2009-09-30

支援隊ツアー09(34) クアンガイ省奨学金3

引き締まった奨学金贈呈式だったと思います。この奨学金で、自分の使命がよりはっきりとみつかり、それに向かっていく契機になればと祈らずにはいられません。
皆さんしっかりした人たちにみえました。楽しみです。
いつか、どこかで必ず、誰かに会えると思います。そう願っていきます。
クアンガイ枯れ葉剤被害者協会のカイ会長は、ご自身、肺がんと闘病中の折、出席されました。「必ず肺がんに勝ってみせる」と、前日、力強くおっしゃっていました。お嬢様も枯れ葉剤の被害者です。今回お嬢さんに何かしえんできることがあるでしょうか?と枯れ葉剤被害者協会にききましたが、本人の闘病おを激励してほしいとのことで、支援隊からお見舞い金をおおくりしました。退役大将の心のうちは、どんなものか、と心配しています。
ご挨拶で、「遠く日本の静岡からくれた皆さんに、必ず応えるように・・このことを忘れないように・・」と述べていました。
証書を受け取った皆さんと撮った写真は、私には宝物になりました。一方で若人を応援しながら、まだ、若い人に負けずに勉強しよう・・・そんな気持ちもでてきました。

奨学金贈呈の記念撮影

宮尾会長からも、挨拶がありました。(要旨)

私どもの会が尊敬するファム・ティ・フィフィ先生が、「何時か私の美しい故郷を訪問してください」と声をかけて頂いて、既に3~4年が経過しました。
この度、私たち愛のベトナム支援隊は、初めてクアンガイ省を訪問することができ、クアンガイ省枯れ葉剤被害者協会のカイ会長初め被害者のお手伝いをされている尊い方々にお目にかかることが出来、嬉しく思っております。
(中略)
戦争中は、このクアンガイ省と日本は、縁のある地でした。1946年に、日本人の教官が指導したクアンガイ陸軍中学が設立されたからです。その22年後、恐ろしいソンミ村虐殺事件がおきました。ベトナム戦争中は、ここクアンガイでは、南北の激しい闘いがあり、多くの方々が亡くなりました。そのことも、本日ここにきた私ども13人は十分に承知しております。
平和な時代になっても、戦争の後遺症で苦しむ人たちの少しでも助けになりたいという強い思いを、全員が抱いてやってきました。
ほんの少ししか援助できないことを心苦しく思いますが、1年ずつ連帯を強めて、被害者のために役立っていきたいと思います。われわれの一人一人が、被害者の笑顔を心の中にもって、日本に帰りたいと願っています。(以下略)

懇談会の一部

ほんのわずかな時間で、生徒さんと懇談をさせてもらいました。生徒さんたちの近未来の目標は、前回までのブログにかきましたので、割愛します。

まず、北村修治さんが撮影された富士山と駿河湾の写真で、「4500キロ離れた日本から、私たちはやってきました」と、支援隊原点の地、静岡の説明を簡単にさせてもらいました上の写真で、チ君がもっている写真が、それです。北村修治さんは、この写真をたくさんやきつけて、ベトナムにもってこられました。「視覚に訴えるのが一番です」という修治さんの持論です。この写真で、まだ見ぬ日本をより身近かに、より具体的に感じてもらえたのではないでしょうか。

わずかな時間でしたが、懇談を
この話の中で、主として3点を強調させていただきました。
奨学金を受けた人のなかには、お父さんか、お母さんをすでになくしている人がいました。ご両親がご存命であろうが、なかろうが、「昔から”母の恩の深き事 大海還(かえ)って浅し”という有名な言葉がありますが、両親を悲しませない心が平和創造の原点であることをわかっていただきたい・・」ということ。
そして、2点目は、それに関連して、 桜田百合子さんという方の話をさせてもらいました。「皆さんが受けた奨学金は、日本政府のお金でも、日本企業のお金でもありません。日本の名もない人が出してくれたお金です。そのうちの一人、桜田百合子さんという人がいます。百合子さんは、10歳で父親を亡くし、働きながら通信教育で大学を卒業し、長野大学の教授にまでなった方です。昨年、病気で亡くなりました。その方のお金が入っています。だから、決して、逆境に負けてはなりません。がんばってください」
3点目は、「ここにいる人たちは、カイ会長に選ばれた人たちです。カイ会長に感謝してください。報恩というのは、自分が受けた恩恵を、次の世代に贈ることによって完成します。ですから、必ずしも日本人に返す必要はありません。次の世代の青年を大切にして返していってくれれば十分です」といいました。このブログに登場する名古先生も、不肖私も、奨学金の恩恵で育った人間です。そのありがたさは、身に染みてわかっています。とにかく、忍耐のうえに学業を成就してほしいと思います。
そして、最後に「今日は、ここに来た人と握手をして帰ってください。手の温かい人もいます。冷たい人もいます。柔らかい手の人もいます。ごつごつしている人もいます。みな苦労して来た人の手です。苦しくなった時、辛くなった時、この握手を思い出してください。私たちが日本に帰っても、皆さんが頑張る姿を想像しながら、皆さんの活躍を祈っています」Posted by Picasa

