2009-10-26

戦争の現実

戦争の現実は、こういうものだという記事が、今年7月12日付けのオーストラリアのサン・ヘラルド紙に掲載されましたので、皆さんの理解のためにも翻訳を掲載します。
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オーストラリア軍兵士が、ベトナム戦争中に軍用車でべトコンの遺体を引きずり回したことが発覚したが、オーストラリア軍当局はこれまで40年間も否定してきた。

ここにいたって、作戦行動中に戦死したベトコン兵士の遺体を爆破した場所を特定してほしいというベトナム政府の要請で、1969年5月にトゥア・ティック村とスエン・モック村での悪行の真実がやっとベールを脱ぐかもしれなくなった。

ドン・テートさん(写真下)は、今、60歳。オーストラリア軍の醜い行為が行われた時には、第2D・E小隊所属の兵士だった。

「40年間もでたらめな隠蔽がされてきたんだよ。それが、やっと明るみに出ようとしているんだ。彼らは墓などみつけられやしないだろう。だって、(骨も)何もありゃしないんだから」と、ドンは言った。

幻の第2D・E小隊が存在していたとオーストラリア軍がついに認めたのは、テート氏の著作”内なる戦争”(The War Within)が昨年出版された後になってからに過ぎない。マイク・ケリー国防政務次官は、7月に、幻の小隊が正式に召集されたものではないが、戦闘活動に従事していたと認めたのだ。
テート氏(ウーロンゴン南部のシェルハーバー出身)は、「39人の幻の小隊は、1969年5月に、それよりはるかに大規模のべトコン集団を待ち伏せして攻撃した。それは小隊規模での戦闘では、ベトナム戦争最大のものでしたよ」と言った。
公式報告書では、戦死したベトコン兵士の遺体は緑色ののポンチョにくるみ、埋められたとされている。

しかし、当時小隊の一兵士だったテート氏は、「遺体はクレイモア地雷とC4爆薬を充填された穴に引きずり込まれて、”工科兵士式埋葬”と言われる方法で処置した 彼らは吹き飛ばされたんだよ。彼らが見つける遺体や骨なんかありっこないよ」と証言した。

別の5遺体は、足首を紐で兵員装甲輸送車の後部に結わかれて、べトコン同調者への警告として地元の村まで引きずっていかれた。

テート氏は、彼の本でこう書いている。「結局、残りの遺体はスエン・モック村の中央まで引っ張って行って、村の中央で捨てられた。頭はなかった。彼らは、頭が落ちるまで、兵員装甲輸送車の後ろで叩いていた。頭がどこで落ちたか、神は分かっている」と。

遺体が兵員装甲輸送車に引きずられていたので、その時に撮られた写真は村民のぞっとするような反応を示している(写真下)。(北村註:子どもですら、異様な光景に、手で口をふさぐ子、両手を胸に当てて引きずられる様をみている子、呆気に取られている幼児の姿が見られる)

昨年ケリー政務次官が公式に認めたことで、ベトナム政府はハノイのオーストラリア大使館とれんらくをとり、戦死した全ベトナム兵の埋葬場所を情報の提供を求めた。

駐ハノイのオーストラリア大使館武官、スチュアート・ドッズ大佐は、当時の第2D・E小隊員と連絡をとって、墓の場所に関する情報提供を求めた。

テート氏は言った。「オーストラリア兵は、命令を受けて行動していた。その極悪な行為に蓋をするために、軍は39人のオーストラリア兵の公認記録を抹消したのだ。そして、何人かの兵士は軍人年金の支給を拒否されている。やっと、真実が白日の下にさらされるのだ」

兵員装甲輸送車の運転手、アラン・スタントン氏は、別の騎兵隊部隊の出身だった。彼はは、今年初めに自著「私が忘れる前に」(Before I Forget)を出版した。彼は、第2D・E小隊の説明を確認したのだ。

ベトナム退役軍人で、元兵役問題に関する首相の諮問会議のメンバーでもあるニール・ウィークス退役准将は、この問題の存在に気づいていたが、私見しか述べられないと言った。「私は、そこのなんらかの問題があるようだ、そして、かなりハイレベルで解決する必要があると思う」と、彼が言った。

