旧正月(テット) チュック・ムン・ナン・ムイ
私はベトナム・ハノイで旧正月を2回過ごしました。私がハノイに駐在した1995年からは爆竹が禁止されることになり、静かな正月で肩すかしをくらったような気がしました。しかしです・・・そこはベトナム人。人の目をかすめて爆竹をならして、捕まらないように足早に逃げる人が散見されました。ないと思っていた爆竹が近くで鳴ると、やはり驚くものです。今年から中国の春節でも、「民衆」の強い要望で爆竹が解禁になりましたので、早晩ベトナム全土で爆竹が復活するのではないかと予想しています。
「ね」「うし」「とら」「う」・・・とくる十二支。ベトナムの十二支はひと味違います。「うし」は「水牛」になります。「ひつじ」は「山羊」に。「イノシシ」は「豚」になります。決定的なのは「兎」。ベトナムにくると、なぜか「猫」となります。
私がハノイに赴任する時に、日本のきれいなカレンダーをもって行きました。当時まだ印刷技術のともなわないハノイでは、日本のきれいなカレンダーは人気でした。ある人にペットの犬のカレンダーをあげました。家内が早速、私に知らせにきました。カレンダーをもらった女性たちが、ワイワイ言って盛り上がっていたのというのです。普通、カレンダーをもらうと、どの月がわかいい、どれがほしいと言うものですが、彼女たちは、「どの月の犬がおいしそう、どれがまずそう」と話していたというのです。犬肉をベトナム語で「ティッ・チョー」といいます。それから、ベトナム人に犬のカレンダーのプレゼントするのは、止めました。今年は、戌年。戌年の旧正月、あれから12年。私にはこういう思い出がありました。
テットを祝う花は、ベトナム北部では桃の花、南部ではホアマイ(梅)というきれいな黄色い花ですが、これは梅ではなく熱帯の花です。ハノイのみならず各地では、テットの時期に合わせて花市が開かれます。グラジオラスも売られます。真剣に品定めして、かつしっかりと値引き交渉をして、交渉が成立するとにんまり。値引きの交渉は、大まじめ。時として、売り手と買い手で口喧嘩が始まります。こんな真剣な表情とやりとりは、普段では滅多にみられません。そして、みていても飽きません。ベトナム人の真剣な顔をみるなら、是非テットの花市へと。申し上げたいのです。そして、自転車やバイクに乗せたり、シクロに乗せて帰る姿は、風物詩としてはなかなか趣にあるものです。ああ、この人も、いろいろ値引きをしたんだろうな・・羽子板市のように、最後に「お手を拝借!」というのが無いだけです。 ベトナム外務省が私たちマスコミに贈ってくれる桃の生木は、とても贅沢な気分にさせてくれました。亡き母も、ベトナム外務省贈呈の桃の木をうれしそうに愛でていました。
そして、テットが終わって、桃の木の花が終わると、この木をゴミの回収が来る日に捨てるのです。いつももったいないと思っていました。しかし、後できいてみると、この木は、すぐ植えると、そのまま伸びてくるのだそうです。そして、桃の木を拾って歩いて、それを植物を育てる人に売る人がいるのだそうです。すると、また次のテットの時には、見事に商品に生まれ変わるのだそうです。梅の木の生命力の強さと、ベトナム人の知識の豊富さには、驚きました。
テトの前には、花の他、テト用の装飾品や赤いお年玉袋を売る屋台も出る。私の知りあいで、お年玉袋をしこたま売って、かなり収入をあげているご婦人がいました。むかしから、ベトナムでは、一見小規模と思える商売で財産を築いた人が、結構いるものです。
テトが近づくと、ベトナム人家族は大変です。私の住んでいた町でも、正月料理の準備で休みの無い日々が続いていました。南北を通じて、正月料理に欠かせないのが鶏肉です。日本のおせちに匹敵する正月伝統料理は、豚の脂身を青豆の粉と餅米で包み、それをバナナの葉で包んで長時間蒸しあげた保存食「バインチュン Banh Chung」。日本のちまき(粽)に似てはいますが、違う物です。何日も前から仕込みをし、そして大晦日の前々日などは夜を徹して煮込みます。その働く姿は、とても感じ入るものでしあ。テトの間中、これを食べ続けるそうです。最近は、そういう伝統も薄れつつあり、バインチュンを作る家も少なくなってはきましたが、それでも、出来合いのを買ってでも家におく人もいます。 近年、おせち料理を日本人が買うのと同じです。
私は、ハノイで初めての旧正月。新年の挨拶にまわりました。いや、驚いたのは、どこへ行ってもバインチュンが出てくるのです。餅米ですから、胃に重いのです。三軒目から、断るのに苦労します。そうすると、包んでくれて、持って帰れというのです。4ー5軒回る頃には、売るほどバインチュンが手元に集まり・・・どうしたもんかと思案したものです。確かに、食べてみると、、家毎に味がちがいます。それぞれの家庭の味が出ているようです。しかし・・・・・これを食べ尽くすのは辛いです。バインチュンのハシゴは、胃の負担を増します。
通常、正月の一日目。きれいな服を着て親戚筋を訪問したりします。村によってはお祭りもあります。歌のコンテスト。闘鶏。人間将棋。これにも、ギャンブル好きなベトナム人は賭けます。寺は大にぎわい。当然、経済的な幸運を祈ります。二日目。親しい友人を訪ねたりします。恋人募集中の人は、近所の湖に出かけたりします。三日目。教師、教員、友人、会社の仲間を相互訪問します。「商売繁盛、あるいは仕事が順調にいきますように、そしてあなたの家にお金が水のごとく流れ込みますように」と祈って訪問した家を去るのです。すべては、カネ。カネが大事な社会です。