支援隊ツアー09(33) クアンガイ省奨学金2

蓮の花奨学金の贈呈を続けます。日本語で贈呈は初めてとあって、誰もが真剣に耳を傾けていました。
上の写真は、違った角度から撮った写真です。私が座っている場所からは、奨学金を受ける人の顔はよく撮れるのですが、贈呈する側の表情は見えません。

             蓮の花奨学金証書
        Pham Thi Nhung(ファム・ティ・ニュン)さん

   愛のベトナムさわやか支援隊は、ニュンさんの将来の飛躍を願って、今後1年分の学資金の一部150万VNDの奨学金をお贈りします。
   ニュンさんには大事な使命が必ずあります。どうすれば見つけられるか。それは、“じっとしていないこと”です。遠くを見て躊躇するのではない。「目の前の山を登れ!」「目の前の川を渡れ!」と。その   前進の力となるのが、負けじ魂です。ニュンさん!おおきく羽ばたきましょう。

             2009年8月10日
             受領者側代表署名
           廣義省VAVA会長 HoQuyCay
              贈呈者側署名
     愛のベトナムさわやか支援隊会長 宮尾 和宏

近未来の目標【小学校の先生になりたいです】と答えました。現在トゥーギア高校3年生です。お母さんのグエン・ティ・サインさんは、 元兵士で、家庭は貧しいです。

キエットさんに贈呈する大釜事務局長

              蓮の花奨学金証書
      Tran Tuan Kiet(チャン・トゥアン・キエット)君

   私たち支援隊は、少しでも安心して勉学に励めるように、真心をこめて今後1年分の奨学金として180万VNDをお贈りし、キエット君の学生生活を応援します。
   人間は、高みから落ちるか、つらい坂を登って成長するか、そのどちらかしかありません。すべての靄(もや)を振り払って、生きていくことが美しいです。行動することは、もっと美しいです。前進の毎日であることを祈ります。

              2009年8月10日
               受領者側署名
          廣義省VAVA会長 HoQuyCay
               贈呈者側署名
      愛のベトナムさわやか支援隊会長 宮尾 和宏   
          立会人   大釜 一男   K.Ogama

近未来の目標【一つの大学を卒業し、もう一つの大学を卒業します】 現在ファム・ヴァン・ドン大学の3年生です。松葉杖を使って、枯れ葉剤被害者協会の方と、ドゥックフォーから来てくれました。実は、キエットさんは、両足不自由なんです。ご家庭に二人の枯れ葉剤被害者がいます。

チュンさんへの証書を読む名古先生

蓮の花奨学金証書
Le Thi Kim Chung(レ・ティ・キム・チュン)さん

   私たちは、チュンさんが少しでも安心して勉学に励めるように、真心をこめて1年分の奨学金として150万VNDの奨学金をお贈りします。
困難と戦い、これに打ち勝つことが人を幸せにします。最初から何の苦労もしないのは、偽物の幸福です。人生には、さまざまな障害があります。それらと戦い、断固として勝ってこそ、本当の幸福が得られるのです。来年また会いましょう。

2009年8月10日
受領者側署名
立会人 廣義省VAVA会長 HoQuyCay
贈呈者側署名
愛のベトナムさわやか支援隊会長  宮尾 和宏
立会人     名古 良輔   R.Nago
近未来の目標【高校の先生を目指します】と。現在バーザー高校3年生です。お母さんのグエン・ティ・タインさんは枯れ葉剤の被害者です。貧しい家庭ですが、明るい表情をしています。
♭♭♯♯♯♯♭♭
以上6人で、支援隊の奨学金贈呈は終わりました。(つづく)Posted by Picasa

