2006-12-30

ああ、忘れじのハノイの屠殺

1996年当時の話だから、今から10年ほど遡る。

家畜の屠殺が不衛生な状態で行われていて、ハノイ市民はいくら苦情を言おうが問題の解決は為されなかった。

家畜の屠殺は、実に早朝に行われるのだ。私は、ハノイに赴任した最初の数ヶ月は驚いたものだ。毎朝切り裂くような悲鳴を聞いて、こんなに人が殺されたり障害事件が起きているのか、と真剣に思ったくらいだ。ハノイは、危険な所だと錯覚したのだ。早朝のあの悲壮感いっぱいの豚の鳴き声は、命乞いをしているように、私には聞こえる。

間違いなく、あの声は心の平安を破る。少なくとも、その日をスタートする朝に聞く声ではない。この断末魔の声が途絶えるのが、わずかテットの数日だけなのだ。

豚は、夜10時から11時ごろまでにタインホア、ハイフン、ナムハーの各省から屠殺場に送られてくるのだが、時として夜中の1時とか2時までかかることもある。その時間になると、人々は深い眠りに入っているが、どうしても豚の鳴き声で目が覚めるのである。

チュオン・ディン人民委員会のファム・スアン・トゥオン(Pham Xuan Thuong)委員長は、「私の家は2、3箇所の屠殺場に近いので、毎朝早朝から眠られなくなる。その他に、豚の毛、汚水などで、近所が汚染している」と話す。

ハノイ獣医局によると、ハノイ地区には営業許可証をもつ屠殺場は120箇所にのぼるという。このうち90箇所はハノイ市内にあり、ハイバーチュン区にはそのうちの50%が集中していた。私のすんでいたのも、ハイバーチュン区。その鳴き声の大きさを想像して頂きたい。

どうやら、多くの屠殺場で、税を逃れるための違法活動がおこなわれているのが実態らしい。やがて、なぜか屠殺場は、全体で50に減った。これらの屠殺場は、給水や廃物処理の点で一応ハノイ獣医局の規定を満たしているという。信じるに足る話ではない。

ある時、私は、大きな屠殺場があるチュオン・ディン通り、カウ・チェ通り、ヴォン交差点、バックマイ通りなどを夜中に回ってみた。夜10時過ぎ、豚を載せたトラックが国道1号線から市内に入ってくる。各トラックには20頭ほどの豚が乗っている。

そして、早朝3時頃から、ホアン・マイ通り、ダイ・ラ、カウ・キーという橋の近くで屠殺活動が一斉に始まる。ある屠殺場では、一晩というか早朝に、約30頭の豚が処理される。

シクロが、ハノイの各所に豚肉を運んでいっては、また戻ってくる。ファン・フー・ティエン通りやヴォン交差点の近くにある屠殺場などは、歩道や車道に廃物を捨てる。キム・グー(KimNguu)通りにある屠殺場は、キム・グー川に捨てる。大体が、近くの池や下水道に直接捨てるので、環境汚染は酷くなる一方だ。さばいた後、屠殺場が水で洗浄されるのだが、本当にきれいになるものなのか。

獣医局の規定は一体どう生かされているのか?
そして空気汚染はないのか?そういうことはないと誰が言えるのか?

各通りとハノイ市役所は、どうしてこの問題を解決できないのか?

ハノイの屠殺は盛んで、首都の胃袋の85%を満足させていると聞く。

だが、まか不思議なのは、屠殺税の90%は、毎年徴収漏れになったままだという。ほんとうなら、なぜそんなことがお目こぼしになっているのか?ハノイ人民委員会は法令を作って、夜11時から早朝4時まで、家畜を運んで屠殺する行為を禁止したが、全く実効がない。

ハノイ獣医局のホアン・ティ・タン(HoanThiThang)副局長は、「100%の屠殺場が獣医法に違反している。ハノイの官庁は、この問題にあまり関心がない・・。当局もただ罰するだけだ・・」と、腰を抜かすような途方もないお返事。
各屠殺場の環境汚染の実態、並びに騒音はひどいものだったが、管理が強化されたり、処分が発動されなかったのは、なぜなのだろうか?

