2010-01-08

ある少女からの手紙 眼科医・名古良輔

私たちのベトナム支援隊ツアーに一昨年と昨年、2年間連続で参加してくださった沼津在住の眼科医師、名古先生が、地元紙の沼津朝日新聞に寄稿されましたので、今回は、名古先生のご許可を頂いて、その投稿記事をご紹介させていただきます。「ある少女からの手紙」の内容は、本ブログでも昨年の12月25日のクリスマスの日に「蓮の花奨学生からの便り(2)」として掲載してあります。そちらもご覧ください。
ヾ(●⌒∇⌒●)ノ わーい  ワーイ♪♪\(^ω^\)( /^ω^)/♪♪ワーイ 

「ある少女からの手紙」
 名古良輔
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 二年前からベトナムでの枯葉剤被害者支援活動に参加しています。昨年は計十五名の子ども達に学業の支援にと奨学金を贈呈しました。会の中心メンバーであるジャーナリストの北村元さんのアイディアで、切手を貼った封書を同時に手渡し、春と秋に奨学生のみなさんに近況を報告してください、とお願いをしました。
私が贈呈役を仰せつかったクアンガイ省の高校三年生レ・ティ・キム・チュンさんからも手紙が届いたのです。その手紙からは、日本では想像もできない険しい状況の中で必死に学ぼうとする彼女の強い決意が感じられます。贈呈式で彼女が見せた強い意志を秘めた、あの凛々しい瞳を私は忘れられません。
 ひるがえって日本の状況を調べると内容や程度に違いはあるものの、同年代の若者たちも厳しい状況にさらされていることに気づきます。

事実一。厚生労働省の発表では二〇〇九年度九月末現在の高校生の就職内定率は三七.六%で前年同期を一三.四ポイント下回り過去最大の下落率。

事実二。年収二〇〇万円未満の家庭での高校生の四年制大学進学率は三割に満たない一方、千二百万円以上の家庭では倍以上の六割強に達していること。さらに母子家庭の調査などから世代を超えて貧困が連鎖している実態が明らかとなった。

レ・ティ・キム・チュンさん

 グローバル化のもとでは二極化は避けられません。しかしながら、どんな状況下でも自分の未来を切り拓くのは、自分自身の努力しか無いのです。以下に引用するチュンさんからの手紙の一部を読むことで、日本の若者たちが力強く生き抜くための勇気を少しでも取り戻してくれればと心の底から私は願うのです。

 『皆様お元気ですか? 皆様にお会い出来ることを願っています。支援隊から奨学金を頂いて、沢山の励ましを頂戴しました。そして頑張る力も与えて頂きました。学校の友達には、日本人の優しさ、親切さ、人を愛する心について話をしました。そして友だちには、あの時下さった富士山の写真を自慢して見せました。友だちは皆、日本の素晴らしさと日本人の事を感心してくれました。

私の故郷はとっても貧しいです。両親は二人とも軍人でした。兄弟は五人です。女三人男二人です。しかしお兄さん二人は枯れ葉剤の影響を受けて普通の生活はできません。全ての事は誰かにやってもらわなければなりません。私が中学二年のとき兄が一人亡くなりました。家族は少しの水田を耕作しています。両親は戦争の時負傷しています。しかし両親は私を養うのに一生懸命です。生まれつき障害を受けている子ども達を悲しく思っているようですが、それにもかかわらず負ける事無く私達を養って、教育も受けさせてくれています。

 両親を悲しませないようにしようと考えています。そして自分自身いつも願っていることは、早く大人になって家族を助けられるようにしたい。そして、いつか日本に行ってみたい、ということです。日本人はとっても親切な人たちだと思います。

 最後に皆様のご健康と仕事が順調でありますように、そして今後意義のある活動を続けてくださる事を心から願っています。』

ゎぁぃ♪ ヾ(*⌒∇⌒)八(⌒∇⌒*)ツ ゎぁぃ♪
以上が、名古先生の寄稿の全内容です。奨学金を贈呈した 近況を知らせる手紙がきた 私は、こういうやり取りを続けながら、相手の方の気持ちを想い、家庭を想像し、私達とのつながりが太くなっていくのだと思います。
                         
一方通行でなくてよかった・・と、この便りでさらに力が湧いてきました。キム・チュンさんも、もっともっと話したいことがあるのではないかと、思います。キム・チュンさんに少しでも笑顔を、キム・チュンさんのご家族に少しでも笑顔を・・そこにボランティア活動の大いなる楽しみがあると、考えます。
                         
ニンビン省での奨学金贈呈の時、名古先生は、相手の男子生徒より深いお辞儀をして渡されたのをみて、これは大事なことと深く感じました。必ず、相手に気持ちは通じる・・・その気持ちとは・・・「彼」や彼女」のまなざしを未来に向けてあげようとするやさしくも、雄大な気持ちではないでしょうか。 私たちの側のその心を大事にしていきたいと、私は思いました。(北村 記)Posted by Picasa

トリビューン紙パート2(下)

今日のパート3も、いろいロ意味のある記事です。ご一読ください。
(´゚'ω゚`)ショボーン  (´・ω・)9 このやろう
2正面戦争
メアリー・アンドーヴの夫はベトナム退役軍人で元海兵隊員である。彼は、1989年にクーリーの死因と同じ多発性骨髄腫と診断された。復員軍人省は、それをその5年後までエージェント・オレンジ関連の疾病と認めなかった。
復員軍人省がエージェント・オレンジの曝露は戦後の高い発症率と関連があると認める16年前に、ベトナム戦争は実際終わっていたのだ。1991年に認められた最初の3疾病は、軟部組織肉腫、非ホジキン・リンパ腫と、化学会社が数十年以上前にダイオキシンと関連性があるとした皮膚疾患の塩素ざ瘡だった。
1991年から1997年の間に、復員軍人省は、数種のガンと神経障害を含む10の疾病がエージェント・オレンジ関連の疾病という証拠を受け入れた。次の6年間で、2つの疾病が、さらに追加された。
ヴェトナムで従軍した退役従軍看護婦のドーヴは、早くから彼女の夫に言っていた:「病気と戦うの?それとも、政府と戦うの?-あなた、両方はできないわよ」と。彼女の夫は、闘病することを選択した。だが、彼はその病気で6年以内に亡くなってしまった。
ドーヴは言う。「政府は、ベトナムでやったことなど分かっちゃいない。破壊が為されたのだ」
圧倒的な傷病の請求の数が、遅れに拍車をかける。復員軍人省の年次報告によると、障害手当て受給のベトナム退役軍人の数は、2003年から2008年にかけて20%増大し、1,015,410人になった。

同時に、湾岸戦争、アフガニスタン紛争とイラク戦争の後、手当てを受けている復員軍人の数は、88%飛躍し、897,000に及ぶ。

「イラクとアフガニスタンのケースを迅速に処理するという多くの圧力がある。路頭に迷っているようにみえるのは、その中間のケース(ベトナム戦争退役兵のこと)だ。そのケースでは、自分はすでに棄却され、現在上訴している」と、退役軍人のための活動グループ、全国退役軍人法律支援計画(本部:ワシントン)のバートン・スティックマン専務理事は言った。
スティックマンは、復員軍人省は一般的にケチだ。エージェント・オレンジには、常に懐疑的な裁定をする連中だ」と、言った。

シンセキ(ヴェトナムで負傷するベテラン)は、病気を枯葉剤に起因したと思われる病気の拡大しているリストに加えるために、10月に新しい規則を提案しました。規則は、一般のコメントの期間を経ます。彼は、彼も主張プロセスの速度を上げたいと言います。

「事務局長としての私の確証から、私は何回も問いただした。『ベトナムで最後にエージェント・オレンジが使用されて40年も経っているのに、どうしてまだ、戦場で従軍した我々の退役兵の健康状態をきめベテランに健康結果を決めようとしているのか』」と。シンセキ氏は当時の声明で次のように述べた。「多数の健康問題に耐えている退役軍人は、タイムリーな決定を待っている」と。

全米ベトナム退役軍人会のポールサットン前議長は、「その発表はあまりにも些細なことであり、をあまりにも遅すぎた。現時点で、我々の仲間のおよそ150万人は逝ってしまった」と語った。

Feeling 'betrayed'『裏切られた』

ジャック・クーリーは、政府と戦おうなどとは一度も思ったことがなかった。彼はセントルイスの陸軍高等学校に通い、ウェストポイント陸軍士官学校では、南北戦争のユリシーズ・グラント将軍に深い尊敬の念を抱いていた。1965年版ウェストポイント年鑑(ホウィッツァー)の中で、同級生がこう述べている。「ジャックは、『強襲してものを取っていく』タイプではない」と。
1968年7月のある日に、クーリーはヘリコプターで、クアンチ省着陸地点ジェーンに飛んだ。彼は、妻マリアに宛てた手紙の中で、「神に見捨てられた所」と書いた。

