2007-09-21

燃える女性グエン・ティ・ゴク・トアン博士(4)

(ホテルまで来てくださったトアン先生と。2006年)
愛と結婚

 私がカオ・ヴァン・カインに2度目に会ったのは、1951年チエム・ホア(現ティエン・クアン省ヴィン・ロック)のヴィエト・バクの村でした。私が21歳。彼は12歳年上でした。私たちが初めて会ったのは、フエでした。実際、私が15歳で軍に入った時に、私の名前を記入したのは彼でした。

 彼が私を見初めた時は、軍の幹部でした。彼はあまりにも厳格で年がいっていると、私は感じていました。彼はいつも支配的だと私自身に言い聞かせていました。しかし、人はみな、彼に会いなさいと勧めてくれ、彼のことを褒め称えていました。

 やがて、彼から手紙が来ました。「あなたは進歩的な女性です。あなたは家を飛び出て革命に参加したのですね。愛情が私たちの間に道を見つけると信じます。私たちは同じ根っこの出です。一緒に幸せになることができます。あなたにお会いしたいです」

 私たちは、お互いに知り合うために病院の急患室で会いました。彼はいかめしく、また物静かでした。彼が話しているときは、彼は私を対等の人間と考えてくれているのを知りました。彼は非常に率直でした。そして、私は彼を信頼しました。

 2回目に会う頃には、私はすでに婚約にイエスを言うことを決めていました。彼は、戦線に戻っていきました。私たちはいつ再び会えるかわかりませんでした。私には、彼を愛する気持ちがとても強くなっていきました。

 1954年には、私は、激戦地ディエン・ビエン・フーに行き、戦場の地下を掘った塹壕の中の野戦病院の手術室で、看護婦として働きました。私の婚約者も、第308旅団司令官としてその戦場にいました。

 私たちは、ほとんど薬も底をついて、囲いをした場所で手術をしなくてはなりませんでした。外科医の手元がはっきりと見えるように、私たちは自転車で発電をしました。私たちに十分な麻酔薬がない時は、負傷兵たちは歌を歌って痛みを忘れようとしました。手術中に、蛭が足をはい上がったりした時も何回かありました。しかし、私たちの手を清潔に保つために、追い払うこともできませんでした。

 55昼夜に及ぶディエン・ビエン・フー作戦は、1954年5月7日に終わりました。その10日後、私はカインと結婚しました。母親の承諾もないままで私は躊躇しました。しかし、将校たちは、「戦争は続くので、何が起きるか誰もわからない。待っている時間はないよ」と言って、応援してくれました。私たちは、ドゥ・カストリ将軍が降伏した壕の中のまさにディエン・ビエン・フーのど真ん中で、結婚式を挙げました。ワインと歌と、フランス軍機が落としていった飴で祝ったのです。(了)
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トアン先生は、今年71歳にして、今も枯れ葉剤被害者の先頭グループにたって、正義を求める活動をされています。Posted by Picasa

2007-09-20

燃える女性グエン・ティ・ゴク・トアン博士(3)

この写真は2006年熊本県で行われた熊本学園大学水俣学研究センター主催の国際会議に出席されてトアン先生がご提供くださったものです)
 2回目の逮捕の後、母は、私をサイゴンのマリー・キュリー高校に送りました。それは、フランス人とベトナム人の高級官吏の子弟のための高校でした。フエの友人から私を引き離せば、私が革命活動に参加しないと、母は考えたのでした。それは1948年で、18歳の時でした。
私は、白い円錐形の帽子に白いアオザイを着て、サイゴンに飛行機で行きました。まるで、立派な淑女のようでした。しかしながら、到着するやいなや、ベトミンの地下活動の連絡先を探そうと考え始めました。

 数ヶ月後、私は、フエで会ったことのある一人の学生に会いました。彼は革命側でした。私が彼に、自分は革命側に立っていると告げると、フエとサイゴンの学生運動の組織作りで力を貸してほしいと彼は言いました。
私の行動が、母に漏れ伝わりました。フエの革命幹部が、もし母が私を引き続きサイゴンに滞在させれば、私は早晩逮捕されると言い、母は私にフエにもどるように命じたのです。