住んでいてもよくわからなかった。果たして今は、どうなっているのだろうか?と、しきりに思うのだ。願わくば、防音装置付きの清潔な建物で・・やってもらいたいと、当時ひたすらに思ったものだ。(おわり)

今年のブログは、これで終了させて頂きます。
この1年間の支援隊へのご協力、まことにありがとうございました。
また、来年、ブログを再開したいと思います。(北村 元)

2006-12-27

沼津市立高等学校中等部の生徒さんから(2)

校外学習を終えて  藤井 央美

先日は、訪問させて頂き、ありがとうございました。
お話を聞き一番印象に残ったのは「ダイオキシン」の話でした。「ダイオキシン」という言葉は耳にしたことがありましたが、それを口にしたり体に触れることで体があんなになってしまうのかとすごく驚きました。


また、遺伝子にも続いていくので、子孫を増やすことをやめない限り永遠に続いていくと知ったときは、とても悲しい気持ちになりました。

写真をみせてもらったとき、その病気の子たちは笑顔で生き生きしていました。「生きている喜び」を感じているのだと思います。

アメリカがダイオキシンをまき、自分達は苦しい思いをしているのに、アメリカを憎まないことにとても感心しました。ベトナムの人たちの心はとても優しく広いものだと思いました。

ベトナム戦争、貧しい人たちのお話を聞き、戦争は二度と起こしてはならないものだと思います。戦争をして喜ぶ人はいない、苦しい思いをして嫌な思い出が残るだけだからです。

終戦を迎え六十年になりますが、戦争が終わったといえ、世界はまだ平和だと言い切れません。ダイオキシンの後遺症で苦しむ人たちがたくさんいて、戦争をやっている国もあるからです。世界が早く平和になってほしいと心から願います。ありがとうございました。

P.S. 三島に住んでいるので、ぜひ、また、うかがわせて下さい。

校外学習を終えて  松尾 京美

先日は、お世話になりました。
ベトナムに関する情報や、写真を見せてもらい、少し普段の生活を改めるようになりました。大釜さんのおかげです。
今はとりあえず勉強して、大学に行こうと思っています。ベトナムの人達がダイオキシンの被害に犯(冒)されているのは、私達の身代わりになったようなものですし、その上私達だから出来る事に挑戦しないのは、失礼かなということを感じました。
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これから先、ベトナムの人々にも、服など寄付しようと考えています。その時は、大釜さんの自宅に送るので、よろしくお願いします。

私達のように、仕事もできて、おしゃれもできて、美味しいものたべられれて、ほんとに幸せです。

ベトナムの事を知ってよかったと思います。
もしも知らなかったら、勉強しないわがままなボーヤになっていたままでした。

自分が変われたことはすごい事だから、きっと忘れないと思います。

今回の福祉体験に協力してくださって、本当にありがとうございました。
(おわり)

沼津市立高等学校中等部の生徒さんから(1)

12月10日 沼津市立高等学校中等部(校長:渡邊勉さん)の4人の生徒さんが、同校の福祉校外学習に一環で、三島市のわが支援隊を訪問してくれました。ご訪問ありがとうございました。私たちからは、ベトナムの枯れ葉剤被害者の実情や戦争と平和についてお話ししました。
2年部の担当の望月先生を通じて、生徒さんの感想文が寄せられました。学校のご許可を頂いて4回にわたって掲載させていただきます。(すべて原文のまま)


校外学習を終えて  石橋 美咲

先日は、たくさんのお話をしていただきありがとうございました。私は、『戦争』というものを体験したことがないので、どんなつらいことがあったのか、知りませんでした。ですが、大釜さんやふみこさん(註:奥さん)、櫻井さんのお話をお聞きして、戦争がどれだけ人を悲しみや苦しみを与えているのかを知ることができました。