ジョージ・マンスフォード准将(その人はヴェトナムで4つのビクトリア十字勲章を授賞したオーストラリア軍訓練部隊のキャプテン)は、墓を探さないほうがいいと述べた。「残っていたとしても、若干のものだ。われわれが聞いたことが真実であるならば、それは間違いなく傷口を塩でこすることになろう」と。

オーストラリア戦争博物館の広報担当は、「トゥア・ティックでの作戦成功の公式見解は存在しない。作戦の記録と元兵士の説明は、敵の遺体の処分方法について一致していない」と言った。

国防省広報係は、「ハノイのオーストラリア大使館のスチュアート・ドッズ武官が、ベトナム側の行方不明兵士の捜索を支援するために、オーストラリアの退役兵士グループからの情報を求めてきている」と、明らかにした。

以上が、記事の内容です。戦死した敵の兵士を車で引き回したりしたのは、なにも、オーストラリア軍が初めてではないと思います。小生には、戦場での経験はありませんが、そう思います。これが、戦争の現実の一つです。

戦死した兵士の遺体の扱いについて、ある方がこう書いています。
戦死者埋葬は捕虜の仕事になります戦時国際法では兵士(士官は別)に対価を払えば労働をさせても良いのでこういった兵士が嫌がる仕事をさせたりします。その他に法務官は戦死者数の調査を行ったりします。
後の戦没者慰霊碑を作る資料になりますし論功行賞や戦時犯罪の摘発に必要になるからです。基本的には可能な限り全部埋めます。
何故そうするかというといくつか理由があります。遺体の放置は病気の蔓延や鼠の大量発生という衛生的な問題がありますし、野晒しではあまりに惨いし、士気が落ちます。また遺体を移送する時に友軍が見ますと士気が落ちたりすることもあります。
補給部隊の帰路を搬送に使うと衛生の問題も出てきますし、負傷兵の後送にも使わねばなりませんから。基本的には衛生の問題もあって戦場に残った側の軍が処理することになります。
場合によっては敵味方の現地野戦軍指揮官が申し合わせて遺体回収埋葬をしたりします。この場合は利敵行為とはなりません。日本では日露戦争の記録が残っています。一次大戦では塹壕間に取り残された遺体をそうして処理したようです。
その他軍隊や各国の習慣によって微妙な特徴があります。米国海兵隊は遺体をなるべく持ち帰るようですが、海軍は基本的に水葬です。アリゾナ記念館は有名で、あの戦艦そのものがお墓です。
最終的には戦後に墓地なり慰霊碑などを建立してまとめます通常こういった施設に冒涜的な行為を行えば野蛮人とみなされます。観光で行ったとしても日本人の誇りを持って礼儀を尽くす方が良いでしょう。
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この方はこう書かれていますが、実際はなかなか、そうはいかないでしょう。ベトナム戦争でも、戦死者に対しても、憎しみを表す行為をしていた兵士もいるようです。自分の所属する部隊の行為に触れる元兵士はなかなかいませんので、実態はつかめません。兵士の良心に訴えるしかありません。
戦争は、間違いなく青年の未来を奪っていきます。だからこそ、多くの悲惨な経験を、未来に生かしていかなくてはなりません。平和への強い情熱を、いかにして若い世代に継承していくか・・・大きな課題です。Posted by Picasa

2009-10-21

支援隊ツアー09(65) 枯れ葉剤被害者協会3

トゥ会長ほかお二人の部長との会談は、こうして終わり、トゥ副会長がわざわざ見送りに出てくださいましたので、記念写真を撮りました。来年の再会を約して、お互いに握手をかわして、健闘を祈りあいました。時に、8月24日午前10時半でした。
いろいろな出会いや経験をそれぞれの胸に秘めて、2009年のツアーの行事は終わりました。参加の皆様、ご支援くださった皆様に、厚く御礼を申し上げます。ありがとうございました。
最後に、ベトナム政府天然資源・環境省の刊行物のなかに書かれていた一文を掲載し、
65回に及んだツアー記録の連載をひとまず終わらせていただきます。今後とも、逐次、枯れ葉剤情報を発信していきます。
さて、一文は、静岡市ご在住のレ・ティ・ホン・ヴィンさんの訳に、小生が少々手を入れさせてもらいました。ヴィンさんには、この席で厚くお礼を申し上げます。

