2007-09-20

燃える女性グエン・ティ・ゴク・トアン博士(3)

この写真は2006年熊本県で行われた熊本学園大学水俣学研究センター主催の国際会議に出席されてトアン先生がご提供くださったものです)
 2回目の逮捕の後、母は、私をサイゴンのマリー・キュリー高校に送りました。それは、フランス人とベトナム人の高級官吏の子弟のための高校でした。フエの友人から私を引き離せば、私が革命活動に参加しないと、母は考えたのでした。それは1948年で、18歳の時でした。
私は、白い円錐形の帽子に白いアオザイを着て、サイゴンに飛行機で行きました。まるで、立派な淑女のようでした。しかしながら、到着するやいなや、ベトミンの地下活動の連絡先を探そうと考え始めました。

 数ヶ月後、私は、フエで会ったことのある一人の学生に会いました。彼は革命側でした。私が彼に、自分は革命側に立っていると告げると、フエとサイゴンの学生運動の組織作りで力を貸してほしいと彼は言いました。
私の行動が、母に漏れ伝わりました。フエの革命幹部が、もし母が私を引き続きサイゴンに滞在させれば、私は早晩逮捕されると言い、母は私にフエにもどるように命じたのです。

 私は、母と1週間一緒にいました。それから、永久に家を出て、友人と教師と一緒に革命軍に参加したのでした。私たちは、ヴィエット・バクの抵抗地区に向かって北へ歩きました。これが、戦争という真の苦痛に遭遇した初めてのことです。
私のわがままな人生は、抵抗戦士の人生になりました。私たちは、竹の子とご飯以外に食べるものはありませんでした。そして足は膨れあがりました。しかし、私たちには誇りがあり、幸せでした。
野獣の襲撃をまもるために、テントの中で友人と一緒になって安心して眠りました。私は、虎に襲われた兵士の遺体をこの目で目撃しました。

 私は愛国者でした。しかし、共産主義者になりたいかどうかは確信がありませんでした。共産党の人が、私に聞きました。「あなたはほんとうにフランスと戦いたいのですか?ヴィエト・バクで、ほんとうにホー叔父さんに会いたいのですか?それなら、党員になる必要があります」 なぜなら、父は高級官吏でしたから。そして、私には皇室の血が流れています。最初は共産主義者には距離を置きました。しかし、党員になったからには、信義の誓いを守りました。私は、善良な市民の大切さを教えられていたからでした。(つづく)
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