2010-01-15

トリビューン紙パート3(下)

パート3最終回の(下)は、枯れ葉剤被害者を抱える親の世代の重荷を訴えています。
ん~ 困ったヽ(*´□`)ノ困ったぁ~
両親の重荷
                          
チャム・ティ・シューには6才の息子、ホー・コン・ドゥックがいる。彼は、生後6ヵ月くらいにしかみえない。彼の青い静脈は、透き通るような皮膚の下で見える。その少年はやせ細り、顔色は青白い。呼吸は荒くて、苦しんでいた。シューは、娘の発作と同様に、息子の病気も、自分が枯れ葉剤に曝露したからだと信じている。
「私は、飛行機が私の頭の後ろの上空で飛行していたのを憶えている」と、シュー(43)が言った。彼女は、クアンナム省育ちだ。「飛行機が去った後、木々から全ての葉が落ちた。(枯れ葉剤を)撒布したので、私たちは濡れた。そういうことが何度行われたか、正確に覚えていない。しかし、母は少なくとも3回はあったと言っていた」
娘(右)と孫(中)を抱える母親(左):クアンナム省で

クアンナム省の撒布飛行データでは、エージェント・オレンジほぼ24,000ガロン、エージェント・ブルー21,000ガロン(ヒ素入り)が、シューの村の2マイル以内に撒布された。
「私は、息子のことが非常に心配だ」と、シューが言った。「私が息子より長生き出来れば、問題ありません。でも、私が死ねば、誰が息子の面倒を見てくれるのか」

ダオ・ティ・キエウ(写真下)。彼女は、夫だけでなく、5人の子供たちも失った。
夫、ラム・バー・チュンさんは、南ベトナム政府軍に入隊し、クアンチ省の17度線で従軍した。クアンチ省では、アメリカ軍と南ベトナム政府軍が、敵の穀物を破壊し、密生したジャングルを枯らすために70万ガロンを超える除草剤を撒布した。

彼は、7年の闘病後、医学研究所と米復員軍人省が戦争中に使用された枯れ葉剤関連の疾病とした肺ガンと喉頭ガンで2004年に60歳で亡くなった。

多くのベトナムの市民と同様に、キエウと夫は、子供たちの苦しみが自分たちのせいだと責めながら何年も過ごしてきた。

【写真上説明】 ビエン・ホア郊外で田仕事をするダオ・ティ・キュー(57)さん。彼女の田畑は、ベトナム戦争中にアメリカが除草剤を撒いた。彼女の8人の子供たちのうち、7人は先天性欠損症で生まれました、そして、5人は死んだ。南ベトナム政府軍兵士として戦ったキエウの夫も、エージェント・オレンジと他の枯れ葉剤への曝露と関連したガンで亡くなった。

「私たちは、恐らく、過去の世で何か悪いことをしたのだろうと思った。だから、私の夫は、菜食主義者になった」と、言いながら、彼女の声が変わり始めた。

ほとんど毎日、キエウは、午前3時起きだ。2人の障害をもった娘、ラム・キム・リエン(39)とラム・ゴック・フオン(35)の世話をするためだ。

生まれながらの盲目の少女:友好村で
物理療法のおかげなくして、二人とも歩いたり、話したり、スプーンを持つことすら出きない。彼らの奇形の、骨格の体と刈り込まれた髪が、彼女らをはるかに若く見えさせる。一方、彼らのやつれた、無表情な顔は、茣蓙を被せた小さな木のベッドの上で過ごした生活を映し出していた。

健康な子供は、ラム・ゴック・ニャン(20)さんだけ。キエウとチュンが10年待って生まれた子だった。ダイオキシン濃度はおよそ7年半で人間で半減すると考えた重要なことだった。母が授乳している時も、ダイオキシンは体外に出て行く。
                 