「テット」は、「節」からきています。テットとは、ベトナムではテットの半月以上前から完全に仕事は浮き足立ち、テット後も1ヶ月は回転しにくい状態をいいます。ベトナム全土が完全思考停止状態になります。口の悪い連中は、テット後3ヶ月は動かないといいました。旧暦によるために、毎年、テットの日は変わります。2月半ばのこともあります。勤め人はテト前の1日とテトの3日間乃至4日間、合計で4?5日間が休みとなる場合が多いですが、我が社では、同じ動かないならもっと・・と、早めにスタッフに休みをあげていたことを思い出します。(北村 元 在シドニー)
2006-01-29
新年のご挨拶
ベトナムの枯れ葉剤被害者の皆さま
被害者の方々を支えている皆さま
新年おめでとうございます。
謹んで、ご挨拶申し上げます。
今年が、枯れ葉剤の後遺症で苦しむ被害者の方々にとって、少しでも安らぎの日々がえられる年になりますように、衷心よりお祈り申し上げます。
また、私たち愛のベトナムさわやかた支援隊も、力はありませんが、被害者の方々の苦痛の緩和に一層努力することを誓います。
2006年1月29日
会長 大釜 一男
副会長 大釜 芙美子 櫻井 恵美子
事務局長 宮尾 和宏
顧問 北村 元 新谷文子
被害者の方々を支えている皆さま
新年おめでとうございます。
謹んで、ご挨拶申し上げます。
今年が、枯れ葉剤の後遺症で苦しむ被害者の方々にとって、少しでも安らぎの日々がえられる年になりますように、衷心よりお祈り申し上げます。
また、私たち愛のベトナムさわやかた支援隊も、力はありませんが、被害者の方々の苦痛の緩和に一層努力することを誓います。
2006年1月29日
会長 大釜 一男
副会長 大釜 芙美子 櫻井 恵美子
事務局長 宮尾 和宏
顧問 北村 元 新谷文子
2006-01-14
05支援隊ツアー 山口 元
アメリカ在住の山口 元さんが、支援隊ツアー参加の感想を寄せてくれました。左の写真(北村撮影)は、被害者の女の子に手を貸す山口さんです。 なお、日本語訳は北村。山口さんの英語原文は下におつけしておきました。併せてご覧下さい。北村
ベトナムとエージェント・オレンジ
私は、2005年10月にフリー・ジャーナリストの北村元さん率いるスタディ・ツアーに参加して、ベトナムを訪問する機会を得ました。ツアーの目的は、ベトナム戦争時代のエージェント・オレンジの被害者の実態を学び、援助することでした。それほど遠くない昔に、私も日本とアメリカで学校教育を受けました。しかし、ベトナム戦争に関しては、重要なことは一切学んでいませんでした。事実、各種の報道は、他の誰よりも私に多くの情報をもたらしてくれました。しかし、ここでもベトナムや国民が受けたことを理解するに十分なものはありませんでした。
私がハノイに着いた時、町が生き生きとしているのに驚きました。ハノイの町には人が溢れ、道路はバイクと車で一杯でした。どの通りの角にも、小さなカフェや食堂が並んでいました。しかしながら、無秩序な交通の流れと地元の人々が元気に行き交う風景のなかで、私はいくつかの不思議な光景に気づきました。新車のベンツやBMWを運転している人たち。高級店で買い物をする姿。5ッ星のホテルレストランで食事をする人たち。これらの光景は、社会経済・政治制度の副産物に違いないと、私は思ったのです。
枯れ葉剤の核心にはダイオキシンが含まれていたのです。私は、初めてその恐ろしい影響について知るに至りました。エージェント・オレンジとその毒性に冒された元兵士、普通のお父さん、お母さん、息子たち、娘たちに会いました。ダイオキシンの毒性は、時間と共に影響が薄れたり消滅するのではないことがわかりました。第三世代の子どもが、未だに目に見える恐ろしき兆候を見せているからです。
ダイオキシンの毒が、若きも老いも区別なく、如何に人間の体をむしばんだかを私自身が目にすることは辛いものがありました。スタディ・グループとして、私たちは枯れ葉剤の影響をみるためにハノイ周辺や近くの省を回りました。私たちは、個人の家も、またダイオキシンの被害者を収容している施設も共に訪問しました。子どもたちは奇形で生まれるか、精神的影響を受けて生まれていました。一見“正常にみえて”も、複数のガンや他の疾病に冒されていました。とりもなおさず、戦争中にダイオキシンを使用したことに正当性がないばかりか、なぜ無実の子どもたちが苦しまなくてはならないのでしょうか?
私は、今もこのスタディー・ツアーで撮った写真の整理に追われています。ハノイの下町や生の姿に愉快な写真もあります。しかし一方で、枯れ葉剤の影響とその後遺症を写しだした画像もあります。未だに、私がベトナムで観たこと、経験したことは信じがたいことです。そして、どうしたらいいのかわかりません。しかし、私自身ができることはわかっています。それは、いま起きていることをもっともっと写真に撮ること、戦争とダイオキシンの影響を受けた人の写真を証拠で示すことです。そして、他の多くの人にこれらの写真をみてもらうこと、言い換えれば、世界に“メッセージ”を送ることです。そうすれば、やがて世界の人々は、社会的にも道義的にも気づき、将来にあらざる破滅の再発を防ぐことになるのではないかと思うのです。