 私は、母と1週間一緒にいました。それから、永久に家を出て、友人と教師と一緒に革命軍に参加したのでした。私たちは、ヴィエット・バクの抵抗地区に向かって北へ歩きました。これが、戦争という真の苦痛に遭遇した初めてのことです。
私のわがままな人生は、抵抗戦士の人生になりました。私たちは、竹の子とご飯以外に食べるものはありませんでした。そして足は膨れあがりました。しかし、私たちには誇りがあり、幸せでした。
野獣の襲撃をまもるために、テントの中で友人と一緒になって安心して眠りました。私は、虎に襲われた兵士の遺体をこの目で目撃しました。

 私は愛国者でした。しかし、共産主義者になりたいかどうかは確信がありませんでした。共産党の人が、私に聞きました。「あなたはほんとうにフランスと戦いたいのですか?ヴィエト・バクで、ほんとうにホー叔父さんに会いたいのですか?それなら、党員になる必要があります」 なぜなら、父は高級官吏でしたから。そして、私には皇室の血が流れています。最初は共産主義者には距離を置きました。しかし、党員になったからには、信義の誓いを守りました。私は、善良な市民の大切さを教えられていたからでした。(つづく)
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2007-09-19

燃える女性グエン・ティ・ゴク・トアン博士(2)

(上の写真は、2006年に水俣で開かれた国際会議「水俣50年の教訓はいかされたか」に出席されたトアン先生(中央アオザイの方)。写真は先生のご提供によるものです)
 母の言いつけに反して、私は、1945年9月に、フエで軍隊に入隊しました。私には怖い物無しでした。苦難も餓えも。私の級友と同じように、共産主義も革命のことも、ほとんど知識がありませんでした。独立と自由というホーチミンさんの言葉しか考えていませんでした。

 正面に黄色の星がついた帽子をかぶるのが誇りでした。私は、チュン姉妹のように、歴史を綴っていると思っていました。私の部隊で、銃の撃ち方、救急処置の方法をならって、戦争の備えをしました。その時、歩兵大隊が、フランスと戦うために南部へ出発しました。

 私の部隊の二人の友人が、男性の友人と同じように、私が動員されて南部に行くことになるので心配しました。私たちはもうこれ以上待てなくなった時に、「なぜ私たちは南部の戦線に行かないの?弟が入っている大隊を、私たちで見つける。」と私は友達に言いました。着替えのズボン、歯ブラシと、軍の食堂で食事が無料になり、列車も無料で乗れる軍のカードだけを持って、部隊を飛び出して駅に向かったのです。自分が英雄になったつもりでした。

 ところが、列車の中で、弟の部隊はサイゴンではなくて、フエから200キロ南のクアンガイに駐屯していることが分かりました。私たちはそこで下車し、弟の部隊の居場所を求めて町中を訪ね歩きました。私は、弟の友人の家に駆け込みました。そこで私たちがしてきた行動を告げると、彼は私を叱りとばしたのです。
「あなたは気違いか? ここにいて、わが大隊について聞き回るなら、人はあなた達をスパイと思うぞ。いますぐにでも、友人を家に連れて帰りなさい」
 
 私たちはがっかりしました。後になって、私はどんなにうぶだったかに気づきました。

 1946年の初めごろ、「ベトナムはフランス同盟下で自由の国であり、われわれは平和を希望する」と、フランスは表明しました。しかし、1946年11月23日、フランスは、ハイフォンで戦火の口火を切りました。12月に、ホーチミン主席は、全国民に向けて決起をよびかけました。そして、ホーチミン政府は、ヴィエト・バクのジャングルに引っ込みました。フランス植民地軍への戦争は、正式に始まったのです。そして、私は革命軍に参加しました。

 逮  捕

 それから2年後、1947年―48年にかけて、私は友人と地下活動に参加しました。この友人たちもまた革命に心酔していました。夜間になると、私はしのび出て、ベトミン(ベトナム独立同盟会)支持とフランスへの反対を訴えるパンフレットを配り歩きました。ある晩、私たちは、手りゅう弾をフランス軍基地に投げ込み、町には多くのベトミン兵がいるのだということを知らせようとしました。時々、私は木によじ登って、赤旗を掲げたり、山の中の革命基地から町中の連絡先まで手紙を運んだりしました。
 勇気さえあれば、人は何でも実現することが出来ると思っていました。尊敬を集めている家族の子どもがどうしてそのようなことができるのか・・と、誰も私のことを疑っていませんでした。(つづく)
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2007-09-18

燃える女性グエン・ティ・ゴク・トアン博士(1)

ベトナムのれ葉剤被害者協会(VAVA)の化学担当常務理事をされているグエン・ティ・ゴク・トアン先生のお話をしておこう。ご主人と息子さんを枯れ葉剤で亡くされたトアン先生。71歳にして、枯れ葉剤被害者のために、正義を求める闘いをしている。私たちは昨年、協会本部でお会いしているが、私も個人的に別の機会におめにかかってお話を聞かせて頂いたことがあった。 (上の写真:前列一番右の方)              
                    
**********                    
                  
 私は、ベトナムで、二つの戦争を生き抜いてきました。1945年から1954年までの抗仏戦争です。そして、1960年から1975年までの抗米戦争です。終戦の1975年は、4人の子持ちの主婦でした。抗米戦争では、私の夫と4人の子どものうち2人が取られました。この長い年月、私を精神的に強く支えた物は、わが国の独立戦争に私自身が戦っているということでした。

 それが、ベトナム人民軍の大将であった私の夫と共通に持っていた理論でした。ホーチミン主席は言いました。「自由と独立ほど尊いものはない」と。誰もがベトナムの解放のために戦っていたので、その言葉に若かった私は深い衝撃を受けました。

 旅に出る・・・

 私がなぜ革命の道に加わったかを説明するために、私の若き時代と私の家族について触れたいと思います。私は、1930年にフエで生まれました。美しい家で私の両親と14人の一族の愛情に育まれました。父は、私が6歳の時になくなりましたが、カイディン帝の元で首相を務めていました。皇帝とつながりのある多くの王族と同じように、私たちも愛国者でした。故国に忠誠なることが、わが家族の美徳でした。

 フランスの学校で先生達は好きでしたが、我が国を占領しているフランスには憤りを感じていました。それから、第2次世界大戦が終わった時に、我が国は、日本軍の植民地になっただけでなく、フランス軍が戻ってきそうな雰囲気でした。しかしながら、われわれベトナム人は、フランスにも日本にも、我が国を委ねる積もりはありませんでした。

 私は15歳でした。私の唯一の夢は、ベトナム軍に参加することでした。私の級友と私は、歌を歌いました。「ペンをおいて、旅に出よう・・・・」と。しかし、母は言いました。「戦闘は、男の仕事よ。女の人は家にいるものよ」と。
私はすぐさま、噛みつきました。
「お母さん、もし私のことを気にかけてくれるなら、私を行かせてくれない? 私は変なことはしないって約束するから」

 私は、革命に参加したかったのです。なぜなら、私は生まれつき好奇心の強い女性でしたので。波瀾万丈な人生を、私は希望していました。家から学校に行って戻るという毎日の決まった生活とは違った生活を望んでいました。私の家族は厳しかったです。非常に厳格だったと思います。そして、私は何より自由を切望していました。 (つづく)
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2007-09-13

戦場に死した若き女医の日記と和解

ベトナムでの枯れ葉剤被害者支援活動から戻ってきたばかりだ。ベトナムでは、いま、ベトナム戦争中の激戦地の一つ、クアンガイ省の野戦病院でアメリカ軍と戦って死亡したダン・トゥイ・チャムというわずか27歳の女医の日記(上)がアメリカや故国ベトナムで出版され、今、旋風を巻き起こしている。

 「私は、十分な薬もないのに虫垂炎の手術をしなければならなかった。しかし、その若い負傷兵は一度も泣いたこともうめき声を上げたこともなかった。彼は、笑みを絶やさず私を励まし続けた」 ダン・トゥイ・チャムの日記は、こういう書き出しで始まっている。

ダン・トゥイ・チャム(下)とは、ベトナム戦争でアメリカ軍と戦い、アメリカ軍の攻撃から自分の担当する野戦病院を守ろうとして死んだ北ベトナム軍医のことだ。

元アメリカ情報士官の手元で35年間眠っていた彼女の日記が2005年に世に出てから、ベトナムでは40万部という部数を売って一大旋風を起こしている。ベトナムの若人にも、愛国的ノスタルジアの波紋を広げている。今年の9・11にはアメリカで英語版も出た。

