2006-04-25

音楽療法士としてベトナムへ


新谷文子の”さわやかいっぱい音楽療法”
2005年10月9日、成田からベトナムに向かいました。縁あって、数年前から私は、“愛のベトナムさわやか支援隊”(三島市)のツアーに参加しています。

しかし、今回の私の「愛の都市訪問」は、いつもと違っていました。私は、昨年の1月に、静岡新聞社・静岡放送 社会福祉事業「愛の都市訪問」で、立派な楽器などの受贈の栄に浴したからです。その楽器をもって、昨年10月初めて「愛の都市訪問」を果たしました。訪問先は、収穫期を迎えたハノイ市とタインホア省でした。枯れ葉剤の被害者のために・・子どもたちのために音楽療法を施したかったからです。そのためのベトナム旅でした。
 
10月10日(2005年)、私は、自称30代。本当はXX代。元気いっぱいハノイ・友好村の講堂に立ちました(写真上)。多くの子どもたちに混じって、壮年もかなり参加しました。その数、合わせて100人以上。 いや、負けてはいられません。

この友好村は、ベトナム戦争でアメリカが使った強力な枯れ葉剤の被害を受けた人たちが収容されている施設です。ここにいる壮年は、元兵士であり、子どもたちはその第2世代です。身体障害児もいれば、精神障害の子どもたちもいます。早速、楽器で音楽療法を始めました。最初は、椅子に座ったまま手を動かせる運動。後半は、椅子を片づけて、教室を広場にしました。普段あまり動かさない体を一所懸命動かしてくれる障害児。それも楽しそうに、参加してくれていました。

音楽はすごい力です。1曲終わる毎に、子どもたちの顔が輝いていきます。1曲始まる毎に、体が自然に動いていきました。私の疲れはこれで吹っ飛びました。1曲聞くたびに、元兵士の顔が子どもの顔になっていく。音楽には、年齢の垣根を壊す大きな力が働いていきます。

ハンドドラムをもった障害の子、シェーカーを鳴らす精神障害の男の子と女の子たち。タンバリンを振る元兵士。スズを鳴らす組、カスタネットを初めて手に付けてもらう子。トライアングルを離さない男の子。たっぷり1時間ちょっと。へとへとになって座り込む子は誰もいません。動けば動くほど元気になり、力が出てきます。そのうち、ある障害の子が、車いすに乗ったまま輪の外でみていた子を、輪の中まで押してきました。


音楽療法を始めて1時間ちょっと。誰も、止めようとは言いません。誰も、へこたれません。参加してくれた子どもたちの健康を考えて、「はい、これで終わりです」と言ったのは、私でした。友好村の養護教諭が飛んできて下さいました。「子どもたちのこんな顔を見たことはありません」と。「いやー、楽しいね」と、笑顔でぐしゃぐしゃになった元兵士。戦場ではついぞ見せなかった顔でしょう。頂いた楽器の、初の海外旅行の一場面です。

昼食を挟んで、午後は、平和村に向かいました。
われわれ支援隊が一番長くおつきあいしている収容施設です。2年ほど訪問しないうちに、馴染みになった児童・少女たちは、ほとんどいなくなっていました。子どもたちは、講堂で1時間も待っていてくれた、と聞きました。友好村より狭い講堂で、人数は50人ほど。

ここには、友好村と違って旧軍人はいません。全員が子どもたちで、全寮制のこの施設に泊まり込みます。。粗末なベッドに粗末なゴザしかありません。寒い冬には、ほんとうに気の毒です。中には、デイーサービスで子どもを連れてきた通いの親もいました。発育が止まってしまった20歳近い女性。顔に黒い斑点ができた色素異常の少女。その子が、上手な歌を歌ってくれました。

午後3時頃から、音楽療法を開始しました。突然、一番前で母親に抱かれていた障害の乳児が、音楽に合わせて足を動かし始め、母親が脇をもってぶら下げると、床にジャンプするように音楽に反応しました。母親のうれしそうな顔が忘れられません。最後は、太鼓を使って、前進したり、戻ったり・・の運動をしました。男の先生一人、女性の先生二人の養護教諭三人が参加してくれました。子どもたちと同じくらい楽しんでくれた養護教諭。全員参加で、まるでディスコのようでした。

平和村は、1990年にドイツのNGO団体が作った施設で、現在までにベトナム全国に10か村あります。しかし、ハノイが一番古いです。音楽療法後に、グエン・ティ・タイフォン理事長と懇談しました。

いろいろな団体が来てくれるが、音楽療法をしてくれる人はいないということで、大変に感謝されました。特に、「音楽の効用は理解していて、なるべく音楽を使うようにしていますが、やはり専門家がいないこともあって、思う通りにいきません。来年は、もっと音楽を取り入れたいです。子どもたちの顔をみて、今日は満足してくれたと確信しています」と話されました。

翌11日、私たちは、チャーターしたバスで、タインホア省のタインホアに向かった。ハノイの南170キロの所にあります。タインホア省立孤児院に待つ子どもたちへの音楽療法です。
午後2時頃到着しましたが、児童の学校からの帰りを待って、先に孤児院の理事長たちと懇談しました(写真下)。

この日、始まる直前から私の体調は悪かったのですが、力を振り絞りました。ここで負けてはならない、と。子どもたちが1年間待っていてくれたのですから。2階の講堂にある椅子を片づけて、め一杯の広さを使いました。健常の子ばかりだからです。親がいなくても、みな明るいです。「今日は、もっとみんなを明るくしてあげたい」との気持ちになりました。

講堂の中央にあるホーチミンさんの胸像の前で、まさに盆踊りにも似た賑やかな音楽療法になりました。日本から参加した人の中には、頭に白いタオルを巻いてリズムに合わせた大釜会長さん。ホーチミンさんも、驚いたに違いありません。3人が輪をつくる、ある時は4人が輪を作るゲーム。昨年も好評でした。太鼓の数に合わせて手を叩く。右の組と左の組でリズムを変える。いつも自ら率先して参加してくれる女性の所長さんも楽しそうでした。

乳児を抱いたお姉ちゃんも、輪の中に入りました。この乳児が、捨て子だと聞いてショックを受けました。いい音楽を聴いて、何にも負けない子に育ってほしい・・・と願いました。
収容の子どもは60人ですが、17名が、ハノイに送られて専門教育を受けていると聞いて、安心しました。

43人の児童・生徒たちへの音楽療法は、1時間以上続きました。正確に私の言葉は通じなくても、音楽という世界共通語で相手に伝わるという確かな感触を得た。

音楽療法が終わって、ふと、講堂の入り口で、一人の女の子が紙をもって立っているのに気づきました。紙を見ると、静岡県三島市の方の住所が以前に書かれた紙でした。彼女は、その住所をくれた人が、今年も来てくれると思って待っていたのでした。私は、「今年は来ていない」という意味で、手をよこに振った。無言の手振りは通じました。国境を越えた友情を、彼女は、この1年ずっと持ち続けてくれていたのでした。私は、日本語で「がんばってね」と言って励ましました。

