2008-10-14

支援隊ツアー08(16)豚支援Ⅴ

8月24日 私たちは、ティエン・ハイ郡ナムタン村チャン・ヴァン・チュオンさん宅を訪問しました。
チュオンさんの家に入ったとたん、海外青年協力隊員の梶田梨栄さんが、「いやー、ここがこのお父さんの家なんだぁ」と、大きな声を出しました。梶田さんが勤務されているタイビン省ソーシャル・ケアセンターに、いつか、チュオンさんが子どもに会いに来たということです。ということで、久しぶりの再会となった次第です。
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チュオンさんは、1軒前のジオンさんの奥さん、ザウさんのように、現ベトナム中南部のタイグエン戦場に派遣されました。
人民軍への入隊は、1967年。その後、ダクラック省コントゥム省へ。戦場では、アメリカ軍機からの枯れ葉剤の撒布をみたそうです。
「霧のようになって、何かが撒かれているのをみました」
「その時は、地下にはいりましたので、直接体にふれたことはありません。マスクをして防ぎました。溜まった水などに、撒かれた物が入りました。それは、たくさんみましたよ。アメリカ軍の飛行機が低空で、何回も何回も往復していました。銃を使って売ったけど、落とせませんでしたね」「マスクは軍からもらいましたよ」「色は灰色っぽかったかな」と。
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枯れ葉剤撒布に使うアメリカ軍機の主力は、C-123という輸送機です。撒布は、出来るだけ霧状に撒くように、ノズルを研究してあります。霧状になるということは、枯れ葉剤の滞空時間が長いということであり、真下に落ちない事を意味していますから、浴びてないと言っても実際は分かりません。低空で撒くということは、撒布予定地域に正確に撒くという願望です。強風の日は、彼らは撒布しません。あらぬ方向に霧が流されるからです。
チュオンさん夫妻に衣類の贈呈

奥さんは、青年先鋒隊に入りました。1968年です。クアンビン省まで行きました。クアンビン省は、戦争中でも北ベトナム領土でした。分断された南北ベトナム時代には、北ベトナム最南端の省でした。省都は、アメリカ第7艦隊の北爆で有名なドンホイです。そこで、1年半道路工事をしていたそうです。

その後、ご主人と同じタイグエン地方に移動。
「ベトナム戦争時代は、平和が欲しかったがゆえに、国家が苦しんでいっ流時に、なんとか力になりたくて、先鋒隊に入った。その時、私は、学校の教員をしていました。」

「その時既に母は亡くなっていました。叔母さんは、納得してくれませんでした。危険だから・・と。でも私の友だちはみな戦場に行っているし・・」

支援の豚3頭

二人の間に子どもが4人います。

長男チャン・ヴァン・トゥアンさんは、1972年生まれ。ベンチェ省で仕事をしていたが、現在は家にいる。

長女チャン・ティ・ホンさんは、1976年生まれ。既婚。嫁ぎ先は貧困。
次男チャン・ヴァン・トアンさんは、1982年生まれ。脳性麻痺。
三男チャン・ヴァン・タイさんは、1984年生まれ。南部で仕事中。

夫婦 二人の心配は、健康と経済問題。二人とも健康体ではない。枯れ葉剤の被害手当以外に収入がない。子どもは働けない・・などの理由があります。

チュオンさんのお宅で
このチュオンさん宅に、豚3頭を寄贈しました。
名前は、「シューちゃん」(北村修治さん)、「ズーちゃん」(宮路瑞枝さん)、「キンちゃん」(金原 昇さん)から取らせてもらいました。
「6ヶ月から1年したら大きくなりますよ」と、胸を膨らますご夫婦。
みなさんは、サイ・モンゴメリー著の『幸福の豚-クリストファー・ホグウッドの贈り物』という本をご存じですか。ノンフィクションです。靴の箱に入ってやってきた小さな仔豚はいつしか320キロの巨大豚に!子豚クリストファーが悲しみを消し、笑顔を呼んでくる話です。
アメリカニューハンプシャーの田舎町で、奇跡のように生きた豚、クリストファー・ホグウッド。仕事に行き詰まり、最愛の父は危篤、住み慣れた家も失いそうになっていたその春。小さな病気の仔豚が我が家にやってきた。生き延びることさえできないと思われた仔豚がこんなに大きくなり、出会う人すべてにこんなにもたくさんの幸せを運んでくるなんて。
頼むよ!「シューちゃん」「ズーちゃん」「キンちゃん」 面倒みてあげて。

そして、皆様から送られてきた衣類も、差し上げました。
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