 医者一家の出身のチャム医師は、1967年に、中部ベトナムのクアンガイ省のキリング・フィールドの野戦病院に自ら希望して勤務についた。日記は、その翌年の4月から始まっている。その年のテト攻勢を受けたニクソン大統領は、史上最大の空爆を計画、実行したのである。 仲間の治療に疲労困憊した彼女は、1970年5月の日記に、激しい言葉でニクソンを批判している。

 チャム医師は、患者とスタッフを安全な場所に移動させた後、アメリカ地上軍アメリカルと戦った。彼女は、患者と看護婦を守りながら、中国の旧式のSKSという単発式のライフル銃で、重装備のアメリカ軍に応戦し殺された。  当時22歳の情報士官だったフレデリック・ホワイトハースト氏は、医師の所持品から回収されたチャムの日記を火にくべようとしていた。その時、彼の通訳から「フレッド、それは燃やさない方がいい、その中には、炎があるから」とストップをかけられた。ホワイトハースト氏は、「私は彼が敵のことを尊敬したので感動したから、私はずっと保管していた」と話す。  それから35年後の2005年、その日記は、ハノイの母親の元に戻された。

2005年8月に、日記を保管していた2兄弟がハノイにやってきた。

ハノイでの歓迎に感激した。「許してくれた」と。

チャム医師の墓まで行って、フレッドはひざまづいて子どものように激しく泣いてこう言った。「どうしてこういう人が殺されなくてはならなかったか? 私はいても立ってもいられない」

2人の兄弟は、「チャムさんの家族の一員として、チャムさんの弟にさせてもらいたい」と、チャムさんの母に頼んだ。

最初は腰が重かったフレデリック・ホワイトハースト氏は、ハノイでの歓迎振りに腰を抜かした。

「われわれは、第2次世界大戦で、ドイツロンドンでやったようなことをハノイにしたのだ。理由はともあれ、われわれは侵略者だ。しかし、国民は私たちを抱きしめてくれた。ベトナムの首相ですら会ってくれた。父親は娘の死のあとショックで亡くなられた。それが、ご家族に多くの重荷を背負わせた。ご家族は、娘のことを大変愛していた。それでも、私を息子として迎えてくれた。その愛・・。我が国で私が迎えられた時よりも、ハノイで寛大に扱ってくれた」

一つの和解ができたように思う。Posted by Picasa

支援隊ツアー 言いたい放題2

【人民の勝利】と、ベトナム人はよく口にする。ベトナムの交通事情は大分良くなった。公共輸送機関としてのバスも機能し始めた。料金もまだ安い。だが、時間はかかる。

だから、いきおい、バイクに頼る。バイクを運転すれば、スイスイいける・・と皆が思い始めて、10年近く。バイクはとうに溢れ始めた。

最初は、警察もヘルメット無着用の者から罰金をとっていた。が、そんなことをしていたら、次から次へとヘルメット無しの人がくる。「俺から取って、あいつから取らないのはなぜか?」 斯くして、市内はヘルメット無しが認められた。「人民の勝利」なのである。だが、これは果たして本当に人民の勝利なのだろうか?

私は、上の写真を「ビッグ・マック」と呼ぶ。便利だ。大量輸送ができる。でも、みていて冷や冷やする。気が気でない。でも、本当に冷や冷やして欲しいのは、あなた達なのだ、ということを忘れないで頂きたい。

ハノイの建築で、鼻歌交じりで階を上に積み上げて行くのと同じで、この5人乗りは将棋の駒を並べただけ。ドミノは簡単に起きる。ビッグマックのように安い、命の値段にならないことを祈りたい。

【臨機応変】バスが途中で止まるたびに、ツアーをオーガナイズしている私は、ドキっとする。そして、なぜか、ベトナムの人は、止まった理由を説明せずに大体の人が隠す。この日、8月25日、ニンビン省で、外務省のタインさんが、「ちょっと・・」と言って車を降りたので、私も飛び出した。バスが止まった理由は、電線が垂れ下がっていたからだった。
正直言って、これは外務省役人の仕事ではない。そもそもこの車幅の車がここにはいってくることはないのである。
それにしても、よく、竹竿が近くの民家にあったのものだと感心する。    
車が止まったと言えば、昨年こんなことがあった。「次の車椅子贈呈の家へ・・・」と言って在宅訪問を重ねているときに、車がタイビン市の交差点近くで止まった。バスを下りた地元の枯れ葉剤協会の人の表情が全員、曇ってきた。
そのやりとりを聞いていた若い女性通訳の訳し方がぶっ飛んでいた。「これから訪問する人は死んでました」
「おいおい、一体どういうこっちゃい」            
つまり、車椅子の贈呈を受ける方の死亡通知が、協会に来てなかったために、既に亡くなっているのをしらなかった、ということなのだ。1軒こういうことがあると、「次は大丈夫か」となる。次の方が生きていると分かると「お~」と感動する。       
ベトナムは、通信も交通も、インフラの整備がまだ遅れているために、”電話やFAXで一斉連絡”などという離れ業は田舎ではできないのだ。「日本から贈呈にきますよ」という連絡が行った後亡くなっても、協会の方は「まだ生きている」と思っている。     
だから、ベトナムの田舎では色々なことが途中で発生する度に、今年も新鮮な驚きを感じた。Posted by Picasa