支援隊ツアー09(32) クアンガイ省奨学金1

私は、荘厳な気持ちで、8月20日を迎えました。
一つには、今日は、念願の奨学金授与の日だからです。クアンガイ省枯れ葉剤被害者協会に推薦して頂いた6人の生徒・学生さんに差し上げることになったのです。

初めて会う生徒さん、学生さん。どんな若人なのでしょうか?  努力家なのでしょうか? 親切な人なのでしょうか。発明家なのでしょうか。 指導者をめざしているのでしょうか。 お父さんはいらっしゃるのでしょうか? お母さんはいらしゃるのでしょうか?  とっても楽しみでした。
枯れ葉剤被害者協会の新事務所に、午前8時過ぎ、皆が待っていました。合計8人の奨学金を受ける生徒です。2人は、協会から渡されるそうです。私も緊張しました。
私たちの奨学金証書には、全部一人一人違う文章を書きました。 支援隊の人が読み、一人ひとりに渡すことになっています。通訳から、全文の意味を正確に伝えてもらいました。
そして、もっと大事なこと。それは、授与の日付けを全員8月10日にしたことです。クアンガイでの授与の日は、8月20日です。しかし、授与の日に関係なく、8月10日にしました。
それは、アメリカが初めて試験的に枯れ葉剤を散布したのが、1961年8月10日だからです。この日を忘れてほしくありません。支援隊も同じです。なにはともあれ、この日から、被害者が生まれ始めたのです。被害者発生 淵源の日を、私たちは永久に記憶にとどめたいと思います。

支援隊の奨学金制度のために、お金を出してくださった方々。ほんとうにありがとうございます。こうやってご紹介できることを誇りに思います。
それでは、1回のブログに3人ず証書の全文を掲載し、3回にわたって授与の模様をご紹介します。授与のあと、皆に質問しました。近未来の目標は?  その答えを、証書の文言の後に、記しておきます。
チ君に渡す櫻井恵美子さん

            蓮の花奨学金証書

       Nguyen Thanh Tri君(グエン・タイン・チ)

   愛のベトナムさわやか支援隊は、クアンガイ省でTri(チ)君が勉学に励めるように、真心をこめて1年分の学資金の一部180万VNDの奨学金をお贈りし、学生生活を応援します。
   「元気よくあれ 躊躇するな」「昨日も今日も星はかがやく/頭をうなだれてものは思うな/汝の目をば将来にむけよ」
   Tri(チ)君のご健康とご健闘を祈ります。

         2009年8月10日
          受領者側署名
   立会人 廣義省VAVA会長 HoQuyCay(ホ・クイ・カイ)

          贈呈者側署名
   愛のベトナムさわやか支援隊会長 宮尾 和宏
      立会人  櫻井 恵美子 E,Sakurai

近未来の目標【チ君は進級することです】と、答えました。ちなみにチ君(大学1年)は、高校で、成績優秀で表彰されています。

ニャット君に証書を渡す金原昇さん

              蓮の花奨学金証書
        Nguyen Tan Nhat君(グエン・タン・ニャット)

    愛のベトナムさわやか支援隊は、学資金の一部150万VNDの奨学金をお贈りし、Nhat君が一所懸命勉強に励めるように応援致します。
    「ひた走りに走る先駆の英雄」めざして!
    「輝く笑顔の勝利の英雄」めざして!
    「弱い人を守れる正義の青春」めざして!
    「さわやかな勝利の青春」めざして!
      走れ!Nhat君 (ニャット)!

