2005-12-19

枯れ葉剤被害者在宅訪問物語(2)

「子どもと話し・・子どもと遊びたいんです」
ハタイ省ホアン・ヴァン・フエさん一家


日本は世界一の長寿国になり、高齢化も急速に進んできた。2050年には、3人に1人が65歳以上になる。医療技術が発達する一方、心身ともに健康に生きることが難しい時代に入った。高度に発達した日本社会が閉塞している。その一方で、人間の体は約60兆個の細胞で成り立ち蘇生する力はあると言われるが、発達した医療技術でも手に負えない遺伝子の損傷が、ベトナムの枯れ葉剤被害者にみられる。これほど悲しいことはない。蘇生の力を奪い取られた先天的に障害の子どもを、健康の弱ったベトナム人被害者の親が育てていくことは、気が遠くなるほどの大変さである。何年待てば直るという見通しもない。 貧しさの中で、耐えるしかない人たちを助けていきたい。「言わずんばあるべからず」・・・言わずにいられない人たちのことを、多くの人に語っていこうではないか。それが、共同社会に住むわれわれの役目であると思うのだ。

フエは夫婦と子供一男三女の六人家族である。私が一番早くから、親しく向き合っていた家族であった。この家族も、拙著『アメリカの化学戦争犯罪』(梨の木舎)に、載らなかった家族だ。

夫のホアン・ヴァン・フエは一九四八年生まれ。妻は、ウ?ン・ティ・タイン・タ?ムといい、今年51歳ころと思われる。長男はホアン・ディン・ラップといい、ハノイの施設平和村に寄宿している。いな、預けられていると言う方が正しい。現在25歳くらいである。後は女の子で、長女はホアン・ティ・ミン・フエ、(15才)、次女ホアン・ティ・ミン・ハ?(13才)三女ホアン・ティ・フオン・タ?オ(6才)である。現在ハタイ省在住である。

夫は一九六八年から一九七三年まで、サイゴン・ザディン、タイニン省とソンベ省で戦闘に歩兵として従軍。フエは、戦闘従事中に、化学兵器(枯れ葉剤)を浴びた他、砲弾の爆風で神経をやられた。
南ベトナム軍の捕虜となり、捕虜交換で釈放された。「わが家に帰れるという気持ちでうれしかったです。戦闘に参加したのは、どこでもそうでしたが、地元には従軍運動があって、誰かがやらなければなりませんでした。青年突撃隊などがありました。自分だけ抜けるのは恥ずかしいことです。ですから、青年たちはすべて軍隊に入りました。戦闘に参加したことで悔いなどはありません」と、当時を思い返す。


二人はサイゴンが陥落した一九七五年末に結婚した。一九七六年に第一子が生まれた。一九七五年の終戦以降に生まれた子がすべて障害をもっている。
退役後、夫自身の体調はすぐれない。精神的にも不安定で、ハタイ省傷病兵センタ?に入退院し、毎日治療を受けに通院していたこともある。政府の負担で無料であるが、現在もまだ精神病治療の薬を毎日服用している。妻は42歳で、農作業の出来ない夫を支え、田植えから稲刈りまで農業に従事し、その間に家事、育児も担当し一家の大黒柱的な存在となる。稲刈りのシ?ズンになると、妻が水田に行って自宅で子供をみる人がいなくなるので、夫が入院中で特別に傷病兵センターから里帰りしたこともあった。


ホアン・ディン・ラップ(長男17才)は、平和村に入所して寄宿生活を送っている。
 「この子は3才まで元気でした。障害に気づいたのは4才の時です。4才になっても歩けないし、話せません。ほとんど胡座をかいて、体を二つ折りにして曲げたままにしています。寝る時にもその形のままです」とフエは言う。平和村で見たラップは、あぐらをかきながら、唸るような声を出しつつ、前屈みになって前後に揺れを繰り返していた。 
妻のタムに聞いても、妊娠・分娩の経過には異状は無かったという。

「首が座ったのは生後三ヵ月目です。這い這いは五ヵ月になってからようやく出来始めました」
以後、歩行も発語も遅れが顕著となった。痙攣の既往症はなく、脳炎他中枢神経系に影響を及ぼす可能性のある疾患の既往症もない。長男ラップは、あぐらを組んで上体を二つ折りにやや前屈みになり、両手指を組み合わせて常時屈伸し、時に口に入れたりしている。頭は小頭症の傾向がみられる。顔貌、四肢、体幹他に奇形性はない。胡座の状態からの立ち上がりは手を添えても不可能で、大人が両脇に手を入れて引き揚げないと立ち上がれない。自力歩行は困難であるが、立ち上がった後は、手を添えれば、股関節を内側に曲げ、膝関節も屈曲させ、足関節は外反させた異常な歩行で前に進むのである。自分の意志で止まったりは出来ない。手を添えた者が止まらない限り、前進を続ける。日本から来た大学教員・幼稚園の先生による発達診断では“九ヵ月レベルで、重度の発達遅滞と考えられる”という。このような状態なので、彼は保育園も学校も一切行っていない。二〇〇二年四月現在、ハノイ平和村に入所中である。 