戦争が終わってから30年の歳月が経過した。しかし、戦争、とりわけアメリカ軍による化学戦争が環境や人間へ長年にわたって深刻な影響を与え続けている。

多くのベトナム人や外国人の研究者が、ベトナム戦争中に使用されたダイオキシン(枯れ葉剤)による被害について研究し、その研究結果を多くの国際的な学会や専門雑誌に発表してきた。しかし、私達の、枯れ葉剤についての理解は、まだまだ浅いのが現状である。枯れ葉剤の被害は南ベトナムの多くの地方に見られている。戦争中、南ベトナムの300万ヘタールも及ぶ面積に枯れ葉剤が撒かれ、その中に複数回散布された地域もある。

すでに安全に生活できる地域で安心して生活していても、あるいはまだ危険性の高い地域で適切な警戒と対処をするためには、住民たちに枯れ葉剤に関する正しい理解が求められている。

その理解や知識は、同時にアメリカ政府に枯れ葉剤の被害に対する責任を問う根拠でもある。そして、被害を軽減するために国際的援助などを呼びかける根拠でもある。

枯れ葉剤は、“開墾剤”とも呼ばれ、葉を枯らすものであって、環境や人間に影響を与えないと、アメリカ政府は主張していた。しかし、実際には、ベトナム戦争に使用された枯れ葉剤は、長期的に環境に深刻な影響を与え、何世代もわったて住民たちの健康や生活に深刻な被害を与え続けている。

 枯れ葉剤は戦争の新たな武器として扱われたのだ。

ベトナムで使用される前、アメリカ軍により、アメリカ国内や国外の数多くの試験場で実験された。第二次世界大戦時、1944年と1945年、枯れ葉剤は東京周辺の6県に使用される計画があったが、日本軍が早く降伏したので、使用されることはなかった。
 
1945年以降、アメリカや幾つかの国で枯れ葉剤の実験が続けて行われていた。1950年代半ば、イギリスがマレーシアにおいて初めて限定的に軍事目的に使用した。

枯れ葉剤が長期的に(1961年~1971年)広範囲にわたって使用されたのはベトナムにおいて他にない。

枯れ葉剤の危険性については、アメリカ人科学者も含めて、各国の多くの科学者たちが警告した。アメリカ政府はこれを無視した。

ケネディ大統領は、1961年5月11日に「共産軍による南ベトナム侵略を防ぐために、枯れ葉剤と最新の武器を使用し、ベトナムの国境周辺の陸上や海上を制圧出来るようにする」と、宣言した。

初めて枯れ葉剤が撒かれたのは、1961年8月10日で、国道14号線(コントゥム省北部)がその標的だった。世論の批判を避けるために、枯れ葉剤散布任務を実行していたアメリカ軍機には、南ベトナム軍のマークが付けれ、アメリカ兵は制服ではなく普段着を着用していたのだ。

南ベトナムで撒布された枯れ葉剤の量は1967年に頂点に達し、68年から70年にかけて少し減少し、アメリカ軍による活動は1971年に終了したが、南ベトナム軍は終戦まで活動を続けた。

アメリカ軍は、南ベトナムの380万ヘクタールの面積に枯れ葉剤を8000万リットルほど撒き、200万ヘクタールの熱帯雨林、約23万6000ヘクタールの農地、約13万5000ヘクタールのゴム農園を破壊した。さらに、土地と水源を汚染させて、長期にわたって住民の生活や健康に深刻な被害を与え続けている。
                       
ベトナム戦争における枯れ葉剤の使用は、アメリカの科学者も含め、世界の科学者たちから、人類の歴史において最も環境を破壊する戦争行為として批判されている。
                    
1966年6月15日、アメリカ科学振興協会(AAAS)は、「アメリカの科学界は枯れ葉剤がもたらす弊害について懸念している。従って、当協会の太平洋事務所は、その弊害について研究するチームを設立し、次回の学会に報告できるようにする」と、発表した。
同年、エール大学のアーサー・ガルストン教授が、アメリカ植物学会と共にジョンソン大統領に手紙を出し、ベトナムでの枯れ葉剤使用に反対した。
 
1967年2月、ハーバード大学のジョン・エドソール博士が代表で、アメリカの5000人余りの科学者(ノーベル賞受賞者17人が含まれる)が、抗議書に署名し、ジョンソン大統領に枯れ葉剤使用の即時中止を求めた。