クーリーは、キャンプ・キャロル所属の砲撃将校として、地域を移動していた。トリビューン紙による撒布データの分析で、全部で16万8千ガロンのエージェント・オレンジと他の枯れ葉剤が、彼がそこに駐屯していた年に、クアンチ省にばら撒かれた。

「ここは、現在でもましな場所だ」と、クーリーが1968年前半に郵送した録音テープの中で、彼の母に確信をもって語っている。

退役後、クーリーはノートルダム大学から法律の学位を取得して、シカゴで連邦判事の秘書として勤め、連邦治安判事に任命された。彼は、人々をまとめることができる熟練した調停者との名声をえた。彼は問題解決に関して教科書を書き、ノースウェスタンやロヨラ大学で教壇に立った。

彼が多発性骨髄腫と診断されたとき、クーリーはすばやく病気はエージェント・オレンジ剤との関連だと思った。

「私は、その時(2007年夏)2と2を一緒にして、私が空中監視任務と別の任務の最中に、多量の有毒化学物質の曝露した気づいた」と、クーリーは障害補償を求める復員軍人省宛ての請求文書に、こう書いた。

クーリーは、幹細胞移植を以前に受けたが、病気の拡大は止められなく、エヴァンストン病院で集中治療を受けている間、クーリー家は復員軍人省へのクーリーの請求作業を始めた。

クリスティーナ・クーリーは、ヴェトナムで従軍していた男女兵士に対して、エージェント・オレンジの危険性を明らかにしなかった政府の怠慢によって、父は「非常に裏切られたと感じている」と語った。

「政府は我々を見守るためにあると、父は強く信じていた」と、彼女は言う。

9月(2009年)に行われたクーリーの追悼式で、シンセキ長官を含めたウェストポイント65期生('65年卒業組)の友人が出席した。そして、追悼式の最後の短い祈りの中で、「エージェント・オレンジために仲間を失った家族」と復唱されました。

その2週後、連邦政府から送られた箱が、エヴァンストンにあるクーリー家の郵便受けの中に入っていた。中には、クーリーはベトナム戦争に従軍していたことを立証するという、ほぼ4ヵ月前に要請された文書だった。(完 パート3に続く)Posted by Picasa

2010-01-07

トリビューン紙パート2(中)

今日は、昨日の(上)の続きの(中)です。読んでください。なお、掲載の写真と文中の人物とは無関係です。
(`Д´)ゴゴゴ…━(ノдヽ)━( 乂 )━━━ヽ(゚Д゚)ノゴルァァア!!
3種の行為の悲劇
ベトナム退役軍人にとって、エージェント・オレンジをめぐる進行中のドラマは、3つの行為に分類できる。最初の第1は、兵士たちがヴェトナムで撒布されたダイオキシン入りの枯れ葉剤がもたらす危険性に、全く気づいていないこと。第2は、遅ればせながら、危害があったことを発見し、憤激する。そして、第3の行為は、復員軍人を助けるために出来た官僚機構に欲求不満を起こすことだ。
シカゴ清掃局の元運転手、ジェームズ・スプランデル氏は、この三つ全てを乗り切った。
戦闘行動中のアメリカ軍兵士。場所日時不明。

スプランデル氏はほぼ41年前に、サイゴンの20マイル南の、タン・アン軍用飛行場の戦闘従軍医として1年の”ツアー”を生き抜き、安堵して、南ベトナムを去った。今日、64歳になったスプランデル氏は、糖尿病と脚力がなくなる神経障害のため、車椅子を使用している。復員軍人省に障害請求を認めてもらうのに14ヵ月かかった。

彼には戦地を再訪したいという願望はほとんど湧かないが、はっきりと思い出すのは空軍基地周辺の川と小川の水は何もおかしくなかったと、スプランデル氏には自信があるということだ。「入浴のための巨大なタンクがあった。われわれはそれに浸ったり、タンクの水を飲んだ。彼らは、それが携帯用の水であると我々に話った」と、スプランデル氏は言った。

兵士たちはバーベキュー用の台として、トイレの汚水層として、シャワー用水保存タンクとして、普通にへージェント・オレンジのドラム缶を再利用した。しかし、健康リスクがあることは、一度も知らされていなかった。調査によれば、55ガロン入りのドラム缶には、5ガロンものエージェント・オレンジが残留していたことがわかった。