キエウは日没まで畑仕事をして家に戻り、それから、リエンとフオンを行水させ、ご飯を食べさせる。鉄の意思をもつ小柄な女性キエウは、生活苦の中でよく頑張っていると村人からも尊敬を集めている。それが、生活の痛みの中で彼女に誇りを与えている。
しかし、彼女が抱えている困難と将来に対する彼女の希望を話す時に、その強さは崩れ去るのだ。
                          
「私は、何と言っていいかわからない。正義はどこに?私は、5人の子供と夫を失った。2人の子供は身体障害者だ。毎日のように畑仕事から戻って来る日々。子供たちを持ち上げることができないほど疲れる」と、涙が彼女の黒い目からしたたり落ちた。(パート3完:パート4に続く)Posted by Picasa

2010-01-14

トリビューン紙パート3(中)

パート3の(中)は、初期に警戒信号が出ていたことと、枯れ葉剤被害で矛盾する主張が
報告されています。
.+:。ヨヨヨョョョ(´;ω;`)´-ω-`)´_ _`)ョョョヨヨヨ゚.+:。
初期の警戒信号があった
戦争中、若手の産婦人科医として、サイゴン(現ホーチミン市)で、ヴェトナム最大の産婦人科病院、ツーズー病院で、グエン・ティ・ゴック・フォン博士は、何百人もの健康な赤ちゃんを取り上げた。
その後、アメリカ軍が何百万ガロンも除草剤の使用を拡大した2年後の1968年に、ゴック・フォン博士は、自分が脳か脊髄なしで生まれた赤ちゃんを取り上げたと言った。
次の数月に、彼女は同じような重度の奇形児を週に3~4回、内臓器官が対外に出ている子ども、両手の無い子、足の無い子、無眼症の子を何十人と取り上げたと、彼女は言った。
「それは、私と私の同僚にとって、息が止まるようなことだった。最初のケースは、私の当直の日に起こった。私は母親がショック状態になるのではないかと思って、その母親にみせなかった。しかし、父親と他の家族は見たいと言った。そして、それは恐ろしい姿だった」と、彼女は涙を拭いながら、声がうわずった。
ついに、彼女は友人のところへ話をしにいった。その友人がサイゴンの新聞の1社に寄稿したのだ。ヴェトナムにおけるベトナム戦争に関連した先天性欠損症の話が、やがて出始め、今日も続く激しい論争に火をつけた。
ザーライ省プレイメの特殊部隊基地1965年

(上はプレイメの米軍特殊部隊基地。1965年10月19日、北ベトナム軍は同特殊部隊基地を攻撃。イアドラング渓谷の戦い口火となる。攻防戦では、1965年に沢田さんを含む数人のジャーナリストが 戦闘に参加。共産軍に機銃射撃した。正確な月日は不明。【小史】9月 北ベトナム正規軍の第32、33、66師団が、ホーチミン・ルートを使ってカンボジア国境から侵入。国境から東に向かって下るイアドラン渓谷に進出。国境から11Kmのプレイメに米特殊部隊が基地を構えていた。北ベトナム軍はプレイメ後方のフォーチュン山地に拠点を構築する。
10.19 イアドランの戦いが始まる。北ベトナム第33師団がプレイ・メの特殊部隊基地を攻撃。第32師団はプレイ・メ北方でプレイクへの道を遮断。戦闘は35日間にわたる。北ベトナム軍が撤退し、いったん終了。)

国立衛生研究所の研究で、一部の合成物に含まれる化学物質が実験動物で先天性欠損症を引き起こすことが明らかになった後の1971年、米軍はランチハンド作戦という枯れ葉剤撒布計画を中止した。その後まもなく、米国の軍医総監は、2,4,5-Tの国内使用を停止させた。その後、その2,4,5-Tは、高度に危険なダイオキシン、TCDDに汚染されていることが広くしられるようになった。