戦争の種は誰でも持っている。戦争は“わがまま”から始まるんだと話してくださり、人を苦しめるような戦争は、本当に無い方がいいと思いました。戦争を知らない人には、ベトナム戦争を知らない人には、枯れ葉剤の恐ろしさはわからないと思いました。


写真を見せていただき、例え、言葉が通じなくても、笑顔で相手を見ていれば、心は通じるということがわかりました。大釜さんと一緒にうつっていた男の子の笑顔がとても良かったです。

櫻井さんのお話の中で、本当の貧しさを見に行ったことがきっかけで始めた支援隊の話をお聞きして、今の日本では見ることが出来ない、世界の中ではこんな生活をしている人々がいることも、人生の中で必要なのでは?と思うことが出来ました。

櫻井さんのお話に感動しました。ベトナムの女性の様に強くなりたいと思いました。

大釜さんがおっしゃってくださいました『肌の色が違くても、例え自分とは違うと思って一人の人として見ること』が、今の子ども達にとって必要だと。すばらしいお話を本当にありがとうございました。

お茶とケーキとみかん、ごちそう様でした。櫻井さん、帰りに液まで送って下さりありがとうございました。

校外学習を終えて  小川 明華

先日は、おいそがしい中私たちのために時間をさいていただき、ありがとうございました。私は今回で2回目の訪問となります。
2度目ということでだいたいは感じもつかめていました。やはり、ベトナムで起こっている現状は、とても悲しいものでした。
私たちの子どもでは大きなことはできないけど、少しでも協力できることはないかと考え、いらなくなった古着を友だちがもってきてくれて、それを渡すことにしました。着る物も十分に与えてもらうことのできない人に使ってもらえたら嬉しいです。


Posted by Picasa いろいろな資料もわけていただき、ありがとうございました。「アメリカの化学戦争犯罪」(註:北村元著=梨の木舎刊)を見て、どれだけ強力な毒がダイオキシンに入っていたか、それを撒布した結果、第1世代から第3世代にわたり、多くの被害者を生み出しているかなど、私たちが目にする内容ばかりでした。

同じ地球上で生活しているのに、こんなにも違いがあるなんておどろきも感じました。

私たちが思っている以上に苦しんでいる人たちがたくさんいます。そんないとたちのために、少しでも力に名れればと思いました。

人はそれぞれみんな違います。それを、同じ人間としてみればいいと教えていただきました。この現状を知らない人に知ってもらいたいと思いました。(つづく)

2006-12-17

今年も真心のご支援 ありがとうございます。

今年の9月22日タイビン省に行きました。そこで、考えもしなかったステージが出来上がっていました。「静岡」の文字が読みとれますね。省として宣伝も必要かもしれないが、このおカネはどこから・・と自然に考えが湧いてきました。贈呈式を考えていたのでしょうが、われわれは、時間ももったいない、そんな派手なことは必要ない・・と、贈呈式を車椅子の使い方・心構えの講習会にさせてもらいました。

でも、ここにこぎ着けるまでには、皆様の金銭・物品にわたるご支援あってのこと。被害者の方々の本当に美しい笑顔を、皆さんを代表して受けて参りました。
今年、後半に寄付金、古着をお寄せ下さった方々に、私どもの感謝をこめて、お名前を掲載させていただきます。
衣類(受領日順)
 8月 2日 鈴木 行江さま(函南町)
11月 8日 岩崎 守幸さま(沼津市)
11月11日 若槻 孝子さま(東京都) 
11月15日 臼井 素子さま(調布市)

12月19日 池田 秀子さま(東京都)

音楽療法の材料
9月2日 鷹箸 多恵子さま(三島市)