わが“愛のベトナムさわやか支援隊”は、この孤児院で、毎回私たちが訪問する日に、子どもたちにスペシャル・ディナーをご馳走しています。昨年は、炒めたエビ、揚げ春巻き、肉入り野菜炒めが、メインでした。なんだ、と思われるかもしれません。普段は、こんなものは食べられないのです。ご飯に一汁一菜です。お客さんになってしまった私たちが箸をつけるまで食べない子どもたち。今の日本ではあまり見かけない光景をみました。食べ終わると、お茶を運び、爪楊枝を差し出し、ミカンの皮を少し剥いて食べやすいようにしてくれたカイ君という少年。皆、いい子でした。

翌日、ニンビン省の559部隊旧女性兵士たちに、車いすの贈呈と枯れ葉剤の被害者の極貧家庭の在宅訪問をして、ハノイへの帰途に着きました。私は一行と別れ、一人で日本に向かいました。

来年も、ここにきて、より多くの人を励ましたい・・と誓ったはずの自分が、実は励まされていることに気づきました。今後とも、音楽とこの楽器を通じて慈悲の心で他人へ尽くしていこうと心に誓いました。その行為の中に、自分を磨いていく鍵が隠されているのです。その名も、愛のベトナムさわやか支援隊でした。

皆さん、たくさんの楽器をありがとうございました。これからも、多くの人々に健康と平和と友情を配達してまいります。(了)
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2006-04-24

枯れ葉剤 新たな法廷闘争

国際弁護士 エージェント・オレンジ被害者への強い支援を約束 
 (2006年2月22日) 出典:ベトナムニュース通信

外国人ベテラン弁護士が、22日、アメリカ化学企業への訴訟で、ベトナムエージェント・オレンジ被害者の支持を強く訴えた。

「訴訟は被害者に勝利をもたらすだろう。それは、強力な議論だけでなく、説得力のある明白な証拠によっても後押しされるだろう」と、ジテンドラ・シャーマ国際民主弁護士協会会長は、3日間におよぶ、枯れ葉剤被害者訴訟支持について行われた会合後開かれた記者用のブリーフィングで語った。

同訴訟の勝利のために最大の努力を約束した同会長は、また、「ベトナムは同協会加盟の96カ国から強力な支持を得られると思う」と述べた。

シャーマ会長は、戦争中に撒布された除草剤によって、アメリカ軍はベトナム人民に深刻な危害を引き起こしたと繰り返し述べた。「エージェント・オレンジ/ダイオキシンの結果生じた直接・間接の被害者は、補償を受けなくてはならないし、アメリカ化学企業は、補償する義務がある」と、彼は強調した。

シャーマ会長は、3月に、同協会は、ベトナムのエージェント・オレンジ被害者の生存権が侵害されてきたとして、国連高等弁務官事務所に書類を提出することを明らかにした。

一方、同弁護士協会のジーン・ミラー事務局長は、「この訴訟において、アメリカの法廷でベトナムのエージェント・オレンジ/ダイオキシンを代表することを名誉だ」と語った。患者と会い、苦悩を確認した後、彼女は、「自分は被害者と家族に起きていることを知らんぷりは出来ないし、ベトナムが被害者に対してとってきた多大な努力と真心のケアを忘れることはできない」と語った。

ジーン・ミラー事務局長は、エージェント・オレンジ被害者調査のためにこれまで3度訪問している。アメリカの化学企業に対するベトナムのエージェント・オレンジ/ダイオキシンの被害者訴訟応援の準備のために尽力してきた。

日本のJuriko Moto(日本名不明)教授は、エージェント・オレンジ/ダイオキシンの結果について、それを非難するだけでなく、その化学物質が、いまだにカナダでも使用されているので、これ以上の使用阻止を目的として、世界に伝えていくことは必要だと語った。

国際民主弁護士協会は、ベトナム人のエージェント・オレンジ/ダイオキシン被害者に多大な尽力をしてきた。8年前に、同協会は、その問題で発言した。2000年には、同協会は、ベトナムにおけるアメリカのエージェント・オレンジの使用を非難する最初の決議を採択した。

2002年には、同協会は、ベトナム人エージェント・オレンジ/ダイオキシン犠牲者の訴訟を支援する研究チームを発足させた。そして、同協会は、訴訟のために有名弁護士を提供した。2005年6月に開かれた会議では、57カ国から参加した500人を越える弁護士が、ベトナムのエージェント・オレンジ/ダイオキシンの訴訟を支持する決定を採択した。

ベトナム・エージェント・オレンジ/ダイオキシン被害者協会によれば、ベトナムは、3月22日に法廷に討議資料を送る予定であり、3ヶ月後にニューヨークで控訴の法廷で討論を行う予定である。(訳:北村 元)

2006-04-21

ベトナムの動く市場

商品を一杯積んだベトナム・ハノイの『歩くスーパーマーケット』。ハノイのどこでも見られる風景である。『歩くスーパーマーケット』は、天秤棒で担いで移動する場合もあれば、自転車に乗せたり、商品を入れた籠を手に持ちノン(日本の菅笠)をかぶって移動する人、中には、商品を入れた籠を頭に乗せて売り歩く人もいる。

なぜ、あなたはお店に買いにゆくのですか? お店の方からやってきてあげるのに!!と言わんばかりだ。メール・オーダーやインターネット・ショッピングは、ここではまだまだ先の話だ。

人が激しく行き交うハノイの早朝の喧噪の中に、いつもながらのありふれた姿がある。パン、野菜、ミカン、リンゴ、婦人の下着、トイレット・ペーパー、ドアマット、お線香、神棚に捧げる紙の供え物。中には石炭、などを売り歩く。やがて、早朝の時間が過ぎると、物売りの姿は、プラスチック製品、陶器、布団、卵、花、ゴザ、すだれ・・等に変わっていく。選択には困らない。

多くの売り子が、一日何回も同じ道を歩く。巡回といった方がいい。縄張りがあるのかも知れない。もっと特別な物、例えば、鹿の枝角とか帽子の行商人は、買い手を求めてより広い範囲を売り歩くので、それほど頻繁には来ない。商品を積んだ自転車は、道路でよくひっくり返る。それは単純に、1回の出動で、たくさんの物をうるために積載荷重となるからだ。

買いたい物を売る行商人が来た時は、「エム・オーイ」と言えば止まってくれる。一番買いやすいのはパンだ。2千ドンとか3千ドンで買える。他の物を買う時は、値段の交渉をするのが普通だ。

パンの利益はほんのわずかだ。行商人の売上げ利益は、一日平均で2万5千ドンからそんなものだ。恐ろしく利幅の少ない仕事なのだ。それを値切るのは心苦しいものがあるが、売り子が外国人だと足下をみることもあり、ふっかけられてはいけないと、こっちも必至になってしまうこともある。

利幅が少ないうえに、行商人の多くはハノイの近郊から出かけてくる。多くの場合、自宅の農業の副収入として欠かすことの出来ない収入である。だから時として販売するものは、自宅の農家で出来たものであったり、自分の手作りの物であったり、ハノイ近郊の夜の市場で安く買ったものを転売するのである。