ホアン・ティ・ミン・ハー(HoangThiMinhHa)12歳次女

次女ハーは座ったまま、ゆっくりと向きを変えて回転している。この子も、首が据わったのは生後三ヵ月。おすわり七ヵ月目。以後は長男と同様発達の遅れが目立ち、未だに歩行は不可能である。「ウーウー」と声を出すが、発語は見られない。妊娠中、分娩の経過に異常はなく、脳炎など中枢神経系に影響を及ぼしうる疾患の既往症もない。痙攣もない。顔の特徴も長男に似ており、下顎が軽く突き出し、舌を突き出す傾向がある。頭は小頭症である。ちょっとした刺激でよく笑い、笑顔が多い。また、長男同様、手指を頻繁に口に入れている。なお睡眠薬を使わないと夜間眠られないとことで、この年でほぼ連日内服を続けている。 次女は三歳から六歳まで保育園に通ったが、その後就学はしていない。

上記日本の診断チームの発達診断では、5?6ヵ月レベルだという。常時手指を口に入れるなどの行動をくり返している。また、「周期的に反応性が乏しくなり、欠神発作を疑わせる」との指摘もあった。欠神発作は定型と非定型とがあるが、非定型の場合に全身の痙攣が伴うと、小児の場合精神発達の遅滞が出る恐れがあるという。次女の大脳の中で、何が起きているのか? ダイオキシンは何を起こさせたのか?


日本から来た医師団・教育関係者の全員の診断結果は以下の通りである。
【十七歳長男は、原因不明(おそらく胎内因が予測される)の重度発達遅滞が主体で、脳性マヒなどの運動障害ではないと思われる。十二歳次女は、行動特徴、身体所見などから、エンジェルマン症候群(別名ハッピ?パペット症候群)と思われる。】

エンジェルマン症候群ということになれば、染色体の部分欠損が関係している可能性も否定できない。

夫のフエさんがポツポツと語り始めた。
「自分は傷病兵センタ?で面倒をみてもらっているので多少とも救われますが、子供のことがいつも心配です。長女と三女はなんとか治療が出来るようになり、元気に育ってほしいです。長男と次女はもうよくならないでしょう。ここの農村は貧しく、生活苦でどうしようもありません。三〇〇万ドンくらいあれば、物を売って、利子も考えて、妻となんとかやっていけるのでは・・・と考えたりもします。しかし、戦闘に参加したことで自分の子供にこういう影響が出るとは思ってもいませんでした。受けた被害が子供に伝わるということがわかれば、私は結婚しなかったと思います。私は間違ったことをしてしまったのではないかとつくづく思っています。子供を生まなければよかったと。このことは、生涯、そして人生で一番苦しいことです。いつでもつきまとって思い出してしまいます・・・寝る時にも・・・心が痛みます。隣の人や友人がやってきて、『お気の毒さま』とか『大変ですね』と同情してくれますが、慰められるとかえって苦しくなります。子供と遊びたいけど、子供がわかってくれません。子供と話をしたいのですが、子供が理解してくれません。辛いです。昔は健康な子供をもった人を見ると、憎らしいと思うこともしばしばありました。子供の立派な成長を願うのは、父母として誰しも同じことでしょう。しかし、私は、そう育てたくてもそれが出来ません、この子たちでは。そして、これから面倒をみるのに手とカネがかかる・・・のもつらいことです」 

  
丁度稲刈りのシーズンだった。ベトナムの稲作社会の習慣で、刈り取った稲は、道路でも空き地でもどこにでも干す。その刈り取った稲の水蒸気が村中に広がり、ものすごい湿度を提供している。村中の人々が、収穫に精を出している時だ。夫のフエは、もはや稲刈りという重労働をこなせるほど体は強くない。妻のタムと障害の軽い長女が村人の助けを借りて黙々と稲刈りをしていた。助けたり、助けられたりの田舎社会では、借りたら返さなくてはならない。夫のフエにはそれも出来ない。前後にひたすら揺れを繰り返す子どもの面倒をみるのが背一杯である。