寄付金
9月 2日 鷹箸 多恵子さま(三島市)
9月10日 冨部まち子さま(藤枝市)
9月10日 森 静名さま(沼津市)
9月18日 沢谷 和子さま(三島市)
9月18日 映心宗流・内田壱貴さま
9月18日 映心宗流・教授会さま
9月13日 山本 邦子さま(東京都)
9月30日 遠藤 信利さま(沼津市)
10月1日 井原 春子さま(函南町)(
平成17年にもご寄付を下さり、ブログ上で落ちておりました。不手際をお詫び申し上げます)
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10月16日 足利 和子さま(東京都)
10月18日 桑田弘一郎さま(東京都)
10月18日 岩崎 守幸さま(沼津市)
10月18日 石渡 清司さま(三島市)
10月18日 阿部 静子さま(長泉町)
10月18日 石井 竹男さま(三島市)
10月18日 宮尾 和宏さま(三島市)
11月15日 山本 尊久さま(富士市)
11月21日 沼津一中同窓会さま
11月24日 北村 登喜子さま(豪州)
11月25日 川津 康代さま(流山市)
12月15日 阿部 敬子さま(小金井市)

12月18日 大森 由紀さま(船橋市)
12月25日 宮地 瑞枝さま(豪州)


どうぞ よいお年をお迎え下さいませ。来年のご健康をお祈りを申し上げます。

愛のさわやかベトナム支援隊 一同

2006-12-16

補聴器・車椅子のお礼状 その3

お礼状(7)

私は、グエン・ヴァン・ルオンと申します。
1971年生まれです。タイビン省フンハー郡ヴァンカム在住です。
父が枯れ葉剤の被害を受けたために、私は耳が聞こえなくなりました。
このたび、静岡の皆様がタイビン省に来てくださり、私は補聴器を頂きました。そして、いま、周りの人たちの声やテレビの音などが良く聞こえるようになりました。
道を歩いている時、車の音やバイクの音などが聞こえるようになったおかげで、叱られなくなりました。
なんと申し上げてよいかわかりません。
日本、特に静岡の皆様にありがとうと心より御礼を申し上げます。

グエン・ヴァン・ルオン


お礼状(8)

私はグエン・ティ・トゥイと申します。1965年に生まれました。
タイビン省ティエンハイ郡ナン・チュンの在住です。
父の枯れ葉剤被害により、私の耳も聞こえないために、話もできませんでした。
38年もの間、何の音も聞こえませんでした。
このたび、静岡の皆さんがタイビンに来てくださり、私に補聴器を下さいました。耳が良く聞こえるようになりました。
皆様にありがとうと申し上げます。
この補聴器のおかげで、父と母にいろいろなお手伝いが出来るようになりました。ありがとうございます。

グエン・ティ・トゥイ

お礼状(9)

私はドー・ティ・ビンと申します。
1983年生まれです。タイビン省ティエンハイ郡ナンハイに住んでいます。
父の枯れ葉剤被害により、私は耳が聞こえなくなり、話もできませんでした。
24年間、何の音も聞こえませんでした。
このほど静岡の皆さんがタイビン省に来てくださり、私に補聴器を下さいました。父、母の声や、周りの人の声、友達の声が聞こえるようになりました。
皆さん、ありがとうと申し上げます。
補聴器のおかげでいろいろなことが、自分で出来るようになりました。父、母を助けることが出来るようになりました。本当にありがとうございました。

ドー・ティ・ビン


お礼状(10)

私はグエン・マイン・トアンと申します。1981年に生まれました。
現在タイビン省クアンチュン郡24組に住んでいます。
父の名はグエン・フィ・タンです。
ベトナム戦争に参加して枯れ葉剤を浴びました。そのせいで、私も26年間耳が聞こえませんでした。
静岡の皆さんが来てくださり、補聴器を頂きました。
そのおかげで、周りの人の声が聞こえるようになりました。そして、今まで知らなかった音が聞こえるようになりました。このお手紙で、静岡の皆様に有難うございましたと申し上げます。

グエン・マイン・トアン

お礼状(11)

私は、チャン・ティ・フエと申します。1982年生まれです。住所は、タイビン省タイトゥイ郡タイザンです。
私は両足が20年間不自由で歩けませんでした。父、母が私の面倒を見なければならないので、家庭教師を呼び、字を教えてもらいました。
静岡の皆さんがタイビンに来てくださり、枯れ葉剤被害者の家を訪問して、私に車椅子を下さいました。
いま、車椅子で動けるようになったので、家族が連れて行ってくれ、おんぶしなくても済むようになり、私はとてもうれしくなりました。
皆さん、ありがとうございます。