人間と動物の脂肪細胞に付く悪魔のような毒素、TCDDは、何十年も体内に残る。科学者は、ひとたび体内に入ると、それはAhレセプター(AhRとも書く。それは、それから、潜在的にガンと他の疾病に至る細胞成長に影響を及ぼす一連の分子現象を引き起こす)と言う名の受容体である細胞タンパク質と結合する、科学者は考えている。研究者もダイオキシンの衝撃がそのレセプターに与える影響は、遺伝子制御を変えることができ、人間のDNAの変化につながると仮定している。

遺伝子と環境の複数の要因は、人間のTCDDに対する反応に影響を及ぼす。そして、健康への影響は、遺伝子の性質、曝露の方法と量、及び研究者が完全に解明していない他の要因に依存している、科学者は言う。

先天性欠損症の場合、何十もの実験で、TCDDに曝露した実験動物が、危険に影響を及ぼす服用とタイミングで、より高い確立の先天性欠損症で生まれることを示している。科学者は、人体において、曝露と欠損症の間になんらかの相関関係を見つけたが、まだ因果関係を証明するまでには至っていない。動物の研究では、TCDDが精子を腐敗させて、胎児の成長を制御するホルモン類と干渉しあって生殖に影響を及ぼすことを示唆している。

2003年にアメリカ復員軍人省は、40年前にフォン博士が遭遇した最初の奇形、無脳症を含めて、先天性欠損症18例のいずれかに該当する場合、女性のベトナム退役軍人の子供たちに障害補償を与え始めた。

男性の退役軍人の子供に補償されているのは、脊椎披裂という1つの欠陥だけだ。これは、脊柱の若干の脊柱が完全に形成されていない状態で、麻痺、脳髄液や腸の管理問題と学習障害を含む多数の困難につながっていく。

いかにして、またなぜ先天性欠損症の子供が生まれてくるかを解明することは、痛々しいほど複雑怪奇のままだ。複数の要因がからんでいるが、その多くは分かっていない。不可能ではなくても、1人の罪人を孤立させる仕事が困難なのだ。

しかし、明らかになりつつあることは、曝露してTCDD(科学者はそれをpptという単位で計測するが)の量を追跡調査されている人々 ― 特に女性には、先天性欠損症の子供を産む高い危険性があるということだ。


矛盾する見解
                    
ヴェトナムのエージェント・オレンジの影響をめぐる論争は、両国で科学と政治、悪感情に満ちた感情問題と頑固なまでの仮定の十字路に立っている。

先天性欠損症は、相違する意見の中でも最も感情的な部分だ。一部のベトナム人は、奇形で産またほとんどすべての子供が、エージェント・オレンジの犠牲者であると主張する人もいる一方、どんな先天性欠損症に対して枯れ葉剤に責任があるというなっら、その決定的な証明をだせと、アメリカ政府当局は言い張る。

2004年から2007年までヴェトナム大使を勤めたマイケル・マリン氏は、こう言う。「ベトナム当局、中でも特に地方レベルでは、これらの先天性欠損症の全てを一緒くたにして、エージェント・オレンジに関係があると話す傾向がある。同時に、私はアメリカ側が十分な意欲でこれに取り組んでいるとは思っていない。それを扱うことは、政治的毒物なのだ」
ベトナム側は、枯れ葉剤の大規模な影響の証拠として、ネイチャー誌に掲載されたコロンビア大学ジーン・ステルマン名誉教授の研究を指摘する。その研究によると、ベトナム戦争中に、210万~480万人のベトナム一般市民が化学物質に曝露したと推定した。

未だに、一部の米政府当局者は、枯れ葉剤がヴェトナムで広範囲にわたる先天性欠損症を引き起こしたという告発を、乏しい科学的な証拠に基づいた中央統制の宣伝作戦として見ている。

「我々は、ベトナム政府が、どんな形であれ、は広範囲の深刻な健康問題 ― 特に先天性欠損症と精神遅滞に対する責任は、エージェント・オレンジ/ダイオキシンにあるという20年来の長い宣伝運動の信用を損なうような研究を決して許可しないと信じる」と、2003年のハノイのアメリカ大使館のメモにある。

