2008-08-17

前立腺ガンとオレンジ剤の新研究(アメリカ)

このほど、アメリカの一医師を中心とした研究で、ベトナム復員兵士前立腺ガンが普通の人の数倍多いことが分かりました。以下は、その記事です。枯れ葉剤は、北ベトナムや解放戦線兵士の天蓋を剥ぎ取り、敵の糧食を奪うことを狙ったアメリカ軍の愚かな作戦ですが、この白い噴霧の下には、北ベトナム軍や解放戦線兵士のみならず、アメリカ及び同盟軍の兵士もいたということです。

エージェント・オレンジと前立腺ガンの関連:アメリカの研究

ロックランド(アメリカメイン州)8月12日AP電によると、ロックランドの研究者が中心になって進めた新しい研究で、ヴェトナム戦争時にエージェント・オレンジ剤にさらされた軍人が、特に積極的な形の前立腺ガンを起こす可能性が高いことを示している。

ラーズ・エリソン博士は、メイン州に来る前の2003年から2007年まで診察していたカリフォルニア州デーヴィスの復員軍人病院で、自分と他の医師が多数の前立腺ガン患者に出会ったのにヒントを得たと語った。

調査では、強力な除草剤と枯れ葉剤にさらされた兵士は悪性の病気にかかる率が、2倍半高いことを示している。また、ガンは診断前に4倍も拡大していることを示している。

「復員兵士は、普通の人より非常に悪性の病気を潜在的に持っている」と博士は語り、彼らにはより積極的に対応管理する必要がある。」と、そして、エリソン博士はバンゴアデイリーニューズに語った。同博士は、現在イラクに派遣されている。

その研究結果は、来月9月に「ガン」誌上に発表されることになっている。この研究は北部カリフォルニアの13,000人のベトナム退役軍人協会データベースを基礎にしている。その半数はベトナム戦争中にエージェント・オレンジ剤にさらされており、残りの半分はオレンジ剤にはさらされていない。

前立腺ガンに対する定期検診は、一般には50歳の男性から始まるが、アフリカ系アメリカ人や、前立腺ガンの家族歴をもつ特定の男性には、より高い危険があると考えられており、40歳から検診開始をすべきだとしている。

エリソンの調査では、ベトナム退役軍人も高い危険性を示しているが、早期発見の可能性がある年齢をとっくに過ぎていると指摘している。

「これらベトナム退役軍人は、すでに50代、60代になっている。彼らは、早期発見の年齢にしては年を取りすぎてしまった」と、エリソン博士は語る。

同研究によれば、1962~1971年までにアメリカ軍は、ヴェトナムで2000万ガロンを超えるエージェント・オレンジ剤と類似の化学性枯れ葉剤を散布したとみられているとしている。

エージェント。オレンジに含まれる化学物質は、ガン、脳障害、生殖障害や他の疾病と関連がある。
(ニュース・ソースはバンゴール・デイリー・ニューズを引用したAP電です。2008年8月12日午後1時56分アメリカ東部標準時アップデート・リリース)訳:北村 元
悲しいニュースですね。ここまでいろいろ各種データがこれまででておりながら、アメリカ政府は、枯れ葉剤との因果関係を一切認めないと言うのは、どういうわけなんでしょうか。兵士を戦場に送って戦わせておきながら、疾病発病には、目を向けようとしない・・・冷たい政治が、幅を利かせます。人命より政治優先の世界なのでしょうね。
日本の水俣病発病でも、一体この半世紀に水俣を訪問した首相は、手をあげろと言いたくなります。誰一人としていないのです。ここでも、政治最優先。患者より、政治家の面子です。どこの国も、馬鹿な政治家が幅を利かせているのです
政治は、民を幸福にするのが、最大の目的であり、それ以外にないのではないか?・・と思うのですが、いかがですか。
ブッシュさん。人の命って、そんなに低いものですか。最後に一つホームランを放って、自己の花道を飾ってはいかがですか?  (了) Posted by Picasa

2008-08-16

ソンミの虐殺から40周年(下)

ベトナム、クアンガイ省ソンミ村(現ティン・ケー村)の虐殺から今年で40周年。時の経つのは早い物・・・という即物的表現が、この虐殺の生き残りの方々に受け入れて貰えるかどうか。家族をいきなり奪われて生きてこなければならなかった人たちにしてみれば、この40年は、塗炭の苦しみの連続であったはずだ。
下の写真は、生き残りの一人、お子さんをつれたファム・ティ・トゥアンさんの若き日だ。
2008年3月16日、クアンガイ省の虐殺現場に立ってみて、改めて戦慄を覚えると同時に、絶対悪の戦争を二度と起こさないために、平和への固い決意を誓った。
生き残りの方2名のお話を織り込んで、ソンミ虐殺のアルバムを作ってみた。ご覧頂ければ幸いだ。
まず、下の写真をクリックしてください。次にアルバムがでます。写真の上にカーソルを置くと、説明が出ます。航空写真をクリックすると、ベトナムの衛星写真に、小生の撮った写真の撮影場所がしめされます。そこでも、カーソルを写真の上に置くと、説明が出てきます。
お楽しみください。