歩く市場の歴史は、1010年に誕生したハノイと同じくらい古いと言われる。ハノイ市は、都市を取り巻く村々の中で成長拡大していった。それらの村は、村毎に特徴を持ち、その特徴はいまも失っていない。やがて、それは住宅街と商業地区にわかれていくのだが、陶器、竹細工、衣類、薬草などを売る区域がハノイ城の中に出来上がっていく。

これらの特徴をもった区域は、いまでもフォー・フオン(Pho Phuongハノイの旧市街)に見られる。竹屋通り、紙屋通り、鍛冶屋通りなどである。さらには、チャン・カム(Chan Cam)という所は弦楽器を売り、ハン・バック(Hang Bac)は銀製品を売り、ハン・チウ(Hang Chieu)はゴザを売る、といった具合だ。炭を買おうとするならハン・タン(Hang Than)に行けばよいのだが、なんと時代の移り変わりで、ハン・タンではウエディング・ケーキを売るようになってしまった。黒い物から白い物に、商品が変わってしまった。

移動市場が未だに絶えないのは、人々が自分の店や仕事場を管理しなくてはならないからだ。ショッピングの時間が少ない事が挙げられる。そして、もう一つの理由は、ベトナムの伝統的な建物の構造と生活習慣による。ベトナムの建物では、三階建ては少ない。最近でこそ3階建ては多くなってきたが、多くは、細長く奥行きが深い。

居間と台所は、大抵のばあい道路に面した地上階にある。気候が暑いのと狭いスペースのため、生活はすべて横丁の通りか表通りに面した所で行われる。それが故に、移動市場の行商人が客と接触しやすかったのである。

しかし、残念なことに、行商という商売の形態に
は先がみえてきた。都市の人口が増えて、高層の建物が増えてくると、都市での歩く市場はそう長くは続かないだろう。だが、当面は、軒先で待っていれば、移動市場はどこかからか来て、どこかに去っていく。欲しい物が来るまで待てばいいのだ。あなたが急いでさえいなければ。

お急ぎの方は、スーパーに行けばよい。その代わり、袋やバッグ類は持って入れない。それがいやなら、市場に行けばよい。急ぎでなければ、「歩く市場」は、確かに便利なのだ。

2006-04-20

被害者の声に耳を傾けよう

愛の支援隊ツアー ただ今募集中
(詳細は4月12日号をご覧下さい)

下記の国際アピールが、ツアー参加のきっかけになることを切に希望します。

エージェント・オレンジ/ダイオキシン被害者国際会議アピール
2006年3月28日-29日 ハノイ   (訳:北村 元)

われわれ、エージェント・オレンジ/ダイオキシン、及び他の有毒化学物質の被害者は、2006年3月28日-29日にハノイで開かれたエージェント・オレンジ/ダイオキシン被害者国際会議に参加したアメリカ、オーストラリア、カナダ、フランス、ドイツ、イギリス、ニュージーランド、ロシア、韓国、スイス、及びベトナムの科学者、支援者と共に、国際社会へ向けて次のアピールを採択した。

われわれは、ダイオキシンと他の有毒化学物質がに汚染されたエージェント・オレンジが、人間生命と健康に及ぼす影響と、影響を受けた人々の苦痛を討議した。意見交換にもとづき、われわれは次のことを確認する。

1. ベトナムで展開された戦争中、アメリカの化学会社は、枯れ葉剤あるいは除草剤と偽装して、何百万リットルという有毒化学物質を製造し供給した。これらの化学物質には、高レベルのダイオキシンが含まれていた。それらは、全く致命的な物資だった。

2. これらの有毒物質は、環境、何百万エーカーの森林を破壊し、生態系に不均衡を生じさせ、貴重な森林の植生のとどまらず、森林資源の喪失、数種の動物の絶滅に至らしめた。その結果として、洪水、浸食、干ばつのような自然災害がより増加し、南部ベトナム住民の主要な生存源である農業に大打撃を与えた。

3. しかしながら、これらの有毒化学物質の最悪の影響は、それらに被曝した人々の人間生命へと健康に与えた影響である。エージェント・オレンジ/ダイオキシンと他の有毒化学物質の被害者は、以下で構成されている。

a. 解放戦線軍の自宅に住んでいた何百万のベトナム人とその兵士、そして当時アメリカの同盟国だった旧サイゴン政権のために働いた人々とその軍隊。

種々の調査と科学的研究(しばしば外国及びアメリカの科学者の参加を伴って)は、ベトナムの被害者は、各種の重い病気に罹病していることを示している。1994年と1995年に全米科学アカデミー医学研究所がリストにあげたダイオキシン関連の疾病よりもはるかに数が多く、はるかに重い。


加えて、多くの婦人被害者が生殖機能に問題を抱えている。彼女らの多くは、子どもを生む能力と、母になる喜びを奪われてしまった。しかしながら、最大の苦痛は、エージェント・オレンジ/ダイオキシンがすでに次世代の子どもにまで傷をつけてしまったことであり、その次の世代にも同じ影響を与えるだろうということだ。多くの子どもたちは、戦争経験なしに生まれてきているが、体は奇形となり、普通の人間として生きていくべき幸せという単純な経験すら享受できない。

上記の理由で、エージェント・オレンジ/ダイオキシンの被害者とその家族は、社会の中で最も貧しく、かつ最も不幸な人たちに属している。何千という人々が、自分たち自身とその家族への正義もなく死亡していった。

種々の重病に苦しむベトナムの被害者がいるという事実を理解する。というのは、彼らは、エージェント・オレンジ/ダイオキシンが撒布された地域に住んでいたからだ。

.b. アメリカ、韓国、オーストラリア、ニュージーランドの何千、何十万の兵士、将校が、ベトナム戦争従軍中に、エージェント・オレンジ/ダイオキシンに汚染された。その結果、彼らは、重い疾病に苦しんでいる。いくつかの国々は、エージェント・オレンジ/ダイオキシンと他の有毒化学物質の健康への影響を認め、影響を受けた復員兵に医療費などを支払っている。にもかかわらず、他の多くの人々が、その恩恵に浴せず、未だ認知と損害賠償と正義を求めて戦わなくてはならない。

c. ベトナムにおけるエージェント・オレンジ/ダイオキシンに影響を受けた人々とは別に、カナダのゲージタウンや他国の多くの人々が、エージェント・オレンジ/ダイオキシンの使用による疾病を引き起こしている。彼らの状態は、ベトナム人と他の被害者の症状に似ている。そして、それ故に、彼らは、被害者との連帯を示し、正義を求める闘争を表すために、今回エージェント・オレンジ/ダイオキシン被害者国際会議に参加したのである。

エージェント・オレンジ/ダイオキシンと他の有毒物質による汚染は、物理的に健康の弱体化、多くの人の死、家族の幸せの喪失、貧困の人生、奇形を伴った子どもの排除につながっている。そしてこれら有毒化学物質の使用は、国際法違反である。

4.    われわれは、正義とベトナムの現実を一顧だにせず、ベトナム被害者訴訟を棄却したジャック・ウエインシュタイン判事が出した結論に、全く異議を唱えるものである。