              2009年8月10日
              受領者側代表署名
          廣義省VAVA会長 HoQuyCay

               贈呈者側署名
       愛のベトナムさわやか支援隊会長 宮尾 和宏
          立会人  金原 昇   N.Kimbara

近未来の目標【大学進学です】と答えました。ニャット君(高3)も、高校で成績優秀で表彰されています。

贈呈書を読む三田村真希さん
蓮の花奨学金証書
Nguyễn Thị Tố Quyên(グエン・ティ・トー・クエン)さん

  愛のベトナムさわやか支援隊は、真心をこめてクエンさんの勉学資金の一部180万VND(ベトナムドン)の奨学金をお贈りし、勉強を応援します。
  人生にも四季があります。そして、人生には“試練”という厳冬の季節が巡ってくる時があります。その時、“絶対に負けない”との強い心で、目前の課題に立ち向かってください。それをなし得た人に、春は爛漫と咲き誇ります。
2009年8月10日
受領者側代表署名
廣義省VAVA会長 HoQuyCay
贈呈者側署名
愛のベトナムさわやか支援隊会長 宮尾 和宏
近未来の目標【国家試験に合格して医師になることです】と答えました。クエンさんはトゥーギア高校を卒業して、今大学1年生です。お母さんのフイン・ティ・ライさんが、 枯葉剤被害者です。
(つづく)Posted by Picasa

支援隊ツアー09(31) 台風ケッツァーナ

台風16号、ベトナムに上陸、死者30人以上

ベトナムから辛いお知らせです。

台風16号(ケッツァーナ)は中心気圧が960ヘクトパスカル、中心付近の最大風速が40メートル、最大瞬間風速が55メートルに達する。中心から170キロの範囲内は風速25メートル以上の暴風域となっている。勢力を盛り返したようです。

上の写真は、ダナン近郊の湖が氾濫し、人が流木を集めているところです。

 フィリピンで大きな被害を出した台風16号「ケッツァーナ」が29日、ベトナム中部の沿岸部に上陸し、ベトナム第4の都市ダナンや古都フエ各地で洪水を発生させました。これまでの情報では、沿岸および高原地帯の数省で、少なくとも32人が死亡、約7人が行方不明となっています。また、約20万人の住民が避難しているそうですが、詳報はありません。

ベトナム航空のダナン行きの全便が欠航し、被害諸省の各学校も閉鎖されています。この台風は、ベトナム最大のコーヒーベルト地帯である中部高原地帯を襲いましたが、輸出には影響ないということですが、次のコーヒー豆の収穫は10日前後の遅れが出るようです。
ベトナム、クアンガイ省人民委員会のチュオン・ゴック・ニー副委員長(副知事に相当)は、この台風はこの30年で最悪のものだと、ベトナム国営テレビで語りました。

われわれが訪問したクアンガイの人たちはどうしているでしょうか。負けないでほしいです。くじけないでほしいです。被害が最小限にとどまっていることを、祈りたいと思います。
                                               
また、先月、あることで機能が不全となり閉鎖していたクアンガイ省のズンクアット石油精製所への給電の復旧に努力しているとも伝えています。同精製所は、来月、日産最大能力の14万バレルのフル・オペレーションにこぎつける予定になっていたそうです。
名古先生がクアンガイのホテルでお会いした石油関係の日本人も、苦労されていると思いますね。
                         
クアンガイ省でお会いした方々、およびフエでお目にかかった方々に心よりお見舞い申し上げます。一刻も早く生活が立ち直れることを祈っています。

なお、台風16号は26日にフィリピンを直撃し、少なくとも246人の死者を出しました。フィリピン政府は国家災難事態を宣布し、アロヨ大統領は台風被害者のため給料を寄付したそうです。被害は1億ドルにも。すでに台風18号が発生しています。
実りの秋、穏やかであれ。Posted by Picasa

2009-09-29

支援隊ツアー09(30) トゥイーチャム2

建物の入り口に”Benh Xa”・・ベンサーと書かれていますので、病院というよりは診療所といえます。これが、トゥイーチャム診療所のほぼ全景です。地域の医療を守る瀟洒な建物です。2階には、数人の入院患者もいました。

中に入ると、トゥイーチャムの肖像画、写真が飾られ、胸像が1階に置かれています。下は、彼女の戦場での姿を、ベトナム人画家が描いたものです。

この日、8月19日、最後の公式行事としてこの日、8月19日、最後の公式行事として、沼津市の株式会社メディオ薬局 代表取締役 稲垣紀行さんから贈っていた
だいた多数の医薬品を、当診療所で、ニンさんに、名古医師からお贈りしました。

