨を降らせ、武器弾薬を錆びつかせた。この気象戦争の遂行に、アメリカは2000万米ドルを費やしたといわれる。

 アメリカの戦死者は5万8000人を超える。しかし、帰還者の自殺は10万以上にも達している。 ここオーストラリア兵の参戦は、7600名。そのうち戦死者は700人だ。参戦兵士の1割弱に達している。上の写真は、バーリア・ヴンタウ省の旧フックトゥイ郡のヌイ・ダットで、戦死したと思われる従軍兵士のそばに付きそうオーストラリア兵だ。生きて帰ってきた復員兵のうち、自殺者はその3倍を越えていると言われる。心の中の病を救ってくれる人がいなかったのだ。
Posted by Picasa左の写真は、歌手ローレー・デズモンドさんが、オーストラリア軍の本拠があるバーリア・ヴンタウ省の旧フックトゥイ郡のヌイダットの兵士を慰問した時の写真である。一時の癒しにはなるが、戦争で受けた心の傷を癒すまでになりえない。

 ベトナム戦争は特異だった。戦っている途中から、世界の世論があの戦争を悪とした。帰還したオーストラリア兵は歓迎もされず、自宅に帰ってもこっそり裏口から入ったという人も多い。

 私が、ある州のベトナム戦争退役兵事務所で話を聞いていた時に、私に話をしてくれていた退役兵士に電話がかかってきた。その退役兵の戦友が、最近交通事故で死んだことの報告だった。しばらく、話は中断した。ようやく感情を抑えて言ったことは・・・・「形は交通事故だけどね・・・・・、俺にはちゃんとみえてるんだ、あいつ、やった(自殺した)な、ってね。自殺扱いにはならないけど、そういうのが一杯あるよ」

 戦争は、人の心を確実に病んでいく。