2008-10-16

支援隊ツアー08(19)ついに笑顔が

8月25日午後。日没後と思わせる暗さ。時計を見ると、まだ3時過ぎ。希に見る凄いスコールが、みるみるまにニンビンの街を洗った。落雷。驟雨。停電。
一通りの経験をして、雨は小降りになったが、ホテルからほど近いテェーさんの家に向かった。
ディン・ティ・テェーさんは1944年生まれ。私と大して変わりが無い年代だ。戦争に行かなければ、もっと若々しかったろうにと、私は思う。
ニンビン省に生まれて、24歳で戦場へ。自分の意志で戦場に行かれたとは思うが、田舎のことゆえ、既に結婚適齢期を過ぎつつある年齢だった。
戦場に行くに当たって、当然、自分の結婚年齢のことも考えたに違いない。それでも、国の存亡をかけた事態が、自分のことなど軽く超越させることが出来たのか。
初対面のテェーさん 元気がない

それにしても、彼女の戦場生活は長かった。

1968年から1978年までが戦場暮らしだ。激戦地の一つクアンチ省。その中でも激戦地のケ・サインだ。泣く子もだまる激戦地だ。

青年先鋒隊の女性の工兵として従軍。道路の新設工事も多少はあったかも知れないが、爆撃でやられた道路の復旧工事、拡幅工事にほとんどを費やしたはずだ。

戦場暮らしと言っても、もちろん戦争は1975年に終わっている。最後の3年は、終戦後の後始末に追われる時期だ。終戦だからと言って、国民生活が早期に立ち直るはずがない。

結婚して、3人の子どもに恵まれた。ほっとするのは、今のところ、子ども3人に症状がでていないことだ。
テェーさんは、今、お手伝いさんと二人住まい。足かけ5年、ラオスに駐屯したご主人がハノイの病院に入院したからだ。ご主人の体がマヒして、いよいよ、奥さんの手に負えなくなって、病院に送りだした。

「ゆっくりやれば出来るから・・・」

10年間に及ぶクアンチ省駐屯で、テェーさんは、アメリカ軍による枯れ葉剤の撒布を「たくさんみました」と言った。それは、容易に想像できる。クアンチ省は南ベトナムの北の砦であり、アメリカ軍がここぞとばかり狙っていた省だから。

クアンチ省で撒布を見たということは、百歩譲っても、間接的に曝露したことは間違いない。遠慮した表現をすれば・・である。

その結果は、ご主人と同じように体にマヒがきた。テェーさんの左半身マヒだ。

私たちが訪問した時、テェーさんの表情は、厳しかった。初対面の外国人が来たし、また難しい話か・・と、心は閉ざしていた。それが1枚目の写真である。

左手は指折り数える事ができない。右手を添えれば、左手は挙げられる。いろいろ質問してみたが、ほんの小声しか出せない。回りで刺激を与える人がいないから、自分が楽な方へ楽な方へ流れていく。そんな状態だった。

お手伝いさん(中央のブルーの方)に付き添い方の指導
助産師の名古澄代さん 新谷文子さんは、「まだ関節が固まっていないから、やっていけば出来る」と話し、少しずつ自信をもてるように練習をやっていった。20分、30分。なんとできたではないか。

自信がつくと、話ははやい。車椅子の乗せ方も、ベルトの締め方も、付き添って歩く時の付き添い方など、丁度お手伝いさんがいたので、実習してもらった。

最後にテェーさんは抱きついた
しかし、私たちは、「車椅子は差し上げますが、出来るだけ乗らないように・・・」というアドバイスをすることになった。今はまだ体が動かせるので、車椅子に頼ってしまうと、体の硬直化がますます進む。
                            
一生懸命、テェーさんは練習してくれた。お手伝いさんがつけば歩ける。急ぐ必要はない。先ず動くこと。自信を付けること。

最後は、美しい笑顔で、女性の参加者と抱き合った(4枚目の写真)。1枚目と4枚目の表情の違いは、歴然としている。時間にしてわずか4~50分の間である。
                           
テェーさんと素直に学んでくれたお手伝いさんの笑顔は、私たちの心も明るくした。
                           
そして、別れ際だった。テェーさんは、ノートの紙に書いたお礼状を下さった。自由の利く右手で事前に認めたお礼状だった。その場でこういう風にしてお礼状を頂戴したのは初めてだった。                        
「ほんとうにありがとうございました」と書かれていた。ベトナム人の感謝の気持ちがす~っと伝わり、私たちの心に感動が広がった。
                            
私たちこそ「ありがとうございました」Posted by Picasa

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