2007-09-12

支援隊ツアー 言いたい放題1

8月20日。 友好村での支援を終えて、ホテルに戻り、夕食へ。phoを食べて、いざホテルへ。バスに戻ったものの、動かない。「押してくれないか」という。なにおっ! 女性軍には、歩道で待っていてもらって、男性だけで押すことに。人の悪い私は「カメラが整うまで押さない」と。

なんということだ。ここに、このバスを押した人の大いなる健闘を讃え、後世に名を残したい。左から、通訳のチャン・ヴァン・ヴィンさん、伊藤啓太君、大釜一男会長、ソン君 泉先生、丸山竜一さん、そして、私、北村。さらに、この証拠写真を撮ってくれた宮尾和宏さん
1メートルを押したところで動いたからよかった。大釜会長の腰にも負担がかかった。ほっとする表情をご覧頂きたい。
そもそも、われわれは、バスを後押ししに、ベトナムに来たわけではない。枯れ葉剤に苦しむ被害者を後押ししに来たのだ。勘違いをされると困る。
   
バスが韓国製の「現代」車ということもあるが、ここはどちらかといえば、バス会社のメンテの姿勢が厳しく問われるべきだ。いけるところまで行ってみようと言う、未だ戦場感覚のバス会社のメンテは許せない。この日の昼、バッテリーの全取り替えを指示したヴィンさんだが、会社は半分しか換えていなかった。             
      
あの蒸し暑いなかで、しかも夕食を取った後の一仕事は応えた。    
   
そういえば、ベトナムではバスは押す物だと言った人がいた。よくわかった。あとでこってりとバス会社を絞り上げたヴィンさんに好感がもてた。Posted by Picasa

ニンビン省 その3

8月24日(金):この項は、ニンビン省その2の続きである。
わが支援隊は、攻勢を継続し、苦しむ559部隊の方々にと、衣類の贈呈をさせて頂いた。泉康夫先生から、まずビンさんに代表して受けて頂いた。
さらに、丸山竜一さからも、ビンさんに受け取って頂いた。

われわれがお送りする衣類は、かなり厳選されていて、古着といえど新古品に近いものが多い。

この後、大釜芙美子副会長個人から、女性兵士に、くじ引きで空くじ無しの素敵な贈り物があった。
この席には、発足したばかりのニンビン省枯れ葉剤被害者協会のタ・クアン・チン副会長(白いシャツの方)が出席してくれた。
そして、この写真で一番左のチャン・ゴック・ウェンさんもご夫妻で出席してくれた。ここに御礼を申し上げたい。

チン副会長ご自身、障害のお子さんをお持ちの方である。下半身麻痺にもめげず車椅子を使って学業に励み、現在ハノイ外国語大学でフランス語を専攻していると窺った。

歌が得意のビンさんからも歌の御礼があったあと、私たちを代表して、大釜会長と小生は、ホー叔父さんの顔写真が 入った石の置物を頂いた。 小生の分は、「自分の部屋をベトナム風にする」という高三の伊藤啓太君に日本に持って帰ってもらった。
                              
ニンビン省には、枯れ葉剤被害者の第2世代が5000人もいるのである。

そして、故国に青春を捧げた女性兵士で、300人が、出産できない、或いは未婚の女性がいるのである。
ベトナム戦争の被害は留まるところを知らない。少しでも、われわれとともに痛みを分かち合いたいと、切に思うのである。
私たちが、在宅訪問し、激励していく理由がここにあるのである。