5.   われわれ、エージェント・オレンジ/ダイオキシンに被害者とその支援者は、人種、政治的信条に関係なく団結して作業することを確認する。そして、アメリカ化学会社が、法律に明記された通り、社の能力に応じた損害賠償を支払うことを要求する。

6.    われわれは、ベトナム人の エージェント・オレンジ/ダイオキシン被害者が起 
こした訴訟に関して、正義を求める闘争の中で彼らの最終勝利まで支援する。
 
     われわれは、韓国被害者の当初の勝利を祝福する。そして、彼らの最終勝利まで支援を継続する。われわれは、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドのベトナム戦争復員兵の正義を求める闘争を支援する。
    
     われわれは、なお、正義を求めて闘争しているカナダ、及び他の国のエージェント・オレンジ/ダイオキシン被害者を支援する。

7.    われわれは、アメリカ政府が有毒化学物質の結果をうち破れるように貢献する責  任を負うことを要求する。

8.    われわれは、韓国、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ各国政府に、各国の被害者とベトナムにおける被害者に向けての適切な政策を実施するよう求める。

9.    われわれは、各国政府、国際・国内機関、非政府機関に対し、ベトナムにおけるエージェント・オレンジ/ダイオキシン被害者に物質的・精神的に支援を供与し、有毒化学物質の重い結果を乗り越えられるように同国を支援することを呼びかける。

苦痛と苦悩は、唯単に個人個人の問題ではない。
正義を求める闘争は、全世界のためであり、将来の世代のためであり、そして、平和で健康的な惑星「地球」のためでもある。

2006-04-19

ベトナム家族の絆

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(詳しくは4月12日号をご覧下さい)


 名前とは何だろう。かつて人々は、氏でひとくくりにされていた。やがて、それは壊され、家族となる。日本は、姓の数が一番多くて10万以上あるらしい。イングランドは1万6千に姓の数を持つ。中国は926,韓国は274だという。
 
 ベトナム最大の民族、キン族は、推定で190から300と幅が広い。正確な数を決めることは不可能だという。同じ姓であっても、必ずしも同じ家系の出身ではないというのだ。その一方で違った姓でも、事実姻戚関係にあることもある。

 姓の改変は、ベトナムでは新しい習慣ではない。歴史上、姓を変えた人の多くの例がある。当局とまずい関係になった人々、例えば反体制派の人、犯罪人などは、しばしば姓を改める。王が新たに誕生すると、前の王の支持者らは追求を逃れるために姓を変える。15世紀レ朝の役人は、マック・ダン・ズン(Mac Dang Dung)とその親戚は、チン王朝になった時に、ファム(Pham)とレウ(Leu)という姓にした。

 一方、新しい王が、その重みを示すために、あたらしい名前を送る例もある。例えば、15世紀のレロイ朝の役人グエン・チャイは、皇帝への奉仕のゆえにレ・チャイという名前を授かった。

 家系譜は、世代から世代に継がれた文書である。そこには、名前、年齢、墓の場所、祖先の命日、父方、母方の子ども、家族の系譜が収められている。家族の歴史は、“大越歴史全史”(Great Viet’s Full Text)のような歴史的記録とは別物である。そこでは、家族の歴史は、個人的なものである。家族史は、通常秘匿されているが、歴史的記録は、全ての人が閲覧できるのである。

 歴史家ファン・フイ・チュー(Phan Huy Chu)によれば、1026年にリ・タイ・ト{(註:1010年.、リ・コン・ウァンが帝位(李太祖:リ・タイ・ト)につく。都をタン・ロン(昇龍;現在のハノイ)に遷都する。トア・ティエン(順天)と改元。李朝:1009?1225年ベトナム初の長期王朝)}は、皇帝名の記録(Hoang Trieu Ngoc Diep)の編纂を命じた。残念ながら、その記録はなくなったままである。Sino-Nom研究所に保管されている264氏族の中で最古の家族記録は、チャン(陳Tran)家族のもので、1533年に遡る。この記録は、チャン・ヴァン・キン(Tran Van Kinh)氏まで10世代を網羅しているのである。

 現存の264氏族の記録の一部は、中国語で書かれ、一部チュノム(字喃)で書かれている。これらの記録書のうち3冊は印刷され、残りは手書きでなされている。およそ半分の記録書は、百頁以上である。一番厚いのは、フオン・ケのグエン・ティ(Huong Khe-Nguyen Thi)家族のことを記録したもので、手書きで1200頁にも及ぶ。この本は、フオン・ケのグエン家の家族史を載せてある。この家族は、学術的な成功を収めた家系である。一番短い物は、6頁しかなく、ナムディン省のギア・フン(Nghia hung)郡ダイ・アン(Dai An)のDO
村の祖先とドー家族の教育の家族記録という題名がついている。

 ほとんどの家系記録は散文調で書かれ、一部は詩で書かれている。また、中には、グエン・ディン(Nguyen Dinh)家の記録のように、自然神教の韻律を踏んだ6?8調の語で書かれているものもある。作者の名前は、162の記録書に記入されている。家系記録書の中には、はしがきを宮廷の権威ある者が書いている。例えば、18世紀の学者で大臣だったグエン・ギエム(Nguyen Nghiem)等がそうである。また、一方では、ゴ・ティ・シ(Ngo Thi Si)とかファム・ディン・ホー(Pham Doinh Ho)らの有名詩人が序文を書いているケースもある。

 家系の記録がしっかり残っているのは、タンロン(昇龍)のハノイ、続いてハ・タイ省、ハイ・ズオン省、ゲ・アン省となる。そして、ベトナム南部の省の名前が出てくるのは、わずか3冊の本だ。トゥア・ティエン・フエ省、ザ・ディン(現ホーチミン市)とハ・ティエン省だ。

 Sino-Nom研究所に残る家族の記録は、ベトナム家族の完璧ではない。多くのテキストは、戦争中に破壊されたか紛失された。強硬左翼がこれらの記録書を封建思想の名残りと非難したり、焼いてしまったが故に、政治敵変化も、また家族記録の減少の原因となっている。

 伝統と祖先への尊敬の念から、一部の人たちは、家族の記録を大事にしまっている。毎年、ハ・タイ省ズオン・ラム(Duong Lam)郡モン・フー(Mong Phu)社在住のハ・ゴック・ゴアン(Ha Ngoc Ngoan)さんは、祖先の命日にあたる陰暦の12月20日に、大家族が集合する。大家族が彼を取り巻く中で、語案さんは、記録書をひもとき、先祖の歴史を声に挙げて読む。そこで、ゴアンさんは、若い世代に先祖の威徳を聞かせるのである。

 自分のルーツを探りに出かける人もいる。ゲ・アン省で1919年に生まれたホアン・ギア・チュオン(Hoang Nghia Chuong)さんは、今、ハノイに住む。少年時代、彼は、自分の家族は、フン・イエン(Hung Yen)省ホアン・ヴァン(Hoang Van)村の出だと父親から聞かされていた。1980年に郵便局を定年退職すると、チュオンさんは、自分の家族の過去を調べ始めた。中国語とフランス語がわかるチュオンさんは、歴史記録を解読することができた。そして、息子のルオック(Luoc)さんの助けを借りながら、中部ベトナムへ足を運び、現在ヴァン・ノイと呼ばれる家族のルーツの村を探し当てた。