2008-08-15

ハロン湾観光から1年

2007年8月に、枯れ葉剤被害者支援の途中で立ち寄ったハロン湾。
あれから、もう1年が経つ。
貸し切りの船上でエビの料理を食べ、ビールをのみ、春巻きを食べて・・・風に吹かれたあの日から1年だ。
あの時の写真から、10枚を公開しよう。

下の写真をクリックすると、ハロン湾の景色がでてくる。
航空写真をクリックしてくれれば、航空写真のなかに、撮影場所が示される。

御一見を。

Ha Long Bay


2008-08-14

ダン・トゥイ・チャムの日記(2)

前回は、ダン・トゥイ・チャムの日記について書きましたが、今回は、トゥイ・チャムの写真と、彼女が戦争中、殺されるまで共に働いていたクアンガイ省ドゥク・フォー郡のゆかりのある人数人に会って話をききましたので、その一部をご覧ください。

なお、この1枚の写真をクリックすると、他の写真が出てきます。
マップ表示・・をクリックすると、写真撮影したベトナム・クアンガイ省の場所が地形で出てきます。
航空写真・・・をクリックすると、衛星写真の上に、小生が撮った場所の写真が付いてきます。
写真の上にカーソルをもってきますと、写真の説明が出てきます。
ごらんくださいませ。
また、スライド・・・をクリックすると、スライドになります。お楽しみ下さい。
Dang Thuy Tram 2

ダン・トゥイ・チャムの日記(1)

ベトナムでは、今、ベトナム戦争中の激戦地の一つ、クアンガイ省の野戦病院でアメリカ軍と戦って死亡した女医ダン・トゥイ・チャム(27歳)の日記がアメリカや故国ベトナムで出版されて、もう3年になる。新鮮な旋風を起こした。
私は、2008年3月、枯れ葉剤被害者支援のかたわら、彼女が働いていた病院の一つと彼女と行動を共にしていた人と会った。その人たちの写真は、(2)に掲載する。美しき省・クアンガイの人々の暖かい心に捧げたい。

 「私は、十分な薬もないのに虫垂炎の手術をしなければならなかった。しかし、その若い負傷兵は一度も泣いたこともうめき声を上げたこともなかった。彼は、笑みを絶やさず私を励まし続けた。彼の乾いた唇が作り出す作り笑いをみて、彼の疲労を知って、私は彼に申し訳ないと感じた・・・私は軽く彼の髪の毛をなでた。私は、彼に伝えたかった。『私が直すことが出来ないあなたのような患者には、私が一番心を痛めます。そして、その記憶は決して消えることはないでしょう』と。」

 ダン・トゥイ・チャムの日記は、こういう書き出しで始まっている。
女医の母ドアン・ゴック・チャムさん
 ダン・トゥイ・チャムとは、ベトナム戦争でアメリカ軍と戦い、アメリカ軍の攻撃から自分の担当する野戦病院を守ろうとして殺された北ベトナム軍医だ。元アメリカ情報士官の手元で35年間眠っていた彼女の日記が2005年に世に出てから、ベトナムでは40万部を売って一大旋風を起こしている。ベトナムの若人にも、愛国的ノスタルジアの波紋を広げている。今年の9・11にはアメリカで英語版も出た。

 58,000人のアメリカ軍兵士だけでなく、推定300万のベトナム人の戦死者を出したこの戦争についての日記を読んだ人は、今までで一番心を動かされたし、且つ正直な描写だと評している。

日記の一部

 1965年という分岐点の年の3月から12月まで、南ベトナムに駐屯するアメリカ軍の軍事顧問団に、20万の武装兵士が加えられた。農業と漁業の極貧小国での地上戦の始まりを告げる物であった。

 アメリカ軍の攻撃をかわしながらホーチミン・ルートを3ヶ月かけて志願して南下して行った多くの北ベトナム人民の一人が、ダン・トゥイ・チャム医師だった。1967年、彼女が23歳の時だった。

 医者一家出身のチャム医師は、1967年に、中部ベトナムのクアンガイ省のキリング・フィールドの野戦病院に自ら希望して勤務についた。日記は、その翌年の4月から始まっている。その年のテト攻勢を受けたニクソン大統領は、史上最大の空爆を計画、実行したのである。

 友人や家族は、彼女のことをミドルネームでトゥイと呼んでいた。最初、彼女は、そのような困難な仕事を引き受けるつもりはないようにみえた。彼女は、金持ちの子どもではなく、文化と教育の素養ある子どもだった。もちろん当時は、北ベトナムに富裕な人などいなかった。南下を続ける彼女の長い行脚は、中部ベトナムのクアンガイが終点だった。クアンガイは、素晴らしく美しい地域であり、そびえ立つチュオンソン山脈の山の端が、黄金色をした壮大な南シナ海になだれこむ所でもある。

 トゥイの専攻は科学と医学だったが、一方で音楽は大好きだった。ギターが得意であり、ヨーロッパの古典音楽からベトナムのポピュラー音楽までを愛聴した。彼女はまた、詩や文学にも堪能だった。彼女の同級生は、彼女は魅力的であり、健康的で、人なつっこく、素敵な笑顔を持った女性だという。