われわれが毎年定宿にしているキンド・ホテルの社長ド・タイン・ティさんも、1972年のクアンチ省でのアメリカ海兵隊との激戦。93人の突撃隊の数少ない生き残りだ。グエン・ヴァン・ティエウ大統領が直かにヘリで戦場に激励に来たほどの力の入れようだった。
「生きて帰れるなんて・・・全く思いもしなかった」とポツリ。


いま、生きていることが不思議な人は、どこにもいる。Posted by Picasa

2007-09-11

奨学金が誕生しました・・

学びたいけど、貧しくて・・・。 向学心に燃えながら、貧困のために上級学校に行けない人を支援する奨学金が出来ました。
ベトナムは蓮の花の国。「如蓮華在水」ということばがあります。蓮華が泥水の中から出て来て華を咲かすことを言ったものです。泥水にまみれることなく、 蓮華のごとく大輪の華を咲かせられるようとの願いを込めて、奨学金の名前も、英語で「ロータス・スカラーシップ」、ベトナム語で「ボンセン奨学金」,日本語名で「蓮の花奨学金」と命名しました。

これは、ベトナムの向学心に燃えた若い人たちに使ってほしいと申し出てくださった方の大金をそのまま奨学金にさせて頂いたものです。 暖かいお気持ちをありがとうございました。


第1号は、友好村出身のファン・ティ・キエウ・オアインさんという若き女子学生さんに決まりました。丁度、ハノイ市内のヴェトナム国家大学社会学部に合格したばかりです。出来るだけ早く、詳細を詰めることにしています。将来の希望は教師と聞いています。

友好村のズン理事長が、以前から、「将来進学させたい。学費、生活費を援助したい。大学卒業まで支援してあげたい」と、心にかけていた人です。早速、オアインさんにも、奨学金の授与が伝えられ、「本人も大変喜んでくれている」と、理事長から伺いました。くわしくは、いずれブログ上で御報告します。

第2号として、ニンビン省のファム・ティ・クエンに決定させて頂きました。クエンさんは、亡くなったお父さんと二人の兄、体の弱っている妹のニャンちゃんのことが頭から離れず、タイグエン地方の大学の医学部の受験を真剣に考えています。まだ高三です。支援隊は、合格を全力で応援することにしました。将来の女医さん誕生を楽しみにしたいと思います。

今後とも、支援隊は、ベトナムの人材育成に少しでも協力したいと熱い希望をもっています。Posted by Picasa

2007-09-10

最後の日に・・・

とうとうベトナムでお別れの瞬間がきた。枯れ葉剤患者の実態を知りたいと進んで参加された方に、先ず厚く御礼を申し上げたい。参加された方々の胸に、何が一番重く残ったのかは知るよしもない。
食事が喉を通らなかった人もいた。
それぞれの方々に、大なり小なり衝撃を与えたことは間違いない。戦争に一層の怒りを感じた人もいたようだ。

百聞は一見に如かず。田舎の民家にお邪魔させてもらって、自分の目で見たものが真実でる。

だが、そういう感動とか怒りとか衝撃は、自分の中で長続きはしない。それは、日常生活の流れの中に、容易に溶け込んでしまう。過去のツアーに参加した人をみていても、この感情を持続させることはむずかしい。人は、 目の前の生活に押し流されていく。 だが、逆に、植え付けられた種が、消えることもまたない。

敵も味方も選ばずに残酷さを与える戦争を憎み続けることは、容易ではない。 
                      
ひと世代で終わるならまだしも、少なくともベトナムだけでも、これだけの無実の人々が、世代を越えて苦しむ姿は、まさに戦争の異常さである。残酷さである。罪である。

そして、害が出ることを承知していた人々が、撒き続けたことは、戦争犯罪をおいて他にない。 権力の魔性による感覚も麻痺である。
ハノイ市やホーチミン市の町を、買い物をして歩いているだけでは、全くわからない。左のような子どもが、ハノイの町なかを歩くことはないからである。

刺繍の手工芸品を買い、コーヒーを買い、アオザイを着ることのできる私たちは幸せである。私たちは豊になったが、3000円の鮨代を払っても、平和のために100円ですら惜しむ人は多い。