2006年1月
山口 元(げん)
Vietnam and Agent Orange:
I had an opportunity to visit Vietnam in October of 2005 with an educational tour group led by a freelance journalist Mr. Hajime Kitamura. The purpose of the tour was to learn and help out victims of Agent Orange from the Vietnam War. In the not-so-long ago past, I’ve received formal education in both Japanese and American systems, but I didn’t learn anything significant regarding the Vietnam War. In fact, the media had informed me more on the subject matter than anyone else. But then again, it was nowhere near sufficient to understand what the country and the people had gone through.
When I arrived in Hanoi, I was surprised to see how energetic the city was. People filled the city and its roads with bikes and cars. Small coffee shops and food stalls were set up on every street corners. However, amongst the chaotic traffic and the lively interactions of the locals, I realized several odd things. I frequently saw locals driving brand new Mercedes and BMWs, shopping in expensive designer stores and dinning in five-star hotel restaurants, usually catering towards the foreigners. I thought these must be the byproducts of the socioeconomic/political system.
Agent Orange, AKA, Karehazai in Japanese was composed with Dioxin as a centerpiece, and I got to learn about its deadly effects first hand. I witnessed ex-soldiers, regular mothers and fathers, sons and daughters who were affected by Agent Orange and its toxin. I learned that the poison of Dioxin does not subside nor disappear with time, for it is evident that 3rd generations are still showing visible deadly signs of it.
It was troubling for me to see how the poison of Dioxin destroyed humans, both young and old indiscriminately. As a study group, we went around Hanoi and near by provinces to see the aftermath of Agent Orange. We visited both, independent households and institutions that housed the victims of Dioxin. Children were born with deformities and/or with mental retardation. While others ‘looked’ normal but suffered from multiple cancers and other diseases. There is no justification for employing Dioxin during the war in the first place, but why should innocent children suffer?