米政府当局者は、栄養失調、妊婦のヨウ素の欠乏、アルコール中毒さえも、先天性奇形の高い率の可能な原因として指摘する。

議論のある政治的な悪口の多くは、トゥーヅー病院で聞かれる。そこには、最もすごい奇形をもった子どもたちの面倒をみている。れている。多くは出生時に捨てられ、障害を克服するために物理療法と他の治療を受けながら、勉強して、遊んで時を過ごしている。

病院とそこで治療を受けている子どもたちは、長引くエージェント・オレンジの影響の象徴になった。たとえ彼らの良心が曝露したのか、いかにして曝露したのか、多くの場合ほとんど知られていなくても、である。

1968年に、フォン博士と同僚は、生き残れなかった何十もの胎児と奇形児を集め始め、トゥーヅー病院内のホルムアルデヒドの入っている大きなジャーの中に保存した。ここでも、奇形を引き起こした確たる証拠が不足しているにもかかわらず、除草剤についての外国報道では、しばしばジャーの映像が特徴となった。

トリビューン紙が海外でインタビューを行った結果、露出の実証は困難である、あるいは、事実からは直接の曝露はありえないという時ですら、一部のベトナムの市民は、迅速に健康障害は枯葉剤のせいにすることは明白だった。(註1:この記事については、私見を最後に付記した)曝露したと言っている一部の人の中には、撒布活動が終わって相当経過した後まで、軍隊に入っていなかった人もいる。他野人は、ほとんど撒布が行われなかった地域で活動していた。

それでも、トリビューン紙は、トゥーヅー病院やベトナムの他の場所でも、科学がダイオキシン曝露に関連と決めた先天性欠損症や疾病に苦しむ多くの子供たちに会った。多くの場合、戦時中の飛行撒布任務に関するデータは、除草剤に曝露したという彼らの両親の話と符合していた。
                                  
(註1:この記事の状況に似た現場には、私は何回も遭遇した。枯れ葉剤の情報がほぼすみずみまで流布した結果、支援を受けたいという人の気持ちがストレートに出てきて、枯れ葉剤と結びつける。その人の話をようく聞いてみないと、矛盾点を見つられない危険性がある。だが、一方で、例えば、当時北ベトナムの最南端の省はクアンビンであり、南ベトナムの最北端の省は、クアンチ省だった。枯れ葉剤撒布飛行は、クアンチ省を越境して撒布していないことになっているが、クアンビン省で従軍していたある女性は、完全に枯れ葉剤が原因としてしか思えない症状を呈していた。越境撒布飛行は完全に無かったとは断定できない。人から話を聞いて軽々に判断することは、極めて難しいことであり、調査が必要になる。:北村)。
(パート3(下)に続く)Posted by Picasa

2010-01-12

トリビューン紙パート3(上)

シカゴ・トリビューン紙のパート3に移ります。
アメリカの撒布活動が終わって数十年が経つのに、ヴェトナムにおける先天性欠損症の高い発生率に果たす枯れ葉剤の役割が、疑問のまま確定されていないことを伝えています。
え?(*゜▽゜*)? (ノд`@)アイター
パート3  先天性欠損症に苦しむヴェトナム;援助遅れるアメリカ