今回のご参加の方の中から、平和実現のために力を貸して頂ける人が登場することを期待したい。
できれば、またいつか戻ってきて頂きたい。

あの暑い中で流した汗が懐かしい、と言って。
障害者と同苦しようでないか。
障害者の苦しみを聞こうではないか。障害者とまた一緒に喜び笑おうではないか。障害者とまたいっしょに車椅子で外に出ようではないか。
いま、ハノイの町では、35年前に戦場で戦死した若き女医の日記が売れている。
その日記を35年間持っていた、ベトナム帰還兵の元アメリカ軍情報士官は、こういっている。

「人を戦場に送るとき、それは真実が基盤になっていなくてはならない。他人の血で自分を肥やすことは間違っている。私は、生え抜きの共和党員だ。しかし、わが大統領はベトナムに行く勇気を持たなかった。彼は親父に頼んでベトナム行きをはずさせたのである。人は戦場に行き、戦友の血を浴びるまで、戦争の下劣さが分からないのだ。」

ブッシュさん。[APEC]を[OPEC]と失言したり、[オーストラリアのイラク駐留を感謝する]と言うべきところを、[オーストリアのイラク駐留を・・・・]と失言したあなた。いさぎよく、過去のアメリカの行為をベトナムの被害者にお詫びし、補償し、平和への基盤を築いたらどうなのだろうか?

ハノイのノイバイ空港でお別れした方々の胸に、平和を求める闘争の灯が煌々とともされ続けることを祈ってやまない。Posted by Picasa

枯れ葉剤被害者協会を訪ねて・・

8月27日午前:グエン・チョン・ニャン副会長と会談し、私たちに現状の話をお聞きしました。冒頭、アメリカでの訴訟支援として、金一封を支援隊・大釜一男会長から贈呈しました。この模様は、当日の地元ベトナム・テレビでも放映されました。

ニャン副会長からは、「暖かいお心があり、大きな励ましになる」と、御礼の言葉頂き、他に丁重なるヒエップ会長のサイン入りのお礼状と領収書(2枚目以下の写真)、資料映像、全員にVAVAのバッジを頂戴した。

その後、ニャン会長から大要、次のような話があった。

「米越国家レベルのミッションの話し合いで、枯れ葉剤問題を取り上げた。
最近、アメリカ政府は、枯れ葉剤問題の環境・土地改良のために、300万ドル拠出すると。アメリカ企業は、法廷外の決着で、アメリカの被害者に1億8千万ドルを支払った。金額を比較して見よう。韓国の裁判では、6200万ドルの賠償命令が出た。NZでは、35億ドルだ。これをみれば、アメリカの陰謀と企みを感ぜざるをえない。」

「アメリカは善意を示し始めたと自ら見せているが、実は、それでアメリカは、世界の人々を騙そうとしている。第2回巡回訴訟の始まる前に、この程度の金額で解決できると考えるのは、人を欺く行為である。

アメリカは知らんと言う態度をみせているが、少しずつ、責任を認めざるを得なくなってきたことは明快だ。

これからも戦いは続けて行かなくてはならず、世界の支援、応援が必要である。」

アメリカが300万ドルをだしてくれて、どうやって使ったのか? 後遺症のために、ベトナムがお金を使ったことはない。直接アメリカと交渉してわかったことだが、アメリカは、300万ドルをダナン空港周辺に使うと言いだした。

ベトナムの専門家の話では、土壌の洗浄には3000万~5000万ドルが必要だという。アメリカが出したのは300万ドルだけだ。ベトナムには被害者が300万人もいる。300万ドルは焼け石に水だ。枯れ葉剤被害者一人に1ドルしかならない計算だ。
どんなに騙しているかが分かる。本音から出た対策ではない。このカネがどこに流れたかはわからない。アメリカのずる賢い企みに警戒を怠ってはならない。戦いは続けなければならないのだ。

貧乏な人が金持ちを相手に訴訟を起こすのは、困難なことだが、結論が自ずと出るにちがいない。
私は諦めずに、拭いきれない証拠を突きつけて、訴訟を進めたい。アメリカは真理を信じる国民であり、心の良い国民も多いと信じている。
1975年にアメリカが完全撤退したのは、アメリカの善良な心の一部の現れであり、アメリカの暖かい心のおかげであると思っている。