アールオイに向かうクアンチの山道 木は未だに生えない

戦後まもなく、政府は、復員軍人がダイオキシン曝露による健康不安に直面しているという新たな認識に対応するように見えた。エージェント・オレンジの危険性について学ぶと、議会は即座に、枯れ葉剤曝露の健康影響を決定して、監視することを意図して、1979年に全面的疫学調査を命じた。

しかし、政府はその命令にたじろいだまま、まだそれを実行していないのだ。

ヴェトナムで従軍した女性兵士の初期の研究は、生殖の問題と第2世代の先天性欠損症だけでなく、数種類のガン発症のより高い危険性を仄めかしている。しかし、男性の帰還兵と同様、広範な研究はまだ完成していなかった。

激戦地の一つ:ハイヴァン峠

一方、復員軍人は、ヴェトナムで使用された除草剤を生産したダウケミカル社、モンサントや他の化学会社に対して大型の集団訴訟を起こした。この訴訟は、1億8000万ドル支払うことで、1984年に和解となった。1988年から1997年までの間支給された最も一般の支払いは、精神障害のためであったが、それは、皮肉にも、研究ではエージェント・オレンジに関連していなかった。

法廷外の決着である和解は、しばしば論争の終了を暗に示す。しかし、この論争はこの25年で決着どころか大きくなる一方であった。合意の時点で、科学者は、ダイオキシンの長期の影響、特にガンや徐々に小さな研究で文書化されていく遅く発症する病気との関連性を完全には理解していなかった。

1998年に、弁護士は、何千もの復員軍人が枯れ葉剤と関連する病気を発症する頃には、和解金が完全に底をついたと主張して、枯葉剤を製造した化学会社を相手に新たな訴訟を起こした。そして、第2回巡回控訴裁判では、その主張を却下した。そして、最高裁判所は3月にこの裁判の審理を拒否した。

枯れ葉剤の健康への影響に関する最も包括的な研究は、空軍によって行われた。27年以上は生物学的サンプルを採取し、戦争中に、枯れ葉剤を扱って撒布した少数の兵士の健康を追跡した。

枯れ葉作戦のために名づけられたランチ・ハンド作戦の研究は、化学製品の影響を過小評価していると長い間く批判を受けてきた。もっと最近では、戦争中に使用された一部の枯れ葉剤は、かつて思われていた以上にダイオキシンに汚染されていたことを示す新情報が出てきた。
研究に取り組んだ科学者は、この光の中で豊富なデータを再検査すれば、重要な新しい洞察をもたらすことが出来ると言う。「私は、全部が再検討される必要があると思う」と、サンアントニオのテキサス大学健康化学センターの伝染病学者ジョエル・ミカレック氏は言った。

一昨年、アメリカ議会は復員軍人省に対して、その作業のために資金提供をするよう指示した。しかし、今までに、資金が利用できるようにはなっていない。(下に続く)
( ゚Д゚)ドルァ!!  (`Д´)ゴゴゴ…━(ノдヽ)━( 乂 )━━━ヽ(゚Д゚)ノゴルァァア!!Posted by Picasa

2010-01-06

トリビューン紙パート2(上)

シカゴ・トリビューン紙の報告を続けます。
トリビューン紙調査のパート2では、長い銃撃戦が海外で終わると、多くのアメリカ復員兵にとって、エージェント・オレンジ関連の健康問題の補償を求める官僚との戦いは、予想外の新たな戦争に発展している、という報告だ。
困ったもんだ ( ̄~ ̄)ξ (・_・。))コマッタナァ
エージェント・オレンジの致死遺産:ヴェトナム戦争復員兵、傷病の後に続く不正義
ヴェトナム戦争復員兵は障害者認定を求めて、何年もかけて懐疑的な機関との戦いが続く

ジャック・クーリーは、病院ベッドから、長く優れた法曹の職歴を使って、最後の激論を展開した。
多発性骨髄腫で倒れる4か月前に、シカゴ地区のベトナム退役軍人であり連邦治安判事の彼は、正義を求めて140頁の主張を書き、米復員軍人省に訴えた。政府に対するクーリーのメッセージは、個人的で、直接的だった:エージェント・オレンジは私を殺しにかかっている。だから、貴省は責任をとる必要がある。

クーリーは昨年の春そのことを知らなかった。しかし、前砲兵隊キャプテンである彼が、彼はちょうど多くの復員兵が身に堪えている腹立たしいまでの官僚の迷路に入り込んだ時に、障害請求を起こした。復員軍人省は1ヵ月後、クーリーがヴェトナムで従軍したという必須の証明に欠けていると主張して、クーリーの言い分を逆襲した。


クーリーは、何か月もかけて、この入り組んだ迷路を進んだ。しかし、クーリーの余命少なく、彼の家族は、旧友であるウェストポイント陸軍士官学校1965年卒業組のメンバーに接触した。その人が、エリック・シンセキ元アメリカ軍参謀長で、現復員軍人省長官だったのだ。

手っ取り早く、クーリーの主張に対する障害は立ち消えた。クーリーがエヴァンストンで、65歳で、7月21日に亡くなる3ヶ月前に、復員軍人省は、障害者手当てとしての2,700ドルの小切手を届けたのだった。

「これは、傷病に対する侮辱だった」と、彼の娘クリスティーナが言った。「シンセキ将軍がもし・・・家族の友人でも、ウェストポイント同級生でもなかったなら、私たちはこのお金を見ることはなかったろうと思う。私は人脈もなく苦闘している他の皆についてもそう思わざるを得ない」

ベトナム戦争はほぼ35年前に終結した。しかし、多くの復員軍人には、戦争で使われた枯れ葉剤と関連したガン、糖尿病、パーキンソン病など他の病気との戦いは、今始まったに過ぎない。2007年までは、ジャック・クーリーは健康だったのだ。

多くの復員軍人には、これは、古い戦争が終わってしばらくしてからの予想もしなかった新しい戦争なのだ。

政府は、数十年後にベトナム退役軍人を襲った衰弱性疾患と、戦時の従軍との関係を認めるのが遅かった。復員軍人が公認されたエージェント・オレンジと関連している病気に苦しむ時でも、彼は復員軍人制度の障害補償を要求を何年も待たなくてはならない。

エージェント・オレンジへの曝露と関連した一種の血液がんである多発性骨髄腫によるジャック・クーリーの死は、戦争関連の障害請求に関する最終的な仲裁人である復員軍人省の行き詰まった作業に風穴を開けることになった。

「本当は、ヴェトナムに行った復員軍人が、一般人の仲間より重い病気で戻ってきたということだ。何かが、あそこで起ったんだ。それをめぐって、腕相撲なんかしてもしょうがないでしょ?」と、リンダシュワルツは言った。彼女は、コネティカット州の復員軍人問題委員会の委員長で、女復員軍人の健康に関する初期研究をまとめた人だ。

復員軍人省は、シンセキ長官と話し合うという要請を断った。シンセキ長官は、同省の考え方を変え、同省を国に尽くした人々の擁護者にしたいと言った人だ。

長期に眠っていたエージェント・オレンジの効果が、多くのヴェトナム戦争帰還兵の表面に出始めたために、復員軍人省が交通渋滞(北村註:書類審査の遅れ)を除くために3,000人以上の職員を増強したにもかかわらず、障害の請求はそれを上回る速さで増えていった。

「彼らはどこから手をつけていいかわからない状態だ。彼らには、迅速な意思決定をなどできないのだ」と、元復員軍人省弁護士で、現復員軍人省に対しうる裁判の復員軍人代表をしているジョー・ムーア氏は、言う。

訴訟が復員軍人省に90日以内の請求決定を求めてワシントンの連邦地裁に起こした2008年12月の裁判に呼応して、政府は、「ヴェトナム戦争時代の復員軍人の特定の病気」が、案件処理の滞りの原因だと認めた。

アメリカのヴェトナム戦争復員軍人協会と近代戦争復員軍人が起こした裁判では、帰還兵の障害請求に対して復員軍人省が行動を起こす前に、「毎年何千もの復員軍人が死亡している」ことが論争となっている。訴状では、復員軍人省が最初の請求を検討するまでに少なくとも6ヵ月はかかり、上訴は4年かかるという。

「そのような遅れを目の前にすれば、多くの帰還兵は、長年の遅れや欲求不満に耐えるよりは、むしろ、本来もらうべきものより少ない価値のものを甘受する方を選択して、諦めるだけだ」と、訴状で述べている。

さもなければ、彼らは早く死んでいくだけだ。復員軍人省のデータによると、2000年から2007年までの間に死亡した490,135人のベトナム退役軍人のうち、58%は、60歳以前で若死にしている。(中に続く)Posted by Picasa