戦争中に使用された枯れ葉剤に責任があるかどうかで、米、越の意見分かれる

泥水に浸かった苗床から苗を引き抜き、新しい田んぼに植え替えるため、明るい黄緑の細い苗の束を背中を丸めて田植えをしていく時に、陽光がダオ・ティ・キエウの麦わら帽子に照りつける。
その畑は、ベトナム戦争中の十代の時に田植えをしていた同じ稲田である。そして、彼女はまだ、はっきりと覚えている。彼女が働いている間、朝飛行機がやってきて、エージェント・オレンジと他の枯葉剤を撒布したのを。
「私が16歳の時です、飛行機が頭上を飛んでいるのを見たのは。そして、私が結婚するまで、撒布を見ました。熟したグァバのような臭いがした。木は生き残れなかった。私の服も湿った」と、キエウ(58)は言った。
彼女の鮮明な記憶は、トリビューン紙が分析した撒布飛行からも裏付けられた。それによると、少なくとも7回の撒布飛行がキエウの畑の上を通過して行われ、1万3千ガロンの枯れ葉剤が撒布された。
その後は、キエウ人生の物語は、単純で、残酷悲惨な数学で語られる。彼女には、8人の子供たちがいた。そのうちの7人は重度の奇形で生まれた。そのうち5人は8歳以前で亡くなった。彼女の夫は、アメリカと同盟を組んだ南ベトナム軍の兵士だったが、枯れ葉剤関連の癌にかかって、彼女の夫も亡くなった。
ベトナム戦争が終わって数十年が経過した今、アメリカ軍の枯れ葉剤の使用問題を取り巻く最も議論のある問題は、莫大な数のベトナム人に与えた健康への影響だ。
論争の中心は、ヴェトナムにおいて、除草剤と先天性欠損症の疑わしい関連にある。ベトナムでは、100人に5人以上の子どもが、何らかの身体的、または精神的な異常をもって生まれており、ベトナムの科学者によると、戦争の開始以来4倍も増加しているのだ。
アメリカ政府は、昨年、100万人を超えるベトナム退役軍人の障害者に137億ドルを支払った。その多くは、枯れ葉剤への曝露である。先天性欠損症で生まれた子どもをもつ復員軍人家族への補償に、数100万ドルが費やされている。しかし、アメリカ政府当局はヴェトナムにおける枯葉剤と疾病との関係を認めることに苛立ちを隠さない。
両国が1995年に国交正常化をして以来、アメリカ議会はエイズ感染率が世界で67位のヴェトナムに、HIV/エイズ対策費として少なくとも1億2500万ドルを割り当てた。アメリカ軍が落とした不発弾で手足を失ったベトナム人援助のために、およそ4600万ドルが提供された。

いまだ、35年前の戦争終結以来、南部の多数の一般市民が枯れ葉剤に曝露したという証拠があるにもかかわらず、アメリカ議会は除草剤関連問題でヴェトナムを援助するためにちょうど600万ドルをとってあった。枯れ葉剤は、その後アメリカで使用禁止になった。

フォード財団、ゲイツ財団と大西洋博愛団体を含む民間の慈善団体は、除草剤がもたらしたベトナム人の健康障害と環境破壊を克服援助するため、アメリカ政府のほぼ3倍以上の資金を拠出してきた。

戦争中、アメリカ政府当局は枯れ葉剤が無害であることを南ヴェトナムに保証した。南ベトナム政府も、代わる代わる、化学物質は安全だと国民を信じさせようとした。国立公文書館からの文書によると、ベトナム兵士は化学物質を浴びに行ったり、水でそれらを飲むくらいまで遠くに行った。

「公務員と幹部は、体と水に枯れ葉剤を吹きかけて、人々の前でそれを飲むことによって、枯れ葉作戦の無害性を説明した」と、南ベトナム人政府の1963年10月の報告は述べている。

アメリカ兵と同様、ベトナム市民も、空の除草剤のドラム缶をシャワーやバーベキュー用に使った。化学物質が無害だったと信じて、南ベトナム兵はしばしば、ダナンやビエンホアのような場所で、5ガロンも除草剤が残っている空のドラム缶を一般人に売ったと、政府の記録には出ている。

だが、合成物の多くは安全ではなかったのだ。それらは、最も有毒な人工化学物質として知られるダイオキシンTCDDに汚染されていたのだ。汚染物質は、エージェント・オレンジ、パープル、グリーンとピンクの中に発見された成分を製造するために、米化学会社によって使われた製造過程での予想外の副産物だった。それらのエージェント・オレンジ、パープル、グリーンとピンクは、ヴェトナムで撒布されたほぼ2000万ガロンの除草剤の65%以上を構成していた混合物である。