 トゥイは、保健衛生局の医者であった。南ベトナムでは、つまりベトコンとよぶ南ベトナム民族解放戦線の指導の下で働いていた。クアンガイ省のジャングルの山中の陣地に隔離された小病院で、彼女は一度に8人もの負傷兵を受け入れていた。そういう病院は、一般的にアメリカ軍の“無差別砲撃地帯”に置かれていた。つまり、アメリカ軍のポリシーでは、敵兵士であれ見方の兵士であれ、ベトナム人が目撃されれば無差別に発砲することが許される地域である。彼女の病院のうち3箇所は連続で、アメリカの空爆で壊滅されたか破壊された。

ベトナムで出版された本と日記
 1968年7月25日の日記のように、トゥイはしばしばアメリカ人に深い憎しみを表している。「まあ、なんと、この戦争は憎むべき物か! そして憎めば憎むほど、悪魔は元気に戦ってくるのだ。われわれの善良な人々を、彼らは一体どうして発砲し、殺すことを楽しんでいられるのか?人生を楽しみ、多くの夢を抱いて苦闘し暮らしているこれらすべての若者を殺せる心臓を、どうやったら持てるというのか?」

 爆撃が彼女の病院に迫ってくると、日記は、チャム医師が目撃する恐怖を同情と怒りの言葉を使って、かわるがわるいろいろ表現で記録している。アスピリンと包帯で重い傷を負った仲間の治療に疲労して、彼女は、1970年5月の日記にこう書いている。「犬畜生、ニクソンは馬鹿で気が狂っている。彼は戦争を拡大しているのだ・・・。なんと憎むべきことか! 私たちは皆人間だ。しかし、一部の人は非常に残酷で、他人の血を自分たちの金の木に水代わりにやろうとしているのだ」。また別の日には、爆撃が「木々を剥いで」「家を木っ端微塵にして」いるので、「死が身近にきている」と書いている。

 1970年6月20日、チャム医師が戦死する数日前に書かれた最後の日記は、偲びがたいほど辛いものがある。「私は成長した。すでに困難と向き合って強くなってきた。しかし、なぜこの瞬間、私の面倒をみてくれる母の手を欲しがっているのか?安心させてくれる私が知っている人の手を必要としているのだろうか? 私が孤独になった時にどうか、私の所までやってきて、私の手を握って欲しい。私を愛してほしい。私の前につながる茨の道を切り抜けていけるように、私に強さを下さい」
トゥイ・チャム医師(クアンガイで)
 彼女が27歳で亡くなる直前、爆撃で彼女の患者5人が亡くなる事故があった。チャム医師は、残りの患者とスタッフを安全な場所に移動する手伝いをし、二日後、彼女は当時人のいなくなった病院を破壊していたアメリカ地上軍と戦った。「彼女は遺体を撃ち抜かれた。彼女には降伏するように説得したが、発砲してきた」とホワイトハースト氏は語った。彼女は、患者と看護婦を守りながら、中国の旧式のSKSという単発式のライフル銃で、重装備のアメリカ軍に応戦し殺された。ダン・トゥイ・チャムは、額を撃ち抜かれ即死して倒れた。

 彼女のリュックサックは遺体のそばにあった。中から、小型のソニーのラジオ、包帯、局部麻酔薬、スケッチと彼女が治療した傷に関するノートが出てきた。北ベトナム兵大尉に書いたいくつかの詩の束と大尉の写真も出てきた。彼女の日記となる2冊のノートは、ジャングルの中の近くの道に落ちていた。ダン・トゥイ・チャム医師の長くて危険な戦争は終わった。27歳だった。

(2)では、ゆかりの地とゆかりの人々を紹介したい。Posted by Picasa

2008-08-12

2008年下半期のご寄付(2)

2008年下半期のご寄付(2)としてお名前を掲載させて頂き、感謝の意を表したいと思います。8月21日からの愛のベトナムさわやか支援隊支援ツアーで、皆様のご厚志を早速ベトナムの方にお伝えしていきます。有難うございました。
2008年8月12日
愛のべとなむさわやか支援隊 会長 大釜 一男
       同         事務局長 宮尾 和宏

1)7月28日 鈴木嘉代子さま 稲城市 衣類+お菓子

2)8月03日 相澤 暢子さま 豪州 支援金

3)8月06日 原 政枝花道教室さま 三島市 支援金

4)8月07日 (メガネの三島)小野秀人さま 三島市 眼鏡

5)8月10日 映心宗流家元 内田壱貴さま 沼津市 支援金

6)8月10日 映心宗流教授会さま 沼津市 支援金

7)8月11日 「メディオ薬局」代表取締役 稲垣紀行さま 薬品

8)8月12日 沼津西ロータリークラブさま 沼津市 支援金

9)8月15日 涌井妙子 さま 三島市 衣類 

10)8月15日 後藤昌子さま 沼津市 支援金

11)8月15日 田村栄子さま 沼津市 支援金

大切に使わせて頂き、御報告申し上げます。<(_ _)>

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