I am still in the midst of organizing the images that I took from this trip. Some are pleasant pictures of downtown Hanoi and its liveliness, whilst other images depict the effect of the Agent Orange and its infamous legacy. It’s still hard to believe what I saw and experienced in Vietnam. And I am not sure to what can be done, but I know what I can do. It is to take pictures, more pictures of what is happening, to document images of people who are affected by the war and Dioxin. And to share these images with others, in other words, to deliver a ‘message’ to the world. Then maybe, people will become aware, socially and morally, and hopefully prevent unnecessary future catastrophes from happening again.
Gen Yamaguchi
January 2006
ベトナムとエージェント・オレンジ
私は、2005年10月にフリー・ジャーナリストの北村元さん率いるスタディ・ツアーに参加して、ベトナムを訪問する機会を得ました。ツアーの目的は、ベトナム戦争時代のエージェント・オレンジの被害者の実態を学び、援助することでした。それほど遠くない昔に、私も日本とアメリカで学校教育を受けました。しかし、ベトナム戦争に関しては、重要なことは一切学んでいませんでした。事実、各種の報道は、他の誰よりも私に多くの情報をもたらしてくれました。しかし、ここでもベトナムや国民が受けたことを理解するに十分なものはありませんでした。
私がハノイに着いた時、町が生き生きとしているのに驚きました。ハノイの町には人が溢れ、道路はバイクと車で一杯でした。どの通りの角にも、小さなカフェや食堂が並んでいました。しかしながら、無秩序な交通の流れと地元の人々が元気に行き交う風景のなかで、私はいくつかの不思議な光景に気づきました。新車のベンツやBMWを運転している人たち。高級店で買い物をする姿。5ッ星のホテルレストランで食事をする人たち。これらの光景は、社会経済・政治制度の副産物に違いないと、私は思ったのです。
枯れ葉剤の核心にはダイオキシンが含まれていたのです。私は、初めてその恐ろしい影響について知るに至りました。エージェント・オレンジとその毒性に冒された元兵士、普通のお父さん、お母さん、息子たち、娘たちに会いました。ダイオキシンの毒性は、時間と共に影響が薄れたり消滅するのではないことがわかりました。第三世代の子どもが、未だに目に見える恐ろしき兆候を見せているからです。
ダイオキシンの毒が、若きも老いも区別なく、如何に人間の体をむしばんだかを私自身が目にすることは辛いものがありました。スタディ・グループとして、私たちは枯れ葉剤の影響をみるためにハノイ周辺や近くの省を回りました。私たちは、個人の家も、またダイオキシンの被害者を収容している施設も共に訪問しました。子どもたちは奇形で生まれるか、精神的影響を受けて生まれていました。一見“正常にみえて”も、複数のガンや他の疾病に冒されていました。とりもなおさず、戦争中にダイオキシンを使用したことに正当性がないばかりか、なぜ無実の子どもたちが苦しまなくてはならないのでしょうか?
私は、今もこのスタディー・ツアーで撮った写真の整理に追われています。ハノイの下町や生の姿に愉快な写真もあります。しかし一方で、枯れ葉剤の影響とその後遺症を写しだした画像もあります。未だに、私がベトナムで観たこと、経験したことは信じがたいことです。そして、どうしたらいいのかわかりません。しかし、私自身ができることはわかっています。それは、いま起きていることをもっともっと写真に撮ること、戦争とダイオキシンの影響を受けた人の写真を証拠で示すことです。そして、他の多くの人にこれらの写真をみてもらうこと、言い換えれば、世界に“メッセージ”を送ることです。そうすれば、やがて世界の人々は、社会的にも道義的にも気づき、将来にあらざる破滅の再発を防ぐことになるのではないかと思うのです。
2006年1月
山口 元(げん)
Vietnam and Agent Orange:
I had an opportunity to visit Vietnam in October of 2005 with an educational tour group led by a freelance journalist Mr. Hajime Kitamura. The purpose of the tour was to learn and help out victims of Agent Orange from the Vietnam War. In the not-so-long ago past, I’ve received formal education in both Japanese and American systems, but I didn’t learn anything significant regarding the Vietnam War. In fact, the media had informed me more on the subject matter than anyone else. But then again, it was nowhere near sufficient to understand what the country and the people had gone through.