 グエン・フィ・トン(NguyenPhiTon)さんという73歳の農家の古老は、中国語とフランス語が読めないために、自分の家族のルーツを探すのを諦めた。トンさんは、現在タイ・ビン省に住むが、自分の父が中国語で書いた記録書を翻訳してくれる人を見つけた。そして、自分の子ども、孫、ひ孫の名前と誕生日も記録に書き入れた。16頁に及ぶ書類を自分の息子にタイプを打ってもらい、それをタイ・ビン省、バク・ニン省、バク・ザン省に住むグエン家の親戚に配った。

 この家族の記録のおかげで、グエン、ブイ、レ、ゴという姓のついたグエン家の若い世代の親戚たちは、毎年旧暦の3月19日に集い、タイビン省のタン・チュー社出身の祖先の命日に霊を慰めている理由が分かった。

   父の枝が同じ源に発していることは珍しくない
   四つの名前がなぜ同じなのか
   生活は山あり谷ありだが、ブイ、レ、ゴ、グエンは同じ流れだ。

   祖先が記録したものを求めて。
   子どもたちに安定したルーツをもった木々を覚えてもらう
   そして、自分の源を覚えている人は 成功するだろう

2006-04-18

チャン・フン・ダオ将軍

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 年表によれば、1226年から1400年まで大越を統治していたチャン(陳)朝の始祖は漁師だった、という。先祖からの海上生活のおかげで、冒険好きで真っ黒に日焼けしたチャン一族は、波の中で食べ、風の中で話をしていたと言われている。
 
 
 13世紀に入って1230年代、一人の男子が生まれた。チャン一族の初めての世継ぎの子どもであった。チャン・クォック・トゥアンと名付けた。少年は、優れた外交官、宮廷を二分するねたみ派と策謀派をとりなす専門家として養育された。彼は、また立派な学者でもあった。
 
 陳朝になると、中国に代わって元の蒙古が、侵略の脅威となってきた。
1258年に蒙古(元)が第1回の侵略をした時(陳朝初代チャン・タイ・トン(陳太宗)の時代)に、チャン・クォック・トゥアンは、自分の書籍と武器を取り引きした。元軍は首都タンロンを制圧したが、暑さと食料不足から一時撤退せざるを得なくなった。その蒙古(元)軍に後ろから追い討ちをかけて、徹底的に打ち破ったのが、英雄チャンフンダオ(陳興道)だ。チャンは、戦争にも同様に長けていたことが証明され、現代で言う最高司令官に任ぜられた。彼は、チャン・フン・ダオ(陳興道)という名で知られるようになった。

 蒙古(元)軍を追い払うことは、容易な仕事ではなかった。アジアからロシアまでを制覇していた蒙古(元)は、大越を諦めることはなかった。攻撃しては撃退され、3度も侵略を繰り返したのである。

 北部中国をチンギス・カーンが制覇した後、彼の子孫が、チャンパ王国(現在のベトナム南部に相当する)の攻撃を思い立った。蒙古(元)は、大越領土を通過して進軍する許可を願い出た。チャン王朝がこれを拒否すると、またまた蒙古(元)は侵略した。

 疲弊した兵士を召集するにあたり、チャン・フン・ダオは、「将校と兵士に告ぐ」という詩を詠んだ。兵士たちは、将軍の愛国的な詩に心を動かされ、戦う決意をみなぎらせ、腕に“Sat That“(敵(蒙古)を殲滅せよ)という言葉を入れ墨した。歴史資料では、敵陣に送られた密使が、敵将軍に”Sat That”と腕に彫られた入れ墨を見せたという。逆境の時代には、チャン・フン・ダオのこの言葉が、ベトナムでしばしば繰り返し使用されたという。


 この将軍にの作とされている有名な箴言がある。
 「雁が何千里も飛べるのは、背骨が翼を支えているからだ。その背骨がなければ、普通の鳥にしか過ぎない」

 指導者としてのチャン・フン・ダオの偉大な力は、市民の一人ひとりが大事な兵士なのだということを納得させる能力にあった。

 知将チャン・フン・ダオは、敵の力を見抜く力をもっていた。そして、敵の弱点を利用した。蒙古は、強力な騎兵を背景に野戦場での戦闘を有利に展開することを狙った。しかし、大越には、多くの川あり、渓谷あり、敵軍の馬には困難が立ちふさがっていた。平原で蒙古軍と相まみえるよりはと、チャン・フン・ダオは自軍の姿を隠し、険しい地形のところで、侵略者を待ち伏せした。

 1285年(3代チャン・ニャン・トン(陳仁宗)の時代)、蒙古(元)が大越に対して2回目の侵略攻撃で、彼らは北部と南部から進軍を開始した。この時、チャン・フン・ダオ将軍は、チャン・ニャン・トン王に、「もし王が降服を望んでおられるなら、王は、私のクビを先ず切り落としてください」と言ったと伝えられている。

 
 1285年1月、元軍はベトナムへ進攻し各地で勝利し、首都へ迫った。チャン・フン・ダオは小人数のゲリラ戦を挑み、食料を隠したりして、元軍の動きを止めてから総攻撃に移り、見事元軍を撃退した。

 50万の大軍が大越領土を進軍してきた時、チャン・フン・ダオ将軍は、ハノイのタンロン城を明け渡してでも、自軍の兵士を撤退させることを決めた。将軍の焦土作戦のおかげで、蒙古(元)軍がハノイのタンロン城に入場した時、全くもぬけの殻だった。

 一方、チャン・フン・ダオは、中部のゲ・アン省とティエン・チュオン(現ナム・ディン省)に軍隊を集中させ、敵軍が糧食不足になるのをじっと待ち構えていた。敵は、ゲ・アン省を経由して食糧の確保に努めようとしたが、チャン・フン・ダオ軍は、それを断った。

 やがて、チャン・フン・ダオ軍は、ハム・トゥ(Ham Tu)とチュオン・ズオン(Chuong Duong)で、蒙古(元)軍の増強部隊を待ち伏せし、力を削がれた蒙古軍は、タンロン城を放棄せざるをえなくなった。そこから、ベトナム軍は驚異の攻撃に転じ、蒙古軍に壊滅的打撃を与えた。モンゴルの将軍トアット・ホアン(Thoat Hoan)王子は、銅製の大砲の中に身を潜めて退却を余儀なくされた。



この不名誉な退却にもかかわらず、蒙古軍のトグハン王子は30万の軍勢と500隻の艦隊を率いて、1288年に3回目の襲来を行った。今回は、チャン・フン・ダオは、大越領に深く侵入させたうえで、ベトナム軍で包囲した。侵略軍の威力を削ぐために、チャン・フン・ダオは、民兵をつかって、情け容赦なく揺さぶりをかけろと命令を下した。それから、彼はやおら、食糧など必要物資と増強部隊を乗せた蒙古(元)軍艦隊を阻み、沈没させた。
 
 必要物資なしでは、蒙古軍は退却しか選択肢はなかった。敵は海を使って逃げるに違いないと確信したチャン・フン・ダオは、先の尖った鉄をつけた竹の杭を、引き潮の時に白藤河口に立てるように命じた。敵船が海に向かい始めると、それらのスパイクが船団に刺さった。蒙古船団は、このように壊滅状態になり、幹部将校の一部は捕虜になった。陸を逃げまどう元軍には、伏兵の英雄ファム・グ・ラオ将軍が指揮する大越軍が追い打ちの大攻勢をかけ、壊滅させた。

 蒙古軍敗北から一年後、大越の王は、チャン・フン・ダオに軍の最高栄誉賞を贈った。チャン・フン・ダオは、軍役から引退し、自分の地位を有名なファム・グ・ラオ(Pham Ngu Lao)に譲った。

 引退後、チャン・フン・ダオは、ハイ・ズオン省のキエップ・バック(Kiep Bac)に移り、そこで、最後の一〇年を過ごしながら、回顧録を書いたり、薬草を育てたりした。キエップ・バック寺の脇にあった彼の庭は、いまでも存在し、六〇〇種を越える薬草が根付いている。

 チャン・フン・ダオ将軍が病に倒れた時、チャン・アイン・トン(陳英宗1293?1314)帝は、病床を見舞った。「もしあなたさまが亡くなられ、北の侵略者が戻ってきたら、どうすればよろしいか」と、若き王は尋ねた。

 チャン・フン・ダオは答えた。 
 「いつもの通り、人民の力に頼らなくてはなりません。彼らには、しっかりした根と固い幹があります。それが、我が国を守る最上の方法です」と。

 数日後、陰暦の8月20日、チャン・フン・ダオは逝った。死語、彼の祀るキエップ・バック寺が建立された。毎年多くの人々が参詣し、この偉大な将軍に祈りを捧げる。チャン・フン・ダオの話をする時に、人々は有名な諺を口にする。
 「生前は有名人であり、死後は聖人になる。その勇気は天と地にある」

3度目の日本襲来を計画していた元は、このときのベトナムの抵抗で計画を中止したと言われる。(了)

2006-04-17

四季の詩

ただ今 愛のベトナム支援隊ツアー募集中
(詳しくは4月12日号をご覧下さい)

 東アジアには、すばらしい四季の歌があります。
ベトナムにおいても、それは然りです。自然に溶け込んだ人びとの気持ちを謳ったものです。私は詳しくはありませんが、ベトナムの古典の詩にも、うつろう季節の人の動きを描いたものが多いようです。
 

 これらの中で、15世紀の女性学者ゴ・チ・ランが謳った四季の詩、16世紀のホアン・シ・カイ(Hoang Si Khai)が謳った四季の詩(トゥ・トイ・クック)は、格別有名なものです。が、現代の人の多くは知りません。マイさんによれば、ホアン・シ・カイさんはマック王朝の大臣だったために、ホーチミン市の通りにその名が残されているそうです。



太陽の下で暖かい空気が満ちている
宮殿も遺跡も黄金の光の中にかすんでみえる
柳の木々のカーテンのなかでウグイスが囀る
花の格子の上を蝶が舞う
家の戸口の影が長引く
緑の服から、少しの湿気と粉の香りが漂った
春とともにやってくる憂鬱さに気づかず、子どもは
象牙色した手すりによりかかり微笑む


風がザクロの紅い花を散らす
木陰で若き女性が何気なく揺らしているハンモックの上に
春を待ちこがれていたウグイスが翼を広げた
過ぎ去りし風景を思い出すかのようにツバメが囀る
針仕事をやめて、そっと彼女はあたりを見回す
絹のカーテンに彼女はぼんやりとして頭を寄せた
彼女の夢は遮られた:誰かが近づき、カーテンを動かした
まあ! もうリオ・タイ(1)まであの人に会いにいかなくてもよかったのだ


秋の気配があちこちに漂い、空は澄み渡り、空気は清浄なり
遠くからきた寂しげな野生のガンが、霧の到来を告げる
蓮の花は長い茎の上で枯れ果て、香りも翡翠の花瓶の中で消え失せた
三番目にみると、かんばの葉が冷たいゴ川の水に落ちた
蛍が青い欄干の上を飛ぶ
薄手のコートでは寒さをしのげない
笛の音が止まり、私は物思いにふけった
どこからやってきたのかフェニックス 私を不死の地へつれていくのだろうか?


香料の台に火を入れた 小さな銀製の箱だ
一杯の酒が朝の空気を暖める
雪の冷たさが明るいカーテンから染み込む
霜が水の表面を粗くする
その若き女性は、金襴の織物の中で隠遁の生活をおくる
窓の向こうで、光は紙で遮られた
しかし、春をそっと連れ戻すために
山の杏の木に、芳しいつぼみが開いた

中世ヨーロッパでラテン語が使われていたように、この詩は漢詩で書かれています。中国文化には、多くの暗示が含まれています。リオ・タイの守備隊にいる夫を想う妻。ベトナムのほとんどの大地には降らない雪など。
古代東洋の詩では、常套句を使うことを恥としませんでした。新しい作品の模範としてすらいたようです。
ゴ・チ・ランの詩には、女性の感覚を裏切るものがあります。
ゴ・チ・ランは、学者フ・トゥック・ホアインの妻でした。ハノイの郊外キム・ホア(現ソク・ソン=ハノイの北30キロほどのところ)に住んでいました。彼女の文学的才能を高く評価したのは、碩学の皇帝レ・タイン・トン(黎聖宗)でした。レ・タイン・トン皇帝は、彼女を王室の女性たちの教育責任者に任じたのです。
(註:リウ・タイは中国東北部のこと。夫が守備隊勤務についているリウ・タイにいくことを夢見て居る妻について、Tang の詩を暗示させている)

2006-04-14

二人の若い命を消すな!

2006年・愛のベトナム支援隊ツアー  ただ今募集中!!
(詳しくは、4月12日号をご覧下さい)

あなたがこの子らの親だったらどうしますか?
諦めますか? 全力で助けますか?