昨年は内服薬も贈呈してくださったのですが、副作用の確認など使用上の難しさもあり、今年は稲垣さんにお願いして臨床現場で確実に役立つものに限定していただきました。。

下の写真をちょっとご説明しておきます。写真右側は、稲垣さんからたくさんいただいた医薬品です。その下は、名古医師が、通訳を通して、医薬品の種類、使用方法などを詳しくニンさんに説明しているところです。大きな写真のカットは、ニンさんに手渡すところです。

このブログでも以前ご説明しましたが、国道1号線沿いの小さな町の病院に分散してお贈りしようと思って枯れ葉剤被害者協会に問い合わせたところ、一番貧しいドゥックフォーの診療所に差し上げてほしいとの強いメッセージを受けて、当支援隊は、その希望にそって、ドゥックフォーまで運びました。

ちなみに、沼津とドゥクフォーがどのくらい緯度、経度で離れているかと申しますと、沼津は、北緯35度01分 東経138度53分(大体ですが)、ドゥクフォーは、北緯14度48分、東経108度58分(これも大体ですが)となっており、南北の差でもかなりありますね。

稲垣さん、昨年に続き、ご支援ありがとうございました。

お別れの前に、ニンさんを囲んで、トゥイーチャムの胸像を中心に記念撮影をしました。写っていない支援隊のかたは、写真を撮っているはずです。最近はカメラマン、カメラウーマンが増えて、写る人が少ない時があります。
ニンさん、お元気で。また、お会いしましょう。Posted by Picasa

支援隊ツアー09(29) トゥイーチャム1

食事が終わって、ニンさんは、庭の隅にある避難壕まで案内してくれました。ニンさんのご家族が入った避難壕。そして、ハノイからボランティアでやってきたトゥイーチャムも入った穴です。戦後34年を経て、なお入り口の木枠はしっかりしています。
避難壕は今もカムフラージュされていました
皆の心配をよそに、この避難壕に、北村修治さんが入りました。かなり奥深くあるということです。入ると、少し行って右に曲がり、また鍵の字に左に曲がって、終点は庭の中央あたりまできていると、ニンさんは言っていました。入り口から銃で撃たれても、銃弾が奥までこないように、工夫したのではないでしょうか。
歓迎してくださったお礼に、ニンさんを含めて、地元のご婦人に、歌を披露させてもらいました。
ベトナム語の歌詞をみるニンさん

ニンさんは、トゥイーチャム医師の思い出を話してくれました。

「優しい方でした。私とは6歳違いでした。”ハノイの博士”が来てくれたと思っていました。美しい人でした。美しいお医者さんでした。1967年~1970年まで、家族のように過ごしました。私の母はよく面倒をみてあげましたし、彼女は私たちの面倒をよくみてくれました。アメリカ軍に見つからないように、あの避難壕にも、トゥイーチャムとよく入りました。

彼女は、山で、医療のことを5ヶ月くらい教えてくれました。患者さんにとても優しい人でした。医者の心を教わったように思います。当時、私を含めて字をかけない人も多かったのです。彼女は、文字も教えてくれました。頭が良くて、「先生」「友人」「お姉さん」として、忘れることはできません。

トゥイーチャムは、国が必要な時に、自分の命をかけて戦った人です。トゥイチャムが亡くなったとき、本当に心が痛みました。それは、自分が死んだのと同じことであり、「先生の死」であり、「姉の死」でもありました。1970年6月22日の午後3時ごろ殺されたそうです。私は、夕方の6時ごろ、知らされました。

自分のいたところで、まずお花を捧げました。当時戦闘が激しかったので、すぐはお墓が作れませんでした。3ヵ月後、情勢が落ち着いたときに、皆と一緒にお墓を作ってあげました。遺骨はハノイに移されましたが、毎年お墓参りは欠かしたことがありません」

トゥイーチャムとともに戦争時代を生き、トゥイーチャム医師の清き精神に触発されたニンさんは、いまもゆかりのトゥイーチャム診療所で、彼女の心を伝えています。

幸運にも戦争を生き抜いたご婦人と一緒に
驚いたことに、一人のご婦人(ニンさんの後ろに立っている方)が私のところにやってきました。「実は、私の息子が、日本に留学していまして、名古屋市東区に住んでいます」・・・世間は狭いですね。日本と、まるで縁もゆかりも無い所ではなかったのですね。
トゥイーチャムの遺影(右から二つ目の写真)をバックに、記念撮影をしました。
「ニンさん、地元のご婦人の皆様。お世話になりました。本当に歓待ありがとうございました。楽しい交流でした」Posted by Picasa