1968年、アメリカ生物学研究所の支援で行われたある研究は、枯れ葉剤に含まれる2、4、5-Tという成分が、胎児を奇形にするという結果を発表した。この時期、南ベトナムのマスコミも枯れ葉剤が撒かれた地方に多くの異型児が生まれたと報道した。世論の圧力で、1969年10月29日、アメリカ政府は、住民が多く住んでいる地域での使用制限を決めた。1970年4月、アメリカ国防省はベトナムでの枯れ葉剤の使用を終了させることを決めた。

戦争の終焉から30年以上も経過したが、住民の健康や生活に対する枯れ葉剤の影響は相変らず深刻だ。
                           
この冊子は、その被害や影響について読者に必要な知識を提供できることを願っている。そして、苦しんでいる被害者たちのために、私たちが出来ること、すべきことについて、もう一度考えるきっかけになることを願っている。Posted by Picasa

支援隊ツアー09(64) 枯れ葉剤被害者協会2

トゥ会長との会談は、思わぬ方向に向かいました。
北村修治さんは、清水合同労働組合の機関紙「助けられたり助けたり」(156号)に、こう書いています。見出しは「横取りなんてされません」
『8/16→25 また枯れ葉剤被害者をたずねます。30年前ベトナム戦争に使われた枯れ葉剤のダイオキシンによって、今も300万人のベトナム人が苦しみ、孫の世代にまで奇形の子が生まれています。
三島市の支援グループに同行させていただき、今年も被害者の家庭をたずねることになりました。
それで、政府がお金を配ったことだし、そのうちの10%20%あるいは全額でもベトナムに送ってあげてください。
よくお金が横取りされて困った人に渡らない、という話を聞きますが、この三島の人たちに限って、そんことは100%ありません』
バクザン省で車椅子を押す修治さん
その北村修治さんが、「お願いがあります。じつは、ここにいる金原理絵子さんという若い人が、初めてベトナムにきて、なかなかすばらしい意見を私達に聞かせてくれました。ちょっと聞いてくださいませんか」と、トゥ副会長にお願いしました。
トゥン副会長は、「ぜひ聞かせてください」と、言いました。
理絵子さんの発表の機会が急遽実現しました。

理絵子さんが、立ち上がりました。緊張しているのが分かります。 落ち着いて!!!

エッセーを読み上げる理絵子さん

「私は、ベトナムへ来て、普通ではなかなか体験できない貴重な経験をさせてもらいました。

私が一番心に残っているのは、12歳で体重が4キロという女の子とそのお母さんのことです。途中で泣きそうになるのを何度もこらえて話をつづけてくれるお母さんの姿をみて、何ともいえない感情が湧き上がりました。その姿に私も泣きそうになってしまいました。でも、ここで泣くことはお母さんや周りの方にあまりにも失礼だと思い、必死でこらえていたのですが、最後に、お別れの挨拶で抱きしめられた時、お母さんがすごく暖かくて、強くて、少し涙がでてしまいました。

横たわるトゥイーちゃんと母のビックさん(右)

私は、この活動で、枯れ葉剤の被害を受けた方達の辛さと、その人たちを支える周りの人達の辛さを知ることが出来ました。被害者本人はもとより、支える方達の苦労はさらに大きく重いものかもしれないとも思いました。

すごく嬉しかったことがあります。友好村で、ハンディキャップを持った子供達とふれ合った時のことです。はじめは、私達が準備していた「バルーン遊び」を楽しんでくれるかどうかとても不安でしたが、子供達はすぐに打ち解けてくれて、ささやかな遊びのプレゼントを心から楽しんでくれました。とても幸せそうに、明るい声をあげてよろこんでくれて、私のほうが幸せにしてもらいました。本当にうれしかったです。

ベトナムに来られた事に心から感謝しています。ありがとうございました。 

静岡県三島市 金原理絵子

トゥ会長は、立ち上がって、理絵子さんと握手をしました。

「感動しました。涙がでそうです。多くの人に聞いてもらいたいエッセーです」と、最大の評価を頂戴しました。同席したイー部長、ダム部長も、今にも涙を流しそうにして、拍手を送っていました。

まさに、同苦をする・・・とは、困った人の立場にたって、その痛みを分かち合うことです。相手の痛みをわが痛みとして受け止めることです。私達に何ができるのかを、考えることです。会談の大団円は、荘厳な理絵子さんのエッセーでした。Posted by Picasa