2010-01-04

蓮の花奨学生からの便り(6)完

蓮の花奨学生からの便り最終回は、クアンガイ省の青年グエン・タイン・チ君です。チ君は、蓮の花奨学金を受けて、2年目になります。われわれが会ったのは、8月20日、クアンガイ省の枯れ葉剤被害者協会で、奨学金を贈呈した時初めてでした。奨学金は櫻井恵美子さんがお贈りしました。近況報告は11月29日に書かれ、ホーチミン市から12月4日に投函されております。それでは、想像をめぐらしながら、読んでみてください。
【☆´Ⅴ`★p《*:。・元気出して・。:*》q
p【◇:*・。元気出すんだょ。・*:◇】q´∀`◎)
ベトナム支援隊の皆様へ
先ず最初に皆様のご健康をお祈り申しあげます。
それから手紙が遅くなってすみませんでした。勉強が忙しかったことと、入院していたために遅くなりました。お許し下さい。
8月20日贈呈式で、櫻井恵美子さんから

ホーチミン市に三ヶ月前に勉強しに来ました。現在ホーチミン市経済大学に通っています。私は、今姉の家に居候しています。大学まで20kmくらいの距離です。

大学に入学する前に先輩達に勉強がとても難しく大学生活は楽しくないといわれましたが、始めてみたらとっても楽しく、大学の友達も親しみやすく、楽しく頑張っています。

勉強もそれ程難しくなく先生の講義を真面目に聞けば問題ないと思います。

テストの点数は全部ではないのですが、少し分かりました。今のところ満点かそれに近い点数を取れました。

大学の部活にも参加しています。ようやく若者の生きる力と情熱を理解できた気が致します。この大学で自分を発見し、自分の能力を伸ばすことが出来ると確信します。大学で勉強が出来るということの価値が、ようやく分かったような気がします。
チ君の手紙 ホーチミン市の字がみえますね。
自分の将来、親への恩返し、そして支援隊の皆様への恩返しの為に今後一所懸命頑張ります。

皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします。

そして、改めて皆様にお礼を申し上げます。近いうちにお会い出来ることを心より願っています。
  (静岡在住 ヴィンさん訳 2009.12.22 ありがとうございました)
ワーイ♪ ヘ(゚∇^ヘ)(ノ^∇゚)ノ ヘ(^∇゚ヘ)(ノ゚∇^)ノ ワーイ♪
うれしいお便りでしたね。成績もよさそうだし、自信を持っているのがうれしいですね。私の方からも会いに行きたいです。住所は、ホーチミン市ミンタン郡チュオン・フック・ファン通りとなっています。それにしても、大学まで20キロとは、すごい距離です。バス通学? それとも自転車???じゃあ大変でしょう。学問は距離ではないですが、通学時間も半端じゃないと思いますね。
チ君の奨学金申請の文書を載せておきましょう。北村の名前が出ていますが、枯れ葉剤被害者協会の方が小生の名前を言ったんでしょう。申請書記入時は、まだ高校生でしたので、在学中の高校の名前が出ております。

ベトナム社会主義共和国
国立・自由・幸福

申請書

北村さまへ、

私はグエン・タイン・チです。 1991年生まれです。
住所:クアンガイ省、モードゥック郡、ドゥックラン村

チャン・クアン・ジエウ高校在学です。
2007年~2008年には、ベトナム支援隊の皆さまから奨学金、1.50万VND(ベトナムドン)を受け取りました。ありがとうございました。

2008年~2009年度が終わり、この申請を書いて2008年~2009年の奨学金を頂けると本当うれしいです。ご検討をよろしくお願いします。

お礼を申し上げます。

2009年7月30日
Nguyen Thanh Tri
数学、理科、コンピューター、 国防教育、体育は、いずれも80点以上でした。そして、担任先生の意見として、「友達と仲良くしている。家族は貧しいが、よく勉強している。何でも熱心で吸収している。」と、書いてあります。
蓮の花奨学金を贈呈した人は皆希望に輝いていますが、チ君は中でも希望の星ですね。その後に続く人たちが必ず出てくると思います。入院したとありましたが、健康に気をつけて、学問をどんどん吸収してもらいたいと思いますね。
今回の頼りは一応これで終わりますが、また機会があれば掲載していきます。(完)Posted by Picasa