チャンテ・ティ・フエ

お礼状(12)

日本の静岡の皆さんへ
私は枯れ葉剤の被害者の一人です。
戦争が終わり、家に戻ってから枯れ葉剤のせいでいろいろの病気が出てきました。家族も巻き込まれました。私は一人の子どもを産みました。
その子どもは、脳性小児麻痺により、体が不自由になりました。
枯れ葉剤の苦しみは、一番の苦しみだと思います。
他の方もそう思っているでしょうか? 
皆さん方は、日本からベトナムに来て、枯れ葉剤によるベトナムの被害者に対して支援してくださり、経済だけではなくて心まで支援して下さっています。
ベトナムの諺に「自分を大切にするのと同じように、他人を大切にする事が大事」とあります。
皆さんは、私達を激励し、人と人との愛、そして思いやりをプレゼントして下さり、私の苦しみも少し無くなりました。
私たち枯れ葉剤被害者は、心の底から皆さんに対しありがたく思っています。
皆様の支援活動が日々うまくいきますように、お祈りしています。
皆様の支援活動を通じて、枯れ葉剤によって起きたベトナムの被害に対して、アメリカ政府が責任を持たなければいけないと思いました。
どうか、いつまでもお元気で、お幸せをお祈りしています。

枯れ葉剤被害者 ライ・ホン・フエン

お礼状(13)

日本の皆さんへ
私は、ライ・ティ・ニャーと申します。
私は、ずっと以前より体が不自由で、歩くことが出来ませんでした。
この間、日本の静岡の皆さんが来て下さり、ステンレスの車椅子を頂きました。タイヤは空気がいらなく、そして車椅子のソファーがとてもいい感じです。
私はとても、うれしくなりました。
ありがとうございます。

ライ・ティ・ニャー


以下は、在住のタイビン省は省き、お名前と郡だけにします。

補聴器
ホアン・ティ・ハイン(フン・ハー郡)
グエン・ティ・トゥオイ(ティエンハイ郡)
チャン・ティ・ロアン(ティエンハイ郡)
ヴー・ティ・ガン(ティエンハイ郡)
ヴー・ヴァン・ルオン(ティエンハイ郡)
ヴー・ティ・ナー(ティエンハイ郡)
グエン・ティ・アン(ティエンハイ郡)
チャン・ティ・トゥー(ティエンハイ郡)
グエン・ティ・ルオン(ティエンハイ郡)
ファム・ヴァン・ダット(ティエンハイ郡)

チャン・ティ・フエ(タイトゥイ郡)
ファン・ティ・トゥイ(キエンスオン郡)

ブイ・ティエン・ホップ(キエンスオン郡)
ハー・ホアン・トゥン(キエンスオン郡)
ギエム・ティ・トゥエット(タイトゥイ郡)
ホアン・ゴック・ヒエン(ティエンハイ郡)
グエン・ヴァン・ニョン(ティエンハイ郡)
ファム・ティ・ウット(タイトゥイ郡)
トー・タイン・ニャン(ティエンハイ郡)
グエン・ティ・トゥー・ハン(ティエンハイ郡)
グエン・ヴァン・ティン(ドンフン郡)
ヴー・ティエン・フン(ドンフン郡)
ゴー・イエン・ニー(ヴートゥー郡)
グエン・スアン・タイン(キエンスオン郡)
レ・ティ・ジエン(タイトゥイ郡)
グエン・ティ・ヴァン・アイン(タイビン市)
ヴー・ティ・トゥー(ティエンハイ郡) 車椅子もドー・ヴァン・チュオン(ヴートゥー郡)
Posted by Picasa車椅子
ヴー・ティ・タイン・ヴァン
グエン・チー・ホイ(タイトゥイ郡)
グエン・ティ・ヴイ(ヴートゥー郡)
ダオ・ヴァンドアン(タイトゥイ郡)
ヴー・ティ・フン(タイビン市)
ヴー・ティ・イエン(ヴートゥー郡)
ライ・ヴァン・ドー(ヴートゥー郡)