When I arrived in Hanoi, I was surprised to see how energetic the city was. People filled the city and its roads with bikes and cars. Small coffee shops and food stalls were set up on every street corners. However, amongst the chaotic traffic and the lively interactions of the locals, I realized several odd things. I frequently saw locals driving brand new Mercedes and BMWs, shopping in expensive designer stores and dinning in five-star hotel restaurants, usually catering towards the foreigners. I thought these must be the byproducts of the socioeconomic/political system.
Agent Orange, AKA, Karehazai in Japanese was composed with Dioxin as a centerpiece, and I got to learn about its deadly effects first hand. I witnessed ex-soldiers, regular mothers and fathers, sons and daughters who were affected by Agent Orange and its toxin. I learned that the poison of Dioxin does not subside nor disappear with time, for it is evident that 3rd generations are still showing visible deadly signs of it.
It was troubling for me to see how the poison of Dioxin destroyed humans, both young and old indiscriminately. As a study group, we went around Hanoi and near by provinces to see the aftermath of Agent Orange. We visited both, independent households and institutions that housed the victims of Dioxin. Children were born with deformities and/or with mental retardation. While others ‘looked’ normal but suffered from multiple cancers and other diseases. There is no justification for employing Dioxin during the war in the first place, but why should innocent children suffer?
I am still in the midst of organizing the images that I took from this trip. Some are pleasant pictures of downtown Hanoi and its liveliness, whilst other images depict the effect of the Agent Orange and its infamous legacy. It’s still hard to believe what I saw and experienced in Vietnam. And I am not sure to what can be done, but I know what I can do. It is to take pictures, more pictures of what is happening, to document images of people who are affected by the war and Dioxin. And to share these images with others, in other words, to deliver a ‘message’ to the world. Then maybe, people will become aware, socially and morally, and hopefully prevent unnecessary future catastrophes from happening again.
Gen Yamaguchi
January 2006
2006-01-08
ご冥福を祈ります
元アメリカ兵 ヒュー・トンプソン氏 逝去
ベトナム戦争当時、アメリカ陸軍のヘリ・パイロットとして従軍していたトンプソン(Hugh Thompson)氏は、1968年3月16日、当時の南ベトナム、クアンガイ省ソンミ村ミライ地区上空を飛行中に、アメリカ兵によるミライの住民の虐殺を目撃しました。トンプソン氏は、アメリカ兵と住民の間に割り込むようにへりを強行着陸させ、アメリカ兵に銃を向けて、それ以上の虐殺を防止した人です。 へりに同乗していた二人の兵士は、傍観していたようです。
それだけでなく、トンプソン氏は、負傷した子どもの救出にも尽力しました。
ソンミ村では、住民500人以上がアメリカ軍によって虐殺されました。
ガンのため入院していたアメリカ・ルイジアナ州アレクサンドリアの医療センターで1月6日に亡くなりました。62歳という若さでした。
1998年に、戦闘行為以外の勇敢な行為に贈られる最高位の勲章「軍人勲章」が陸軍から贈られました。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
ベトナム戦争当時、アメリカ陸軍のヘリ・パイロットとして従軍していたトンプソン(Hugh Thompson)氏は、1968年3月16日、当時の南ベトナム、クアンガイ省ソンミ村ミライ地区上空を飛行中に、アメリカ兵によるミライの住民の虐殺を目撃しました。トンプソン氏は、アメリカ兵と住民の間に割り込むようにへりを強行着陸させ、アメリカ兵に銃を向けて、それ以上の虐殺を防止した人です。 へりに同乗していた二人の兵士は、傍観していたようです。
それだけでなく、トンプソン氏は、負傷した子どもの救出にも尽力しました。
ソンミ村では、住民500人以上がアメリカ軍によって虐殺されました。
ガンのため入院していたアメリカ・ルイジアナ州アレクサンドリアの医療センターで1月6日に亡くなりました。62歳という若さでした。
1998年に、戦闘行為以外の勇敢な行為に贈られる最高位の勲章「軍人勲章」が陸軍から贈られました。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
2006-01-01
私の会いたい人 グエン・ティ・ゴック・トアン博士
私の会いたいベトナム人
グエン・ティ・ゴック・トアンさん・・・準教授であり、医学博士であり、今は亡きカオ・ヴァン・カイン中将の妻である。
フランス語、英語が流暢なティ・ゴック・トアンさんは、エージェント・オレンジの犠牲者への支持と援助を求めて、外国を旅してきた。2002年にアメリカへ行った後、2004年の後半にフランスに行き、国際セミナーに参加した。そこで、学生と知識層とともにその運動を繰り広げるとともに、未だに何百万というベトナム人が苦しんでいるエージェント・オレンジの衝撃と苦痛について講演した。
彼女は声を大にして言った。「いまここで寡黙になることは歴史に対する犯罪になります」と。全くその通りである。何も言わないことは、アメリカの犯した化学戦争犯罪に組みすることを意味するのだ。彼女の夫は、枯れ葉剤関連の肝臓ガンで死亡した。それ故に、正義との戦いは、一層彼女の心にぐさりと刺さっているのだ。
もともと、彼女は自費で旅をしていた。しかし、最近は、彼女のコンピューターが、世界とティ・ゴック・トアンさんをつなぐ郵便配達人の役目を果たしている。彼女は、ベトナムの貧困の枯れ葉剤被害者への援助を求めて、パソコンのキーボードを叩き続けている。
彼女は、自分の来し方を上品なフエ・アクセントで話し始めた。
「フエの王族出身でしたが、15歳の少女の時、革命活動への参加の衝動に駆られました。自分の考えを家族に言うと、家族は私のような若い女性がそのような厳しい人生を送ることを信じられないという感じでした。それから、すべての自負心をかなぐりすてて、とにかく革命活動に参加しました」
「私が逮捕されて刑務所に入れられた時に、“あなたはいつも国に誇りを持ち、家族に忠実でなくてはならない”という母の言葉を思い出しました。ですから、勇気をもって拷問にも耐えてきました。叔父は自宅で心配していました。私は勝利して戻りました。やがて、抵抗運動が全国的に広がりました。私は、革命軍に従いました。私が、なぜ、ぜひともホーおじさんに会いたいと思っていたのか思い出せません。グエン・チ・タイン(Nguyen Chi Thanh)将軍が、私に、ホーチミン主席に会うならば、共産党員でなくてはならないよ・・と言いました。そこで、仮に会合に出席することが嫌いであっても、最大の努力をして、1949年にベトナム共産党に入りました。おそらく、それがわが人生で一番輝かしい時代でした」
