2006-10-10

支援隊 2006さわやかツアー報告記(9)タイビン省5

9月25日。今回の贈呈では忘れられないシーンは数多くありますが、ハイさんご家族もその一つでした。ホー・シ・ハイ(HoSiHai)さんのお宅を訪問したのは、もう暮れなずむ夕方5時過ぎでした。ご主人のハイさんは、復員軍人です。戦争英雄の称号を受けています。

奥さんのグエン・ティ・ズオン(NguyenThiDuong)さん(写真下)も復員軍人で、ここ数年で難聴になりました。559部隊に入隊して、クアンチ省で医療部隊として救援に当たっていました。爆弾の投下による炸裂が難聴の原因ではないかと言っています。

そして、難聴に加えて、糖尿病と偏頭痛を抱えています。その上に、子宮粘膜ガンにかかっているようで、ご主人ハイさんの話では、「妻はあまり長くないです」と、その数日前に会った時に聞かされました。糖尿病のために、麻酔がかけられないそうです。長男のホー・シ・チュン(Trung)さんは、1971年生まれ。次男のホー・ドゥック・チン(HoDucChinh)さんは、1974年生まれ。いずれも終戦前にうまれています。
長女は1979年に生まれましたが、リンパ腫で5歳で病死しました。可愛い盛りです。愛娘の遺影を、タンスの奥から出してきてくれました。

長男次男は、超難聴です。

1980年に生まれた3男のホー・シ・ハウ(Hau)さんは、知的障害を抱えて、家を出たまま行方不明です。3男にはどこが自宅か認識がないそうですが、時々帰宅しては、また長い旅に出る・・・といいます。最近では、9月21日に帰ってきたといいます。どこへ行っているのかわらないので、探さないそうです。父親のハイさんは、「3男の心の中には、善と悪があります。善の時は、もどってきます。でも・・・」と、後は言いませんでした。

ハイさんを除いて、同居の家族がすべて耳が聞こえない人との生活。私にはその苦しさの想像がつきません。
補聴器3個を贈呈しました。一人ずつ、耳につけて調整してあげるたびに、表情の変化が私たちにも伝わってきます。それが、私たちの喜びの波動になっていきます。
小生も、ハノイ支局長時代に、友人と補聴器の贈呈を行いましたが、それ以来のことで、胸にこみ上げてくるものがありました。 荘厳な儀式に立ち会っているような、生命の蘇生を感じさせる時でした。

一見壮健そうに見えるご主人のハイさん(とはいえ、枯れ葉剤被害の症状が何カ所かに出ていますが)ですが、妻は聴力を冒され、第二世代は、病死と難聴、精神的に冒された三男の家出と、いずれも障害を持って生まれた子供たち。子どもたちといいましても、長男次男ともすでに30代です。教育の必要な時期に、極貧で補聴器も買えず、超難聴のために教育の機会をふいにした人たちです。いまさら、耳が聞こえても、学校に行くわけにはいきません。戦争の大きな被害者です。
Posted by Picasa そういう大きな問題が背後にはありますが、補聴器3個で、一気に夫婦の会話が戻りました。子どもたちも、手話を交えながら、声を出し始めました。長男は笑顔で、両手の人差し指をクロスさせました。親のハイさんが、「結婚できるかもしれない」と云っていると通訳してくれました。夢が膨らんできたのです。「きてよかった」「差し上げてよかった」と、皆が思ったことです。阿部さんにも、仙台のパイロットクラブの方々にも、また寄付をしてくださった方々と、この感動を現地で分け合いたかったと強く感じました。

6時過ぎに、私たちはハイさんの家を辞しました。真っ暗になってしまった夜道を、一路ハノイへ。みなで遅い夕食をとりながら、外務省の友人が、タイビン省のハイさん宅へ電話を入れてくれました。すると、近所の人が集まり、皆で喜び合っていると話してくれました。疲れた私たちの体に、大いなる疲労回復剤になりました。

そういえば、今回のどこだったか車いすを届けている時に、私の家内に、「どうもありがとう」と声をかけてくれた村人がいたそうです。他人のことを自分ことのように喜ぶ風習は、もはや日本ではなかなかみられなくなりました。

この6日間、通訳のマイさんには、大変お世話になりました。実は、マイさんは、昨年までの7年間の留学中、東京の大東文化大学に通っていました。今回参加の鯉渕梓さんの先輩にあたります。世間は狭いですね。他の仕事のために、マイさんは、今回はこの日まででした。ありがとうございました。音楽療法、車いすの実技指導は、マイさんの誠実な人柄無くして出来ませんでした。ここに厚く御礼を申し上げます。(つづく)

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