科学者は、ガン、パーキンソン病と重い先天性障害を含む12以上の疾病をダイオキシン関連とした。

「私は、ダイオキシンが崩壊させなかったホルモン系に出会ったことがない。それは、ほとんどすべての脊椎動物種の、発達のほとんどすべての段階で、広範囲にわたる影響を与える。」と言うのは、国立環境衛生科学研究所所長で、著名なダイオキシン専門家のリンダ・バーンバウム博士だ。((中)に続く)Posted by Picasa

2010-01-08

ある少女からの手紙 眼科医・名古良輔

私たちのベトナム支援隊ツアーに一昨年と昨年、2年間連続で参加してくださった沼津在住の眼科医師、名古先生が、地元紙の沼津朝日新聞に寄稿されましたので、今回は、名古先生のご許可を頂いて、その投稿記事をご紹介させていただきます。「ある少女からの手紙」の内容は、本ブログでも昨年の12月25日のクリスマスの日に「蓮の花奨学生からの便り(2)」として掲載してあります。そちらもご覧ください。
ヾ(●⌒∇⌒●)ノ わーい  ワーイ♪♪\(^ω^\)( /^ω^)/♪♪ワーイ 

「ある少女からの手紙」
 名古良輔
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 二年前からベトナムでの枯葉剤被害者支援活動に参加しています。昨年は計十五名の子ども達に学業の支援にと奨学金を贈呈しました。会の中心メンバーであるジャーナリストの北村元さんのアイディアで、切手を貼った封書を同時に手渡し、春と秋に奨学生のみなさんに近況を報告してください、とお願いをしました。
私が贈呈役を仰せつかったクアンガイ省の高校三年生レ・ティ・キム・チュンさんからも手紙が届いたのです。その手紙からは、日本では想像もできない険しい状況の中で必死に学ぼうとする彼女の強い決意が感じられます。贈呈式で彼女が見せた強い意志を秘めた、あの凛々しい瞳を私は忘れられません。
 ひるがえって日本の状況を調べると内容や程度に違いはあるものの、同年代の若者たちも厳しい状況にさらされていることに気づきます。

事実一。厚生労働省の発表では二〇〇九年度九月末現在の高校生の就職内定率は三七.六%で前年同期を一三.四ポイント下回り過去最大の下落率。

事実二。年収二〇〇万円未満の家庭での高校生の四年制大学進学率は三割に満たない一方、千二百万円以上の家庭では倍以上の六割強に達していること。さらに母子家庭の調査などから世代を超えて貧困が連鎖している実態が明らかとなった。

レ・ティ・キム・チュンさん

 グローバル化のもとでは二極化は避けられません。しかしながら、どんな状況下でも自分の未来を切り拓くのは、自分自身の努力しか無いのです。以下に引用するチュンさんからの手紙の一部を読むことで、日本の若者たちが力強く生き抜くための勇気を少しでも取り戻してくれればと心の底から私は願うのです。

 『皆様お元気ですか? 皆様にお会い出来ることを願っています。支援隊から奨学金を頂いて、沢山の励ましを頂戴しました。そして頑張る力も与えて頂きました。学校の友達には、日本人の優しさ、親切さ、人を愛する心について話をしました。そして友だちには、あの時下さった富士山の写真を自慢して見せました。友だちは皆、日本の素晴らしさと日本人の事を感心してくれました。

私の故郷はとっても貧しいです。両親は二人とも軍人でした。兄弟は五人です。女三人男二人です。しかしお兄さん二人は枯れ葉剤の影響を受けて普通の生活はできません。全ての事は誰かにやってもらわなければなりません。私が中学二年のとき兄が一人亡くなりました。家族は少しの水田を耕作しています。両親は戦争の時負傷しています。しかし両親は私を養うのに一生懸命です。生まれつき障害を受けている子ども達を悲しく思っているようですが、それにもかかわらず負ける事無く私達を養って、教育も受けさせてくれています。

 両親を悲しませないようにしようと考えています。そして自分自身いつも願っていることは、早く大人になって家族を助けられるようにしたい。そして、いつか日本に行ってみたい、ということです。日本人はとっても親切な人たちだと思います。

 最後に皆様のご健康と仕事が順調でありますように、そして今後意義のある活動を続けてくださる事を心から願っています。』

ゎぁぃ♪ ヾ(*⌒∇⌒)八(⌒∇⌒*)ツ ゎぁぃ♪
以上が、名古先生の寄稿の全内容です。奨学金を贈呈した 近況を知らせる手紙がきた 私は、こういうやり取りを続けながら、相手の方の気持ちを想い、家庭を想像し、私達とのつながりが太くなっていくのだと思います。
                         
一方通行でなくてよかった・・と、この便りでさらに力が湧いてきました。キム・チュンさんも、もっともっと話したいことがあるのではないかと、思います。キム・チュンさんに少しでも笑顔を、キム・チュンさんのご家族に少しでも笑顔を・・そこにボランティア活動の大いなる楽しみがあると、考えます。
                         
ニンビン省での奨学金贈呈の時、名古先生は、相手の男子生徒より深いお辞儀をして渡されたのをみて、これは大事なことと深く感じました。必ず、相手に気持ちは通じる・・・その気持ちとは・・・「彼」や彼女」のまなざしを未来に向けてあげようとするやさしくも、雄大な気持ちではないでしょうか。 私たちの側のその心を大事にしていきたいと、私は思いました。(北村 記)Posted by Picasa

トリビューン紙パート2(下)

今日のパート3も、いろいロ意味のある記事です。ご一読ください。
(´゚'ω゚`)ショボーン  (´・ω・)9 このやろう
2正面戦争
メアリー・アンドーヴの夫はベトナム退役軍人で元海兵隊員である。彼は、1989年にクーリーの死因と同じ多発性骨髄腫と診断された。復員軍人省は、それをその5年後までエージェント・オレンジ関連の疾病と認めなかった。
復員軍人省がエージェント・オレンジの曝露は戦後の高い発症率と関連があると認める16年前に、ベトナム戦争は実際終わっていたのだ。1991年に認められた最初の3疾病は、軟部組織肉腫、非ホジキン・リンパ腫と、化学会社が数十年以上前にダイオキシンと関連性があるとした皮膚疾患の塩素ざ瘡だった。
1991年から1997年の間に、復員軍人省は、数種のガンと神経障害を含む10の疾病がエージェント・オレンジ関連の疾病という証拠を受け入れた。次の6年間で、2つの疾病が、さらに追加された。
ヴェトナムで従軍した退役従軍看護婦のドーヴは、早くから彼女の夫に言っていた:「病気と戦うの?それとも、政府と戦うの?-あなた、両方はできないわよ」と。彼女の夫は、闘病することを選択した。だが、彼はその病気で6年以内に亡くなってしまった。
ドーヴは言う。「政府は、ベトナムでやったことなど分かっちゃいない。破壊が為されたのだ」
圧倒的な傷病の請求の数が、遅れに拍車をかける。復員軍人省の年次報告によると、障害手当て受給のベトナム退役軍人の数は、2003年から2008年にかけて20%増大し、1,015,410人になった。

同時に、湾岸戦争、アフガニスタン紛争とイラク戦争の後、手当てを受けている復員軍人の数は、88%飛躍し、897,000に及ぶ。

「イラクとアフガニスタンのケースを迅速に処理するという多くの圧力がある。路頭に迷っているようにみえるのは、その中間のケース(ベトナム戦争退役兵のこと)だ。そのケースでは、自分はすでに棄却され、現在上訴している」と、退役軍人のための活動グループ、全国退役軍人法律支援計画(本部:ワシントン)のバートン・スティックマン専務理事は言った。
スティックマンは、復員軍人省は一般的にケチだ。エージェント・オレンジには、常に懐疑的な裁定をする連中だ」と、言った。