2009-09-28

支援隊ツアー09(28) レストラン「Wa」開店の時間です

ついに出来上がりました。30分ちょっと。見事なものです。
祝!奥井ケイタリング・カンパニー・・・
左上の方から、うなぎのお皿 4皿。海草サラダ たっぷり。右の大きなボールは、ざるそば・・どかんと。中央 漬物。手前右にお稲荷さん・・・とおにぎり。手前左側・・・枝豆 どかんと。

「この食材は、シドニーで調達し、ハノイまで運びました。そして、ハノイからダナン~クアンガイまで・・長い距離を旅したものです・・・是非召し上がってください・・・」 奥井さんの挨拶でした。 こういうど田舎で、日本食を食べていただこうという気持ちは価値あることです。

在宅訪問していましたら、初めて外国人をみたという人がいました。それほど、人が入っていかないところに、私たちは入っているのだ・・とつくづく思いました。まして、日本食をみたことは、それまでなかったと思います。

あとは、もう、日越入り混じって、自然に、そして、すばやく立食パーティが始まったのでした。

「おいしい」「うまい」「こんなところで、うなぎをいただくなんて・・・」

「海草サラダが、もう無い・・・」 実は、ベトナム人がとても気に入ってくれたみたいです。最初は、恐る恐るちょっとだけお皿にとって・・・おいしいことがわかると、みんながトレーの周りに寄ってきました。

ゆえに、一番先に無くなった料理でした。

うなぎ 最高。立ち食いそば スルスル・・どんどん。お稲荷さん 食べ過ぎました。
至れり尽くせりの奥井さん ご馳走さまでした。
                          
未使用の食材をニンさんのお宅に置いてくる奥井さんでした。Posted by Picasa

支援隊ツアー09(27) レストラン「Wa」(和)2

昔からの習慣なのか、なにかあると、ベトナムの婦人は食事をみんなで集まって作りあいます。人の家の台所に垣根はないようです。それは、なかなか美しいものであり、そういうものが崩壊してしまった日本は、地域の絆を強くするために、取り戻すべき財産として学ばなければならないと、私は思うのです。
海草サラダの準備も整いました
何がおかしいのか、ほんとうにうよく笑います。ベトナムでは、まだ箸がころんでもおかしい年頃なのでしょうか。

私が、枝豆の味見をしました。

そばにいたご婦人が、「それはそうやってたべちゃだめ・・・。こうやって蔕(へた)をとるのよ」と言って教えてくれました。

「いや、これはこのまま食べて、あとは捨てるんです」と言って、もう一度食べて見せたら、またキッチンで大笑いがおきました。「なんだ、そうなの」

食習慣の違いであり、ベトナムのど田舎には、封を切れば事前に食べられるようになっている食材など揃っていないので仕方がないことかもしれません。日本が便利すぎるのかもしれません。ベトナムでは、その日にとれたものを、その日のうちに食べるのが当たり前です。まだまだ冷蔵庫もそれほど普及していません。

それが海草・・?そうやってまぜるの・・・・(実は、これがおいしいんですよ) 奥井さんの手際の良さを見ていて面白いらしく、私は、ベトナム婦人の表情をたっぷり堪能させていただきました。
それにしても、奥井さんがキッチンで汗を流す間、食事を待つ男性の表情は硬いですね。「豆でも食ってるとするかぁ」ってかんじですね。(つづく)Posted by Picasa

支援隊ツアー09(26) レストラン「Wa」(和) クアンガイ店1

8月19日。この3軒の豚支援の在宅訪問を含めて合計11軒の在宅訪問を終えた私たちは、ドゥクフォーのトゥイーチャム病院に勤務するタ・ティ・ニンさんのお宅へと向かいました。
実は、昨年の3月、家内と私でドゥックフォーに行った時に、「こんどは我が家でご飯をご馳走しますので来てください。トゥイーチャムが入った防空壕も残っていますよ」と、ニンさんが誘ってくださったので、今年お言葉に甘えさせて頂きました。ということで、今日の昼食は、ニンさん家で・・・ということになりました。