「当時、私の義弟ダン・ヴァン・グー(Dan Van Ngu)博士が卒業して日本から戻ってきました。そして、彼はホーチミン主席自身から直接、抵抗地帯に入って新共和国の医療制度を発展させるようにと命令を受けました。義弟は、私に付いてきなさいと言い、私はトゥエン・クエン(Tuyen Quang)省チエム・ホア郡で彼と共に研究所で他の二人と働くことになりました。そこで、私のファム・ソン(Pham Song)教授、グエン・タイ・トゥ(Nguyen Thai Thu)教授などの有名な人物と一緒に医学の勉強を始めたのです。しかし、その時は、私たちは、大学の課程を卒業できませんでした。それは、後に有名になったディエン・ビエン・フーの戦いに動員令が出されたからです」
「この大きな戦闘の準備中に、フエにいたかつての恋人カオ・ヴァン・カイン(Cao Van Khanh)に出会ったのです。ロマンチックではありませんか? 戦場での出会いは、われわれの昔の愛に灯をともしたようでした。私たちは、この戦争が終わったら結婚しようねと約束しました。しかし、勝利の雰囲気といや増す革命の志気が強かったために、大作戦の前に結婚したくなりました。そこで、後に南ベトナム解放戦線の国防相になったチャン・ナム・チュン(Trang Nam Trung)氏の司会で、すぐ結婚式をあげました。それから、カインは中将に任命されました。私の結婚式の写真は、いま民族博物館に展示されていて、多くの人にみて頂いています」
「戦後、私は108軍中央病院に入りました。そして、そこで、定年退職まで働きました。私の長い経歴の中でのハイライトは、ホーおじさんとお会いしたことでした。全部で4回です。ある時、私たちはソ連の革命記念にいきました。私たちは、我が国の愛する指導者の下に走り寄り、彼にキスをしました。そこには、多くの各国のゲストがいたことしか記憶にありません」
(拙訳:北村 2005年10月16日付けベトナム・ニュース紙から)
トアン博士は、何回も海外に足を伸ばした。そして、医者として特にエージェント・オレンジの被害者の苦痛をわが痛みとして感じてきた。そして、彼女の時間とエネルギーの多くを、被害者の正義を訴えるために割いてきた。トン・タット・トゥン教授、ホ・ドック・ディ(Ho Dac Di)、ダン・ヴァン・グ(Dan Van Ngu)と言った著名教授の教え子として人間主義に徹した人生を貫いてきた。そして、お金と物欲主義とは無縁の質素な生活を心がけるようにしてきた。
定年退職した今は、多くの慈善活動に時間を割いている。その筆頭がベトナム枯れ葉剤被害者協会科学部長としても大きく活躍している。
今年は、なんとしても、トアン博士とハノイでたっぷりとお話を窺える日を実現させようと、私は密かに決意している。私は、これまで枯れ葉剤支援に立ち上がっている方々と数多く会ってきたが、まだまだ知らない人がいることに気づいた。 また、このブログ上でご報告出来ればと・・・これもまた楽しみにしている。
北村 元(在:シドニー)
グエン・ティ・ゴック・トアンさん・・・準教授であり、医学博士であり、今は亡きカオ・ヴァン・カイン中将の妻である。
フランス語、英語が流暢なティ・ゴック・トアンさんは、エージェント・オレンジの犠牲者への支持と援助を求めて、外国を旅してきた。2002年にアメリカへ行った後、2004年の後半にフランスに行き、国際セミナーに参加した。そこで、学生と知識層とともにその運動を繰り広げるとともに、未だに何百万というベトナム人が苦しんでいるエージェント・オレンジの衝撃と苦痛について講演した。
彼女は声を大にして言った。「いまここで寡黙になることは歴史に対する犯罪になります」と。全くその通りである。何も言わないことは、アメリカの犯した化学戦争犯罪に組みすることを意味するのだ。彼女の夫は、枯れ葉剤関連の肝臓ガンで死亡した。それ故に、正義との戦いは、一層彼女の心にぐさりと刺さっているのだ。
もともと、彼女は自費で旅をしていた。しかし、最近は、彼女のコンピューターが、世界とティ・ゴック・トアンさんをつなぐ郵便配達人の役目を果たしている。彼女は、ベトナムの貧困の枯れ葉剤被害者への援助を求めて、パソコンのキーボードを叩き続けている。
彼女は、自分の来し方を上品なフエ・アクセントで話し始めた。
「フエの王族出身でしたが、15歳の少女の時、革命活動への参加の衝動に駆られました。自分の考えを家族に言うと、家族は私のような若い女性がそのような厳しい人生を送ることを信じられないという感じでした。それから、すべての自負心をかなぐりすてて、とにかく革命活動に参加しました」
「私が逮捕されて刑務所に入れられた時に、“あなたはいつも国に誇りを持ち、家族に忠実でなくてはならない”という母の言葉を思い出しました。ですから、勇気をもって拷問にも耐えてきました。叔父は自宅で心配していました。私は勝利して戻りました。やがて、抵抗運動が全国的に広がりました。私は、革命軍に従いました。私が、なぜ、ぜひともホーおじさんに会いたいと思っていたのか思い出せません。グエン・チ・タイン(Nguyen Chi Thanh)将軍が、私に、ホーチミン主席に会うならば、共産党員でなくてはならないよ・・と言いました。そこで、仮に会合に出席することが嫌いであっても、最大の努力をして、1949年にベトナム共産党に入りました。おそらく、それがわが人生で一番輝かしい時代でした」