ハノイ在住のマイさんから、貧困から医師の診断も受けられなかったニンビン省のハイ君とニャンちゃんの、詳しい病状の報告が入りました。真心と援助を送り続けて下さっている、東京・文京区の山本邦子さんたち子を持つ優しくてエネルギッシュなヤング・ミセスのお母さん方・・ほんとうにありがとうございます。
二人の子の検査入院には、皆さんから頂いた援助金を使わせて頂きました。ハイ君、ニャンちゃんのお母さんは、夫と一児を病気で失っています。皆さんに、病院で山本さんたちへの感謝の気持ちを伝えてくれたそうです。 子どもたちに笑顔を。お母さんにも笑顔を取り戻したいです。

検査入院の結果は、ズバリ申し上げて、二人は大変な”重病”でした。それほど長く生きられない・・死を待つ兄妹(写真下)でした。誰もが、この世に尊い使命をもって生まれてきたのです。なんとか長く生きてほしい・・この子らをなんとしても輝かせてあげたい・・そう願う方々と、私たちは団結したいと思います。

なんでハイ君とニャンちゃんが社会から取り残されていたか? いろいろな理由があります。地域の人々が、ぎりぎりの生活をして、ただひたすら耐える文化の中で暮らしてきたのも大きな理由でしょう。かつての北ベトナムは、貧乏を分かち合う社会でした。しかし、抗米戦争に勝利するというような大目標がなくなった今、競って物質的豊かさを求める社会が実現しつつある裏で、他者に思いを馳せる心も少しずつ失せてきたような気もします。そこに発展しゆくベトナム社会の難しさがあります。この一家は長期の栄養失調・・医者からも慈愛の一片も与えられずに暮らしてきました。病気を克服できる元気を与えたい・・・希望を持って生きる喜びをあげたい・・そう思います。



まずは、下の報告書をお読み下さい。

Posted by Picasaニャンちゃん(お母さんに寄りかかっている子。2005年10月撮影): 2006年4月4日に小児科に入院。4月12日に退院しました。 担当医は、ド・ヴァン・ズン医師です。医師診察による病名は、先天性赤血球破滅貧血症でした。原因は、父親からの遺伝によるものとのことです。

 ニャンちゃんの病状です。『赤血球が普通以上に破壊されることにより脾臓が非常に大きくなってきた(X線スキャンによれば腹腔は脾臓で埋まっている);血液中の鉄分値が高い;さらに栄養が長期的に不足している。よって、肝臓・心臓が膨れ機能不全となり、心臓からは吹きだしのような音がする』

 退院後の治療方法:『6ヶ月ごとに検査・輸血ため来院が必要である。ただし、バク・マイ病院に行く必要はなく、地元ニン・ビン省の病院での検査・輸血でよいとされている。輸血後しばらくは元気が回復するが、時間がたつにつれて赤血球が破滅されることによって、体力が徐々に低下してくる。その期間は6ヶ月と想定される。ただし、患者の健康状態が異常に悪化すれば、医師の指示によりその期間は1ヶ月毎に短縮される可能性がある』


 『きちんと輸血が受けられれば、死んだお兄さんの25歳を上限としてあと数年くらい寿命は持つかも知れない。定期的な輸血治療を受けられないと死期は早まる。また、激しい衝撃を受けることにより脾臓破壊で死を招く恐れもあり、安静を必要とする。輸血以外の治療法はない。ただ、栄養の補給・摂取に特段の注意を払えば、投薬の必要ない』

(上の写真は、2006年4月に撮影したものです。二人とも輸血を受けて、少し病状の改善が表情にみられますね)

ハイ君:

  血液科に2006年4月4日入院し、妹と同じく4月12日退院しました。担当医は、グエン・ティ・ラン・フオンさんという女医さんです。病名は、 βThalassemia。これはベータサラセミアといいます(北村註:下に説明をさせて頂きました)。病因は、父親からの遺伝によるものと診断されました。入院中、250ml入りの輸血用パックを6パック、輸血しました。

 ハイ君の病状です。『赤血球が普通以上に破壊されることにより低色素貧血、脾臓が非常に肥大している(X線スキャンによれば腹腔は脾臓で埋まっている);栄養が長期的に不足→ひどい貧血状態である。肝臓はやや膨れ、その機能が衰えている。また、骨の生成にも影響が出ている。ハイ君の病状は今とても悪い。いつでも死ぬ可能性がある。来年どころかあと何ヶ月くらい維持できるかどうか、先の見通しはくらい』

  退院後の治療方法:*服薬((1)肝臓機能強化薬 単価はたいてい2500ドン/1錠どこの薬局でも簡単に購入できる。種類もいろいろある。 (2)痛み止め薬 単価1000ドン以内/1錠、簡単に購入できる)*そして、1ヵ月後バク・マイ病院での再検査が必要だ。


(上の写真は、診断を終えて休んでいるハイ君です。マイさん撮影)

 サラセミアについて:


 *サラセミアは、ヘモグロビン(酸素を運ぶ赤血球中のタンパク質)を形成する4つのアミノ酸の鎖のうち1つの鎖の産生が不均衡なために生じる遺伝性疾患群です。

 *サラセミアは異常が生じたアミノ酸の鎖によって分類され、アルファ鎖に異常が生じるアルファサラセミアと、ベータ鎖に異常が生じるベータサラセミアの2種類に大別されます。アルファ・サラセミアは黒人に最も多く(25%が異常遺伝子を少なくとも1つ保有)、ベータ・サラセミアは地中海地域と東南アジア地域出身の人に最も多くみられます。お兄ちゃんのハイ君の場合は、このベータサラセミア(地中海サラセミアと呼ばれています)に属します。

 *サラセミアはまた、異常遺伝子を1つもつ軽症型サラセミアと、2つもつ重症型サラセミアに分けられます。今度の医師の説明ではどちらか不明ですが、私は重傷型と推測しています。

 *サラセミアはいずれも同様の症状を示しますが、重症度はさまざまです。軽症型アルファサラセミアと軽症型ベータサラセミアでは、軽度の貧血だけで症状はありません。重症型アルファサラセミアでは、中等度から重度の貧血症状が現れ、脾腫が生じます。ここに、一つの危惧があります。ハイ君の場合は、マイさんが医者の説明を受けた限りでは、脾腫の話も、他の臓器に腫瘍が出ている話もありませんが、どこかに出ているか、出る可能性を捨て切れません。

 *重症型ベータサラセミアでは、重度の貧血症状が生じ、黄疸、皮膚潰瘍、胆石、脾腫がみられることがあります。骨髄の活動が過剰になり、特に頭部と顔面の骨が厚く大きくなります。腕と脚の長骨が弱くなり、骨折しやすくなります。ハイ君に黄疸症状が見られます。

 *重症型ベータサラセミアの小児は成長が遅く、思春期に達するのが正常より遅れます。鉄の吸収量が増加し、頻繁な輸血が必要となることでさらに鉄が供給されるため、余分の鉄が心筋に集積して沈着し、最終的に鉄の過剰による障害や心不全が生じることがあります。この説明を読んで頂ければ、ハイ君の成長不全が分かると思います。

 *サラセミアは他のヘモグロビン疾患よりも診断が難しい病気です。1滴の血液を電気泳動法で調べる検査が役立つこともありますが、特にアルファ・サラセミアでは診断の確証を得にくい傾向があります。このため、特殊なヘモグロビン検査と遺伝のパターンから診断を行います。

 *サラセミアの多くは治療を必要としませんが、重症の場合は骨髄移植が必要になります。正常な遺伝子を体内に導入する遺伝子治療は、現在研究中で、まだ成功していません。

どうすべきか、お知恵を!!
 臓器の肥大は問題です。心臓は、一日に8トンの血液を全身に送り出し、酸素や栄養を運んでいます。
*ニャンちゃんの最大の問題は、寿命があと数年という医師の診断です。半年毎に検査・輸血ため地元ニン・ビン省の病院への通院が必要です。この1回の検査・輸血にどのくらいの入院が必要なのか、1日ですませられるのか。費用はどのくらいか。

