2008-04-13

ダン・ヴー・ヒエップ会長 逝去

ベトナムの枯れ葉剤被害者協会の設立当初から、ベトナムの被害者の全国的組織作りに奔走されてきたダン・ヴー・ヒエップ会長が、4月11日午前10時に、ハノイ市内の108軍中央病院で、82歳のご生涯を閉じられた。

ここに、愛のさわやかベトナム支援隊から、枯れ葉剤被害者救済へのご尽力を讃え、故人のご冥福を心よりお祈り申し上げたい。 同時に、ベトナム枯れ葉剤被害者協会のニャン副会長とトゥ事務局長に、最大のお悔やみを申し上げたい。

ヒエップ会長は、長いベトナム戦争の中で、中部方面軍司令官(そういう肩書きは当時の北ベトナムにはなかったが、そのような立場で)として、ベト君ドク君がうまれたコントゥム省のサタイで指揮を執ってこられた。
特に、アメリカ軍と北ベトナム正規軍の初めての衝突となるイア・ドラングの戦いで作戦の指揮をしたが、この戦いは、自軍に犠牲をだしながらも、抗米戦争勝利に一つの足がかりを作った歴史的な戦いである。

山奥に10年こもって、陣頭指揮を執り、「アメリカ軍を押し返し、南ベトナム政府軍を敗走させて、ニャ・チャンの海をみた時は、男泣きしました。海にたどり着けば勝つ・・と皆に言い続けてきましたので」と、語っていました。

私は、2008年3月26日 108軍中央病院の病床に、お見舞いにヒエップ会長を家内らと伺った。

会長は、目はほとんど閉じたままだった。肝臓から胃に、癌が転移したと聞いたが、痛みはなかったようだ。穏やかなお顔だった。
そして、いつものように、会長は小生との会話を続けた。

ヒ「日本のどちらの会社から来たのですか?」

北「昔、東京のテレビ局に勤めていました」

越外務省のタインさんが、「昔、ハノイの支局長をしていました」と補足した。
ここで、北村ということをわかって下さった。
ヒ「本をどの言語で出しましたか?」

北「日本語と英語で出しました」

ヒ「こちらに来てどのくらい経ちましたか」

北「2週間ほどたちました」

ヒ「東京で会いましょう。必ず会えますよ。これからもたくさん会う機会がありますよ。半年くらいこのように寝ていますけどね」

北「ご回復をお
待ちしています」

ヒ「アメリカやヨーロッパでも支援が進んでいるので、今度はアフリカにも理解を呼び掛けていきます。絶対勝ちます。正義は私たちのものです」

北「その通りです。絶対勝ちましょう」

ヒ「また本を出しますか?」

北「はい、出す予定にしています。お元気になって、もう一度指揮をとってくださいね。これで失礼します」

テットの時はお元気だったと、周りの方からも伺っていた。ベッドの上で、枯れ葉剤被害者の心配ばかりしていたという。

今でも忘れられないヒエップさんのお言葉がある。

「これからは、武器をとる戦いではありません。(アメリカの)法律との戦いです。正義の闘いになります。アメリカの法律の勉強から始めています。応援してください。私も枯れ葉剤の被害者ですが、軽い方です。たくさんの重い人を助けなくてはなりません」

6年有余、おつきあいさせて頂いた。ご生前のご厚誼に深く感謝申し上げたい。
静かな語らいの中に、正義のためには一歩も譲らぬ石のごとき挫けぬ闘志を感じた。
4月11日午後3時にシドニーで訃報に接し、いまもぽっかりと、私の心の中に大きな空洞を感じる。それはまた、多くの枯れ葉剤被害者も同様であるはずだ。ベトナムの300万被害者は、頼りがいのある指導者であり偉大な闘士を失ったからだ。

ヒエップ会長のご冥福を祈り、枯れ葉剤被害者が正義の闘争に勝利するまで、『愛のさわやかベトナム支援隊』は微力ながら支援を続けていくことを誓いたい。
(北村 元記)Posted by Picasa

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