「当時、私の義弟ダン・ヴァン・グー(Dan Van Ngu)博士が卒業して日本から戻ってきました。そして、彼はホーチミン主席自身から直接、抵抗地帯に入って新共和国の医療制度を発展させるようにと命令を受けました。義弟は、私に付いてきなさいと言い、私はトゥエン・クエン(Tuyen Quang)省チエム・ホア郡で彼と共に研究所で他の二人と働くことになりました。そこで、私のファム・ソン(Pham Song)教授、グエン・タイ・トゥ(Nguyen Thai Thu)教授などの有名な人物と一緒に医学の勉強を始めたのです。しかし、その時は、私たちは、大学の課程を卒業できませんでした。それは、後に有名になったディエン・ビエン・フーの戦いに動員令が出されたからです」
「この大きな戦闘の準備中に、フエにいたかつての恋人カオ・ヴァン・カイン(Cao Van Khanh)に出会ったのです。ロマンチックではありませんか? 戦場での出会いは、われわれの昔の愛に灯をともしたようでした。私たちは、この戦争が終わったら結婚しようねと約束しました。しかし、勝利の雰囲気といや増す革命の志気が強かったために、大作戦の前に結婚したくなりました。そこで、後に南ベトナム解放戦線の国防相になったチャン・ナム・チュン(Trang Nam Trung)氏の司会で、すぐ結婚式をあげました。それから、カインは中将に任命されました。私の結婚式の写真は、いま民族博物館に展示されていて、多くの人にみて頂いています」
「戦後、私は108軍中央病院に入りました。そして、そこで、定年退職まで働きました。私の長い経歴の中でのハイライトは、ホーおじさんとお会いしたことでした。全部で4回です。ある時、私たちはソ連の革命記念にいきました。私たちは、我が国の愛する指導者の下に走り寄り、彼にキスをしました。そこには、多くの各国のゲストがいたことしか記憶にありません」
(拙訳:北村 2005年10月16日付けベトナム・ニュース紙から)
トアン博士は、何回も海外に足を伸ばした。そして、医者として特にエージェント・オレンジの被害者の苦痛をわが痛みとして感じてきた。そして、彼女の時間とエネルギーの多くを、被害者の正義を訴えるために割いてきた。トン・タット・トゥン教授、ホ・ドック・ディ(Ho Dac Di)、ダン・ヴァン・グ(Dan Van Ngu)と言った著名教授の教え子として人間主義に徹した人生を貫いてきた。そして、お金と物欲主義とは無縁の質素な生活を心がけるようにしてきた。
定年退職した今は、多くの慈善活動に時間を割いている。その筆頭がベトナム枯れ葉剤被害者協会科学部長としても大きく活躍している。
今年は、なんとしても、トアン博士とハノイでたっぷりとお話を窺える日を実現させようと、私は密かに決意している。私は、これまで枯れ葉剤支援に立ち上がっている方々と数多く会ってきたが、まだまだ知らない人がいることに気づいた。 また、このブログ上でご報告出来ればと・・・これもまた楽しみにしている。
北村 元(在:シドニー)
2006年 新年のご挨拶
新年明けまして おめでとうございます
昨年中は ご支援 ご声援 誠にありがとうございました。
2006年 ベトナムの枯れ葉剤被害者 飢餓のさ中にある世界の人々、戦争の被害者、エイズ禍にある子どもたちの苦痛が,国際社会の援助で少しでも減りますように祈ります。
今年のシドニーの花火のテーマは『愛・心の底より』でした。私たちの支援隊の名も『愛』で始まります。
シドニーから、心をこめて、写真をおつけして皆さんに『愛』気持ちをお送りします。
このブログを立ち上げてちょうど1ヶ月目に寄付をしてくださった阿部敬子さま 幅匡子さま ありがとうございました。有効に使わせて頂きます。
皆様のこの1年のご健康を祈りつつ。
今年も、変わらぬご支援をお願い申し上げます。
ベトナム枯れ葉剤被害者支援の会
(ニックネーム:愛のベトナムさわやか支援隊)
会 長:大釜 一男
副会長: 大釜 芙美子 櫻井 恵美子
事務局長:宮尾 和宏
顧問:新谷 文子 北村 元
昨年中は ご支援 ご声援 誠にありがとうございました。
2006年 ベトナムの枯れ葉剤被害者 飢餓のさ中にある世界の人々、戦争の被害者、エイズ禍にある子どもたちの苦痛が,国際社会の援助で少しでも減りますように祈ります。
今年のシドニーの花火のテーマは『愛・心の底より』でした。私たちの支援隊の名も『愛』で始まります。
シドニーから、心をこめて、写真をおつけして皆さんに『愛』気持ちをお送りします。
このブログを立ち上げてちょうど1ヶ月目に寄付をしてくださった阿部敬子さま 幅匡子さま ありがとうございました。有効に使わせて頂きます。
皆様のこの1年のご健康を祈りつつ。
今年も、変わらぬご支援をお願い申し上げます。
ベトナム枯れ葉剤被害者支援の会
(ニックネーム:愛のベトナムさわやか支援隊)
会 長:大釜 一男
副会長: 大釜 芙美子 櫻井 恵美子
事務局長:宮尾 和宏
顧問:新谷 文子 北村 元
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