支援隊ツアー09(63) 枯れ葉剤被害者協会1

8月24日:いよいよ今次ツアー最後の公式行事になった枯れ葉剤被害者協会全国本部への訪問です。協会の副会長であり、事務局長でもあられるチャン・スアン・トゥさんに
お目にかかることが出来ました。要職にあられるトゥさんの息子さんは、日本に留学経験をお持ちで、トゥンさんご自身”知日家”の方です。トゥンさんと一緒に、同席されたのは、協会の対外関係部グエン・ミン・イー部長と協会の中央常任委員で財務部のドアン・ヴァン・ダム部長です。
私たちからは、まず、今回のツアーの概要を説明しました。クアンガイ省、ニンビン省、バクザン省、ハノイの1都3省で、14名の奨学金贈呈、10軒に20頭の豚の生活支援、2施設での音楽療法、眼科検診、カイロプラクティックの施療、ソンミーでの植樹などの活動報告をしました。
その後、同協会の最大の問題の一つであるアメリカでの法廷闘争支援のために、数年前に大釜前会長が始めた金一封を、今年も例年通り宮尾会長から贈呈させて頂きました。
トゥ副会長と宮尾会長

トゥ副会長からは、丁重なるお礼のお言葉を頂き、ほどなくして、額に入った大型領収書を頂戴しました。毎回のことながら、初めての参観者は驚ろいていました。

この後、宮尾会長から、当支援隊が発信したブログを、昨年同協会訪問時以降から、今次訪問の直前のものまで、1年分をプリントアウトして、クリアファイル3冊に収めて、贈呈しました。                                                     

「5月にパリで行われた枯れ葉剤被害の”良心の裁判”は日本ではほとんど報道されなかったので、ほぼすべての記事を、日本語で収めてあります」と、小生から一言添えました。

これに対して、トゥ副会長はことのほか喜んで下さり、「日本人の来客にも閲覧してもらいます。また翻訳をしたいと考えます。息子にも読んでもらいます」と、話されました。

トゥ副会長のお話は、概要以下の通りです。
                           
「本日は、遠路いらしてくださり、ありがとうございました。現在は、国内企業に対して、当協会の支援を呼びかけているところです。国内外の支援で、6億ドルを頂きました。15%が、外国からの支援です。55の施設を建設し、550戸の家を建てました。1100人に奨学金を授与し、1100人の就職斡旋を実現しました。8月10日の枯れ葉剤の日に向けて、外国の団体から寄付を頂戴しました。
                         
支援の中に、二人の日本人がいました。一人は坂田雅子さんで、ドキュメンタリー映画を作った方です。(北村註:ご主人を枯れ葉剤でなくされ、映画「花はどこへ行った」の制作監督です。米軍兵士としてベトナム戦争に送られた過去をもつ夫・グレッグの死について、友人から当時浴びた枯葉剤が原因ではないかと聞きました。夫が入院してわずか2週間後のことでした。妻である坂田雅子(長野県須坂市出身)に喪失感とともに沸き起こっ たのは、「なぜこんなにも突然に亡くならなければならなかったのか」という疑問 がおき、映画製作のきっかけになったようです)
                            
どうぞ、皆さん、竜眼を召し上がってください。これは。フン・イエンで獲れたものです。昔は王様しか食べない果物と、ベトナムでは言われました。日本にはありますか」
                           
「日本には王様がいなかったので、竜眼はありません」と、小生が応えて、大笑いになりました。
                           
さらに、トゥ副会長は、こう話されました。
                            
「今年これまでに集中して行ったことは、さっき北村氏が話したパリの”良心の裁判”でした。これは、成功に終わりましたが、引き続き、各国に支援をお願いしております。
                           
私達は、今後1年間に目標としていることは、(1)寄付金と人的支援を受ける努力をする。 (2)枯れ葉剤被害者のことで、10月にアメリカに行き、今後の方針を探る。 (3)パリで行った良心の裁判を継続していく この3点です。そのために、多くの国に、ベトナム枯れ葉剤被害者のことを知らしめていきます。新聞、テレビ、インターネットを活用して広報活動を強化したいと考えます。東南アジアはもとより、アメリカ、ヨーロッパ、さらにはアフリカをも視野に入れています。規模を大きくして、周知を図るつもりです。
                           
オバマさんに、手紙を書きます。3億ドルの寄付をお願いしたいと。それは、被害者の正義と公平のためです。
                          
日本の支援もお願いします。国内の啓蒙活動にも力を注ぎます。皆が活動者になることです。若者から年齢に関係なく・・・。学校、テレビ、マスメディア、ベトナムにいる外国人も関係なく・・・活動をやってほしいと考えます。
                 
いま、第3世代が増えつつあります。ダナン、ビンディン省のフーカット、ビエンホアの各空港で浄化活動をしていますが、ダナン空港では、まもなく終わります。アメリカの協力で600万ドルの支援がありました。そのうち200万ドルは医療支援に当てられました。しかし、400万ドルの使い道は決まっていません。ビエンホアでは、きれいになりません。時間がかかるかもしれません。アメリカ人スタッフの費用だけでも、かなりのお金がかかります。
                           
フーカット空港はまだ計画中ですが、チョコスロバキアと協力するかもしれません。土壌が汚染されていることは、認められています。どんな技術を使うかがまだ決まっていません」
                          
ここで、北村修治さんが、「先日、クアンガイに行った時、12歳で4キロちょっとの子どもが寝たままでいました。オバマさん、この子を抱いてください・・と署名活動をして、手紙を書きたいと考えています。オバマさんの奥さんでも良いと思います。」と、発言しました。
                            
トゥ副会長は、すかさず、「それは、すばらしいことです、ぜひおやりになってください」と、応じ、大賛成の意向を示されました。(つづく)Posted by Picasa

2009-10-20

支援隊ツアー09(62) バクザン6 土壇場まで

帰る直前まで、私達は大忙し。「ちょっと目を見ていただきたい子がいるんですが」 名古先生は、気軽に応じてくれました。
三田村さんのご友人の 関本弘子さんからの折り紙の寄付は、作り方まで作ってくださって、三田村さんからヴィン所長に渡して頂きました。ありがとうございました。
講堂で全員の記念写真を撮りました。
別れ際にも、記念撮影・・・はい、来年まで、元気でいてね・・・・子ども達の笑顔に後ろ髪を引かれる思いでした。
(つづく)Posted by Picasa

支援隊ツアー09(61) バクザン5 昇さんの風船教室

「サ、私の通りにやってくださいね」
ところが、なかなか難しい・・・でしょう? クアン君は、ヨーヨーもしっかり持って、離しません。
風船は、すぐ子どものとりこになりました。風船教室が終わると、もう、あとは思いのままです。去年は、布に果物をくくりつけた「果物畑」が大成功を収めましたが、今年は、果物畑から収穫していく人がいて、結構、畑がさびしくなりました。
新谷さんも、作りかけのまま・・・思案・・・・・この後どうしよう・・・完成して、子どもに渡したいんだけど・・。
(つづく)Posted by Picasa

支援隊ツアー09(60) バクザン4 原風景

年の上も下も関係ありません。ここでは、押せる人が押すのです。前の子のシャツの裾を引っ張って・・・昔懐かしい原風景がありますね。みんな、仲間なんですよ。
三田村さん(左)と、北村修治さん(右)
櫻井さんも声をかけながら・・・プッシュ・プッシュ
名古先生も・・・・「クアン君、前見て、前を・・・」
(つづく)Posted by Picasa

支援隊ツアー09(59) バクザン3 新谷さんに合わせる

ここの体育館は、結構大きな面積をもっています。講堂も兼ねているんでしょうね。体育館では音楽療法が始まっていました。去年は、海外青年協力隊の新井智子隊員がいらしたのですが、今年の3月に帰任されています。ちょっと、寂しさがあります。でも、私達の訪問の2週間くらい前に訪問されたと、子ども村の方から伺いました。
子ども達は、一所懸命、新谷さんにあわせようと、ついていきます。相変わらず、いい表情をしているクアン君です。
「え~、速くてついていけない」・・・・時々、新谷さんのフェイントが入りますからね。
はい、先生をみてね・・・
(つつく)Posted by Picasa