このお礼状はタイビン省で枯れ葉剤被害者協会の方が集めてくださり、それをハノイへ。ハノイから郵便で送られてきたものです。
たくさんのお気持ちをありがとうございました。
(完)

2006-12-15

補聴器 車椅子のお礼状 その2

今回も、ベトナムから届いたお礼状のご紹介です。

お礼状(3)

日本静岡 愛のベトナムさわやか支援隊の皆様へ

私は、グエン・ヴァン・ハウと申します。
タイビン省タイトゥイ郡トゥイソンに住んでいます。
息子のハインは、枯れ葉剤の影響で、両耳が聞こえなくなりました。いま、枯れ葉剤被害者協会及び日本の静岡の愛のベトナムさわやか支援隊のおかげ、補聴器を頂くことが出来ました。
ハインの耳が聞こえるようになりましたことは、ハインともども私たちは大変うれしく思います。
私たちは、言葉で表せないほどうれしく思っています。大変にありがとうございました。特に静岡の皆さんには、もう一度家族に代わって厚く御礼を申し上げます。
被害者に関心をもって下さっている方々、いつまでもお元気で。
2006年10月6日 トゥイソンにて
グエン・ヴァン・ハウ

お礼状(4)

静岡愛のベトナム支援隊の皆様へ

私は、ブイ・チョン・ホアと申しまして、ブイ・ティ・ジュの父親です。
タイビン省タイトゥイ郡トゥイリエンに住んでおります。
私は、アメリカが行った戦争で枯れ葉剤の影響を受けました。
そのために、子どもも被害を受け、そのせいで小さい頃から両耳が聞こえなくなりました。


このほど、枯れ葉剤被害者支援のキャンペーンにおり、私の子どもにも支援を頂き、静岡の皆さんから補聴器を頂戴し、子どもはたいへん喜んでおります。

補聴器を頂いてから、子どもも私の話が分かるようになりました。また、とても生き生きとしております。私たち家族全員で、喜びを感じております。言葉では表すことができません。ご協力下さった皆様、そして静岡の皆様にありがとうと申し上げます。

(裏面)静岡の皆様と、協力してくださった皆様方がいつまでもお元気でいらっしゃるように。ありがとうございました。

2006年10月14日
ブイ・チョン・ホア

お礼状(5)

タイビン省枯れ葉剤被害者協会さま
静岡愛の支援隊の皆様へ

私は、ハー・ティ・ホアと申します。ダオ・スン・ドアンの妻です。タイビン省タイトゥイ郡タイズオン・ドンティンに在住しています。


夫は、1966年6月に軍に入隊しました。そして、1966年10月から1975年まで、従軍していました。1975年12月15日に、戦場から帰ってきました。

1991年から病気が発症。2003年には全身が不自由になりました。家族では、父親と子どもも犠牲者になりました。そのせいで、家族全体が(経済的に)苦しく、車椅子を買うおカネはありませんでした。ですから、3年間も、夫は動くことができませんでした。

このほど、日本の静岡の皆さんが、私の夫の家まで来てくださり、車椅子を下さいました。私はとてもうれしいです。

静岡の皆様の暖かい心が、私たちの苦しみを減らしてくれました。私はとても感動しました。私は、何より静岡の皆様、及び枯れ葉剤被害者協会、そしてベトナム外務省にありがとうございましたと心から御礼を申し上げます。

もっともっとベトナム政府と関係者が、ボランティアの方々の関心を持って頂きたいと思います。

2006年9月28日
妻 ハー・ティ・ホア


お礼状(6)