「戦争の夢はほぼ毎日見るんです。高所で倒れた夢とか・・・戦場で戦って進んでいるけど、うまくいかなくなって走って撤退する夢。起き上がって、銃をとって叫んで・・はっと我にかえることとか、戦闘しあっている恐ろしい夢とか・・爆弾が落ちてきて人が死ぬ夢とか・・自分の子供が死んでしまう夢。泣けて泣けてしかたなく、大声で泣いてベッドから落ちたこともあります。目が覚めて、ああ、夢だったんだなと、気づくんです・・・・起きた時にボーっとしていて、夢から醒めた時も、家内が夢だったんでしょ、と言って区別して起こしてもらわなければならないこともあります。子供の状態を思い出し、自分の目の前に浮かんできて眠れなくなり、睡眠剤を使用して寝ることも多いです・・・今でも精神安定剤は離せません。家の中に一度も笑いはありません・・・家の中には苦しみしかありません・・・愉快なことは全くありません・・・・」

ある時日本のベテラン看護婦を案内して、このフエの家に行ったことがあった。彼女は、「顔色が茶色になったり、体が固くなったりするので、出来るだけ薬に依存しない生活を心がけてください」と、フエにアドバイスしていた。しかし、現実を考えると、精神安定剤を放すことは、本人には難しい。 

「ハーは、18歳になりましたが、相変わらず重い症状です。視力はあります。耳も聞こえます。でも一日中すわったきりで、親のどちらかが面倒見ていないとだめです。手を伸ばしたりしていますが、良くなる兆しを感じさせる程の大きな変化ではありません。テレビにも関心を示しません。トイレの排泄、気持ちの悪い時、空腹の時、意思表示をするくらいです。夫婦二人でいる時には、出来るだけ体を動かすようにしたり、衛生面に気をつけています。村の医者が検診に来ることもありません。私は傷病兵ですから治療に行く時に、ハ?を一人にしておかなくてはなりません、辛いです。国からは、現在月50万ドンの手当と薬代を支給されています。ラップは24歳になりました」
傷病兵として、重度4級(給付金50万ドン=家族の扶養能力なし)に認定されている。 


現金の援助は人をだめにする。では、何がいいのか?
私は、1996年に、少しでも経済的な自立ができるようにするには、どうしたらいいのかと思案し、患者の収容施設であるNGOの平和村に相談した。精米機はどうだ・・と言うのが平和村の結論だった。精米機の導入によって、妻の体が少しでも楽になること、村人に安い料金で貸して、現金収入を得られるようになること、が実現出来ると言う。

しかし、村社会に嫉妬はつきものだ。新しい機械が入って、フエの家が村八分になれば、それは私の意図するところではない。そうなれば、援助は意味をなさない。平和村のヒエン理事長から村長に掛け合って頂いた。理解してくれた村長から村人にも伝えてもらった。日本人の私が前面に出ることは控えた。そして外国製の機械もやめた。私の友人が工面してくれた資金と私の分を足して、まずは、メード・イン・ベトナムの一番安い精米機を買い、替え刃などの部品を付けて贈呈したのである。それでも、近所と多少の軋轢があったと聞いた。甲斐あって年々少しずつ、フエの家が経済的に向上していることは訪問するたびに感じていた。私たちが行った小さな実験だった。

妻「自分の所で収穫する米で食べてはいけますが、野菜や肉を食べるとなると、経済的にはやはり苦しいです。日本の方の援助で購入した精米機の貸し出しも、現在村には8台まで増えて、競争相手が多くなって大変です。当時より生活はましになりましたが、苦しさは変わりません。精米機の貸出料で1ヵ月40万?50万ドンの収入がありますが、農業が一番効率が悪いです。養豚・養鶏も両方やっていますが、これも大変です。自宅には、いま精米機、肥料を作る機械、子供用にポップコ?ンを作る機械を置いています。主人も石の文鎮を作る仕事を始めました」(このフレーズこ: 2002・08・26取材 )
 
 二〇〇二年八月に訪問した時に、自宅にあった備品は、自分で買ったテレビ(二〇〇万ドン)。首都安寧新聞の寄贈による時計。国から配給を受けたテ?ブル、扇風機(天井)が、主なものだった。電気代は、月6万5千ドン(自宅分)他に、精米機など3台の機械に40万?50万ドンかかると言っていた。
その時、長女がハノイの人文社会科学大学に入学したことを聞いて、初めて長女が大きな障害を持っていたのではないことがわかったし、月10ドル分の学費とハノイで月10万ドンの下宿代を払っているということも聞いて、少しは経済的に貢献できたことの感触を得た。援助を初めて6年目だった。そして、三女は8年生になっていた。


辛労の汗を流して築いた信頼は、崩れない。汗を流して、助けて行こう。
自分たちが動き、結果を出していこう。それが、自分の勝利でもあり、相手の勝利につながる。人任せはやめよう。
(愛のベトナムさわやか支援隊顧問:北村 元 記)



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