支援隊ツアー09(58) バクザン2 大人たちの夏

子どもたちに楽しんでもらおうと、風船とヨーヨーを持ってきたのですが・・・・。カナダライは、揃いました。「おかしいなぁ、そんなはずないんだけどな」などという声が聞こえてきました。金原音楽隊長です。「これを使ってヨーヨーの口を固くしめるんだけど・・・」
三田村さんだけでなく、わが支援隊の運転手さんも手伝ってくれました。
どうやら、順調に動き始めたようです。
要は、風船の口をふさいで、密封状態にするのが、最初ちょっと手間取りました。「一人2個として、後何個必要・・・?」 元気な声が飛び始めました。大人たちの夏の一こまです。
「いやいや、余計に汗かいちゃったな」「子ども達が喜べば、もうそれで十分」(つづく)Posted by Picasa

2009-10-18

支援隊ツアー09(57) バクザン1

8月23日 午後にバクザン省の障害児センターに到着しました。早速、北村修治さんの富士山の写真を贈呈したあと、運んできた衣類を差し上げました。
下の写真は、北村修治さん(左)と若竹 愛さんから、それぞれドー・ヴァン・ヴィン所長にお渡ししているところです。
下は、金原理絵子さん(左)と、三田村真希さん(右)です
下の2枚の写真は、当支援隊が贈った衣類を着てもらった写真を送ってただいたものです。
子ども達のファッションショーですね。皆さん、まだまだ使える衣類が、お宅にありませんか? 供出してください。 汗をかくので、たくさんほしいんです。ただし、着られるもの・・をお願いします。やはりプレゼントですから。
(つづく)Posted by Picasa

支援隊ツアー09(56) 奥井さん帰国

静岡から来た一行より一日早くハノイ入りしてくれた奥井さんが、8月23日をもって、オーストラリアに帰ることになりました。実際営業中のお店をもっての支援隊参加ですから、いろいろと心配は尽きなかったと思います。
だからこそ、よく参加してくださったと感謝の気持ちでいっぱいです。
万歳の声に、通行人も何事か?と

この日、私たちは、バックザン省に音楽療法に出かける行事が待っています。ハノイの友好村で行事を終えたあと、昼は全員で冷房の効いたお店でphoをたべて、ゆっくり労をねぎらっている時間などありませんでした。

それにしても、奥井さんにはお世話になりました。物静かな人柄の中で、じっとベトナム現状を見据えてくれたと思っています。どんなことを、この9日間ほどで思われたか・・・いつかゆっくりと伺いたい気持ちです。

安心タクシーだからと・・タインさん
金原さんでしたか・・どなたかが「万歳三唱しよう」と、声が上がりました。何かかつての東京駅頭の新婚さんの旅行出発時の響きにも似て、ちょっと恥ずかしさも感じましたが、いや、もっと恥ずかしかったのは奥井さんかもしもしれませんが、ともかくも、旅の恥はかき捨て風の心境で、全員で、店の前で大声をあげて、見送りました。幸い人通りはそれほど多くなく、実害は双方ともになかったと思います。
                           
重い荷物を持ってきて下さった往路とは違って、多少身軽になっているとはいえ、ハノイ発ホーチミン乗換えのシドニー行きですから、長時間の旅が待っています。
奥井さん、ほんとうにいろいろありがとうございました。
                          
〔追伸〕帰国後、初めて会ったときに、奥井さんは、「ベトナムは新鮮な素材を使ってすばらしかったと思います。日本は、調味料付けで、ちょっと恥ずかしいですね・・」と、謙虚に話しておられました。Posted by Picasa

2009-10-17

支援隊ツアー09(55) 友好村5 フィナーレ

おい、おい、君たちは何してるのかな。理絵子ちゃんが教えたのと違うものを作っているじゃないか。左はタコで、右はウサギかな?
で、また、君はずいぶん集めたね。だめだよ、売っちゃ。お兄さん、ちょっと、すし握ってくれる?(下)
お開きの時間がきました。ハノイ国家大学の学生さんのリクエストで、全員で写真を撮ることになりました。日本語を話せる人もいて、楽しいひと時でした。ずいぶんとお世話になりました。で、このフロアの最高齢者が、一番若いことをやってくれました。修治さん、法被をきてくれれば、出初式ですよ。
フィナーレの写真は、これです。三田村さんが写っていないのは、カイロの施療で、別棟で、旧兵士に奉仕していたようです。
では、また、来年。お元気で。Posted by Picasa