Posted by Picasa 静岡の皆さん タイビン省枯れ葉剤被害者協会
 ベトナム外務省へ

 私は、グエン・クアン・メオと申します。タイビン省タイトゥイ郡トゥイズオンに住む者です。

ベトナム戦争の時、私は従軍したために、枯れ葉剤による後遺症で、今私の傷病の度合いは2/4度となっています。

戦争から戻り、結婚して、子どもが生まれました。子どもの名前は、グエン・クアン・ビンと申します。子どもは、父親が受けた枯れ葉剤の後遺症で両足が不自由になりました。

私たちはいろいろなところに行き治療を受けましたが、少しも良くならなくて、すべてが無駄になりました。そのために経済的にすごく苦しんでいます。周りの人々や政府に助けて頂いておりますが、それでも苦しんでおります。

なぜなら、息子のビンが動けないために、私たちは何もかもビンのために世話をしなければならないからです。

今月、2006年8月25日(9月の間違い)は、私たちにとってうれしく、且つ感動の日でした。なぜなら、タイビン省政府や特に静岡の皆さんの関心のおかげで、ビンが車椅子を頂けたからです。

この車椅子のおかげで、久しぶりにビンが動けるになりました。私は、静岡の支援隊の皆さん、そして協力してくださった方々に心から感謝申し上げます。静岡の支援隊のご家族全員がいつまでもお元気で、そして支援活動が順調にいくことを祈っております。

家族に代わって・・グエン・クアン・メオ(写真は、お礼状を下さったメオさん)

2006-12-14

補聴器・車椅子のお礼状

この9月に私たちは、車いすと補聴器の贈呈に、主としてタイビン省を中心に被害者を在宅訪問致しました。日本とオーストラリアの支援者全員を代表して、毎日毎日、私たちは感動的な出会いを味わわせて頂きました。主として補聴器を受け取った方々からお礼状が送られてきましたので、数回にわけて、一部をご紹介させて頂きます。 なお、ベトナム語の翻訳は、三島在住のレ・タイン・トゥンさんにお願いし、支援隊事務局で、文章を整理させてもらいました。
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ベトナム社会主義共和国 タイビン省枯れ葉剤被害者協会
独立・自由・幸福

感謝状(1)

タイビン枯れ葉剤被害者の子どもたちへのプレゼントについて(2006年9月22日ー9月25日)


愛のベトナムさわやか支援隊隊長及び隊員の皆様へ

タイビン省枯れ葉剤被害者協会へ皆さんがいらして下さり、私たちは大変うれしく思いました。

私たちの所は、戦地から遠く離れた所ですが、それでも3万人の枯れ葉剤被害者がいます。
日本の皆様も、第2次世界大戦において、原子爆弾の被害を受け、その苦しみは私たちもよく理解している積もりです。私たちは、いつも憐憫の情をもっております。

このたびは、タイビンで被害者に補聴器と車椅子を贈呈して頂き、被害者のみならずタイビンの人々にとっても大変うれしく思った次第です。また、大変にありがたいことだと思ってります。

また、近いうちに、静岡の皆さんと再会できることを願っております。おそらく、皆さんも同じお気持ちではないかと思います。
本日、3万人の被害者を代表して、静岡の支援隊の隊長さま及び皆様に厚く御礼を申し上げます。
静岡の支援隊の皆様、いつまでもお元気で。
本当にありがとうございました。

枯れ葉剤被害者協会会長 グエン・ドゥック・ハイン

お礼状(2)

私は、ホー・シー・ハイと申します。
枯れ葉剤の被害者の一人です。
私は5人家族の中で、4人が枯れ葉剤の被害者となりました。
この間、静岡の愛の支援隊の皆様がいらして下さり、私の妻と子ども二人に、3個の補聴器を下さり、妻も子どもも耳が大変良く聞こえるようになりました。
皆さんが、私の家族に幸せを与えて下さいました。
ありがとうございました。
家族に代わって、御礼を申しあげます。

タイビン 2006年10月20日
ホー・シ・ハイ

編集部註:このホー・シ・ハイさんの記事は、2006年10月のブログの中の報告記(9)タイビン省(5)に掲載されておりますので、併せてご覧頂ければ、より一層ご理解頂けると思います。