 *次に、兄のハイ君の直近の問題は、医師の診断によれば、明日をも知れぬ命だということです。この認識にたって、どういう手を打つかを、考える必要があります。そして、栄養不足をどうやって解決していくか。

 *内服薬購入の為の継続的な経済支援が必要です。 (1)肝臓機能強化薬 単価はたいてい2500ドン/1錠。 (2)痛み止め薬 単価1000ドン以内/1錠、となっていますが、1日何回何錠服用という指示が示されていないので、計算が難しいです。

 *1ヶ月後(5月中旬)バク・マイ病院での再検査の為の経済的援助が必要です。この指示をしてあげなくてはなりません。

 二人とも、父親の遺伝が原因とのことです。そして、二人とも既に鉄分が肝臓細胞に過剰に蓄積されている状況とみますが、投薬だけでどのくらい早く鉄分を消費させることが出来るのか、を医学的見地から知りたいです。その上で、医師から指摘されている栄養の補給・摂取はどういう形で早く実現できるか? も知識として必要ではないでしょうか。 皆さん、教えてください。

 この幼い命をなんとかして助けてあげませんか。皆さんと共に力を合わせて。
ビクトル・ユゴーは叫びました。大空より広いもの、それは人の心だ、と。皆さんの広い心を結集したいと思います。

 「人間が利己的にして、他人の幸福を顧(かえ)りみざれば、禽獣にも劣っている」と、語ったのは、マハトマ・ガンジーです。われわれが禽獣に劣ることは、許されません。

 二人の子どもに、持続できる栄養補給の援助をしましょう。わが師匠は、食物の特性について、こう語っています。「第一に、生命を維持し、寿命を保つ。第二に、精神と身体の生命力を増大させる。第三に、身体に輝きや活力を生む。第四に憂いや悩みを鎮める。第五に、飢えを癒し、衰弱を除く」と。
 
 人のために苦労するのは我が特権と考え、私たちと同じように生きていけるように、二人に必要な栄養と元気を援助したいと思います。(北村記)



2006-04-11

ハイ君 ニャンちゃんのその後

われわれ愛のベトナムさわやか支援隊が医療支援を決めたニンビン省のルオン・ティ・ビンさんのお子さま二人。私が初めて訪問した時でもすでに医療手当もされずにいたハイ君とニャンちゃん。われわれ支援隊は、まず病名の確定のために、ハノイのバクマイ病院への入院を勧めました。

ビンさんは、戦後ご主人を病死でなくして、女手一人で4人の子どもを育てていましたが、10年近く前に長男はお腹が膨れて病死しました。今、ハイ君と妹のニャンちゃんは、亡くなった長男と同じ症状です。一見10歳ほどにみえるハイ君は、実は18歳。学校にいったことがありません。きちんとした歩行が出来ないからだそうです。子ども3人とも、皮膚が黄疸症状のように黄色みがかっています。干ばつに見舞われているエチオピアで、飢えて腹部の膨らんだ子供たちのことを彷彿とさせます。

そして、ニンビン省婦人兵士連絡会のビン幹事長が、今年の旧正月前に連れて行ってくれましたが、1回は徒労に終わり、その後も北部ベトナムで長雨が続いたために病院行きを控えておりました。その後の状況がわかりました。われわれの通訳をしてくれているマイさんからの報告です。

「ニンビン省のビンさんに連絡してニン・ビンの 2 人の子供さんのことを尋ねました。ビンさんは、“今回は、手術をさせるつもりは全く無く、ただ診断や検査をさせて治療・手術の見込みがあるかどうかを医者に判断してもらうための入院だ”ということが確認できました。4月10日午後病院にお見舞いを兼ねてお医者さんの話を聞きに行ってきました。しかし、担当医は午前中しか病院にいないということで、具体的な話を聞くことが出来ませんでした。
でも二人の子たちのお母さんとちょっとお話ができました:
*4月 4日にハノイに来て入院。Hai 君は血液科に、Nhanちゃんは幼児科に入っています。そしてあさって 4月12 日に退院の予定です。
* 入院当日は、ひどい貧血状態で、体力的にあまりにも良い状態ではなかったため、血液検査や簡単な診察の後すぐ輸血を2ビンずつ(1ビン何ccかは不明)受けさせました。今日までお兄さんの方は血液を計6ビン(?)、栄養剤 (点滴?)  を2ビン注入されました。Nhan ちゃんは血液を2ビン投与しました。
* 骨髄検査だけを除いて( 理由は体力的に弱すぎるから)、バク・マイ病院ですべての医学検査を受けました。その結果として、
病状は、心臓・肝臓・脾臓が異常に肥大している。その原因は父親からの遺伝による、(?)
その治療方法は無い(腹腔に腫瘍などの異物があるわけではないために手術もできない)、ということだそうです。
* 以上の内容はあくまであのお母さんが医者さんから聞いていたもので、あいまいな部分があります。また費用に関しても、4月10日現在で、担当の医者にまだ話ができてないのでまだわかりません。幹事長のビンさんは先週の金曜日から用事があるのでニン・ビン省に戻っていますが、あさって(4月12日)に入院費用を支払い・二人の子どもとお母さんを迎えに戻ってくるそうです。
* 二人の子どもとも、血液・栄養が補給され、またお家にいる時よりちゃんとした食事が取れているので前より元気そうに見えてきました。遊んだり笑ったりもしていました。お母さんは治療方法が無いとわかって悲嘆にくれたようですけど、子供たちの元気な様子を見て笑顔をみせていました。「皆様に心から感謝しています」と言っていました。
* 明日かあさっての午前中に時間がとれたらまた行ってくるつもりです。」

私たち支援隊としても、今後二人の治療をどうするのか、みきわめるためにも、病院や現地ニンビン省のビンさんと連絡を密にして、二人の子どもの健康維持の支援に努めたいと思います。ご支援下さっている方々へのご報告とさせて頂き、引き続き、続報をお届けするつもりです。(在シドニー・北村)

2006-04-07

山口元のふぉとぎゃらりー

2005年10月の愛のベトナムさわやか支援隊ツアーに参加してくれた山口 元さんが、ツアー中に撮影した写真から厳選して送ってくれました。山口 元さんの”ミニ個展”です。改めて映像の訴える迫力を感じます。 山口さんは、現在アメリカのカレッジに留学中で、写真の勉強をされています。ご成功をお祈りします。


(copy right:Gen Yamaguchi) タインホア省孤児センター


(copy right: Gen Yamaguchi)ハノイ:タインスアン平和村で


(copy right: Gen Yamaguchi)ハノイ:タインスアン平和村で


(copy right: Gen Yamaguchi)ハイフォン市の枯れ葉剤被害者グエン・ヴァン・クイさん宅で 手前長男グエン・クアン・チュン君(被害者2世)と祖母


(copy right: Gen Yamaguchi)タインホア省孤児センターで


(copy rihgt: Gen Yamaguchi)ハイフォン市の被害者ヴー・ヴァン・グエン宅で