世界、そして日本国民の皆様の支援を期待している」と。

小生からは、「VAVAと私たちの目的は本源的に一つだ。わが支援隊は、VAVAと同じ目的を持つことを誇りに思う」と発言した。

「生命を尊重しないものは生命に値(あた)いしない」とは、レオナルド・ダ・ヴィンチの厳然たる宣言だ。

生命を奪う戦争こそ、権力の魔性による最大の人権破壊。だから、平和は戦い勝ち取っていかねばならない! 生命以外のものに、生命以上の価値を置く行為は、必ず人間性を圧迫へと繋がる。人類の前途を脅かす地球環境の汚染も、その元凶には、生命に対する無認識と軽視があるといってよい。Posted by Picasa

原告第1号のフィフィ先生と

8月26日夕方。 ファム・ティ・フィフィ先生をお迎えして、お話を窺う機会を設けました。
これまでにフィフィ先生を通じて、先生の故郷のクアンガイ省に車椅子5台を贈呈させてもらっていますが、今回は、当支援隊に寄せられた皆様の寄付金の中から、車椅子20台、補聴器20個を、支援隊から贈呈させて頂きました。クアンガイ省には引き続き支援を行う予定でいます。

フィフィ先生は、原告の第1号です。「アメリカで提訴したベトナムの枯れ葉剤被害者の代表者は、最初3人だけでした。その後24人増えて27人になりました。枯れ葉剤を製造したアメリカの製造会社に対する共通の訴えをまとめた弁論書を、裁判所に提出してあります」と話されました。(上は、夕食時の記念写真)
また、ごく最近、アメリカでの第2回巡回裁判に出席した4人のうち、2人が亡くなりました。グエン・ヴァン・クイさんは7月7日に、グエン・ティ・ホンさんは7月20日に。二人ともひどいガンの影響です」

「残念なことでした。私も会いました。喜んでいた様子でした。しかし、だんだん容態が悪くなって亡くなりました」
(上は角倉さんと丸山さん)
「アメリカが撒いた枯れ葉剤が 環境に与えた新たな被害が出てきました。そして、環境破壊を、アメリカはやっとのことで認めました。ですが、提供した金額は350,000USDです」

「特に、旧ビエンホア空港の影響はひどかったのです。ダナン、フーカット、ビエンホアで洗浄作業が始まりました。枯れ葉剤被害は相当なものですよ」と、被害のひどさを説明されました。
(若い人にいつも気軽に応じてくれるフィフィ先生。上崎さんと伊藤君。ヴィンさん。下は櫻井智子さんと)

最後に「強調したいことがあります」と、前置きして、こう全員に語りかけました。
「私は今年73歳です。私は戦場を歩き抜いてきました。でも、幸いなことに、他の障害者に比べれば健康です」


「枯れ葉剤は、人間への影響と環境破壊だけではなく、20世紀の科学発明の中でも、命を冒涜する大変恐ろしい発明となりました。全世界規模でないと、解決できません。非常に悪い影響を及ぼす物です。そのことを若い人たちに引き継いでいかなくてはなりません」


患者のため、正義のためのの先生の闘いは、休みなく続いている。先生の詳しいことは、拙著『アメリカの化学戦争犯罪』(梨の木舎刊)に出ている。Posted by Picasa

ハノイ(河内)で・・

8月26日 前日夕方、ハノイに戻って、26日は夕方まで観光です。
ホーチミン廟、ホーチミンの家、ホーチミン博物館を見学しました。
汗だくの一日でした。

ホー叔父さんの執務室です。
隣の現大統領官邸に住まないで、あえて、質素な家に住んだホー叔父さん。
ハノイの植物園近くのヒュー・ティエップ湖。
1972年12月27日23時05分。首都防空ミサイル代285連隊第72砲兵大隊が、ハノイ領空に侵入したB52G型機を識別。撃墜し、機体の一部が湖に落ちた。

この撃墜は、1972年暮れにアメリカが行ったハイフォンーハノイへのクリスマス爆撃で、北ベトナムが撃墜した多数のB52の一部である。

この時の勝利をベトナム人は、空の”ディエン・ビエン・フー”と呼び、「アメリカ帝国主義者を破り、
ベトナム人民の抗米救国戦争の完全勝利につながる大きな変化を作り出した重要な闘い」と位置づけている。

私たちは、ヒュー・ティエップ湖で記念差写真を撮った。

墜落現場は、ひっそりと静まりかえっていた10数年前とは比較にならないほど、人通りが激しくなった。Posted by Picasa