この日、私たちの支援隊に今年初めて参加してくれた、シドニーのボンダイ・ジャンクションにある「和」という日本レストランの若きオーナーシェフ、奥井 悟さんが、腕を振るってくるくれることになったのでした。支援が始まってから初めてのプロのシェフの参加です。
田舎周りをしていると、食は大事です。食が楽しみになります。食で明日の元気が創りだせます。準備編として、2回にわたって、ベトナムの台所に集まった越日の主婦の表情をみてみましょう。
るるるるるるるるるるるる~るんるんるんるる~~~
「あれは何かしら・・?」

奥井さんが運んでくれた食材は大変な量でした。悠に20キロ以上はあったでしょう。

実は、心配したことがありました。ハノイのホテルで、冷凍庫にしまってくれていたはずの食材の箱が、2泊の間、ベトナムの常温の中に置かれていたことでした。やはりベトナムだ・・と私は思いました。1泊の夜行列車で運び、クアンガイのシェラトンホテル?に着いた時に、奥井さんは自分の部屋に入ることよりも先に、すぐ冷凍庫に入れてもらいました。

「相当しっかり包装してきましたので、たぶん大丈夫だと思いますが、祈る気持ちです」と、奥井さん。

食材は、大丈夫でした。万歳! やったね。

この日の朝、ホテルを出る前から、奥井さんは仕込みをしてくれていました。
すでに、ホテルのキッチンを借りて、稲荷ずしを40個ほどを完成。なおかつ、ざるそばもベトナム人に食べさせてあげたいという奥井さんは、手際よく大きな鍋でそばをゆで、水を通してかなりの準備が進んでいました。「後は、食べる前にミネラルウォーターをかけて仕上げましょう」と。

発砲スチロールの箱から海草が・・

「うなぎは向こうで切って、そして海草サラダもその後作ればいいと思います」と。
大きなお皿とボールをホテルから借りて、バスの中に積み込みました。

ニンさんの家のそばにバスが着くと、「食材優先だよ、はい、道空けてね」と、声が飛びます。すでに近所のご婦人が10人近くも集まっていました。ご婦人連中が、奥井さんの包丁捌きをみています。ベトナムのご婦人が台所に集まると、にぎやかですね。奥井さんが出してくる食材に、興味津々です。ああでもない、こうでもないといろいろ言っています。料理評論家のように。

奥井さん、すばやく袋を切って、さすがに手際よく、うなぎを切っていきます。

思わずにっこりの金原さん。タオルの人

金原楽団長が、台所に飛び込んできました。うなぎをみて、「お~」と、雄たけびをあげました。

すでに、ベトナム式のおにぎりもできあがっていました。それにしても、すごいですね、ベトナム式のおにぎりは。丸太のような・・・ロケット弾のような・・・どうやって食べるのか・・ですが、これに、ピーナッツを潰した粉(少し塩が入っています)をまぶして・・おはぎのようにして食べます。ピーナッツの粉もいっぱい作ってくれてありました。このピーナッツの粉が自慢何です。自分の家でとれたピーナッツで作った粉だからです。おいしいのは、皆わかっているんです。だから、残ったピーナッツの粉を、某ベトナム外務省職員は、喜んでもって帰りました。

ベトナム式おにぎり
奥井さんは、切ってほしいといわれて、輪切りにしていました。秋田にきりたんぽというのがありますね。ご飯を串に巻きつけて焼きます。そうしたら、もっとおいしいかもしれませんね。
秋田のは、細長い形が稽古用の槍短穂槍に似ていたのと、2つ3つと切って食べたので「きりたんぽ」になったといわれます。もともとは、きこりやマタギの携行食品だったようです。ベトナムのももしかしたら、戦争中の携行食糧から発展したのでしょうか。でも、こんな大きなおにぎりを戦争中に持っていくはずがないですよね。
面白い話があります。
ご飯を炊き上げ、すり鉢に移して杵で丹念に突いて半殺しにします。半殺しとは、お米の粒を、半分残すことです。全部潰すことを全殺しといいます。お客さんがきて、台所から声が聞こえてきました。「今日は半殺しにすべぇか、全殺しにすべぇか」
お客さんは、怖くなって逃げ出したといいます。 (つづく)Posted by Picasa

