2006-10-21

ヴィンリンのトンネル(2)

“困難な運命に泣くな 種がある限り、木に成長する”
ヴィンリンの地名は、1069年に南部探検を行ったリー・トゥオン・キエットが築いたマ・リン大地に因んでつけられました。 ヴィンリンがなぜ有名になったかといいますと、1954年のジュネーブ協定で、ベトナムが南北を分けられた時に、クアンチ省のヴィンリン郡の南を流れるベンハイ川が、南北の境界線になったからです。そして、その川を境に、社会主義国であるクアンチ省の一部であるヴィンリン郡はベトナム民主共和国に属することになったのです。
写真は、1962年のベンハイ川です。手前北ベトナム。川向こうは南ベトナムです。

歴史は、この場所を、共産主義勢力と自由主義勢力の激しいせめぎ合いの場所としてしまいました。統一を目指す勢力と、分断国家のままにしようという国家の接点となりました。

 反共の砦を名目に、アメリカは、ジュネーブ協定破棄のために、いかなる手段も使いました。アメリカは、このヴィンリンの自衛軍に挑発行為をしたそうです。とくに、1965年、アメリカは、北部に対して破壊的戦争を仕掛けました。そして、ヴィンリンが最初の攻撃目標になったのです。

なぜか?

ここは、北部の社会主義の最前線であるばかりでなく、南部への人的、物質的供給の強力な後方基地になったからです。
Posted by Picasa  ヴィンリン地区は、800平方メートルに満たない狭い地区です。ここが、アメリカ軍が落とす多量の爆弾、砲弾の被害を受けました。

つまり、空からは、B52を含めて多種の戦闘機が爆弾を落とし、南部からは、ベンハイ川の北岸を目指して、砲弾を飛ばしてきました。ヴィンリンの東部は海岸です。沖に停泊するアメリカ軍第7艦隊の艦船からひっきりなしに艦砲射撃がきます。

1965年から1972年まで、ヴィンリンで砲撃の絶えない日はなかったといいます。

8年間で、この地に落とされた爆弾・砲弾の量は50万トン。ヴィンリンの一人ひとりが、7トンの爆弾・砲弾を受けたことになります。これを、第二次大戦中にアメリカ軍に日本に落とした爆弾の量0.43トンと比較するとよくわかってもらえると思います。 上の写真は、B52が落とした爆弾で出来たクレーターです。

侵略する者には伝統的な勇気をもって戦い、ヴィンリンの人々・軍隊は、村と大地を守りきりました。村人は、ホーおじさんの掲げる“独立と自由ほど尊いものはない”は、人類にとっても正しいものと信じました。

ダイヤモンドは、戦闘の煙の中で明るく輝きました。ヴィンリンの人々に”不思議の建設”をさせたのは、強い意志と創造性でした。ヴィンリン地区の周辺に地中深く散った人々をつなぐためのトンネルでした。(つづく) (文責:北村 元)

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