シンセキ(ヴェトナムで負傷するベテラン)は、病気を枯葉剤に起因したと思われる病気の拡大しているリストに加えるために、10月に新しい規則を提案しました。規則は、一般のコメントの期間を経ます。彼は、彼も主張プロセスの速度を上げたいと言います。

「事務局長としての私の確証から、私は何回も問いただした。『ベトナムで最後にエージェント・オレンジが使用されて40年も経っているのに、どうしてまだ、戦場で従軍した我々の退役兵の健康状態をきめベテランに健康結果を決めようとしているのか』」と。シンセキ氏は当時の声明で次のように述べた。「多数の健康問題に耐えている退役軍人は、タイムリーな決定を待っている」と。

全米ベトナム退役軍人会のポールサットン前議長は、「その発表はあまりにも些細なことであり、をあまりにも遅すぎた。現時点で、我々の仲間のおよそ150万人は逝ってしまった」と語った。

Feeling 'betrayed'『裏切られた』

ジャック・クーリーは、政府と戦おうなどとは一度も思ったことがなかった。彼はセントルイスの陸軍高等学校に通い、ウェストポイント陸軍士官学校では、南北戦争のユリシーズ・グラント将軍に深い尊敬の念を抱いていた。1965年版ウェストポイント年鑑(ホウィッツァー)の中で、同級生がこう述べている。「ジャックは、『強襲してものを取っていく』タイプではない」と。
1968年7月のある日に、クーリーはヘリコプターで、クアンチ省着陸地点ジェーンに飛んだ。彼は、妻マリアに宛てた手紙の中で、「神に見捨てられた所」と書いた。

クーリーは、キャンプ・キャロル所属の砲撃将校として、地域を移動していた。トリビューン紙による撒布データの分析で、全部で16万8千ガロンのエージェント・オレンジと他の枯れ葉剤が、彼がそこに駐屯していた年に、クアンチ省にばら撒かれた。

「ここは、現在でもましな場所だ」と、クーリーが1968年前半に郵送した録音テープの中で、彼の母に確信をもって語っている。

退役後、クーリーはノートルダム大学から法律の学位を取得して、シカゴで連邦判事の秘書として勤め、連邦治安判事に任命された。彼は、人々をまとめることができる熟練した調停者との名声をえた。彼は問題解決に関して教科書を書き、ノースウェスタンやロヨラ大学で教壇に立った。

彼が多発性骨髄腫と診断されたとき、クーリーはすばやく病気はエージェント・オレンジ剤との関連だと思った。

「私は、その時(2007年夏)2と2を一緒にして、私が空中監視任務と別の任務の最中に、多量の有毒化学物質の曝露した気づいた」と、クーリーは障害補償を求める復員軍人省宛ての請求文書に、こう書いた。

クーリーは、幹細胞移植を以前に受けたが、病気の拡大は止められなく、エヴァンストン病院で集中治療を受けている間、クーリー家は復員軍人省へのクーリーの請求作業を始めた。

クリスティーナ・クーリーは、ヴェトナムで従軍していた男女兵士に対して、エージェント・オレンジの危険性を明らかにしなかった政府の怠慢によって、父は「非常に裏切られたと感じている」と語った。

「政府は我々を見守るためにあると、父は強く信じていた」と、彼女は言う。

9月(2009年)に行われたクーリーの追悼式で、シンセキ長官を含めたウェストポイント65期生('65年卒業組)の友人が出席した。そして、追悼式の最後の短い祈りの中で、「エージェント・オレンジために仲間を失った家族」と復唱されました。

その2週後、連邦政府から送られた箱が、エヴァンストンにあるクーリー家の郵便受けの中に入っていた。中には、クーリーはベトナム戦争に従軍していたことを立証するという、ほぼ4ヵ月前に要請された文書だった。(完 パート3に続く)Posted by Picasa