2009-09-26

支援隊ツアー09(25) クアンガイ13-2

ダインさんはギターに興味をもってくれたようです。歌い終わって、金原 昇さんがダインさんに、ギターを渡すと、しっかりと手に取りました。
そして、金原さんの真似をして、今にも弾きそうな感じになりました。在宅訪問の最後、ダインさんの心は少し動いたようにみえました。
じっと耳を傾けるダインさん


あい/谷川俊太郎

あい  口で言うのはかんたんだ

愛  文字で書くのもむずかしくない

あい  気持ちはだれでも知っている

愛  悲しいくらい好きになること

あい  いつでもそばにいたいこと

愛  いつまでも生きてほしいと願うこと

あい  それは愛ということばじゃない

愛  それは気持ちだけでもない

チャンさんご一家と金原さん

あい  はるかな過去をわすれないこと

愛  見えない未来を信じること

あい  くりかえしくりかえし考えること

愛  いのちをかけて生きる

チャンさん宅の庭 洗濯物満開
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支援隊ツアー09(24) クアンガイ13-1

豚支援の最後は、ドゥックフォーのゴ・ヴァン・チャンさん宅です。
ご主人のゴ・ヴァン・チャンさんは、1954年生まれです。55歳。
奥さんのゴ・ティ・トゥアンさんは、1958年生まれです。51歳です。
豚支援は、岩浅洋子さんからのご寄付で買わせていただきました。岩浅さんの「岩」をとって、「がんちゃん」にしました。もう1頭は、三田村真希さんのお名前をとって、「まきちゃん」としました。
ここは急遽、豚支援が決まったので、贈呈書が作れませんでしたが、間違いなくクアンガイ省枯れ葉剤被害者協会ドゥックフォー支部から購入代金が贈呈されています(写真)。
衣類は、金原理絵子さんから、ダインちゃんに贈呈して頂きました(2枚目の写真)。
チャンさんご一家(右3人)

チャンさんは、現在は公務員ですが、戦争中は、1970年から1975年まで、クアンガイ省からクアンナム省にかけて、野戦病院で従軍。軍医付きの医療補助員でした。チャンさんは内科専門に医療補助したそうです。16歳で戦場ですから・・・医者の資格は持っていません。

「負傷兵はものすごく多く、薬が足りませんでした。特に消毒液の不足は目に余りました」と、当時を振り返りました。

チャン少年は、どんな気持ちで、負傷兵、傷病兵の治療にあたったのでしょうか。目にしたものは、少年の心に、強烈なインパクトを与えた思います。

衣類を金原理絵子さんから

チャンさんの両親は、抗仏戦争に参加しているそうです。
チャンさんのお父さんは、1963年に亡くなっています。50代だったそうです。チャンさんが、わずか9歳の時です。
チャンさんの母は1975年に死亡。58歳で亡くなりました。

ご一家に子どもは3人。
1)長男 社会人
2)次男 大学生 ホーチミン市にいる。 「空手をしています」と、チャンさんが教えてくれました。
男の子は二人とも元気だそうです。

3)長女 ゴ・ティ・キム・ダインさん。1993年生まれ。16歳ですから、理絵子さんよりほんの少し年下です。神経障害があります。国からの手当ては受給していません。

歌をきいてくれるダインさん(右から3人目)

この家への豚支援は、急に決まりました。
グエン・ゴック・ソンさんの家が、豚を飼うことができないから・・と説明を受けました。ソンさんの家は、お粗末でした。あまり小さいので、私は家畜の家と思いました。でも、土地はあるのです。その家に行き着かないうちに、協会の方が引き返してきました。家の人が不在だったからかと思いました。何が何だかわからないまま、翌日、「あの家は豚を飼えないから・・」といわれ、このチャンさんがその代わりだというのです。貧しいからこその豚支援なのに・・思いつつ、もっと詳しい理由はその場では言われませんでした。

仮に手が足りなくて飼えない・・ということであっても、私は、会って話をしたかったのです。また、豚支援が唯一絶対ではないわけで、話せば何か知恵がきっと浮かん出来ると思うのです。もうちょっと、明確な詰めをしないといけないと思いました。時間を作って会いに行く姿勢が必要だを感じました。

緑陰音楽会
私たちは、庭に出て、緑陰で歌を歌いました。豚贈呈の在宅訪問最後のお宅でした。
(つづく)Posted by Picasa