この3月16日、私はクアンガイ省ソンティン郡ソンミ村を訪ねました。
ご記憶の方もあると思います。40年前の1968年の同じ日、ベトナム戦争のさなか、アメリカ軍が、この小さな村にやってきて、村人の虐殺を行いました。4時間に504人の婦女子、老人、子ども殺す愚行でした。全員が民間人でした。これが、いわゆる”ソンミ虐殺”事件です。
私は、改めて平和を考えるために、虐殺現場に立ってみようと思いました。
504本の花を手向けた元アメリカ兵など、内外から7000人が参加した追悼慰霊式。
その翌日、現在は虐殺の愚行を伝えるソンミ博物館の館長をされているファム・タイン・コンさんを訪問しました。
以下は、コン館長のお話の一部です。
私の母親がアメリカ軍に殺されたのは、私が11歳の時です。
午前6時半頃、アメリカ軍の飛行機が飛来して、爆弾を落としました。爆弾投下が終わると、、アメリカ兵が地上からやってきて、市場や学校で人々を捕まえました。
覚えているのは、銃の音、周りの家が燃えていたことです。
9時半頃、アメリカ兵3人が私の家にやってきました。私の家には地下壕があります。家の人は地上に出ていました。私は、隣の叔父さんの家に走って逃げました。ところが、叔父さんたち2人は、すでに死体となっていました。また自分の家に戻りました。「叔父さんたちは死んでいたよ」というと、母は泣き出しました。母は、「お前だけでも先に隠れなさい」と言いました。
アメリカ兵がわが家に火をつけました。母は泣きました。母が泣き始めた途端、アメリカ兵は皆を撃ちました。母と3人の姉妹は、走って地下に向かいました。母は、私の2歳の妹を抱いて、最後に地下壕に入ったと思います。当時、父は別の所で働いていましたが、この分では父もやられたのはないかと思っていた時に、アメリカ兵は母や姉妹3人を撃ちました。母と妹が最後に地下壕に入ったところを、アメリカ兵に見つけられたからだと思います。
地下壕の一番奥にいた私が、助かりました。母や姉の体がバラバラになったのをみて、私は逆の出口からさらに走って逃げました。その銃撃で、我が家の地下壕は壊れました。夕方4時頃になって、他の人が来て、私を助けてくれました。助けられた時に、私はだっこされたのを覚えています。
村中どこでも、死体だらけ、年寄り、女の人がやられていました。私の家族の死体は、地上に並べられていました。街全体は、焼かれた家の煙に包まれていました。父は、1970年に畑で殺されました。
ここまでの道のりは大変だったでしょう?
とにかく、村人はここからいなくなりました。
私は、少し南部にいって、クアンガイの中学、高校で勉強しました。
今まで生きてこられたのは、政府、人民のおかげです。また、学校もよく面倒をみてくれました。お金も貰いましたが、精神的には助かりました。
畑の仕事をし、勉強をした後は、いろいろの仕事をしました。
結婚する時には、家もありませんでした。人の家に居候させて貰いました。夫婦で頑張って、なんとか小さい家を建てました。
妻は農業をしていますが、二人の苦労は今も続いています。まだまだ頑張らないといけません。現在、こどもは3人で、上2人は、ホーチミン大学で勉強中です。
アメリカ軍を許す気持ちは?
戦争中はアメリカ軍を許す気持ちはありませんでした。アメリカ軍を人間として考えていませんでした。化け物としての存在でした。同じ人間を拷問したり、虐待したり、殺したりするのは、すでに人間ではありません。化け物です。
コンさんの10代のときの写真
世界に一番訴えたいことは?
ここで働くということは、何回も自分の家族の痛みを話すということです。こういうことは本当はやりたくありません。しかし、村人と若者がこういう愚かな事件で苦悩し続けているという事実や、ベトナム人の苦しい生活の現実を直接見てもらいたいのと、アメリカ軍の蛮行を知って貰うために話しています。
世界の人は、現実に起きたこういう現場での話を聞かないと、戦争の事実、戦争の愚かさ、アメリカ軍の蛮行を分からないでしょう。分からないということは、蛮行が繰り返される恐れがあります。
鋭い指摘だった。蛮行を語り継いでいかなくてならないのだ。人類が、いつでも賢明とは限らないのだ。この事件のカリー中尉率いるアメリカ軍だ。
アインシュタインは言う。
「ごくふつうの人のうちに、特別な動機がなくても、無限の悪を為す能力がある」 「悲しいことに、善を為すとも悪を為すとも決めることのできない人間が、最大の悪を為すのです」(了)