2008-07-17

ある一家の闘争史~豪復員家族~上

ベトナムだけではありません。ベトナム戦争に参戦したどこの国にも見られる苦悩の姿。今回は、これを取り上げました。読んで下さい。
Done and Dusted 空中散布の果ては・・

家族の絆を求めて、ベトナム参戦兵士とその家族の辛い、そして孤独な闘いは、近年の紛争に派遣されているオーストラリア兵にとっても、貴重な教訓を与えるものであろう。マックス・プリスク記者。

エマ・ファーガソンが生まれた時、余命は数時間、数日、せいぜい3週間と告げられた。しかし、今、その娘は31歳になった。この9月に結婚式を挙げる。両親のダイアンとデイヴィッドは娘の手伝いに、今週(5月最後の週)ワガワガに行った。

その前、二人は、ロイヤル・オーストラリア連隊第3歩兵大隊のベトナム初駐屯以来40年ぶりの再会のため、キャンベラに行った。

ファーガソンにとって、それは、終わりのない戦争だった。

1962年から1975年までベトナムに派遣された5万のオーストラリア兵の中で数百人の復員兵士たちは、大なり小なり似たような話を持っていた。戦死者520人と負傷兵2400人は別として、多くの復員軍人は、ガンや他の病気で早くに死亡している。自殺した人も、決して少なくはない。健康問題の一部は、エージェント・オレンジを含む枯れ葉剤と関連していた。

5月下旬から2万人のベトナム復員軍人の自宅宛に手紙が発送されている。それは、ベトナム戦争時の経験を生かして、ベトナム後のイラク、アフガニスタン、東チモール、ソロモンの各紛争に派遣された男女の兵士を助けるために、予算規模1150万豪ドルで、8年間の健康調査を行うことになったからだ。調査担当の部局は、復員兵とその家族(継子、甥、姪、元のパートナーら)ら最高で20万人の調査が出来ればと期待する。

アラン・グリフィン復員兵問題担当相は、「復員家族の回復力を手助けするために、健康問題だけでなく、性格やどうすれば防止できるか、その要因も探ってみたい」と話す。

退役後40年のほとんどを孤独の生活を送り、或いは慈善団体の援助で暮らしているファーガソンさんのような家族にとって、如何なる結論がでようと、それは学術的なものになろう。妻のダイアンは言う。「夫婦二人で卵殻の上を、終生歩いているような人生を送ってきました」と。

デイヴィッドは、1968年12月5日に復員帰還した時、デイヴィッドは、ヘラルド紙のカメラマンジョージ・リップマン氏(退役兵)が撮ったベトナム戦争での“幸せな写真”の中で取り上げられた人だ。[HMASシドニー]がガーデン島について、バリケードが上がったときに、帰還兵がどっと流れ出た。母親のメイ・ファーガソンは、一番下の息子デイヴィッドを見つけると、まっしぐらに進んだ。止まることなく・・・。母親は60代だったが、力強くかき分けながら一目散に息子の元に進んだ。そして、息も詰まるのでは、というくらいにデイヴィッドの首に抱きついた。(写真)母はそれをするので精一杯だった。そして、ドックでは、ガールフレンドのダイアン・ハイランドが静かに待っていた。
ダイヴィッドは、学校を卒業後、ペストリー職人として資格を得られるケータリング・コースに入った。だが、第3大隊の兵員を補充するために、それから半年もしないうちに招集がかかり、彼はベトナムに飛んだ。

彼には、はっきりした記憶がある。南ベトナムのフック・トゥイ省(現バーリア・ヴンタウ省)のヌイ・ダットの豪軍基地周辺で日常作業になっていた唸るような音を出して行われる農薬散布だ。「まず、偵察機が高い高度で飛んできて、チェックします。それから大型の散布機が木のちょっと上の高さで飛んで来ます」

農薬散布の目的は、敵の天蓋を取り去るために、ジャングルの成長を抑えることにあった。その農薬は、どこにも漂った。兵士の体に、兵員のトラックに、テントに降った。水のタンクの中に。「われわれは、その水で料理したんです。毎日その水でシャワーを浴び、それを飲料水として飲んだのです」デイヴィッドは言った。

デイヴィッドは、今セントラル・コーストのサラトガにダイアンと住んでいる。「その後、汗疹(あせも)のような物が出てきました。皮膚がやられました。やがて医者からは、スコティッシュ・スキンだと言われました。しかし、弟をみると、弟にはでていませんでした」

デイヴィッドは、西オーストラリア州のウッドサイドで兵役を終えた。1970年に、ダイアンと結婚した。デイヴィッドには、ベトナムのことが離れなかった。戦友は、死亡したり、重傷を負っていた。彼は悪夢を見続け、アルコールにも浸っていた。そして、彼の皮膚はその時まだピンクで、農薬に晒された部分からはイボのようなできものが出ていた。

夫婦には、アダム、エマ、ブラッドという3人の子どもが出来た。1977年3月2日に、オーバーンでエマが誕生した後すぐ、キャンパーダウンのロイヤル子ども病院に運ばれた。専門員の検診で、重症のスピナ・ビヒダ(二分脊椎症)だった。

外見の異常さを、妻のダイアンは思い出す。「エマは植物人間になる、結婚は破局するだろう、他の子にも迷惑がかかるし、政府におんぶしなくてはならないだろうと言われました」と。

デイヴィッドは、「これは、エージェント・オレンジのせいだと私が言った時に、妻が驚いたのを思い出した」と言った。妻は、「馬鹿なことをいっちゃいけない」と言った。スピナ・ビヒダは、希有な病気ではない。妻は、その証拠は、古代エジプトのミイラになった子どもからも見つかっているという文章を読んでいた。しかし、デイヴィッドには、確信があった。夫婦は、エマが乳児の時代を生きていけるかどうかを医者に診てもらうことを決めた。
2ヶ月後の母の日、エマは力強く闘っていた。そして、笑顔をみせた。そして、夫妻は、病院に治療を依頼した。(つづく)
Posted by Picasa

0 件のコメント: