2006-07-03

枯れ葉剤 悲劇の連鎖(下)

(この記事は、2003年5月4日付けの河北新報に掲載した記事に加筆修正したものです)

負の精神性 未だ減らぬ捨て子

募金集めに奔走
ベト君、ドク君をご存じの方も多いだろう。 結合性双生児、枯れ葉剤という言葉を身を以て日本人に広めた双子である。

彼ら二人は、中部高原のコン・トゥム省サタイで生まれた。こん・トゥム省には、枯れ葉剤が百万ガロン撒かれたとされている。

生後18日目。生命力もまだ十分でないうちに、二人は、この中部からハノイの越独友好病院に車で送られてきた。1981年のことである。

二人の名前はバー(3)とボン(4)と付けられていたが、この病院の名にちなんで命名されなおした。ベトは本当は越を意味し、ヴィエトと発音する。ドクは、ドイツの独で、ドゥックと発音する。

ベトちゃん、ドクちゃんが入院した当時の看護婦ディエンさんは、今看護婦長になっていた。
「二人が運ばれてきたのは、私の当直の日でした。外が暗くなりかけていた時です。小さくて、薄汚れていて、でも、二人ともハンサムでした。すぐ体を拭いてあげたら、どなたか分かりませんが、服を下さったんです」と、当時を振り返る。

枯れ葉剤被害研究の先駆者となったこの病院のトン・タット。トゥン教授が、看護の方法と治療法を指示し、勝つ募金集めにも奔走したという。

「奇形児は祟り」
久しぶりにドク君に会った。今は、毎日、百人の新生児が産声をあげるベトナム最大の産婦人科病院トゥーヅー病院の中にあるトゥーヅー病院平和村の職員として、上司である女性理事長を支えている。

そのドゥック君が、コンピューターから取りだしてくれた統計に、思わずのけぞった。くれたのは、この10年間の統計だったが、2001年だけで、504人もの奇形児が生まれた。504人の奇形児のうち、85%が死亡。生き残った15%のうち3分の2は捨て子になったという。

「障害をもって生まれただけでも不幸なのに、親にも見捨てられるなんて・・・」と、障害児担当者は顔を曇らす。ベトナムには、未だに”障害児、奇形児は先祖の祟り」という強い負の精神風土が残っている。この負の精神性を若い親から解放してあげない限り、捨て子は減らない。

米からの補償なし

Posted by Picasa 奇形児の面倒をみている新生児室に入れさせてもらった。水頭症になって頭の肥大が進行し、ベッドに寝たままの子。頭の小さい小頭症の子。両足のないアザラシ肢症の子。両足の指がくっついている合指症の子。などなど典型的な先天性欠損症の子ばかりだ。

新生児室のある一室で、若い看護婦さんに聞いてみた。「
「この部屋では何人くらいが捨て子なんですか?」「全部そうです」

次の言葉が出なかった。 目は、部屋にいる子を追っていた。

ハノイの大手病院の医師が、「枯れ葉剤の被害は、ベトナム民族に落とされた精神的、肉体的大災害だ」と言った。この発言は本当に医師として、人間として深い意味を持っていると思う。

アメリカ化学企業は、自国の旧軍人には補償をしながら(それも災害からすれば微々たるものだが)、外国の患者には一切補償も援助もしない。科学的研究をしてから・・というアメリカの態度は、時間稼ぎの何物でもないと断言しておく。

枯れ葉剤の撒布終了から今年で32年。未だに何の補償を受けないまま多くの被害者が旅立っていく。韓国でも、オーストラリアでも、ニュージーランドでも、旧軍人が枯れ葉剤被害で訴訟を起こしているが、超大型世界企業となったアメリカの化学企業が耳を傾ける気など毛頭なく、厚い壁の前でうろたえるだけである。いかなる慈悲もないアメリカ政府。その身勝手さ、傲慢さ、冷徹さの前で泣く被害者を後目に、アメリカ政府は、今日もどこかで爆弾を落としている。(終わり)  在シドニー フリーランス・ジャーナリスト 北村 元(元テレビ朝日・ハノイ及びシドニー支局長)

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